友達の友達

第8話 08 診察室Ｂ

「やだやだやだやだやだやだっ！　何っ？　今の何なの？」

　優希が自分の両肩を抱え、その場に蹲（うずくま）って動かなくなる。

　晃でも呼吸が一瞬止まったので、そんな激越な反応も無理はない。

「何だろ……犬とか、狼とか？」

「おいおい、オオカミだったら学会騒然だぞ。犬だって、あんな吠え方しねぇから」

　佳織の発言を慶太が否定するが、では何だというのか。

　三人の後ろを歩いていた晃と玲次は、思わず顔を見合わせる。

　薄明かりの中でも、お互いの表情が険しくなっているのが見て取れた。

「ワゴンＲの連中か？」

「だろうな……ったく。叫ぶにしても、もっとこう……人間らしくよぉ」

　小声で軽口を言い交わすが、晃は妙な胸騒ぎを払拭できなかった。

　もし、自分がさっきのような声を上げることがあるとしたら、それはどういう状況だろうか。

　そんな考えが頭から離れず、漠然とした不吉な予感ばかりが滾々（こんこん）と湧き上がってしまう。

「――――――――ぁ！　――――――――っ！」

「ヒッ――」

　気を取り直して渡り廊下を進んでいると、再びの叫声が響く。

　さっきよりも人の声に近く、さっきよりも発生源が近い。

　短い悲鳴を上げた優希がまた固まり、慶太と佳織は窓に張り付いてライトを外に向けている。

　晃と玲次も正体を探るべく、声がしたと思しき中庭の方を照らしてみるが、動くものはない。

「なっ、何だったの？　何がいる？」

「いや、何もいない……と思う」

　優希の震え声に答えつつ、晃は目を凝らして光の先を眺める。

　例の別グループが、テンション上がり過ぎて騒いでいるだけなら構わないが、もし本気で頭がおかしい集団だったら、遭遇時に厄介な事態になりかねない。

　晃のより高性能な慶太のライトが、中庭を挟んだ反対側にあるもう一本の渡り廊下を照らすと、そこを人っぽい影が横切るのが見えた。

「んっ？」

「おっ？」

　晃と同じものを見たようで、慶太と玲次が揃って小さく声を上げる。

　佳織は別方向を見ていたのか、どうやら気付かなかったらしい。

　優希はさっきから膝を抱えて動かなくなっている。

「お前も見たか、レイジ？」

「ああ。向こうの廊下を誰かが走ってった……ような」

「俺も、そんな感じのを見た」

「もうやめてってばぁ、そういうの」

　優希は若干鼻声になって抗議してくるが、そう言われても見えてしまったものは仕方がない。

　佳織が、三人が本当に見たのかノリで言ってるのか、判別がつかない感じで訊き返す。

「マジなの？」

「マジだ。気のせいかもしんねぇけど、上半身は裸だったような」

「それって……」

　絶句する佳織に頷き返し、玲次は続ける。

「さっきの服の持ち主、なんじゃね」

　まさか、と笑いながら否定したくなる晃だったが、思いとは裏腹に表情筋は強張って喉も詰まる。

　自分も間違いなく、普通ではない様子の何かが移動するのを見てしまった。

　走り抜けたそれが裸の男だと言われれば、そうだったような気もしてくる。

「どうする？　向こうの棟、確かめに行ってみるか」

「もうだめ！　もう、もういいって、ここはもういいから！　いいから帰ろ」

「んー、ユキもこんなだし……」

　最終決定権を握っているであろう佳織の気分が、やや撤退ムードに傾きつつあるようだ。

　優希のグズる声が徐々に大きくなる中、玲次が急に笑い出す。

「ハハッ、ゴメンゴメン。さっきの誰かいたってのは、変な音がしたのに便乗してネタ仕込んどこうかって、オレらで話し合わせて脅かしただけなんだ。な？」

「んっ？　ああ、そうそう！　そうなんだよ、実のとこは」

「つい調子乗りすぎた、かな……ごめんね、優希さん」

　咄嗟（とっさ）のフォローに話を合わせ、慶太と晃は盛大にヘコんでいる優希に慌しく謝った。

　半信半疑にだいぶ足りない、二信八疑くらいの表情で三人を見上げて、優希は長い溜息を吐きながら立ち上がる。

「ほんと、もうやめてよね……」

　ここでこれ以上「帰る」を連発したら気まずくなると判断したのか、優希は肝試しの続行に付き合うのを覚悟したようだ。

　場が落ち着いた所で、慶太が仕切り直しの号令をかける。

「よし、じゃあ改めて、病院の更なる深部へと――」

　ドゴッ、ドン、という続けざまの鈍い大音量によって、それは妨害された。

　重たい何かを高い場所から床に落としたような、そんな音だった。

　十の視線と五本の光が、音のした方へと一斉に向けられる。

　渡り廊下の先は、半端な広さのホールへと通じていた。

　窓がなく暗いそこには、背もたれのないソファが乱雑に散らばっている。

　その奥に、二つ並んだドアが見えた。

「どうするよ」

「どうするって……今のを聞いておいてから、シカトして素通りってワケにはいかんだろ」

　ひと塊になってホールの中央辺りまで進んでいる最中、慶太と玲次は顔を見合わせて小声で言い交わしている。

　悲鳴も上げない女性陣に晃がライトを向けると、荒い息を吐きながらドアを見つめている佳織と、その背中にしがみついて半泣きの優希の姿が映し出された。

「二人とも、大丈夫？」

　晃が訊いてみると、佳織は三拍ほどの間を置いて無言で頷いた。

　優希は聞こえているのかいないのか、何の反応もない。

「音がしたのは、こっちだったっけか？」

「多分そっち……だったような、気がする」

　晃がやや曖昧な答えを自信なく返すと、慶太は自分が指差した向かって右のドアへと向かう。

　ここに来るまでにいくつも見てきた、病室らしき部屋と同じタイプのスライド式ドアだ。

　壁に嵌め込まれたプレートには『診察室Ｂ』と書いてある。

　そして隣のドアの脇には『診察室Ａ』のプレートがあった。

「精神病院にも、診察室ってあるのか」

「そりゃあ、あるんじゃね？　知らんけど」

　慶太の質問に、今度は玲次が適当に返す。

　唐突に発せられた大きな音は何かの間違いだったとでも言いたげに、部屋の中からは微かな物音すらしない。

　しかし、何らかの気配がそこにある――何かが隠れている予感は間違いなく伝わって来る。

　全員の視線が、再び診察室Ｂへと集中した。

「……開けるぞ」

　自分のこれからやることを再確認するかのように言うと、慶太は金属のバーで作られた引手を掴み、ドアを一気に全開にした。

　晃と玲次、そして慶太のライトが部屋の内部を照らす。

　診察室と聞いてイメージするような品々は見当たらず、容積の半分ほどを古びたダンボールの山が占めている。

　箱のいくつかが床に落ちて、中身に詰まっていた書類の束をバラ撒いていた。

「んだよ、これが落ちた音かよ……人騒がせだな」

「つうか兄貴、こういう書類って放置しといてイイのか？　ヤバいくらいに個人情報てんこ盛りなんじゃねえの」

　慶太と玲次は安堵している様子だが、晃の脳内では警報音が鳴り止まなかった。

　部屋の中に踏み込んで行く二人を見ながら、晃は違和感の正体を探る。

　室内のダンボールは、数こそ異常だがバランスよく整然と積まれている。

　それなのに急に落ちる、というのはつまり――