黒猫、とんぱらり
猫屋ちゃき
序 小娘とおじさん
大きな道路から外れた、古い住宅街。
はらはらと、桜の花びらが舞う中を小夏は走っていた。
春だというのに、まだ夕方には早いというのに、住宅街は静かだ。ここ一帯はまるで眠たげな老人のように、静かな町並みが続く。
そのせいでさみしげで、少しだけ、ほんの少しだけ不気味だ。
だが、走る小夏にはそんなことはまったく気にならない。
なぜならここは小夏には馴染みの場所で、そして彼女は今、上機嫌だから。
桜が散り、新芽が伸びていく時期特有の青い空気を吸い込み、小夏はその胸を弾ませている。
一歩踏み出すたびにスカートのプリーツが跳ね、セーラーのスカーフはふわりと揺れる。それは小夏の気持ちとまるで連動しているかのような動きだった。
別段、良いことがあったとかではない。
小夏という少女は、天気が良くて、放課後の予定が何もなくて、家に早く帰れる、というだけで楽しくなれるような娘なのだ。
「……あれ?」
ふと、小夏は一軒の家の前で足を止めた。
板塀にぐるりと囲まれた、立派な日本家屋の邸宅。そこのくぐり戸が開いているのが目に入ったのだ。普段はどこもかしこもかたく閉ざされて、人を寄せ付けない気配がするのに。
学校の行き帰りに必ず前を通るこの家のことが、小夏は小さな頃からずっと気になっていた。外から見えない、ということが子供の好奇心を刺激しただけなのかもしれないが、いつも中を覗いてみたいなと思っていた。
生まれてからずっとこの町に暮らし、ほとんど毎日この家の前を通りかかるのだが、小夏はこの板塀の中を見たことが一度もない。
豪邸というほどではないが、それなりの人が暮らしていそうな邸宅だ。近所の人の話によると、何か店というか商売をしているらしい。だが、正面に「伏せ猫」と書かれたガス灯の看板がかかっているだけで、何の店なのかまではさっぱりわからない。
それがより一層、小夏の好奇心を刺激するのだ。
特に、マンション暮らしの小夏にとって気になるのは、純和風の庭だ。
どんな植物が植えられているのだろうか。椿が似合いそうだ。池は、鹿威しは、あるだろうか。そんなことを考えるのが小夏の密かな楽しみだった。
だが、そうして吸い寄せられると同時に、拒絶されるような感覚もあった。
まだここへ来てはいけないよ、と誰かに言われているような、そんな気がしていた。
だから、お転婆だった小夏も板塀をよじ登ろうとしたり、敷地から少しはみ出ている枝にぶら下がってみたりという強硬手段をとったことはない。
ただ、いつも通りかかるとき気にかけ、その存在を意識するだけだった。
その、ずっと気になっていた邸宅のくぐり戸が開いている。
これは滅多にないチャンスだ。これを逃したら、もう二度とこの中を覗くことはできないかもしれない。
そう思って、小夏はグッと前のめりになった。今日は、あのいつも感じる引き留めるような、拒絶する感覚もない。
だから、大丈夫だろう。そう思ってくぐり戸からひょいと庭先を覗き込んだとき――。
「君、何してるの?」
「ひっ……!」
男が目の前に現れた。
和服の、三十代前後の男だ。無造作に伸びたくせ毛で銀縁の眼鏡の、背の高い男。
おそらくここの家の人だろう。
その男は、当然だが小夏のことを不審な目で見ていた。
「……と、戸が開いてたので、ちょっと中を覗いてみたいと思って……すみません」
まさか住人に見咎められるとは思っていなかったため小夏は焦ったが、何とか謝罪の言葉を口にした。
「いや、まあいいんだけどね。私も散歩に出ようとしたら君がいて驚いただけだから」
心持ち視線を緩くして、男は小夏を見ていた。そしてあごに手を当て、少し思案してからまた口を開いた。
「君、中を見たいんだったらお茶でも飲んでいく?」
「……いいんですか?」
叱られるのではないかと思っていたため、男の申し出に小夏は驚いた。だが、遠慮する気持ちよりも当然好奇心が勝る。
「来るはずの客が来られなくなったということで、暇になってしまってね」
「それなら、ぜひ! あたし、ずっとここのお庭を見てみたかったんです!」
「……ついておいで」
小夏の勢いに少々面食らいつつも、男は彼女を促してまた敷地の中へと引き返した。小夏は男に続き、飛び石の上を歩く。慣れている男と違い、
ついていきながら、庭の様子を確かめる。
植物はたくさんあるが、植わっているというより、生えている。自由だ。雑草も。
鹿威しは見つけられない。でも、池はあった。ゆらりと、魚のシルエットが見えた気がした。
「適当に座ってて。お茶とお菓子を持ってきてあげるから」
「はい」
男はそういい残して、縁側から家の中に入っていった。
小夏はそこへ腰をおろそうかと考えて、やはり池の中を確かめたくなった。
先ほど魚のシルエットが見えた気がした池は、汚れてはいないが苔や藻、水草が繁茂していて底が見えない。おまけに木の陰になっているせいが、水面も薄ぼんやりしている。
魚は、隠れてしまったのか今はどこにも見当たらない。大きさからして鯉ではなく、大きくなりすぎた金魚のような気がしたのだが。
「そうしてると、魚を狙う猫みたいだな」
「……す、すみません!」
「いいよ。それにしても、本当についてきてしまったんだね。猫の子のほうがよほど警戒心があると思うよ」
「……?」
男は、子供のように無邪気についてきた小夏の無防備さを笑ったのだが、彼女にはその笑みの意図がわからなかった。だからこそ、無防備だと言われたのだ。
「さぁ、こっちに来て座りなよ」
「はい」
手招きされ、小夏は跳ねるように男のところまで行くと、縁側に腰かけ、
「客のために用意していたんだけど、日持ちがしないお菓子だから、好きなだけ食べていいよ」
そう言って男が示したのは、色とりどりの上生菓子。ピンク色の
和菓子と言えばどら焼きくらいしか食べない小夏は、息を飲んでその可愛らしいお菓子を見つめていた。
「写真、撮らないの?」
「え?」
食べるのがもったいないとばかりに、手をつけずお菓子を見つめる小夏に男は言った。
「ほら。女の子ってさ、可愛いものを見たらそれが食べ物であれ何であれ『かわいい〜』とか言って写真を撮って、ネットで呟いて友達に見せたりするものだろう?」
「確かに、そうですね。……じゃあ」
男としては気を使って言ったことだったのだが、小夏は戸惑った。それでも、自分がこの男にとって
目の前の初対面の女子高生におじさんなどと思われているとは知らない男は、どうしたものかと小夏を見守っていた。
男は善之助という。この家に暮らす三十路前の独身だ。商売をしているがそれがちょっと特殊なもので、そのせいか風変わりな雰囲気をしている。
とはいっても普通の人間で、久しぶりに客でも仕事関係でもない人物を相手にすることになって、少し心が踊り、そして緊張していた。
面白そうだと思って声をかけてはみたが、まさか本当についてくるとは思わなかったのだ。こういう子がいるから、世の中から連れ去り事件など物騒なことがなくならないのだなと、この国の行く末が密かに心配になる。
この家を覗いていたということは、おそらく近所の子だろう。だが、あまり外出しない上、最近はご近所付き合いもしていなかったため、小夏に見覚えはなかった。
だが、小夏が着ている制服はよく知っている。善之助も小夏と同じ高校出身なのだ。卒業したのは、もう十年も前になるが。
「その制服、まだ変わらないんだね。実は私も卒業生なんだ」
「そうなんですか。じゃあ、先輩ですね」
錦玉を切り分けて食べていた小夏が、パッと善之助の言葉に食いついた。
ただでさえ俗世離れして、女子高生などという生き物に接することがない彼は不安だったのだが、会話の掴みとしては悪くなかったらしい。
「じゃあ、伏せ猫さんは頭が良かったんですねぇ」
小夏はお茶をひとくち啜ると、尊敬の眼差しで男を見た。だが、善之助のほうは思わぬ切り返しに困惑した。
まず、その呼び名だ。名前がわからないからと言ってそんなふうに呼びかけられたのは初めてだった。
「『伏せ猫』は屋号だ。私の名前は木瀬。木瀬善之助だよ」
「そっか、お店の名前か……あ、あたしは上田小夏って言います。よろしく、善さん」
「……よろしく」
何となく自己紹介をする流れになってしまった上、すぐさまあだ名がついた。ツッコミが追いつかないと思ったが、ニコニコとする小夏はどうやらボケているわけではなさそうで、善之助はまた困惑した。
小夏は、人懐っこいを通り越してややお馬鹿さんなのではないかと、善之助は勝手に心配する。
「ところで小娘、私のことを『頭が良かったんですね』なんて言っていたが、それなら君だってそうだろう」
変なことを言う子だね、と付け加えて善之助は言う。変わった形の自画自讃なのかと思ったが、どうにも違うらしい。
小夏はきょとんとして善之助を見返した。小娘と呼ばれたことにツッコミはない。
「だって、善さんくらいのおじさんたちが現役だった頃のうちの高校、かなり偏差値高かったでしょ? 今なんて名ばかりの進学校ですよ。東大に現役合格が五人いたらいいほうって感じで。でも、善之助さんくらいの頃は毎年二三十人現役で東大・京大に送り出してるって聞きました!」
尊敬の目で見つめながら、ペラペラと小夏は喋る。だが、善之助の耳にはあまり届いていなかった。なぜなら、最初のほうの単語が深く胸を抉り、ショックのあまりわなわなと震えていたのだから。
「えっと……おじさんって言ってもね、私が卒業したのはたかだか十年前だ。だから、そんな神話のような時代の話は私にとっても身近じゃないんだよ」
「へぇ」
あくまで冷静に、「おじさん」の部分を訂正させようと言ってみたのだが、小夏はどうでも良さそうだった。
どうやら善之助の読み通り、小夏はあまり頭が良くないらしい。というより集中力がないため、また和菓子のほうに夢中になっている。
だが、おじさん呼ばわりされた善之助としてはそれで流せる話ではない。お・じ・さ・ん、の四文字に傷ついた彼は、何とかその心を癒したいと考えた。
そうはいっても、何と言えばいいのかわからない。「おじさんだなんて心外だな。私はまだ二十八だよ」と言うわけにもいかない。よく考えれば、輝くような十代というときを生きる小夏にとって三十手前の自分なんて、お・じ・さ・ん、で間違いないのかもしれないのだから。
仕方なく、善之助は小夏が楽しそうにお菓子をパクパク食べる様子を黙って見ていた。知らない人の家で会話もなく見つめられつづけているという状況に、小夏は全く何も感じていないらしい。
不思議な、馴染みのない生き物を前にしたような気持ちで、善之助は小夏を見ていた。
メディアがこぞって取り上げるような派手ですれた様子はないし、かといって暗くもない。何の変哲もない女子高生だ。呑気というかおおらかというか、警戒心のないところは気になるが、いたって健やかな子だ。
日頃陰のある人間ばかり相手にしているし、自分も決して日向の人間とは言えない善之助にとって、そんな小夏は何だか眩しかった。
だが、そっと目を細めたそのとき、小夏の肩口にモヤっとしたものを見た。
よく見ればそれは一本の髪の毛で、ぐるりと小夏の首元に巻きついていたのだ。
「……まだ子供だと思っていたが、やはり女なんだな。こんなもの、くっつけて」
「え? あ、髪の毛。すみません、わざわざとってもらっちゃって」
善之助のうろんげな視線に気がつかない小夏は、突然伸びてきた彼の手に驚いた。だが、それが肩についていた髪の毛を取るためだったと気がついてホッとした顔を見せる。
それから善之助は、小夏の首元ばかりが気になったが、果たしてどうそれを伝えたものかと考えているうちに時間ばかりが過ぎていった。
「そろそろ帰りますね。お菓子とお茶、ごちそうさまでした!」
ひとしきりお菓子を食べながらおしゃべりを楽しんだ小夏は、立ち上がるとぺこりとお辞儀をして言った。そしてそのまま、飛び石の上を軽やかに走っていく。だが、何か思い出したのか、足を止め振り返った。
「あの、また遊びに来ていいですか?」
「……まぁ、君がまたここに招かれるなら、そのときは来たらいいよ」
「はい! さよなら」
小夏は善之助の言ったことの意味がわからなかったようだが、それでも笑って手を振った。
気まぐれについてきて気が済んだら帰っていく、そんな猫のような少女の後ろ姿を、善之助は目を細めて見つめ続けていた。
前下がりボブの黒髪が、紺色のセーラーの肩口で揺れる。その後ろ姿は、まるで黒猫だ。無邪気で、無防備な黒猫。
そんなふうに見えても女なのだなと、複雑な気持ちでこっそりとため息をつく。
「面倒なことにならなきゃいいけどねぇ……」
これが、小夏と善之助の出会いだった。
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