悪魔と執事を仲良くさせる大作戦! byシャルティア

ツナサラダ

一、ツアレは悪魔を賞賛する

「ときどき、妹のことを思い出すんです」


 ツアレはためらいがちに口にした。上目遣いに相手の顔色をうかがい、『外の人間のことになど興味はない』といったふうが浮かんでいないかを確かめながら。


「仲が良かったのかね?」


 質問が返ったことに、ツアレはほっとする。そしてうれしくも思う。

 ありがとうございます、デミウルゴス様。胸のうちでそっとお礼を言い、ツアレは微笑んで、


「はい、とても。私たち、いつも一緒でした」


 ゆっくりと、過去を掘り起こすように。遠く優しい記憶のなかの、霞がかる世界にときおりきらめく欠片を拾い上げては、取り留めもなく語る。順序もばらばらで、脈絡などないに等しく。


 それでも、目の前の悪魔は穏やかな笑みを浮かべて聞いてくれる。椅子にゆったりと座し、要所要所でうなずき、ときには悲しげに首を振り、簡潔でありながらツアレの胸を震わせる言葉をかける。


 ツアレは夢中になってしゃべる。そうしないと大切なものが指の隙間をすり抜けていってしまうと恐れるかのように。デミウルゴスはそのすべてを受け止めてくれる。やさしくふわりと羽毛で包み込むように。


 不意に、悪魔は身を乗り出して、そっと指先でツアレの目元をぬぐった。悪魔の指に光るしずくで、初めてツアレは自分が泣いていることに気がついた。


「も、申し訳ありません……! わ、私……どうして……」

「謝る必要はないとも」


 すべて分かっているというように、デミウルゴスはうなずく。


 ツアレは胸が詰まって、言葉がうまく発せられなかった。嗚咽ばかりが溢れた。


 ああ、私はここにいてもいいんだ、と。


 人の世界を思い出すことは罪ではなく、過去を懐かしむことはナザリックにいることの否定にはならないんだと。


 ツアレは微笑んだ。心から。

 涙はやんでいた。はじまったときと同じひそやかさで。


 と、そのとき。扉をノックする音がした。ツアレは慌てて立ち上がり、メイド長ペストーニャに教えられたとおりに両手をお腹の前で組み、ぴしっとした立ち姿で、「どうぞ」と言った。


 入ってきたのはセバスだった。ぴくりと眉を動かして、


「ツアレの居室に何のご用ですか、デミウルゴス」

「いや、なに。ちょっとした世間話をね」


 さらりと悪魔はかわす。ツアレは申し訳なく思うと同時に、感謝する。あまりに個人的な話をしすぎたし、それをセバスに知られたくなかった。


 セバスはしばらくまんじりともせず悪魔を見据えていた。にらんでいた、と言うべきか。デミウルゴスは気にした風もなく、優雅に紅茶を飲む。


「あ、あの、セバス様も紅茶かコーヒーはいかがでしょう」

「いえ、私は――」


 こちらに向き直ったセバスは、驚いたように言葉を切る。


「……泣いていたのですか、ツアレ」


 いつもよりも一段低くなったセバスの声に、ツアレははっとして否定しようとした。だがそのときにはもう、セバスはつかつかとデミウルゴスに歩み寄っていた。


 悪魔は悠然と腰掛けたままだ。一方、執事の背中からは抑えられない怒気が溢れ出している。


「ツアレに何をしたのです」

「だから世間話だと言っているだろう?」

「具体的にお教えいただきたい」

「お断りするよ」


 剣呑な雰囲気をどこ吹く風と言わんばかりに、デミウルゴスは落ち着き払っている。ツアレは慌てて駆け寄り、セバスの服の裾をつかんで、


「セ、セバス様! これは違うのです、これは……私が感極まって泣いてしまっただけなのです。デミウルゴス様は私にとても優しくしてくださっています」

「遠慮することはありませんよ、ツアレ。彼が階層守護者であるとはいえ、あなたとてアインズ様より特別な配慮をいただいた身、何も萎縮することはないのです」

「いえ、私は本当に――」


 ツアレはちらちらとデミウルゴスをうかがう。

 彼は微笑みを浮かべてカップを口に運んでいる。

 それはまったく悠然とした態度に見える。


 カップがすでに空になってさえいなければ。


「口止めをされたのですか? 脅されているのなら、安心して私に話してください。あなたには決して手出しはさせません」

「ですから――」


 まずい。

 非常にまずい。

 何が、とははっきり分からないが、ツアレは直感した。


 デミウルゴスはふとカップを見下ろし、何事もなかったようにソーサーに戻す。

 それからいかにも友好的に会話に加わろうといった楽しげな調子で、


「過保護だねえ、セバス。まるでツアレが何の役にも立たないお人形だとでも思っているかのようだ」


 すぅ、と部屋の温度が下がった気がした。

 ツアレはとっさに後ずさっていた。

 セバスの鋭い眼差しと、デミウルゴスの薄く開いた目が火花を散らした。


「……もう一度言っていただけますか?」

「耳が遠くなったのかね? それはいけない、是非ともペストーニャに治癒してもらいたまえ。ついでにその甘さと思慮の浅さも治してもらえるよう、私からも頼んであげよう」


 ツアレの顔から血の気が引いた。

 あと数瞬もすればセバスがつかみかかるだろうと思われた、まさにそのとき、デミウルゴスは言った。


「ツアレが怯えているよ?」


 セバスが慌てたように振り返り、ツアレを見る。真っ青になったその顔色に、執事は悔恨のにじむ瞳をして、


「すみません、ツアレ。私は……」

「では、私はこれで失礼しよう」


 さっとデミウルゴスが立ち上がり、


「また話を聞かせてくれるね、ツアレ」

「は、はい! よろこんで……!」


 ツアレはホッとした様子で笑顔を見せる。

 悪魔も微笑みを返す。それはツアレを落ち着かせてくれる笑みだ。


 しかしツアレは気付かなかった。

 その笑みがセバスに向けられるとき、異なるニュアンスを帯びたことを。

 白々しくもあてつけがましいにこやかさで目礼して、悪魔は去った。


 セバスは怒りを押し出すように深く息を吐いた。それからツアレを見る。

 セバスの表情から不穏なものが抜け落ち、なんとも複雑なものが宿る。その瞳に揺らめく感情が、いつもの落ち着いた色合いを乱している。


「あなたは……デミウルゴスと親しくしているのですか」

「え、あ、はい。あの方は私のことをいつも気にかけてくださっています」


 ツアレはもじもじとして、目をそらす。


 セバスは気遣ってくれる。人の世界で生きた方がよかったのではないか、ナザリックに来たことを後悔してはいないか、と。

 いつも、ほんのちょっとしたことで――セバスは心配する。


 だからこそ、言えなかった。

 この地に来たことを後悔などしないし、むしろ感謝でいっぱいで、日々は楽しく充実し、セバスの傍らにいられることを何よりも嬉しく思い、幸せに満ち溢れていて――


 そうなってようやく、ときどき思い出すようになった。

 決してつらいばかりではなかったのだ、ということを。


 妹はかわいかった。両親は早くに死んでしまったけれど、たしかに愛されていた。満足な食事もない苦しいばかりの日々に、でもささやかな光はあった。


 幼い日、作物の根っこを大事に姉妹で分け合った。互いに互いがちょっとでも多く食べられるようにしようと。両親は笑いながらそれを見ていて、彼らの食べるものは姉妹のそれよりさらに貧弱なちょろちょろした根だった。


 貧しい村で、みんなでいっしょに農作業をした。子どもらは非力で、でもだからこそ助け合った。爪が割れて、気にせずどんどん進めようとしたツアレをやんわり止め、手当してくれた少年がいた。もう顔も思い出せないのに、これでだいじょうぶだよ、と言った温かな声だけが耳に残っている……。


 娼館から連れ出してもらったあの頃は、ひたすら人間が怖かった。

 ナザリックで暮らせるようになっても、過去はおぞましいばかりに思えた。


 それでよかったのだ。そうあるべきだった。


 幸せの断片を拾い集めたところで、どうなるというのか。セバスに話せば、やはり人の世に暮らすべきだったかと苦悩することは目に見えている。デミウルゴスが言ったように、セバスはツアレのことになると過保護なのだ。


 かといって、ほかの一般メイドに打ち明けてみても、だめだった。彼女らは笑顔で聞いてくれる。でもそれは、同僚のツアレが話したいなら耳を傾ける、というだけのことで。ツアレがかつて心を通わせた人や、大切だと思える人に対して、何一つ興味を持っていないことがありありと分かるからだ。


 彼女たちに話すと、幸福の断片は色褪せてしまうみたいに思えた。それは本当に何でもないことで、語る価値もないことで、幸せだなんて錯覚でしかないのだと、そう言われているみたいに。


 だが、デミウルゴスは違った。


 真剣に耳を傾けてくれた。ツアレの記憶のなかにある人々に寄り添ってくれた。そこにたしかに光はあったのだと、ツアレは確かに信じることが出来た。


「……セバス様。私はデミウルゴス様にお話を聞いていただけると、心が軽くなります。もちろん、セバス様のお傍にいることが私のなによりの幸せですし、セバス様が不快なら、私はデミウルゴス様とお話しないようにします」

「いえ、……あなたがそれでよいのなら、私にも不満はありません。ですがいやなことがあれば、すぐに教えてください」

「はい。でも、大丈夫ですよ。デミウルゴス様はとてもお優しい方です。いつも熱心に私の話を聞いてくださいますし、いやな顔ひとつなさいません。この前はきれいなお花をいただきました」


 ツアレはテーブルの上の花瓶を手で示す。薄紫色の花弁の、きれいな花が一輪さしてある。


「私は思うんです、デミウルゴス様はきっと周りの皆さんのことを、とてもよく気遣っておられるのだと。あれほど忙しい身でありながら、私のような一介のメイドにまで目配りしてくださいます。

 初めてお会いしたときは、怖い方だと思いました。私のことを憎んでおられるのかとさえ……でも、いまはこう思うんです。あのとき、初めてアインズ様の前に私が立ち、その処遇を決めていただくこととなったとき、デミウルゴス様が過剰なまでにセバス様を攻撃なさったのは――実はセバス様を何より思いやってのことではなかったかと」

「……ほう」


「あのあとで、私も聞きました。セバス様は裏切りを疑われてしまっていたのだと。その原因が私だとも……。デミウルゴス様はとても仲間思いの方です。私のことをそのために憎んでも仕方がありません。そしてセバス様、誰よりもデミウルゴス様がセバス様を責めたからこそ、ナザリックのすべての者が浴びせ得る非難をすべてあの方が発せられたからこそ、皆がしこりを残すことなくセバス様を迎え入れられたのではないかと」


 長くちくちくと尾を引く非難と罵倒ほど、心をすり減らすものはないだろう。

 いかに苛烈であろうとも、ただ一度にすべてを済ませてしまうなら、その方がずっと楽だろう。しかもその場合、攻撃してくるのはただ一人。四面楚歌の痛みを味わうことはない。


「なるほど……そのように考えたことはありませんでした」


「きっと考えずに済むようにと、デミウルゴス様が気をつけておられるのだと思います。いつもお二方は言い争いをなさいますけれど、デミウルゴス様はきっと、あえて憎まれ役を買って出ることを常とし、セバス様をひそかに支えてくださっているのだと。セバス様がナザリックにおいて責められる事態になれば、なによりもまずあの方が率先してそれをすると他の方々も承知しておられますから、かえってセバス様の苦しみは減じられるのではないでしょうか」


「ふむ……いや、しかし……」


 悩むセバスに、ツアレはふわりと笑いかける。

 セバスはふと、その笑みを見つめ、そして自らも口元を緩めた。


「あなたもずいぶんと弁が立つようになりましたね。敬語も板に付いてきたようです。ペストーニャや一般メイド……と、デミウルゴスのおかげ、ですか」

「メイド長にはいつも丁寧にご指導いただいています。同僚のメイドたちには親しくしてもらっています。それにデミウルゴス様とも……ああ、そういえばセバス様。実はデミウルゴス様より、今度ぜひ牧場に遊びに来るようにと誘われているのです。よかったらご一緒に――」


 セバスの笑顔に亀裂が入った。

 ツアレは息を呑み、その凄絶な笑みをぽかんと見つめる。


「そうですか……牧場に……」

「え、ええ……後学のために、と……」

「ほう……後学、ですか……」


 地を這うような声には、ぞっとするほどの鬼気が宿っている。

 ツアレがごくりと唾を飲み込んだとき、セバスは目を伏せ、ついで目を上げたときにはもう穏やかな顔つきになっていた。

 おぞましい気配は嘘のように消えている。

 忽然と消えたがゆえに、かえって恐ろしいのだが。


「牧場はやめておきましょう、ツアレ。私から彼にも言っておきます」

「あ……はい……」

「では失礼いたします」


 去って行く背中に、あのセバス様何かご用があったのでは、と声をかけることも出来なかった。

 扉がばたんと閉まり、途方に暮れたツアレはひとり立ち尽くす。

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