始まりは一年前

 入学式のちょうど一年前ほど前のことを、武士は思い出す。


 中学三年生になったばかりのある日曜日。

 武士は前の晩から明け方まで「ナイン・サーガ」に没頭しており、日が高くなるまで心地よい惰眠を貪っていた。


 十二時になる少し前、滅多になることのない自分の携帯電話の着信音に目を覚ます。

 何事かと開くと、そこには父の会社の名前が表示されていた。


「武士か。なんだその声は。こんな時間まで寝ていたのか。まったくお前は……。まあいい。頼みがある。リビングのテーブルに白い封筒があるはずだ。ああそうだ、A4判の。それを至急、会社まで持って来てくれ。場所はわかるな」


 武士の父親は、全国展開している不動産会社の支店長を勤めていた。

 土日もほとんど休みなく出勤しており、今日も朝から出社していた。


 どうやら仕事に必要な書類を家に忘れたようで、姉もバイト中だった為に、武士は使いを頼まれた。

 急ぎ着替え、書類を持ち父の会社のある西新宿へと急ぐ。


 一時を回った頃、父が勤める不動産会社の支店が入っている、八階建ての雑居ビルに着いた。

 父親が苦手ではあったが、その父の役に立てることは武士にとって嬉しくないわけではなかった。


「早いな。……ああ、これだ。ありがとう。武士、昼飯は喰ったのか? まだか。だったら、ホラ」


 父は、毎朝遥から渡されている手作りの弁当を差し出した。


「今日はこれから、お客さんのところに行かなくちゃならないんだ。これ食ってけ。……ああ、そうだな。屋上で食べるといい。日曜だし、この時間なら誰もいない。ちょっと気持ちいいぞ。俺のお気に入りの場所だ」


 そう言って無理やり弁当を渡すと、父はさっさと書類を持って会社を後にする。

 家に帰ってから食べてもよかったが、昨晩から何も食べてない武士は強烈な空腹感を思い出した。

 父の提案に乗って、エレベーターで最上の八階へ、そこから階段を探し、屋上へと向かった。


 その雑居ビルは決して高い建物ではなかったが、周囲のビルも同じような高さで、空が広く見え、春の暖かい日差しと合わせて確かに気持ち良かった。


「俺のお気に入りの場所だ」


 そう言った父の言葉を思い出し、ここで毎日遥の作った弁当を食べる父を想像すると、なんだか可笑しかった。

 階段の出入り口の脇に腰を下ろして、弁当を広げる。

 父好みの少ししょっぱい卵焼きを口にし、そういえば飲み物がないと思った時。

 その男が出入り口のドアを開け、屋上に入ってきた。


 男は、ドアのすぐ脇に座っていた武士には気が付かなかった。

 いや、その目には何も見えていないようだった。

 痩身長身の、よれよれのスーツをきた三十代らしき男。

 髪はぼさぼさで、掛けたメガネも薄汚れている。

 頬が極端にこけていて、憔悴し切った雰囲気だ。


 突如現れた異様な男に、武士は思わず身を固くする。

 なんだこの人?

 明らかに弁当を食べにきた様子ではない。


 武士がもう少し注意深く、また知識があれば、そのよれよれのスーツは実は相当に高額なブランドスーツだったことに気が付いただろう。

 憔悴し切ったその雰囲気さえなければ、およそこんな雑居ビルに来る類のビジネスマンの服装ではなかった。


 当然そんなことに気付くはずもない武士は、屋上に入ってきた男が周囲には目もくれず、一直線に歩いていく姿を呆然と見つめていた。


 男が歩いていく先には、何もない。

 男の胸の高さまで程度の柵があるだけで、その向こうには何もない。

 だが、男は柵の向こうに何かが見えているように、呼び寄せられているかのように、頼りない足取りで進んでいく。


(――ちょっと待って)


 その足取りを見て、武士はようやく憔悴男の「その後」を想像する。

 武士が立ちあがるとほぼ同時に、男は柵に手を掛け、そして足を掛け、柵を乗り越えた。


「ちょっと待って!」


 思わず武士は叫ぶ。

 憔悴男は叫び声にビクッと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。

 武士を見る。

 ようやくはっきり見えた男の表情は、眼鏡の向こうの眼球がギョロリと動いており、幽霊そのものだった。


「……? ……ひ、ひいいっ!」


 男は武士を認識すると、思い出したように引き攣った甲高い叫び声をあげた。


「こここ来ないで! くく来るな! ちゃ、ちゃんと死ぬから、死にますからぁ……!」

「な、なに言ってるんですか、おお落ち着いて下さい……」


 落ち着けと言っている武士が、まるで落ち着いていなかった。

 一介の中学生が自殺直前の現場に出くわすことなど、中学生でなくともまずあり得ない。

 立ちあがって叫んではみたものの、動揺するあまり一歩も動けない武士の前で、すでに柵を乗り越えた男は、柵を両手で握りしめながら、武士と反対側の遥かに遠い地面を交互に見つめる。


「ひ、ひあ……」


 男の咽喉から、かすれた音が響く。声にもなっていない。

 男のそれまで麻痺していた感情が、武士に声を掛けられたことにより蘇ってきたようだった。

 あるいは武士さえこの屋上にいなければ。

 麻痺した心のまま、男は何も感じずに旅立っていったのかも知れない。


「ね、ねえ……止めましょうよ。大人の都合はよく分かりませんけど、自殺なんて……」


 武士もあまりのことに足と声を震わせながら、懸命に語りかけた。


「家族とか……、いますよね? 悲しむんじゃ、ないんですか……」


 それは、武士なりに必死に考え捻り出した言葉だったが、


「……は、はひ……死ぬ、ちゃんと死にます……」


 男には欠片も届いていなかった。

 そもそも、武士の事を見知らぬ中学生とも認識できてなく、男を追い詰める別の誰かと感じている様子だった。

 男は柵を後ろ手に持ち替え、ゆっくりと武士に対して後ろを向く。

 つまり、死に対して正面を向いた。


「……これで、許して下さい……」


 ぐらりと、男の体が前へと傾く。

 武士の中で、何かが弾けた。


「駄目だ!!」


 武士は弾けるように駆け出した。


 二人の距離はおよそ一〇メートル弱。

 武士は、体育の授業の短距離走でも早い方ではない。

 瞬発力も人並みだ。

 しかしその時の武士は、それまでの人生で最速のスプリンターだった。

 距離を一気に詰めて、柵越しに男の体にしがみつく事に成功する。


「……っ!」


「駄目です! 死ぬなんて駄目です!」

「はっ、離せぇっっ!」

「だ、誰かぁー!! 誰か、助けて下さい!!」


 暴れる男に、柵越しで必死にしがみつく武士。

 痩せているとはいえ、武士より体の大きいその男が、純粋に武士を引き剥がそうと力を込めたのであれば、武士は簡単に跳ね飛ばされていたかもしれない。


 だが混乱していた男は出鱈目に暴れるのみで、かろうじて武士は男を放さないでいることが出来た。

 しかし、男は未だに柵の向こう側。

 数センチ先に絶望的な落下空間があることに変わりはない。

 武士は必死で叫び、他の大人の助けを呼んだ。

 だが、八階立てのビルの屋上から地上の通行人になかなか声は届かない。

 下は車通りもある道で、また向かいにはパチンコ屋があり、大音量のBGMが道の外まで漏れていた。

 注意深く頭上を見ているものでもいなければ、屋上の切羽詰まった様子など伝わるものではない。


「誰か! 誰か!」


 それでも武士は男にしがみつき続け、声を上げ続ける。

 すぐ下のフロアに人はいただろうか? そう言えば今日は日曜日だ……


「離してくれぇっ! ちゃんと、ちゃんと死ぬからぁぁ!」

「なんでですか! なんで死ぬんですか! 大人は急に死ぬんですか!」


 武士は、死ぬ死ぬと連呼する他人の大人にしがみつきながら、あまりの非日常に同様しつつも、なんとか自殺を止めようと必死だった。


「なんで大人は死ぬんですか! 子供はいないんですか! 親のいない子供の気持ちがわかりますか!! 自殺なんてやめて下さい!」


 見知らぬその男が独身である可能性をまるで無視した説得だった。

 もし男が独身だったら、その男はかえって自分は死んでいいんだと思ってしまったかも知れない。

 だが、その男には子供がいたのか、あるいは武士の的外れな説得に逆に我に返ったのか、少しずつ暴れるのを止めて、ようやく武士の顔を見た。


「君は……誰だ?」

「僕はただの通りすがりで、というか、お父さんに弁当をもらって……。と、とにかく、こっち側に来てくださいよ」


 男は武士の顔をまじまじと見つめると、


「……すまない」


 柵を乗り越えて、武士の横に座り込んだ。

 武士も全身の力が抜けて、その場に座り込んでしまった。


「君は……関係ないのか?」

「なにがですか?」


 自殺未遂男は、へたり込んだままの武士に話かける。


「その、私を見張っているわけじゃないのか?」

「なんのことですか?」

「そうか……そりゃそうか、こんな子どもが……」

「中学三年です」

「……そうか」


 男は口の端を少し歪めた。

 ムッとした武士の言い方に、笑ったのかも知れなかった。

 だが自殺未遂男はすぐに、何か思い出したように周囲を見回すと、慌てて武士に言った。


「……いけない。君、早くここから離れるんだ」

「え?」

「ここにいてはいけない。逃げなさい早く!」

「どうしたんですか、いきなり?」

「いいから早く! 私といるところを奴らに見られたら……」


 武士は、男がまだ混乱しているのだと思った。

 男の自殺未遂も、先ほどまでの異常な様子から見て、何かに悩んでというより、心の病気か何かだったのではとも思えた。


「あの、おじさん。落ち着いて下さい。誰もおじさんを見張ってたりしません」

「違うんだ、君、私はおかしくなっている訳じゃなくて……」


「柏原さん」


 唐突にその声は響いた。

 低く冷たい声だった。


 自殺未遂男の表情は凍っていた。

 武士は声のした方向を振り返ると、体格のいいスーツ姿の男たちが3人、屋上のドアの前に立っていた。


「柏原さん。何をしているんですか」


 三人のうち、二人がゆっくりと歩み寄ってくる。


「……ひいいっ」


 未遂男は、また甲高い悲鳴を上げて、柵を背中にひばり付いた。

残りの一人はドアを閉め、屋上の唯一の出入り口を塞ぐように立った。


「柏原さん。誰ですか、その子どもは」


 歩み寄ってきた男のうち、髪をオールバックにしている男が武士を見た。

 突然現れた男たちは、三人とも普通のサラリーマンのようには見えなかった。

 異様に体格がよく、体が大きい。

 未遂男とのやり取りから、武士は最初借金取りのヤクザか何かとも思ったが、どうも雰囲気がそれらしくない。

 もちろん武士はヤクザなどテレビ以外で見たこともなかったが、それよりは、同じくテレビで見たことのある、要人に付いているSPのような雰囲気に思えた。


「誰にも会ってはいけないと、言いましたよね?」


 オールバック男の声は恐ろしく冷たい。

 柏原と呼ばれた未遂男の脅えようは尋常ではなかった。


「ひ……ひい……ち、違う、私は、そんな子供は知らない……」

「あなたが死ぬまでの間に、誰かと会うようなことがあれば、その相手を殺すと言いましたよね?


 ――――え?


「っ……! ち、違う! その子は本当に、たまたまここにいて……死のうとしていた私を止めてくれた……それだけなんだ!」

「たまたま? こんな場所に? 子どもが?」

「ほ、本当だ! この子は関係ないんだ!」


 ――なんだ? 何を言ってるんだ、この人たちは? 

   殺す? 今、誰のことを殺すって言ったんだ?


 オールバック男がぎろりと、武士を睨む。

 背筋が凍るような視線だ。

 武士は胃が冷たくなるような感覚を覚えながらも、どこか現実感がなく、まるで映画かドラマでも見ているような気分だった。


「君は」


 胃に感じた冷たさが、心臓にまで上がってくるような声。


「ここで何をしていたんですか?」

「……ぼ、僕は……」


 声が震える。

 自分が出している声ではないようだ。


「僕は、ただ、お父さんに書類を届けて……お弁当を貰って……そこで、お弁当を食べていただけです……そしたら、その人が来て……」


 オールバック男は、武士が移した視線の先を見る。

 そこには確かに食べかけの弁当箱が転がっていた。


「なるほどね。そして、死のうとしていた彼を止めたという訳ですか。やさしい子ですね」


 男は、再び武士を見る。

 そして。


「かわいそうに」


 武士は、生まれて初めて味わう感覚に襲われた。


「おとなしく彼が死ぬところを見ていれば、ただの目撃者Aで済んだのに」


 それは素人でも明らかに分かる、殺意。


「行方不明者Aになってしまう」

「やめてくれ! その子は本当に関係ない! 君たちは私が死ねば、それでいぎゃあっ!」


 柏原は、オールバック男とは別の男にいつの間にか近くまで歩み寄られ、顔面を殴られた。

 鼻の骨を砕かれ、溢れ出る血を抑えて柏原は蹲る。


 コンクリートの地面にボタボタと落ちる赤黒い血。

 目の前で繰り広げられる非日常に、武士は頭がおかしくなりそうだった。

 棒立ちになり、足は震える。

 何も考えることができない。

 助けを求める叫び声を上げることもできない。

 そのときだった。


「おい!」


 ドアを塞いで立っていた男が声をあげる。

 男たちは振り返ると、声をあげた男が視線を向けている先を見た。

 隣のビル。

 武士たちのいるビルより僅かに高い隣接したビルの屋上に、一人の男が立っていた。

 黒いジャケットを着て、ジーンズのズボンを履いている。

 スーツの男たちより相当に若く、武士に近い年齢だ。


 そのとき武士は初めて出会った。


 武士の人生を変える、九龍直也に。



「なっ……」

「なんでこんなところに?」


 スーツの男たちは、直也を見て動揺している。

 武士は、彼らより遅れて直也の存在に気づいていた。

 やや遠く顔はよく見えなかったが、服装や背格好から、正体不明の男たちよりも自分に近い、未成年であることは分かった。


「駄目です!!」


 気づくと武士は叫んでいた。


「逃げて下さい! 殺されます! この人たち殺し屋です!」


 武士は、突如現れた人物を巻き込んではいけない思うと、気づけばさっきまで出せなかった大声で、必死に叫んでいた。

 その声を聞いて、直也はふっと笑う。

 隣のビルの屋上は人が入る造りにはなっておらず、柵はない。

 スタスタとビルの縁まで歩いてきた直也は、まるで路肩の縁石を飛び越えるかのような気軽さで、ビルの谷間を飛び越えた。


「直也さん!」


 オールバック男が声を上げた。


「迂闊に名前を呼ばないで下さい」


 直也はひらりと柵を越え、男たちの間を平然と通り過ぎると、武士の前まで歩いてきた。


「君、すごいね」

「え?」

「こんな時に、人の心配ができるなんて。すごいね」

「直也さん!」


 オールバック男が後から声をかける。


「どういうことですか。どうして貴方がここにいるんですか」

「そっちこそ。柏原さんを殺そうとしたのは、あいつの指示ですか」

「貴方はもう、普通の高校生なんです。出しゃばらないで下さい」

「黙れ。あろうことか無関係の子供を巻き込んで。目的の為なら人を殺しても構わないなんてやり方、俺は絶対に認めない」


 直也は三人の男たちをを睨む。

 抑えた声であったが、高校生とは思えないほどに威圧感を持った声で言い放ち、三人を圧倒する。


「邪魔をするつもりですか」

「柏原さんとこの子を死なせないという意味では、そうですね」

「私たちは〈あの方〉から、貴方が邪魔をするようなら実力で排除して構わないと言われています」

「あいつなら、そう言うでしょうね」


 直也が言った直後だった。

 黒服三人のうち、柏原を殴った男が唐突に動いた。


 一瞬で直也との距離を詰めると、直也のみぞおちを狙ったボディブローを放つ。

 直也は体をくの字に曲げた。


 やられた! と武士は思ったが、よく見ると直也の左手は、男の拳を腹の前で受け止めている。

 驚愕の表情を浮かべたのは男の方で、すぐに飛び下がって距離を取った。


 直也は体を戻し、巨躯の男のパンチを受け止めた左手をパキパキと鳴らすと、僅かも表情を変えずに言い放った。


「忠告します。大人しく帰って下さい。さもないと、怪我ではすみませんよ」


 武士も驚きを隠せなかった。

 彼は高校生と言われていたが、それでも自分と大して年は変わらない筈だ。

 それなのに体の大きな大人達三人を相手に、少しも恐れを感じていない様子で、堂々と渡り合っている。


「どうする」


 ボディブローを止められた男は、オールバックに声をかける。


「銃は使うな。後は……殺さなければいい」


 階段へのドアを塞いでいた男も、前へと進んできた。


「君」


 直也は、男達から視線を外さずに話しかける。

 武士は一瞬、自分に向けられている言葉と気がつかなかった。


「君、大丈夫かい?」

「……え? あ、はい、すみません!」

「悪いけど、そこの柏原さん……鼻血出してる男の人を連れて、下がっててくれないかな。ああ、無理に屋上を出ないでいい。かえって危険だから」

「は、はい……でも、大丈夫、ですか……?」


 直也は武士の方を向いて、笑った。


「大丈夫だよ。君は優しいな」


 自分達から視線を外したその隙を、男達は逃さなかった。


 オールバック男が、直也に突進しパンチを繰り出した。

 武士にはただのパンチとしか思えなかったが、それは空手でいう「突き」だ。

 突進のスピードをそのままに、腰だめに構えられていた男の右拳が、直也の顔面に繰り出される。


「危ない!」


 武士が叫ぶ前に、直也は動いていた。

 突進してきた男に対し、正面に動く。

 繰り出された右拳を首を振ってギリギリで避けると、そのまま男の左側をすり抜けた。

 しかし、その先には既に先程ボディブローを打ってきた男が迫っている。

 ボクシングのように前に構えられた腕から、今度は右ストレートが繰り出された。

 避けようがないタイミングの筈だったが、直也は更に踏み込み、一瞬で今度は左側に男を躱して、すり抜ける。

 そこには、三人目の男が待っていた。

 直也の進路に向かって、ムエタイのような鋭い蹴りが打ち出される。

 直也はダンッと右足で地面を踏み込み、急停止するとそのまま転進して、男の蹴りの射程から右側に避けてすり抜ける。


 直也は連続攻撃をすべて擦り抜けると距離を取って振り返り、再び対峙した。


 それは一瞬だった。

 武士の目には、直也が男達の波状攻撃を幽霊になって通り抜けたかのように映った。


「すごい……」


 まるで魔法のようだったが、武士は今の直也の足捌きに妙な既視感を覚えた。


「先に手を出したのはそちらですからね」


 直也は右足を前に出し、左足は平行に引いて踵を上げる。

 両手は腰の正面に、臍から前に伸びた紐でも掴んでいるかのように右手を前に、左手を後ろに構えた。


(――あれ、剣道の構えだ)


 武士は気付く。

 確かにそれは剣道で中段に構える姿だった。

 しかし、刀も竹刀も、なにも持っていない。


 最初に動いたのはボクシング男だった。

 直也に正面から突進したが、直前でフットワークを使い、大きく側面に回り込む。

 回り込んだ筈だったが、直也はより早く体を半回転させ、大きく動いた男を正面に捉え続けていた。


「ッッキァァ!」


 気合いと共に、直也は大きく踏み込む。

 剣道で言えば一足一刀の間合い。

 フットワークで回り込んだ男は、既に直也の間合いに入っていた。

 しかし、それは剣を持っていればの話だ。

 直也は尋常でない速度で二度踏み込み、持っていない剣の分の間合いを埋めた。

 そして、剣道でいう「突き」を繰り出す。

 手刀は男のガードする腕の間を擦り抜けて、その喉に強烈に叩き込まれた。


「ごはっ……!」


 男は声にならない声を漏らし崩れ落ちた。

 のど仏が潰れてるかも知れなかった。


「……シッ!」


 ムエタイ男の蹴りが、突きで体勢を崩していた直也の足下を襲う。

 先の蹴りとは違いコンパクトな蹴りだ。

 直也は、すばやく後方に跳躍しローキックを躱す。


「ッシャア!」


 男はそのまま体を半回転させ、回し蹴りを放った。

 鋭い二段蹴りだったが、直也は二段目の蹴りを両腕を交差させ受け止めた。

 そしてそのまま、受けた両腕を捻って蹴り足を裁き、そのまま手刀を男のみぞおちを打つ。

 剣道でいう「返し胴」の動き。

 男は一瞬呼吸が乱れ、体を折り曲げた。

 その隙に、直也は続けて男の首筋に手刀を叩き込んで、気絶させる。


「ハアアッ!」


 残されたオールバックの男は、裂帛の気合いとともに、直也に襲いかかった。

 順突き、逆突き、足刀蹴り……隙を見せない流れるような連続攻撃。

 しかし直也は、絶妙な足捌きで間合いを取り、男の攻撃すべてに空を切らせる。

 単純に後ろに下がるのではなく、横に、斜めに動き、しかし常に相手を正面に捉え続けたままで、姿勢を崩さない。

 怒濤の連続攻撃で、先にごく僅かだがバランスを崩したのは、オールバックの方だった。


「ッッキァァ!」


 目にも止まらぬ早さの踏み込みから再びの「突き」。

 手刀がオールバックの喉に叩き込まれ、ボクシング男と同様に、男はその場に崩れ落ちた。


 武士は、目の前で起きたことに思考がついて行かなかった。

 いかなかったが、自分とさして年齢の離れていない直也が、一瞬で巨躯の男達、それもおそらくは相当の格闘技の使い手であろう男達を叩きのめし、自分を助けてくれたことは分かった。


 まるで、正義の味方のように。

 見えない剣で、巨大なモンスターたちをなぎ倒す英雄ナインのように。


「柏原さん」


 直也は、乱れたジャケットを直しながら、武士と同様に呆然と戦いを見ていた自殺未遂男に話しかけた。


「は、はい」


 直也は鼻血を流している男にハンカチを差し出した。


「あなたのことは僕が、僕たちが守ります。自殺なんて考えずに、僕についてきて下さい」

「しかし、家族が……」

「既に、こちらで保護しています。安心して下さい」

「……本当ですか」

「はい」

「……信じられない。間に合わないはずだったのに……」

「?……なんですか?」

「あ、いや、なんでもないんだ。ありがとう」


 男はハンカチを受け取り、顔を抑えながら、立ち上がった。

 直也は、訳が分からず呆然と立ち尽くしている武士を見る。


「君。迷惑をかけたね。ありがとう」

「い、いえ……」

「名前は?」

「あ、あの……タナカタケシです」

「……警戒されてるのかな?それはもちろん、警戒されても仕方ないシチュエーションだけど…」


 直也は、平凡過ぎる武士の名前を偽名と思ったようだった。


「ち、違います、本名です! ええと……ほら!」


 武士は慌てて、財布に入っている保険証を出して、直也に見せた。

 直也はそれを見ると、クスクスと笑い出した。


「いや……ゴメンゴメン。でも、君は、少しは人を疑った方がいいかもね」

「何ですか」

「本当は僕もこいつらと似たような連中で、君の素性を知ったら、口封じをするかもしれないよ」


 ぽかんとする武士に、再び直也は笑う。


「ごめん。冗談だよ。でも、田中君。今日ここで見た事は、本当に全部忘れてほしい。誰にも言わないでほしい。これは、君の為なんだよ」

「……はい。わかりました。でも……」

「なんだい?」

「あの人達は?」


 武士は、倒れている男達を見る。


「死んでるんですか?」

「まさか。喉を潰した二人はすぐに病院へ連れていく必要はあるけど……。約束する。絶対に殺したりはしないから」

「……わかりました」


 武士は、先の直也と男達の会話を思い出し、直也の今の言葉を信用することにした。


「じゃあ、すぐにここから離れて。救急車を呼ぶから。俺たちのことは誰にも、家族にも話したら駄目だからね」

「はい。……ありがとうございました」

「礼を言うのはこっちだよ」

「ありがとう。助かったのは君のおかげだ」


 ハンカチで顔を押さえた柏原も、武士に頭を下げた。

 武士もペコンと頭を下げると、散らばった弁当箱を拾い足早にビルを後にした。


 急ぎ足で新宿の駅へと向かう途中で、武士は遠くに救急車の音を聞き、ああやっぱりあの人は信用できると胸をなで下ろしていた。

 そして、希薄だった現実感が戻ってくると、遅れてどうしようもない高揚感が後から後から溢れてきた。

 山手線の中で、ついさっき目撃した途方もない出来事に興奮し、手足をじたばたさせる武士はちょっとした変人だった。


 すごかった。

 すごいものを見てしまった。

 あれはきっと、闇の組織が何かが重要人物を暗殺しようとしていたんだ。

 それを、あの英雄ナインみたいな正義のヒーローが、悪の陰謀を止めたんだ。

 英雄ナインの正義の組織は秘密で、世間にバレたらいけないんだ。一般人では、僕しか知らない秘密なんだ……。


 武士は自宅に帰ると、すぐにパソコンを起動してネットに繋ぐ。

 男たちが英雄ナインのことを、「ナオヤさん」と呼んでいたことを覚えていた。

 そして、あの剣道の動き。絶対に普通の人ではないはずだ。

 「剣道」、「大会」、そして「尚也」「直也」「直哉」……検索にかける。

 秘密の組織の人間だったら、当然暗号名か何かで、検索に出てこないかもしれないと考えていたが、あっさりと引っかかった。


《全国高校剣道大会優勝・九龍直也(私立暁学園一年生)》


 九龍!

 武士のテンションは一気に跳ね上がった。

 これほどぴったりな苗字はない。この人は、間違いなくあの人だ……

 写真を探すと、やや遠景ではあったが、面を外した姿の写真があった。

 雰囲気はやや違って写真の方が顔立ちが幼い気がしたが、確かに今日屋上であった人物に間違いなかった。


 武士の興奮は収まらない。

 ホームページは大会のオフィシャルではなく個人ブログので、管理人のコメントには、九龍直也は優勝に至るまで、すべての試合で二本勝ちで、これまで公式試合で一本も取られたことのない脅威の新人選手であることが興奮気味に書かれていた。

 高校に入るまではまったくの無名で、そもそも帰国子女で中学までは日本にいなかった選手であること、外国でも剣道は未経験であるらしいことも書かれていた。

 つまり、高校から剣道を始めたまったくの初心者であるというのだ。


 武士にはとても信じられなかった。

 あれだけの動き、特に足捌きは一年やそこらで身につくはずがない。

 また、三人のスーツの男たちとの会話でも、気になる言葉があったことを覚えていた。


(貴方はもう、普通の高校生なんです)


 つまり高校より前は、「普通」ではなかったということだ。

 しばらく考えていたが、考えて何か分かることでもなく、武士は今は九龍直也の正体について探ることをやめた。

 ホームページに大会DVDを販売しているサイトへのリンクがあったので、通販の登録を済ませてからパソコンを切る。


 分かったことは、英雄ナインの名前は九龍直也。

 私立暁学園に在籍していること。

 そして、なにか秘密の正義の組織に属していて、今は一般の高校生のふりをしていること。剣道の達人であること。

 そのときは、それだけ分かれば十分だった。


 武士はその後、今回の出来事を誰にも話さず内緒にしているつもりだったが、どうしても誰かに話したい衝動を抑えることができなかった。

 あの強く、そして正義の心を持った人物のことを話して、誰かと共有したかった。

 通販で届いたDVDを繰り返し見て、圧倒的な強さを誇っている直也を知っていること、出会ったこと、助けられたことを誰かに自慢したかった。


 ある日、武士が剣道大会のDVDを繰り返し見ていることを知った姉の遥に、いったいどういう風の吹き回しだと尋ねられたとき、武士は「前に不良に絡まれて、この人に助けてもらった。調べてみたら高校生で、剣道の全国大会の優勝者だった」と話した。


 そして、「ナイン・サーガ」上で既に親しかったワンワンには、詳しい日にちや場所こそ伏せたが、ほとんどありのままをチャットで喋ってしまった。

 現実に会う友人でない気安さがあったのかもしれない。

 最初はところとごろ隠しながら話していたが、ワンワンがかなり喰いついてきたので、ほとんどを喋ってしまったという面もあった。


 そして、ワンワンは言ったのだった。


《ワンワン》【その九龍先輩って人が、サムーにとってそんなに憧れなら、また会えばばいいんだよ。本当の高校の先輩後輩になればいい。ナイン・サーガの仲間みたいに】

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