声風 -こわぶり-
雨宮雲水
-1- 埋まらない席
マイク前に並べられた椅子に、皆思い思いに席に着く。
アフレコブースでの座席は暗黙の了解で決まっていた。大抵マイク正面辺りに主役がいて、その近くに掛け合いの多い人間やプライベートで仲のいい人が座る。中には人見知りが激しくて主役にも関わらず一番奥に行く人、役に入り込んであえて一人はずれた位置や床に座る者、余りにも登場人物が多くて座りきれず大半が床座など、作品によってフォーメーションはまちまちだ。劇場用作品や単発作品だとその場限りだが、基本的にテレビでワンクール作品であれば、三回目のアフレコ辺りで大体の座り位置が固定され、あとはゲスト等の役者の出入りによって流動するのが一般的だ。
今日は、元々テレビで放送されたアニメの劇場版の収録だ。座席も基本的にテレビ版収録時のもので固定されていた。俺も例外ではなく、当時の席に座っていた。
しかし、今日はは並べられた椅子で、一つだけ誰も座らない席があった。本来そこにいるべき彼の姿がそこにはなかった。
俺は本来主人公の同級生役でこの現場にいるはずだった。主人公に対していつでも嫌みたっぷりに御高閲賜るような人物だ。でも、今ここに嫌みを言う相手はいない。モニターの中の主人公は元気に動き回っている。絶体絶命のピンチを乗り越えようと必死に戦っている。しかし、その声の主はいない。本来の声の主はいない。このままでは彼に命は吹き込まれない。
監督と音響監督がブースに入り、皆を集め、各役者の紹介を始めた。久しぶりに集まる面子はほとんどだったが、何人かは今回の劇場版で初登場となるキャラクターもいた。
そして、最後に俺が呼ばれた。呼ばれた瞬間、決して軽くは無かった空気が更に重くなる。
俺は空いた席に、そしてここにいる一同に深くお辞儀をした。
数秒後、頭を上げ、俺は辺りを見回した。視線が俺に集中した。その視線は、俺に何か言葉を求めていた。俺も何か言わなくてはならないことは解っていたし、想定していた。考えてきたはずだったが、いざ視線を前にすると考えていた言葉のどれもが安っぽく感じられ、喉から出せなくなってしまった。俺は深く呼吸をした。
「佐倉健太の代わりに、主人公・夜神星斗をやらせていただくことになった、桐野聡史です。俺では力不足かも知れませんが……精一杯やらせていただきます。」
そう言ってもう一度深く頭を下げた。準備した言葉や取り繕った言葉は却って野暮に感じた。今この場で生まれた一番短い言葉を発するしかなかった。
言いたいことは沢山あった。最初、あの話を聞いたとき、こうなることを覚悟していたこと。いつか好転することを願っていたこと。そんなことをダラダラと語りそうになったが、それは俺だけでなく、この場にいる誰もが思っていたことだ。今更俺が語ったところで、何がどうにかなるものでもないし、何かが救われる訳でもない。ただ、その空いた席はの存在が辛くなるだけだった。
頭を上げ、役者、スタッフ、ブース外と視線を一周させる。皆、黒い服を着ていた。季節柄黒服は自ずと多くなるし、服装が被ることなんて同じ仕事の人間がそれなりの数集まればよくある。しかし、役者だけではなく、スタッフも皆、黒い服を着たアフレコは誰が見ても異様だった。男性は黒のスーツに白いシャツにノーネクタイ。女性は黒のワンピースかスーツ。この光景は、皆が同じ場所に行くことを示していた。
音響監督から今日の注意や台詞の変更が伝えられ、通常のテスト収録前にワンシーンだけ更にテストを行うことになった。急遽代打で入った人間の調整用のテストだ。
マイク前に立ち、俺はスタッフからの指示をまった。映像がテストを行うシーン早送られる。
こんな形で台詞を発したくなかった。もし、願いが叶うなら、時が戻るなら、最初から俺が主人公として台詞を発したかった。俺もこの役のオーディションを受けていた。結果この役を俺がやるなら、最初から俺の解釈で作りたかった。
しかし、この作品の主人公を最初から俺がやった場合、テレビ放映でここまで人気が出ただろうか。きっと人気は出なかった。少なくとも劇場版もやるという話にはならなかったろう。
この作品の主人公の声はあくまであいつだった。あいつがあいつの解釈で主人公を演じたからこそ人気が出たのだ。俺はそれを崩さないようにするのがあいつと、この作品のファンへの精一杯の誠意だった。俺にはそれ以上考えられなかったし。
スタッフからスタンバイの声がかかった。俺は息と一緒に猥雑な思考を飲み込んだ。今は与えられた役割を全うするしかなかった。
俺は映像と同時に本来あいつが言うはずだった台詞を、あいつが作ったイメージを壊さないように発した。
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