魔力の系譜 ～名も無き英雄～

Episode33 狭い距離感

「楽園シアンズへようこそ」

　暗闇の中、メドナさんはそう俺に呟いた。

　トリスタンが言っていた。誘拐事件に関与している組織は三つあると。

　メルペック教会。ダリ・アモール近衛隊。そして『光の雫演奏楽団』。

　兎にも角にも、演奏楽団の関与が確定した。

「きみの名前は？」

　言葉が出なかった。

　俺の傷ついた心を癒してくれた女性、楽器の楽しさを教えてくれた女性。

　まさか誘拐犯の一味だったとは。

　思い返せば怪しい節がいくつもあった。

「緊張しているのかな？　まぁすぐに慣れるよ」

　―――パチン。

　メドナさんは指を鳴らして俺の注意をひきつけた。

　そして怪しく光り出す赤い瞳。

　その光もまた、少しすると輝きが弱まり、次第に消えていく。

　メドナさんは固まっていた。

「きみは……」

　彼女はそこで何かに気がついた。

　そんな素振りを見せた。

　俺がジャックだと気づいたのか、果たしてその固まった表情からは窺い知れない。

「ふ……じゃあ、洗礼の儀式に移るよ。もっと近くへおいで」

　今の含み笑いはなんだろう――。

　しかし洗礼は続いている。

　俺は冷や冷やしながら、ゆっくりとメドナさんに近づいた。近くで見てもメドナさんは相変わらず妖艶で、悪魔のように綺麗だった。

「今からきみが此処に―――そう、此処に来てくれたことを祝福し、洗礼の儀式を行います」

　メドナさんは俺の前で手を差し出し、天井を仰いで目を瞑った。

「女神ケア様は言いました。魔法は戦いに使うものではありません。獣を狩るための手段ではありません。自分の罪を悔い改め、許していただきなさい。そうすれば聖霊たちがあなたに永遠の祝福を授けてくださるでしょう。汝、女神の祝福があらんことを。聖女の名において。アーレル・ケア」

　メドナさんは近くに置かれている壺から水を一掬いだけ手に取り、その白い右手で水に魔力を込め始めた。

　まるで蛍の光のよう……。

　青く光りだした水の粒子は、二人の間で小さく弾けて舞い上がり、周囲へと飛び散った。それが泡のようにふわふわと舞い降りる。

　幻想的な光景が広がる。

　それは青い星が降る、あの夜のようだ。

　ダリ・アモール・カーニバルの前夜祭。

　俺はこの人の歌声に魅了された。

　――額に、僅かにその水が触れる。

「これで洗礼はおしまいだ。これから暮らすきみの部屋へ、クレウスがまた案内してくれるよ」

　おしまい……。

　洗礼という名の"洗脳"の魔法はなかった。

　それとも既に俺の頭はとっくにおかしくなっているのだろうか。

　しかし、あんまりそんな感じはしない。

　本当に形式的にやりましたという感じだった。―――ということは、あの洗脳された子どもたちは徐々にあぁなったのだろうか。

　見立てでは、洗礼の儀式の時に洗脳魔法を掛けたかと考えていた。

　黙って踵を返し、扉から出ようとした。

　その刹那、メドナさんから最後の言葉をかけられた―――。

「きみは……綺麗な手をしているね」

　――――ぞわり、と背筋が凍った気がした。

　気づいている。

　右手を包帯で隠していようとも、その手は綺麗だと囁いた。

　それが何かの合図のように感じられた。

　　　　　…

　クレウスが次に案内した場所は子どもたちの宿泊部屋だった。

　階段を三階くらい上ったところに連れていかれた。

「ここは君がこれから暮らすところだ。友達がすぐできるように二人一組で暮らすようにしているよ」

「はい」

「ここから一つ下のフロアには男の子の部屋があるからね。女の子だけじゃなくてみんなと仲良くするんだよ」

　そういえば今の俺は女の子という設定だった。

「みんな良い子たちばかりだからすぐ仲間に入れてもらえるからね」

　クレウスは俺に優しく言葉をかけ続ける。

　少女性愛趣味でもあるのか。

　先ほどからやたらと声が甘ったるい。

　嫌悪感を覚え、その顔を眺めながら作戦を思い出した。

　ここで一旦、整理しよう。

　当初の計画では、二通りに分けて考えていた。

　まず俺が自由行動できそうな場合。

　昼間の間に一通り施設内を巡回し、怪しいところは隈なく探索。

　子供たちの様子を見ながら一緒に脱出できそうであれば話を持ちかけるという予定だ。そして夜暗くなってから隠密行動を開始し、ひっそりと脱出という計画。

　次に子どもたち含め、全員が拘束されて脱出困難な場合。　

　身の危険を感じたなら即時力づくで脱出。様子が見れそうならば子どもたちの現状だけ観察し、夜更けに単独で脱出。

　現状、予想していた前者のパターンだ。

　ならば、施設内の探索と子供たちに接触するのが次の行動か。

「あの……今日はこの後なにをするんですか……？」

　なるべく大人しく声を出す。

　クレウスとはそれほど顔見知りではないからバレる心配はないけど、ジャクリーンを演じ続けなければならない。

「今日はこのあとご飯を食べて、午後はみんなと勉強の時間だよ」

「勉強？」

「魔法の正しい使い方を勉強する授業だ。聴くだけだから魔法が使えなくてもいい。魔法が本来どういうものなのか、それが分かればいいんだよ。みんなに優劣なんてないからね」

　なんとなくこの人たちがやりたいことが見えてきた。

　親への身代金の要求もなく、強制労働を強いるわけでもない。―――という事は"子ども"そのものが目的だとは気づいていた。

　その後の大きな目的実現のためだ。

　それが何なのか分からないけれど……。

　軍隊でも作って、新興国を建国するつもりだろうか。

「それ以外は……なにをしていればいいんですか？」

　とにかく当たり障りなく質問していく。自由に行動したい素振りを見せたら逃亡を怪しまれて逆効果だ。だから忠実なふりをして抜け道を探る。

「それ以外は自由だよ。何しててもいい」

　よし来た。これなら施設内を見て回れそうだ。

　ただ、目的だけは不明なままだった。

　　　　　○

「じゃあ、君の部屋はここだよ」

　そういってクレウスは四階のとある部屋へと俺を案内した。

　シアンズの構造だが、三階より上の部分が宿舎になっていて、幅の広い煙突構造をしていた。

　円筒の外環が各部屋。内環が廊下。

　そのさらに内部は吹き抜けになっている。

　廊下の窓からは内部の吹き抜けが確認でき、部屋の窓からは外の景色が拝めるという構造だ。

　廊下の窓から見下ろすと、二階の天井のステンドグラスが目についた。

　おそらく、あそこが先ほどの劇場の天井にあたるところだろう。

　とりあえず割り当てられた部屋に入ることにした。

　大人は誤魔化せたけど同年代の子はどうだろうか。

　まぁバレてもすぐ味方に付ければ大丈夫か。もし熱心な狂信者だったらまずいかもしれないけど……。

「こんにちわ……」

　ちゃんとノックをする。ノックはマナーだ。

　これは慕っていた母親の行動を真似てのもの。子どもであれ、第一印象が大事だろうし……。

　しかも女の子なんて、男より早くその辺りの情緒が発達するもんだ。

　十歳前後の女の子なら、プライベートも大切にするだろう。

　こういうのは距離間が大事。

　だから空気を読みつつ、次第に打ち解け、そして誘拐から救う。

　―――しかし、誰もいない。

　部屋の両側に小さなベッドが二つ置かれ、その奥には勉強机なのか、簡素なテーブルが二つ置かれている。

　もし俺が幻術にかけられた無邪気な子供だったら、この部屋を見てわくわくしていたことだろう。

　同年代の子とルームメイト。

　ちょっと楽しそうだ。

　机を確認する。

　黒い無地の分厚い本が入っている。

　なんだと思って開くと、どうやら聖書のようなものだった。

　女神ケアがいかに素晴らしい神かということ、魔法と食べ物に対する節制の心構えについて、くどくどと書き綴られていた。

　節制を唱える神が、あなた骨付き肉をどうやって食べる、なんて聞くものだろうか。

「だれ？」

　本に夢中になっていると、後から誰かが入ってきた。

「あ……」

「もしかして、わたしのルームメイト？！」

　幼い顔には不釣り合いなさらっとした綺麗な黒髪の女の子。

　俺よりも少しだけ背丈が小さい。

「わぁ！　名前はなんて言うの？」

「……じゃ、ジャクリーン、です」

　活発な子だった。

　ずいずいと俺に近寄ってくる。

「へえ！　ジャッキーちゃんね。名前、わたしと似てるね」

「え？」

「わたしはアイリーン！　アイリーン・ストライドって言うの。よろしくね」

　なんて好都合展開。

　この子がストライド家の娘。

　さっそく捕獲対象を発見とは運が良すぎて驚きだった。

「アイリーン……」

「そう！　嬉しい、ずっとルームメイトがいなかったの」

「そ、そうなの」

　やたらと顔を近づけてくる……。

　体をまるで押し付けるように、至近距離で話をされた。

「ジャッキーちゃんはどこからきたの？　好きなことは？　得意な魔法は？」

　黒く澄んだ瞳で畳み掛けるように質問された。

「俺、いや私は……ダリ・アモールからきたよ。魔法は使えないの」

「そうなんだ！　……ん、魔法が使えない？」

「そう。魔力がなくて魔法は使えない」

「――えぇ！　いいなぁ」

「いいなぁ？」

「ケア様に選ばれたってことじゃない」

「選ばれた……？」

「女神様に選ばれし子どもは魔法が使えないのよ！　羨ましい」

　ここでは価値観が違うらしい。

　世間の評判とまるで逆じゃないか。

「そうだ。お昼まで時間があるから、わたしがシアンズを案内してあげるわねっ」

　それはありがたい。

　ついでにお兄さんの事も教えてほしいものだ。

　　　　　…

　アイリーンから一通り施設内を紹介してもらった。

　でも円柱部分（三階から四階）は宿泊設備がほとんど占有していて、怪しいところはなかった。

　一階に教会（最初の劇場。二階部分まで占めている）、そして洗礼の間、食堂があった。

　二階には講堂が二つほどある程度で、あと三階、四階が子どもたちの部屋。

　最上階の五階には入れないらしい。

　さらに潜入調査するとしたら五階だな。

　ちなみにここには二百人ほど子供がいて、四つのクラスに分けて日替わりで授業をしているとか。食堂は別棟にあり、本棟と別棟の間には広めの中庭もあった。しかし、剣術や体術などの稽古用の修練場はない。

　ということは、軍隊を養成してるわけでもない。

　目的がよく分からない。

　突如、ガランガランという大きな鐘の音が聞こえてきた。

「あ、お昼ご飯だ！　ジャッキーちゃん、いこう！」

「う、うん」

　なるほど、鐘が合図になって次の始業を知らせているってわけか。

　子どもの統率をとるために工夫がされている。

　食堂部分もまた興味深い。

　大勢の子どもたちに一斉に食事をとらせるため、配膳式ではなくてオードブル式に料理が作られていた。

　大きな皿の上に山のように料理が盛られ、それが何種類もテーブルに並んでいる。そこから子どもたちが好き勝手に食べたい分を取り皿に取って、トレイに乗せて昼食の完成、というわけだった。

　なかなか馬鹿にできない、このシアンズという楽園は。

「どうしたの、ジャッキーちゃん？」

「え、いや、別に……」

　俺があまりにも注意深く盛られた料理を観察していたので、アイリーンに訝しんだ目を向けられた。

「ご飯おいしいんだよ！　わたしの家で食べてたものより断然こっちのがいい！」

　おいおい、そんじょそこらの家の子だったらまだしもストライド家の娘だろう。……アイリーンはいわゆる貴族令嬢というやつだ。

　そんな名家で食べられるご飯より美味しいとは。

　味覚まで洗脳されたのか。

「アイリーン、家の人は心配してないのかな？」

「心配？」

「アイリーンがいなくなって、お父さんとお母さんは寂しがってないのかな？」

「え、なんで？」

　なんでって……。

「お父さんもお母さんも喜んでわたしをここに送り出してくれたよ」

「え……？」

「わたしが楽園に行けてお父さんも嬉しがってたし」

　嘘だ。

　洗脳を超えて記憶も刷り変えられている……。

　この有り様だと脱出のときに連れ出すの難しいかもしれない。

　誘拐された子どもたち全員がそう思っているんだろうか。

　――見渡すと、どの子も今の状況を悲観している子はいなさそうだ。全員が幸せそうに昼食を見て燥いでいた。

　もしこれが魔法によるものだとしたら、術者はメドナさん……？

　だけど長い子は１年ほど、此処にいるんだ。

　そんな長い間、ずっと魔法をかけ続けるなんて相当な魔力量が必要だろう。

　魔法以外に考えようがない。

　メドナさんの最初の洗礼によって洗脳魔法がかけられる……そして此処で過ごすうちに徐々に魔法の効果が強まり、そして子どもたちを信仰漬けにしている可能性が高い。

　確か闇魔法の一つに、そんな洗脳系の魔法があったはず。

　―――闇魔法「精神汚染（ポイズン・キャプティブ）」

　もしかしてこの日常で食べている料理に、そんな毒牙が仕込まれている可能性すらある。

　念のため、女神が託した反魔力で消毒しておくか。

　適当に料理をトレイに取って、アイリーンと二人で並んで腰かけた。俺は右手の包帯をするすると一部解いて、気づかれないように右手で料理に触れた。

　しかし右手は特に反応を示さない。

　魔力を無効化する力は働かないということは、これはただのご飯という事だ。

　とりあえず大人しく食べよう。

　美味しいというからには一口食べてみたい。

「いただきまー……」

「……女神様の御名によって祝された糧を今日も私たちにお与え下さい。私たちは誘惑に負けることなく、今日も感謝の心でこの食事を頂きます。どうかお許しください。アーレル・ケア」

　俺が早々に銀食器で食べようとした真横で、アイリーンは両手を握りしめて祈りを込めていた。

　よくよく見ると他の子も同じように何やら唱えている。

「ジャッキーちゃんも、ちゃんと感謝の気持ちを込めてお祈りして」

「う、うん」

　俺は見よう見まねで適当に呟いた。

「ケア様、これを食べる私を許してください。肉は好きですけど骨付き肉は食べません」

　短かったけど俺の態度で許してくれたのか、アイリーンから文句を言われることはなかった。

　いちいちこれやらないといけないのか。

　　　　　○

　お昼ご飯を食べても何ともなかった。

　アイリーンの言うように普通に美味しい。

　その後、アイリーンの友達何人かと話をした。

　話をしても普通に会話はできる。ドウェインみたいに言動がおかしくなっているとかそんなことはない。

　ただ思想が変だった。

　どんな子も謙虚というか相手をまず敬う。

　そして女神様は基本崇拝。

　さらには戦いとか争いとか、そんな感じの話題は禁句だ。

　探りを入れつつ話を聞きだすのはかなり神経を使った。

　またしてもチャイムの鐘が鳴り響いた。

　次は魔法の授業。

　誰しも浮き浮きと講堂に向かって歩き始めた。うわー、嫌だなー、という子は一人もいない。

　本人たちにとって授業が始まることは至って楽しそうだ。

　俺もアイリーンの後について講堂へ向かう。

「みなさん、こんにちわ。メルペック教会のオージアス・スキルワードです。今日は先週の続きをお話しましょう」

　いつの間にか、教壇の上に司祭服を着た胡散臭そうなおじさんが立っていた。

「エーレの指環の物語は序夜まで話しましたね。今日は第一幕第一場『バイラの火山』についてです」

　そこから司祭の物語が始まった。

　話は教訓めいたもので、冒険者たちがバイラの火山に侵入して伝説の宝玉を盗もうとしたところ、赤竜の怒りに触れて火山が噴火。冒険者は全滅してしまう、というもの。

　ありきたりだけど、子どもたちに冒険の恐怖心を植え付けるには十分だろう。

　俺は退屈すぎてウトウトし始めていた。

「ジャッキーちゃん……！」

「……うっ」

　―――ガクッ、と身体が揺れる。

　その衝撃で体がびくんと跳ね上がる。

　がばっと起き上がって周囲を見渡した。

　唖然とした子どもたち。くすくすと笑い声が響き始めた。司祭も呆れた顔をしていた。

「あー………君は……？」

「……はい」

「具合が悪いのですか？」

「すみません」

「いいのです。話はいつでも聞かせてあげましょう」

　あ、これはチャンスかもしれない。

「すみません。やっぱり具合が悪いです！　部屋に戻ります」

「え、ちょっとジャッキーちゃん……！」

　そそくさと講堂を抜け出した。

　これで俺は自由の身。

　この時間を利用して進入禁止の五階に潜入してやろう。

　廊下をずいずい突き進んだ。五階への潜入には服やウィッグを取った方がいいだろう。潜入ミッションは一切見つからないようにやりたい。

　まず四階のアイリーンとの相部屋に辿り着いた。アイリーンはまだ講堂であの長ったらしい話を聞いているだろうから、この部屋は今俺だけの部屋、ということになる。

　服とウィッグを取り外した。

　一旦、女装から解放される。

　念のため、この服やウィッグはベッド下に隠しておいた方がいいかもしれない。俺がごそごそとベッドの下へと服を押し込んだ。

「ジャッキーちゃん、大丈夫？」

　いきなり扉が開け放たれ、さらさらの黒髪少女が現れた。

　そして俺は、その子とばっちり目が合ってしまった。

　ノックなしとは―――。

　これは許せない。

　この子には礼節というものを一から教えてやらねばならない。ストライド流でもない。母直伝のオルドリッジ流のしつけを。

「え……だれ？！」

　冗談はさておき正体を見られた。

　口止めしないと……。

　瞬時に背中のハンマーに手を掛ける。音もなく、出来うる限りの最速で女の子へと迫り、ハンマーを首に括って左手で口を押さえつける―――はずだった。

　アイリーンは俺のその瞬時の動きを見切り、左手を掴んで捻ると、手刀で俺のハンマーを叩き落とした。

　こやつ、何者―――。

「ハァ！」

　そのまま素早く俺の背後を取り、部屋の方へ背負い投げをされた。

　ベッドの骨組みに運悪く足を強打し、痛みを感じる。

　鰐革の軽鎧が俺の体は守ったが、むき出しになっていた膝は擦りむいてしまって血が滲み出た。

　この素早い護身術。

　なるほど、これがストライド流か。

　この子は大丈夫。どこいっても逞しく生きられるさ。

　俺が助けるまでもない―――。

「痛～……」

「え？！　その声、ジャッキー……ちゃん？　あれ？」

「ジャッキーはいない。俺はジャックだ」

「え、え、どういうこと！？」

　アイリーンは混乱していた。さっきまで女の子だと思ってた人間が実は男の子でした、という事実が受け入れられないようだ。

「ご、ごめんなさい。血が！」

　アイリーンは狼狽していた。

　慌てふためき、俺のような少年が部屋に侵入している事も厭わず、俺の膝から血が染み出ていることに気がついた。

　心優しい性格なんだろう。

「あ、いや……こんなの大丈夫」

「わっ、わたしはなんてことを……いま、手当するからねっ」

　もしかして洗脳で『人は傷つけてはいけない』という戒律が植えこまれているのだろうか。アイリーンの、傷に対する慌てふためき方はそれくらい常軌を逸していた。

　そんな戒律すら打ち破るほど、心底にはストライド流護身術が身についているんだろう。

「ご、ごめんなさい……ごめんなさい……」

「だから大丈夫だよ、これくらい」

　アイリーンは俺の左膝に手をかざして治癒魔法をかけようとした。

　――――バチバチッ、と紫電が弾ける。

　俺の血に流れる反魔力がそれを拒んだようだ。

「……な、なんで？」

「あ、これはえーっと」

「とにかく血を……！」

　そういうとアイリーンは何を思ったのか、俺の膝にいきなりキスをした。ちゅうちゅうと俺の血を吸い出そうとする。

　初めて女の子の唇に触れられ、こっちも鼓動が高まる。

　びっくりするほど柔らかい。

　さすがにこれにはドキドキせずにはいられない。

「傷は放っておくと酷くなっちゃうから……っ」

　なんて心優しい子なんだろう。

　貴族令嬢って我が儘そうなイメージがあったけど、アイリーンに至ってはそんな様子が微塵もなく、好感度がぐっと跳ね上がる。

「……っう！　ぶっ…ごっほ……ごっほ……」

　しかし突然、アイリーンは咳き込み始めた。

　もしかして俺の血が不味かったのだろうか。女神曰く、反魔力を宿した血だ。普通の人が飲んだら反動で何が起こるか分からない。

「ぐ……う、うぁぁ……！」

　さらにその後、頭を抱えて呻き始めた。

　どうしちゃったんだろう、この子。アイリーンの体から闇魔法特有の濃い紫の魔力が、蒸発するように立ち込め始めた。

「あ、あ………ぐ……」

　アイリーンはそのまま頭を伏せて何かに耐えていた。

　そしてそれが徐々に収まっていく。

「だ、大丈夫か？」

「………ん……わ、わたし？」

　あ、良かった。

　俺の血が猛毒すぎて死ぬのかと思った。

「あれ、ここは……な、なんで、わたしこんな……？」

「お、もしかして」

「あなたは誰？　パパは？」

　消毒されたのはアイリーンの方だったか！

　そうと分かればすぐに助け出そう。

「俺はパーシーンさんに頼まれて君を助けにきた」

「え？！　パパに？」

「そう、アイリーンはここに監禁されてたんだ」

「そんな！」

　そうか、俺の血は魔力解除の力もあるってことか。

　確かに今までも俺の血が触れたところは魔力がかき消えていた。ということは、この血は最強の解毒剤になりうるんだ。

「俺が家に帰してあげるから安心して」

「……ありがとう！」

　アイリーンはまるで正義の味方でも見るかのように、輝いた瞳で俺を見つめ始めた。しかもかなりの至近距離で。

　やっぱりこの子、距離感が近い……。

　さっきのキスも相俟ってドキドキするからやめてほしい。

「あ……でも……」

「でも？」

「なんでお化粧してるの？」

　俺の顔面の白塗りに気がついたらしい……。

　そういえば女の子衣装もウィッグも取ったけど、化粧の存在は忘れていた。せっかくの英雄的場面が台無しだった。