第十章 昇月

第37話 昇月 1



 ナースコルは鏡水宮の天守最上階にある、王の居室の前に立っていた。現在、通称「器の間」と呼ばれるそこは、太陽の剣によって封じられた銀月王の身体が安置されている部屋だ。彼女はその荘厳な扉に背を預け、灰の族長を待っている。正面に眺めるのは、王の間へ続くに相応しい幅と長さを持った紺青の回廊で、その最奥にはこの階へ唯一接続している跳躍床があった。ちなみに、この門扉を守っていた黒の一族の者には眠ってもらっている。


 昨日の明け方ノクスペンナから解放されたナースコルは、日中は身体を休め、昨晩フォルティセッドから聞いた深海世界へ繋がる場所まで行ってみた。そして確かに、闇の結晶に沈むようにして眠る銀の族長を見つけた。グラキエラやフォートのように銀月王の魂と交感することが出来ないナースコルでは、その群晶に埋もれるグラキエラの中に、銀月王の魂が宿っているか否かは分からないが、五大族長の一人であるグラキエラをあのような姿に出来る者が、銀月王以外に存在するとは思えない。そして、あれを見て「グラキエラの代わりになれ」と言われたフォルティセッドが怖じ気づいても仕方あるまいと、ナースコルからすれば赤ん坊も同然のような歳の闇使いが気の毒にもなった。


 ――まあ、時間も無いと思ってお姿だけ見て引き返したのだがな……。随分と待たせられたものだ。


 ルチルナを手中に収めたなら老竜は、必ずここへやって来る。老竜の最終目的が何であろうと、兎にも角にも陛下の身体から太陽の剣を抜かなければ始まらないからだ。だがナースコルは、何としてでもそれを阻止したかった。今まで何度も見捨てられ、利用され、傷ついてきたルチルナの身命を、操り利用して危険に晒す事は相手が誰であろうと、目的が何であろうと許さない。そう決意し、ここで老竜を止めるため待ち伏せているのだ。


 ここは鏡水宮の最上層であり、回廊の天辺には月光を採り入れるため水晶が嵌め込まれている。今はその天窓から陽光が注ぎ、ナースコルの視界を白く霞ませていた。昨夜は宵のうちにここへ来て、そろそろ日が中天を越えた頃だろう。流石に眠たくなってきた、とあくびを噛み殺した頃合いだった。


 ナースコルが背を預ける扉の正面、それなりに長い回廊の奥で跳躍床が光る。はっとナースコルは身体を起こすと、素早く鳥身に変わって高い天井へと舞い上がった。さすがに正面からの魔術戦で、五大族長の一人に勝てるとは思わない。闇の魔力による精神操作を得意とするのはお互い同じである上、相手は硬い岩の鱗を持つ竜だ。不意を狙ってまずルチルナだけでも逃がしたい。同じ夜の民でもナースコルら銀の一族に属する種族は、荒野や雪原といった比較的明るい場所に棲む。岩陰や深林に棲む灰や黒よりは日光に耐性があった。


 音を立てぬよう飛翔し、そっと天窓の一つの枠にナースコルは爪をかける。宙吊りになった彼女の眼下に、果たして老竜とルチルナの姿が見えた。夜の民の眼は皆光に弱いため、今日のような晴れた夏の日中に、明るい天窓を直視することはまず無い。静かに広げた琥珀色の両の翼に風の魔力を集めながら、ナースコルは灰の老竜の様子を窺う。ルチルナに全く抵抗する様子が無いのは、既に老竜の術中だからだろう。内心舌打ちしつつ、ナースコルはその機を測った。


 回廊の半ばで、門扉を守護する衛兵が居ない事に気付いた老竜が一瞬足を止める。その瞬間を狙って、ナースコルは翼を大きく打ち下ろした。突風が巻き起こり、下の二人を打つ。岩で出来た老竜と違い、軽いルチルナの身体だけが宙へ舞い上がった。狙い通りの展開に少し笑い、続いて老竜へ向けて耳を貫く絶叫を放つ。


「っきゃあああっ! 何なのよっ、もう!!」


 吹き飛ばされて宙に浮いたルチルナが、悲鳴と怒声を混ぜたような苛立ちの声を上げる。老竜の術は、本人の人格を取り上げずに相手を操ると聞いていたが、確かにその通りらしい。元気そうな悲鳴に安堵しつつ人型をとって舞い降り、ルチルナを己の背後――跳躍床側にそっと降ろした。


 さしもの老竜も不意打ちの絶叫をまともに喰らったらしく、その間反撃は無い。


「お逃げ!」


 振り返って跳躍床を指し、ルチルナに指示する。事態を把握しきらないルチルナが躊躇う様子に、更に言を継ごうとした瞬間、凄まじい荷重が全身にかかった。


「――――っ!!」


 言葉も無く頽れる。闇と地の魔力を使った魔術だ。髪の一房すら鉛のように感じるその重さに、咄嗟に声も出せない。


「そこまでだ」


 低く重い声が宣言する。見ればルチルナも喰らったらしく膝をついていた。力の限りを尽くして声を絞り出す。


「お、まえは、動ける、はずだ、よ……! 行、けっ!!」


 はっと顔を上げたルチルナが、何事か呟く。確かめるようにゆっくり立ち上がり、踵を返して走り出した。ナースコルの身体には更に荷重がかかる。老竜が術を強めたのだ。床に縫い止められるよう這いつくばって、息もままならない。


「待て」


 老竜の言葉と共に床が波打ち、絨毯を破って岩がルチルナを阻む。足を止めたルチルナへと向かう老竜の足が、床に貼り付くナースコルの傍らを過ぎる。瞬間、ナースコルは水の魔力を氷へ変え、その足を床に縫い止めた。がくりとつんのめって足を止めた老竜が、金の瞳孔でナースコルを睥睨する。


 腹に熱い衝撃が走った。


 石の尖塔がナースコルを宙に串刺して天へ突き出る。だが濃紺の血を吐いて、なおもナースコルはその血を刃に変えて老竜を狙った。荷重が緩む。己が血でぬめる石柱を掴んで身体を起こし、老竜を睨み据えた。


「流石は――族長三姉妹の次女殿か……」


 こちらの始末を先決としたらしい老竜が手をかざす。その掌に集まる地の魔力に、いよいよ終いかと覚悟したその時、金の光芒が老竜の左眼を刺し貫いた。驚いてその出所を探すと、岩壁の前に立ち止まったルチルナがカードをこちらに翳している。その肩に、眩く黄金色に光る小鳥がとまった。光の召喚獣だ。そう言えばこの娘はカードを媒体にした召喚魔術を得意としていた。呻いて傍らに膝をついた老竜に、よくやった、とナースコルは破顔する。こちらへ近づこうとする精霊の娘を、追い払うように腕を振った。


「行、けっ……岩ごとき、お前なら崩せる……」


 戸惑うルチルナを睨み付ける。立ち止まったルチルナは拳を握り、一呼吸のあと意を決したように背を向けて走り出した。ほぼ同時に、ナースコルの腹を穿っていた石柱が崩れ落ちる。老竜の魔術が途切れたのだ。べしゃり、と己の流した血溜りに落下し、這いつくばったナースコルはもう一度大きく血を吐いた。


「……随分な邪魔を、してくれたものだ…………。何故、陛下の解放をそうまでして阻むか、吾には理解出来ぬ……」


 左眼を覆った手で闇の魔力を眼に注ぎ、光の魔力を払いながら老竜が言う。


「言った、はずだ。あれを操り利用することは、許さぬと」


 互いに苦しい息の下、絞り出すように会話する。


「それに――、人の闇使いから、銀の族長の、所在を聞いた。今、この器の間に、陛下の魂は、無い。陛、下は……グラキエラ様の、器を借りて――、深海世界の、門扉の、前、に、おいでだ――」


 自分たち共鳴能力の低い者に、陛下の魂の在不在は分からない。よって、この事を老竜自身が器の間で確認する術は無いだろう。老竜がナースコルの言葉を信じる保証はない。だが――。


「も、グラ……様の器は……闇の結、に沈ん、で、動け、ない。陛、の魂が無い……器だけ解放、るのは、危、険、だ……」


 ――だから、お前がお迎えに行っておやり。ノクスペンナの小僧が贔屓にしている、あの人間の闇使いの為にも……。


 そこまで言い切る事が出来ず、ナースコルの意識は途切れた。



***



 瀕死のナースコルに背を向け走り出したルチルナは、その階唯一と思しき跳躍床を踏んで別の場所へと移動した。先に待つのは相変わらずの暗い回廊。どこをどう行けば脱出できるのかも分からない。脱出した後、何をどうすれば良いのかも分からない。ただ、今足を止めることは出来ないのだと、それだけ思って早足に進む。


 出来ればサリアスやフィラーシャと合流したい。ナースコルの風に吹き飛ばされた瞬間、ルチルナはその事を思い出した。それまで考えていたことは判然としないが、あの老人の後をついて扉の先まで行かなければならない、とそれだけは何故か信じていた。恐らく操られていたのだ。


 利用されてばかりの自分に嫌気が差す。


 だが同時に、命を賭して逃がしてくれたナースコルを思い出して、固く握ったままの拳が震えた。見捨てて来た。それが彼女の望みだったとしても、ルチルナは自分の意志で彼女を置いてきた。合理的な判断だろう。よくある話だ。本人もそれを望んでいた。あの上、更に自分がもう一度捕まってしまえば目も当てられない。足早な歩調と同期するように、ぐるぐると思考が頭を巡る。――結局、最後は一人なのだ。自分が生き残るため努力出来るのは、自分だけだ。だからその場で、そのために最善の選択をした。それだけだ。


 足を忍ばせる余裕もなくつかつかと音を立てて回廊を進むと、突き当りで三つの跳躍床に行き当たった。無論、行先表示などされていない。


 立ち止まると同時に、くらりと視界が回った。突然息苦しさに襲われて屈み込む。

 フィラーシャを助けた時もそうだった。このご大層な力を使うと、自分は酷く消耗するらしい。当然と言えば当然かもしれない。こんな力を何の負荷もなくぽんぽんと使えたら、逆に気がおかしくなりそうだ。


 頭の中を引っ掻き回されているような不快感と、しゃがみ込んでしまいたくなるような体の重さに唸り、膝に両手をついてしばらくその場に立ち尽くす。辺りは不気味なほど静かだった。主が不在だからなのか、先程見た天上の青空からして、今が昼間だからなのか。しばらく目を閉じてから息を整えると、気合を入れてルチルナは体を起こした。


「さあて、どれを選ぼうかしらね……」


 呟いて、三つの薄明るく光る石畳を眺める。


 孤独な暗闇からの出口は、まだ遠かった。



***



 真闇の回廊の終点は、唐突に表れた。


 何も見えていないのだから、当然と言えば当然か、とサリアスは笑う。何にせよ終わりがあったことに、座り込みたいほどの安堵を覚えた。と、同時に今度は、どうやってこの扉――壁ではないと信じたい――を開くか思案する。扉をなぞりながら中央と思しき場所を探すが、縦横に装飾であろう溝が走るそれの途切れ目を探すのは難しかった。反対側の側面まで辿り着いてしまって嘆息する。魔術でも使えれば他に方法があるのかもしれないが、自分では腕で押してみる程度しかやりようがない。暗闇に疲弊した心が、普段にない思考を紡ぎ出した。


 サリアスに、魔術の資質は無い。それは、今更どうする事も出来ない事実だ。


 そんな、悩んでも嘆いても仕方のない事に足を取られないために、血の滲む努力を重ねてきた。それでもなお、一人孤独に為す術なく立ち尽くせばそんな弱音が出る。この旅の中、今日ほど己の弱さを噛みしめた日は無かった。それは、サリアスに出来ない事があればそれを補ってくれるフィラーシャやルチルナが居たからだ。今更そんな事を実感して、心底二人が恋しくなった。


 今度こそ座り込んで、しばし休息をと目を閉じる。沈黙が頭の中に鳴り響き、酷く息苦しい。ここは袋小路で、二度と出られないのならどうしよう。ちらつく気弱な思考に、休息も無理かと溜息をつく。


 立ち上がって、今度は歩数を数えながら引き返す。全体の幅を測って、その中央らしき所まで再び歩いた。深く呼吸をして、全身の力を込めて押してみる。


 途端に、手を触れた部分が眩く発光した。


 手元から複雑な形の光条がいくつも伸びて、扉の装飾を顕わにする。驚いて手を離し、二、三歩退いたサリアスの眼前で、静かに扉が開き始めた。


 開く城門の隙間から、眩しい光が注ぎ込んだ。暗闇に慣れた目を射るそれは、酷く懐かしい太陽の光だ。


 その意外な出迎えに驚いて、顔を庇いながら立ち尽くすサリアスの前で、何かが唸った。


『独りで、こんなにも早く辿り着くとは大したものだ。やはり、お前たち人間族のしぶとさは侮り難いな』


 低く唸る肉食獣の声は、まるで何か言っているようだ。だが、当然内容は全く聞き取れない。眩む目を細めてその姿を探せば、陽光の下が酷く似合わぬ漆黒の獣が、こちらを見据えてゆらり、ゆらりと優美に長い尾を揺らしている。その美しさに、サリアスは呆然と息を呑んだ。


 それは、漆黒の毛皮に銀色の斑紋を飾った豹だった。


 逞しいながらも女性的で優美な曲線を描く四肢。艶やかな毛並み。こちらを射る銀の双眸。全てが、自分たち人間とは別の次元の生き物――神獣と呼ぶべき格の存在であると示す。魔物、などという呼び名は似つかわしくない、正しく闇の神獣だ。


 それでも、サリアスは剣を抜いた。


 日の光をものともしない様子でこちらを傲然と見遣る黒豹に向かって、剣を構えて腰を落とす。


「そこを退け。でなくば案内しろ。私の仲間と、魔王のもとへ――」



***



 漆黒の六角柱に触れたフォルティセッドの身体を、一瞬にして黒い靄が覆った。

 フィラーシャにすら視えた、正しくその場に具象した「闇」に咄嗟に近付けず、フィラーシャは伸ばした手を握り込んでおろした。その拳が白く震える。


「えっ、えっ、どうすれば良いのさ!?」


 おろおろと慌てるウィオラに答えることも出来ないフィラーシャの眼前で、フォートが地に頽れた。どさり、と重い音を立てて倒れ伏したフォートに、黒い靄が収束する。靄が完全に消えると、一見何の変りもない姿で、気を失ったフォートがそこに倒れていた。これで本当に、闇の王の魂がフォートに移ったのだろうか。


 今すぐ駆け寄って抱き起し、様子を確認するべきか。一刻一秒を争って担ぎ出し、城へと取って返すべきか。やるべき事の選択肢はいくつも思い浮かぶのに、咄嗟に動けない。怯えで地面に縫い止められた足を、全身の力を振り絞るようにして前に出す。


 ――近寄って、触れて、様子を確かめる。それから、飛翔魔術で城まで運ぶんだ。さあ、動け!


 深呼吸をして踏み出そうとしたフィラーシャの横で、ウィオラがえっ、と山羊の耳をはためかせた。


「あ、グラキエラ様? 嘘、えっ……」


 信じられない、とばかりにフィラーシャにしがみついて群晶を覗き込む。フィラーシャの肩を掴んだまま、混乱したように蹄を鳴らしながらも、群晶に埋もれた少年を見つめていたウィオラが、しばらくしてフィラーシャを向いた。


「――グラキエラ様の声、あんたには聞こえなかったよね?」


 間近で尋ねるウィオラの表情は酷く真剣で、若干気圧されながらフィラーシャは頷いた。


「陛下の魂はちゃんとフォートに移ったってさ。でも、まだ眠ったままだ。陛下の魂が眠ったままだと、また今度はフォートの身体に闇の魔力が集まって来ちまう。陛下を起こせるかはフォート次第だってんだけど……とりあえず、ちょっとでも早く帰らなきゃならないんだろう? 深海世界が何たら、って話も今はそれどころじゃないみたいだし」


 頷いたフィラーシャに、ウィオラがごそごそと懐から何か取り出して押し付けた。


「これ、姿隠しの布だ。城に入る時使いなよ。出入り口はあたしとフォートが使った所のやつが分かるだろう? そんで、これ……」


 そう言って今度は首に下げていた何かを外して、フィラーシャに握らせる。そのままフィラーシャの手を握って、ウィオラは続けた。


「こいつは、あたしらの角で作る角笛だ。これを持ってればどんな種族とでも言葉が交わせる。こいつを首に下げて、入り口の前で言うんだ。『黒の一族、ウィオラだ開け!』ってね」


 そっと手を放され、フィラーシャは言われた通り、小指ほどの小さな角笛の首飾りをかける。今まで言葉の通じる夜の民としか出会わなかったが、本来、言葉は通じないものなのか。一、二歩退いてフィラーシャと距離を取ったウィオラが笑った。


「アタシは自分の脚で帰るよ。一人分減ればマシだろう? あ、結界どうしようかね。その布被ってればマシだと思うんだけど……」


「うん、大丈夫。ありがとう」


 頷くフィラーシャを確かめて、ウィオラがフォートの肩を担いだ。そのまま器用に背負って歩き出す。


「ほら急ぎな。外までは運んでやるからさ!」


 景気づけか、跳ねて踊るように蹄を鳴らすウィオラにもう一度頷き、フィラーシャは彼女の後をついて外へと歩く。もう迷ったり悩んだりしている猶予はない。それらを口にしている暇があれば、その分足を動かすべきだ。ばくばくと派手に鳴りっぱなしの胸元を片手で掴み、もう片手に杖を握りしめてフィラーシャは外を目指した。


「じゃあね! 頑張るんだよ!!」


 森へと出たところでフォートを降ろし、ウィオラが言った。


「うん、ありがとう」


 答えて布を体に巻き付け、意識を集中させて風の魔力を集める。フォートの身体も魔力で浮かせるが、遠隔では制御が安定しない。杖を帯に挟んで背中に背負うと、意を決してフィラーシャはフォートの肩を担いだ。驚いたウィオラを制して頷く。


「大丈夫、まだ触れられる」


 抱えたフォートの重さが、意識の無い成人男性のものとして当たり前なのか、それとも既に重量を増しつつあるのかは分からない。ただ分かるのは、急ぐより他は無いということだ。


「じゃあ! ウィオラも気をつけて。ありがとう!!」


 最初から最後まで、一切何の他意もなくフィラーシャの味方をしてくれたウィオラに心からの感謝を込めてそう言うと、フィラーシャは風を切って空へ舞い上がる。


 木々の間を抜けると、晴れ渡った青空の中に飛び出した。眼下に広がるのは広大な森。そして、左手に臨む山脈の壁。一際高い峰に目指す場所を見定めて集中し、風の魔力をありったけかき集める。集まった風の魔力がつむじ風のようにフィラーシャの周りで逆巻いた。


「碧の風よ! 我が友よ!!」


 肚に力を込めて命令する。速く、速く運べと。そこに地面があるかのように、フィラーシャは空を蹴った。


 ――早く。少しでも早く、城へ!


 薄紫色の紗布は温かい。意識の無いフォートの背を抱えなおしたフィラーシャは、もう一段速度を上げた。



***



 フォートの意識は結晶に触れた瞬間、真っ黒に塗り潰された。


 再び襲いかかってくる哀しみの濁流を、今度は逆らわずに受け入れる。その感情が自分と同化すると同時に、ふっ、と嵐が静まった。


 フォートは虚空に浮かんでいた。耳が痛くなるような静寂。真闇の虚無。足元遥か下に光る巨大な円卓を見つけ、フォートはああ、と納得した。


 ここは、星辰世界だ。遥か足元に見える輝く円卓が物質世界、その上を球状に覆う四色に色分けされた層が、四大元素の高次亜世界だろう。フォートは更に、その上に浮かんでいた。見上げると水面のような揺らぎがあり、その上に星が瞬いている。


 ――違う、ここは闇の高次亜世界……。


 四大元素の亜世界を覆うようにあるという、光と闇の世界。そのうち闇の亜世界にフォートは漂っているようだった。否、漂っているのは、フォートではなく銀月王の精神だ。彼はここから、あの子守唄を歌っている。眼下に見下ろす、乾涸びてゆく世界に向けて。


 ――お眠り、さあ目を閉じて。


 何故、と問う必要も無い。そう歌うのは自分自身だ。封じられた器から抜け出して触れた、月の無い世界は見る間に乾涸びて、砂塵となり、その外縁からほろほろと崩れ始めている。そして何より、胸を刺すような嘆きの声が聞こえる。後悔と、失望と、怒りと悲しみ。全て間違っていた、裏切られた、こんなにも――こんなにも愚かだったなんて、どうして、と。誰かの悲痛な声が聞こえる。それは、見知った青年の声だった。彼は優しかった。清らかだった。純真だった。そして、それゆえ世界に裏切られた。


 彼のもとへ駆け寄って、その身を抱きしめて慰めたい。だがそれは叶わない。


 銀月がどれだけ意識の手を伸ばしても、彼に――アダマスに届くことはない。嘆き悲しむその胸に握り込んだ月の宝珠に涙が滴り、その涙が銀月の空ろになった眼窩から溢れ出す。絶望の底に沈んで絞り出すように嗚咽する、その悲しみと苦しみが銀月の左眼を抉るばかりだ。それでも歌う。自分の、自分たちの愛おしい我が子の涙を止めようと、彼は歌う。


 ――もういい、もういいから。辛いなら眠ってしまいなさい。私がお前を守ってあげるから。


 アダマスの絶望に始まった世界の崩壊は、更に世界を悲しみと絶望で満たす。弾圧が、虐殺が、飢餓が、疫病が、天災が。生ける者たちの嘆きを生んでその悲しみを銀月のもとへ届ける。それらに銀月がしてやれる事は、癒しの闇で覆い眠らせてやることくらいだった。明日の希望を見せる光の女王は、今この世界には居ない。彼女は月の杖に魂を封じられたままだ。だから歌う。お眠り、と。このまま目を閉じて、心静かに眠りにつこう、裏切りの絶望も、崩壊の恐怖も感じぬまま、その身が砂と崩れるその日まで、愛しい我が世界(こ)よ眠れ――――。


 夢を通じて闇の亜世界まで流れ込む人々の恐怖、悲しみ、絶望。それらを凍てつかせて闇で覆い、最期の時まで全てを眠らせる。それが、闇の王である銀月に出来る唯一の救済法だ。


 だからこの闇の亜世界から地上世界へと闇の魔力を送る。慰めの子守唄と共に、全てを眠らせるために。



***



 空へ飛び立ったフィラーシャを見届け、ウィオラは疲れたようにふう、と息を吐いた。とぼとぼと近くの木へと近づき、その根元に腰を下ろす。膝を抱えてスカートに顔を埋め、ウィオラはグラキエラの言葉を反芻した。


『陛下は私の器で外界へ出てその有様を知り、そこに満ちた悲しみと絶望を知って開く扉を変えられました。深海世界から、暗黒世界へと……。水の魔力を補い崩壊を止めるのではなく、闇の魔力を解放して地上世界を覆い、全てを眠りにつかせてしまおうとお考えになられた。私では、その意識に呑まれる寸前に、自分の身体に魔術を施すのが精一杯でした――』


 闇の亜世界は人々の夢を介して地上と接続する。銀月王は己の精神を深く眠らせることで闇の亜世界との間に大きな門を開き、闇の亜世界から膨大な量の闇の魔力を地上世界に送り込んでいるのだ。あの闇の群晶は、銀月王が暗黒世界から呼び出す闇の魔力を、グラキエラが自身の得意とする氷結の魔術で結晶化してその身に留めたものらしい。つまり、あれが無ければ今頃、とっくの昔にこの世界は眠りに就いていたという事だ。しかしグラキエラの意識もほとんど銀月王に同化して消えかけ、身動きもとれずに居た所を、銀月王の夢へと渡って来たフォートが揺り起したという。


『夜の民である私では、陛下の御心を動かし目覚めさせる事は叶わない。ですが、昼の民、人の子であるフォルティセッドならば……』


 言いたい事は分かる。だが――。


 そこまで考えて、はたとウィオラが顔を上げた。とんでもない事に思い至って跳ね起き、呆然と立ち尽くす。


「し、まった……。つまりフォートじゃ、送られてくる闇の魔力を、自分の身体に留められないって事じゃないか……! ど、どうしよう、それじゃフィラーシャが!!」


 ああ、しまった、どうしよう、馬鹿だねアタシはどうしょうもない……。ぶつぶつと呟きながら歩き回る。銀月王の夢を介して闇の亜世界から送り込まれる大量の魔力。それをグラキエラとは違い、フォートの身体は放散し続けるという事だ。彼を抱えて行ったフィラーシャは、闇の魔力を大量に浴びることになる。昼の民であるフィラーシャが、間近から大量の闇の魔力を浴びて無事で済むのか。


「こうなったら、走るっきゃないか!」


 ここでぐるぐる回っていても仕方が無い。ウィオラは菫色の山羊に姿を変えると、全速力で森を駆け出した。

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