第14話 闇に紡ぐ旋律 2
フィラーシャを見送った後、二体のセイレン相手苦戦を強いられているサリアスとルチルナは、切られた錨綱が海面を叩く音と、動き出した船に焦燥を募らせていた。誘惑の旋律が響く中、船はゆっくりと、しかし確実に島の方へ――岩礁が至る所にある危険海域へ――と漂っていく。いつ座礁してもおかしくない危機的状況にあって、しかしサリアスたちは止める手立てを見いだせずにいた。
「――くっ、開かないっ!」
苛立ち紛れに拳を叩きつける。船内に入って予備の錨を下すなり、舵を切るなりしたいのだが、フィラーシャの魔術で封じられた戸はびくともしない。
「とりあえず舵を何とかしないと、このまんまじゃ岩にぶつかって沈没ね」
不得意な水の魔力を使って呼び出した鞭を振るいながら、忌々しげにルチルナが舌打ちした。
「フィラーシャっ! 術を解きなさーいっ!」
ここで叫んだところでフィラーシャに声が届くはずもない。
「おお、大変、大変! 船ごと姉さまの歌に呼び寄せられているよ」
「さあどうするんだい? 早くしないと沈んじまうよ?」
上空できゃらきゃらと囃し立てるセイレンたちめがけて、ルチルナが鞭をしならせる。弓よりもまだ操りやすい、ということもあり呼び出した長く伸びる水の魔力の鞭は、まずまず威力を発揮した。ルチルナが鞭でセイレンを追い、あるいは絡め取り、隙を突いて獅子がセイレンを襲う。そうやって上空のセイレンたちをルチルナがひきつけている間に、サリアスが船を止める手だてを探していたのだ。
しかし本来炎の魔術を得意とするルチルナは水の魔力とは相性が悪い。よほど集中していなければ水の魔力はすぐに散ってしまい、鞭は霞のように実体のない物になってしまう。さらには誤って炎の獅子にでも当たろうものなら獅子とルチルナ双方が害を被ることになる。焦りからか、慣れない術での疲労からか、ルチルナの鞭は徐々に頼りないものになりつつあった。
「あたりをつけて甲板を破る!」
もう少しの間持ちこたえてくれ、と心の中で付け足して、サリアスは戸のすぐ手前、梯子のある辺りの床に狙いを定めて剣を振り上げた。
剣を叩きつける床の木目を睨みつけ、腕を振り下ろそうとしたその瞬間、視界が暗転する。
「な……!」
思わず力を抜いてしまう。十分に体重の乗らなかった一撃は、剣の刃先を多少床に埋めた程度だった。
「フィラーシャが向こうのセイレンを見つけたんだわ」
徐々に闇に慣れた目に、ぼんやりとルチルナの影が映った。
「ならば、こちらも開かないかっ」
言って戸を蹴破ろうとする。しかし変化はない。
「このっ……!」
「ちょっと! あんまりひどいことやって、向こうでフィラーシャが吹っ飛んだらどうすんのよ!」
怒りに任せて戸に剣を振り上げたサリアスを声でルチルナが制止した。魔術を施しているのがフィラーシャであるということは、地の魔力を借りてフィラーシャがこの戸を支えているということだ。術の性質上、術が破られていない間にフィラーシャに物理的な衝撃が加わることはないであろうが、破られてしまえばその衝撃を、地の魔力の波という形で術者がまともに被ってしまう。
「――っ! すまない」
「……しっ! 歌が止んだわ」
慌てて戸から離れたサリアスに、鋭くルチルナの声が飛ぶ。言われて耳を澄ませば、確かに歌声が途切れていた。
「フィラーシャがやったのか?」
「さあ、どっちにしろこれで中の連中も正気に戻るでしょ。上の連中が邪魔しなけりゃね」
しばらくすると、床下に人々が駆け回る気配が生じる。ルチルナの言葉に頷いて、サリアスは上を睨み上げた。
***
「さて姉さま、どうしよう?」
「さあて、どっちが面白いかしら?」
「船は次のがすぐに来る、でもきっと女戦士と魔女は乗ってないよ?」
「確かにそうだね、それに姉さまがまた歌い始めてくれるかもしれない。私達はこの小娘たちで遊んでいようか」
「そうだわ、それがいい」
ふざけた会話をするセイレンを睨み据えて、ルチルナは一旦鞭をカードに戻した。フィラーシャの明かり玉が消えた今、甲板を照らすのは船の両端に燃える松明のみだ。暗闇に慣れない目では、空中のセイレンは黒いわだかまりにしか見えない。目を細めたルチルナは、懐を探って手のひら大の石を取り出す。
「炎の獅子よ、お前との契約に従い、お前に糧を与えよう!」
空に向かってそう告げ、手にした石を放り上げた。途中の町で仕入れたもので、炎の獅子に供物として与えるための魔法石だ。これからの旅路では獅子を呼ぶ度に、敵を供物に出来る保証はない。代わりの供物が必要ということでいくつか買ったのだ。
獅子が玉へと駆け、一飲みに飲み下す。それと同時に一際明るい朱にその身体が燃え上がると、そのまま収束してカードに戻った。
「何を与えたんだ?」
「炎の魔力を込めた魔法石よ」
炎の魔獣の糧は、究極的には炎の魔力である。何か物質を燃やす、ということはつまり、その物質の中の炎の魔力を取り出すということだ。獅子は糧を燃やすことで取り出した炎の魔力を自らに取り込んでいるのである。おそらくサリアスは例のごとく不思議そうに首を傾げているのであろうが、いちいち説明している場合でもない。質問は後で受け付けることにして獅子のカードを拾い、ルチルナは再び鞭を召喚した。
低く鈍い音が船首から轟き、足元がひときわ揺れた。予備の錨を船員が下ろしたのだ。少なくともこれで、どこかに座礁して船が沈む心配はなくなった。ルチルナは心中胸を撫で下ろす。
「さあ、あたしらと遊ぶんでしょ? 遊んだげるから降りてらっしゃい」
松明の暗赤色の光に浮かぶ相手を、精一杯余裕顔を作って挑発した。このままでは埒が明かない。しばらくすれば今度は、正気に戻った船員達が異変を確かめに甲板へ上がってくるだろう。
「おまえたちで、遊ぶのさ」
挑発を歯牙にもかけず、暗い髪色のセイレンが悠然と答えた。
「姉さまの歌声に舞い踊るがいい」
船の中央に立つ最も高い帆柱の桁にとまった明るい髪のセイレンが、先程まで聞こえていたものとは違う旋律を紡いだ。律動的で抑揚の大きな、伸びやかな歌声に一瞬心を奪われる。手に持つ鞭の感触が希薄になり、慌てて頭を一振りした。武器を持つ右手に意識を集中させる。
「一体なんだってのさ!」
言って鞭を一振りし、気合を入れなおしてセイレンを睨んだ。しかしセイレンは、気に留めた様子もなく歌い続ける。
「サリアス! なんとかあいつを黙らせる方法を……!」
ぎりぎりと歯噛みしながら振り返り、呼んだ相手が突進してくるのを見て、ルチルナは何事かと動きを止めた。力強い疾走の勢いを殺さぬまま、サリアスが剣を振り上げる。
「なっ……!」
とりあえず脇に避けてルチルナは相手を注視した。サリアスは剣が空振ったと知るや否や体の向きを変え、今度は斜め上へと一閃する。
かろうじてそれを逃れ、サリアスの腕が上がりきり、動きが止まった一瞬を狙って鞭をしならせた。鞭がサリアスの左手首に巻きつくと同時に鋭く、力いっぱい鞭を引く。咄嗟に握る力を入れ損ねて、サリアスの左手が剣から外れる。あわよくばそのまま引き倒してしまおうと、ルチルナは更に鞭を引き寄せた。
しかしさすがにそうもいかず、一歩出した右足でこらえたサリアスは、片手でもう一度剣で斜めに空を薙いだ。
「このっ、馬鹿力っ!」
普通の女なら、両手でも自由に操るのは不可能であろう重量の剣を片手で振り回すサリアスに、思わず罵り言葉が口をつく。その左手を解放して後ろに飛びのくと同時に、剣が甲板の板目にめり込んだ。最初会ったときも同じようにこの女戦士とは戦ったが、腕力と剣技にものを言わせる斬り合いで勝てる相手ではない。
二閃三閃と避けるうち、手摺が背中にぶつかった。舷縁へ追い詰められたのだ。頭上からは腹立たしくも、やんやと囃し立てるセイレンのはしゃいだ声が聞こえる。背中を手摺に押し付けて、無言のまま剣を天へ掲げたサリアスを正面から睨んだ。
心中で、いや、身体の中で、熱いものが駆け昇り、膨れ上がる。今の状況と、それを招いて喜んでいるふざけたセイレンと、まんまと乗せられて迷惑をかけてくれる目の前の女戦士への苛立ちと怒りをそのまま、言葉に換えて一喝した。
「いい加減にしなさいよ! この、単純馬鹿力――っ!」
怒号に反応したのか、びくりと肩を震わせて動きを止めたサリアスが、一拍置いてそろそろと剣を下ろした。
「……あ……?」
ゆるゆると表情が曇るのが、暗い松明の明かりでもルチルナから見て取れる。
「お目覚めかしら?」
何故だかは知らないが、歌のほうも止んでいる。めでたいことだ。皮肉を込めて、ルチルナはサリアスに問うた。
「私は……何をしていたんだ……?」
戸惑ったような、何かを恐れているような声音でサリアスが問い返す。答えようとルチルナが口を開く寸前、木製の戸を蹴散らす派手な音と共に男が数人甲板へ出てきた。
「一体どうなってんだっ!」
荒々しく怒鳴りながら先頭の男がルチルナたちのほうへ向かってくる。巡らせた視線を頭上で止めて、今度は喘ぐように呟いた。
「……セイレン……!」
ルチルナは一つ舌打ちすると、目の前につっ立っているサリアスの頬をかるく平手で叩いた。
「何ボケてんの、さっさとセイレンを倒すわよ」
方法は全く思いつかなかったが、呆然としている場合でも、悠長に事の次第を説明している場合でもない。戸が開いたということはフィラーシャに余裕がなくなったか、もしくはもっと悪い事態かだ。自分達の無力さに嫌気が差すのを、自分の頭も軽く小突いてねじ伏せる。
「なんで出てきたのっ! さっさと引き換えしなさい!」
腕を振って男達を追い払う。一瞬鼻白んだようだったが、大人しく中へ入っていった。
「……これは、これは……。お前、どこの生まれだい?」
歌を歌っていた方のセイレンが、なにやら驚いたように問いを投げかけてきた。
「――? どこだっていいでしょ。スピニアの北東の田舎だけどね」
それだけ答えてルチルナは再び鞭を呼び出した。何が意外だったのか大人しくなっているセイレンめがけて一振りすると、鞭はセイレンのとまった桁を目がけてしなやかに伸びる。
音もなく桁を離れて宙を滑ったセイレンが、何を思ったか急降下してルチルナの顔を覗き込んだ。鳥の体に美しい女の顔が載っている奇怪な姿が視界を覆う。瞬きもせず降りてくる見開いたセイレンの目に、自分の姿が映りこんだ。
「ルチルナ、伏せろ!」
言われて即座にしゃがんで頭をかばう。踏み込んだサリアスの足がルチルナの視界をかすめ、背後から繰り出された剣の生み出す風圧がルチルナの前髪をそよがせた。
「ふん」
身体を捻って渾身の一撃をかわしたセイレンが、猛禽の爪でサリアスの左腕を裂いた。そのまま左に逸れると再び上空へ舞い上がろうとする。
立ち上がると同時にそれを追い、セイレンの背中めがけてルチルナは鞭をふるった。相手を捕えて引きずり降ろす好機だ。セイレンへと狙い違わず伸びた鞭がその尾に絡まった、そうルチルナは確信し、強く鞭を引いた。が、何の手ごたえもなく、それどころか鞭全体が発光し始め急速に実体を失っていく。
「なっ、こんな時にっ」
しかし一体何故なのか。集中が途切れた覚えはない。限界まで消耗しているのなら自分で分かるはずだ。あまりの悔しさに、ルチルナは盛大に床を蹴りつけた。もう一度鞭を呼び出そうと呼吸を整えて手の中のカードを握る。
「――なんで……」
全く魔力が集まらない。ひとかけらもだ。それどころか水の魔力は、この辺り一帯のもの全てが根こそぎ一方向へ吸い寄せられているようだ。
「どうしたのだ?」
呆然とそちらの方向――フィラーシャが消えていった島のある方角を見るルチルナに、サリアスが問いかける。
「これは……フィラーシャ? それともセイレンが……?」
海上とはいえ、ただでさえ水の魔力の衰えている今の世界で、これだけ大規模に水の魔力を使うとなれば恐ろしく消耗するはずだ。どちらがやっているにしても、一体何が起こっているのか想像もつかない。
「一体なんだい?」
「姉さまじゃないわ。あのちっこいのじゃないか?」
上でもセイレンたちが訝しんでいる。上着を留めていた帯で左腕を縛ったサリアスがルチルナに近づく。
「フィラーシャになにかあったのか?」
分からない、と首を左右に振って、ルチルナは答えた。
「あたしが知りたいとこね。分かるのは何か、とんでもないことが起きてるってことだけよ」
疲労と無力感と焦燥、そしてセイレンになぶられているという屈辱感に、ルチルナは拳を硬く握り締めた。
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