第五話 流れ水

 ラッドは、ゼスを来賓用の一番美しい部屋に寝かせていった。

 天蓋付のベッドには、白く透ける繊細なレース編みのカーテンが下ろされ、その中に横たわるゼスを、まるで美しい彫刻のように見せていた。タイトルを付けるなら、『眠るセラフィム』だろうか。

 その横顔の美しさは、神の慈愛を一身に受けた、六枚の翼を持つと言われる熾天使のようであった。


「ん……」


 彫刻が美影身となって身じろぐ。作者がその大理石の白いおもてに恋焦がれ、ついに命を絶ったその代わりに、魂を得て動き出したかのように。


「……ラッド……?」


 目を覚ましたゼスは、やっと巡り合った自分自身以上に愛する者の名を呼んで、まだ空ろな瞳を部屋中に投げかけた。

 だが何処にも愛する人はいなかった。まだ吸血のショックに痺れる指先で探ると、肩の矢尻は取り除かれ、素肌に包帯が巻かれていた。

 血まみれだった筈のシャツは、開け放たれた窓枠にかけられ、夕暮れのオレンジ色に揺れていた。


「ラッド……」


 もう一度、呟く。

 肖像画となってさえ、人間を惑わす程のヴァンパイアがラッドの父ならば、その血を色濃く受け継いだ彼が、この呟きを聞き取る事は可能だろう。城の中に居るのであれば。

 だが、一向にラッドの気配は感じられなかった。


「ラッド……何処……?」


 ゼスは清潔なベッドから出てレース編みのヴェールをくぐると、窓際のシャツを取ってボタンを留めた。

 指先が震えて若干手間取ったが、嫌な予感がして、纏めて置いてあったローブや剣を身に付ける。


 ヴァンパイアに吸血された人間は、少なからずそのヴァンパイアの支配下に置かれる。人間の側からしても、ヴァンパイアが気配を殺さない限り、ある程度は訪れを知る事が出来るものだと教わった。

 だから、えも言われぬ快楽を覚えた生娘は、二度目の来訪を容易く許すのだと。

 少なくともラドラムは、城の中に居ない。そう悟ったゼスは、城門へと急いだ。


 馬は、旅の荷を乗せたまま、大人しくそこで主人の帰りを待っていた。身軽に馬に飛び乗ると、ゼスは、全速力で山の麓へと向かい手綱を取った。


「ラッド……ラッド!」


 道すがら、鬱蒼とした森の木々の隙間に黒いスーツが見えはしないかと、何度も呼んだ。夕闇が迫っていた。

 村に下っても、ラドラムの行方はようとして知れず、ゼスの胸をざわつかせた。

当てもなく馬を走らせていると、村長の家の周りに、人だかりが見えた。それが、ゼスの蹄の音に気付くと、真ん中から割れる。


「あいつだ! あいつもヴァンパイアだ、村長!」


 若者たちの怒号が飛ぶ。淡い期待は外れ、若者たちが前に出てきた。

 ゼスは、懐から銀貨の袋を取り出すと、丸々若者たちに向けて投げ、馬首を回れ右させた。


「ヴァンパイアを倒したのは村の者だ。仕度金は返す! 俺は村を出る。それで良いだろう!」


 若者たちの殺意が、革袋に逸れている内に、ゼスは闇雲に馬を走らせた。


 意図せずに、大河に向かっていた。遠くにその青白い河筋が見えてきた頃、ローブの中に隠されたゼスの首筋にピリリと快感の炎が宿った。


「ラッド……?」


 ヴァンパイアは、流れ水を渡れない。

 吸血した事に絶望し、あるいは……。そう考えて、ゼスは焦燥の色を濃くし首筋から感じるラッドの気配に、ただ集中して馬を走らせた。

 確かにラッドは、大河に向かっている。道々に、常人には感じ得ぬ微かな血の匂いが、夜風に混じって漂っていた。


その大河の先、大きな港では、客船が今まさに出港しようとしていた。人々はもう乗り込み、長い航海に向け、様々な荷が積み終えられる所だった。


「こりゃあ……棺じゃないか」


 最後に運ばれてきた漆黒の箱に、一人の荷運び人が頓狂な声を上げる。軽く持ち上げてみて、『中身』が詰まっている事に驚愕したのだ。およそ一ヶ月の航海中、客は死人と旅を共にする事になる。


「誰がこんなものを……」


 棺に釘は打たれていなかった。恐る恐る荷運び人が蓋を僅かにずらすと、蒼ざめた壮年の男の顔が覗いた。


「おい、本当にこれを乗せるのか……」


 仲間の男たちに確認しようとしたが、その時、棺の『中』から囁きが聞こえた。


「黙って乗せろ。そして、忘れるんだ」


「っ……!!」


 視線を下ろすと、紅眼の死人と目が合った。その瞬間、荷運び人は思考を停止した。

 『内側』から、棺の蓋が閉められる。


「……おい、これは二人がかりじゃなきゃ無理だ。そっちを持ってくれ」


 妙にきびきびと指示を出したが、その瞳は空ろであった。


「ああ、そうだな」


 仲間の一人が同じような眼つきで、この日最後の仕事に取り掛かる。こうして棺は、客船の下層に運び込まれた。


 出港を知らせる汽笛が鳴る。客船と陸地を繋ぐ橋げたが取り外されようとしたその時、高い馬のいななきが彼らを正気に戻らせた。


「待ってくれ! 俺も乗せてくれ!!」


 馬ごと乗り込みかねない勢いに、思わず荷運び人たちが外そうとしていた橋げたを取り落とす。

 ゼスは巧みに手綱を操り馬を急停止させると、その背から飛び降りた。


「金ならある! 乗せてくれ!!」


「もう乗船は締め切った。乗船名簿にサインして、チケットを買った奴しか乗せられない。他を当たりな」


 そう言われる間、ゼスは馬にくくっていた荷を素早く解き、その華奢な背に背負うと、息を荒げる愛馬の鼻面にそっとキスをしていた。


「君は自由だ。お行き」


 彼女は、ゼスを心配するように何度かたたらを踏んだが、やがて一声上げて駆けていった。


「頼む。退いてくれ」


 ゼスは、橋げたの前に佇む男に、この若者にしては珍しく苛立ったような声音を当てた。男は薄ら笑う。


「決まりなんだ。お前さんが退いてくれ、『お嬢ちゃん』」


 瞬間、客船に掛けられた無数のランプ灯を反射し、光が一閃瞬いた。男の鼻先に、ゼスの長剣が突きつけられていた。


「ヒ、ヒィッ!」


「見かけで人を判断しない事だな。退け」


「わ、分かった」


 男は両手を上げ、ゼスと位置を入れかえるように橋げたの前を退ぞくと、恐怖のあまり尻もちをついた。

 ゼスは橋げたに乗り、じりじりとさがりながら、片手で懐から革袋を取り出した。


「チケット代だ。皆で分けろ」


 そう言って、男の足元へ放る。


 たっぷりとした金属音が響いて、革袋から金貨がはみ出した。現金なもので、男の興味はいっぺんにゼスから失われた。


「き、金貨だ!」


 荷運び人たちには滅多に拝めない大量の金貨を目にし、一気に彼らは色めきたつ。

 それを確認してから、ゼスは客船に乗り込み、橋げたを外した。

 そして、出港の合図に、指を銜えて口笛を鳴らす。汽笛が一度長く鳴って、客船はゆっくりと陸地を後にした。


「ラッド……」


 ゼスは、ローブの上から首筋を片手で押さえた。吸血痕から感じる気配は、確かにラッドが近いと告げている。 しかし、この船に乗っているという確証はなかった。

 もしかしたら、陸地の方に居たかもしれない。その不安に、ゼスは甲板に立ってジッと遠ざかる陸地の灯りを見詰めていた。


 心音はドッドッとうるさいほどに鼓膜を打っている。

 やがて灯りが箱庭のように小さく見える頃、ゼスは安堵の吐息をついた。

 ラッドの気配は、近いままだ。やはりこの船に乗っている。

 しかし、安堵してばかりもいられなかった。ラッドは、たった一度吸血しただけのダンピールだ。果たして、流れ水の上にあって、命を繋げるのかどうかは、ゼスにも計り知れぬ事だった。


 旅の始まりを祝し、甲板でオーケストラが音楽を奏で始めていた。客も、甲板に鈴なりになって別れを告げていた紙テープから手を離し、設えられたテーブルセットに腰を落ち着ける。

 ゼスは、ワインの注がれたグラスをシルバーのトレイに乗せ客の間を渡り歩くウェイターの少年を捕まえると、銅貨を数枚握らせ、ひと気のない船尾の方へと連れて行った。


「積荷の中に、棺があるか調べたい。貨物室へ案内してくれ」


「貨物室ですか? それなら、担当者をお呼びします」


 ゼスは、先の倍、銅貨をウェイターに握らせた。


「実は……ギリギリに乗船して、部屋を取ってない。船長に内緒で部屋を都合してくれて、棺を探すのを手伝ってくれたら、もう倍のチップを弾む。大切な人の棺なんだ……一等の部屋に入れてあげたい」


 少年は訝しげな顔でゼスを見下ろしたが、チップの誘惑には勝てないようだった。

 そして何より、フードを取ったゼスの真剣な眼差しに、嘘はないとほだされた。


「……こっちです」


 ウェイターは壁に掛けられていたランプをひとつ取り、船の下層に向かって階段を下りていった。

 再びフードを被り、ゼスが続く。薄暗い貨物室は広大に思えたが、ゼスはすぐに目当てのものに辿り着いた。

 呼ぶのだ。首の吸血痕が。漆黒の棺は、一番奥の大きな木箱の物陰に、隠すように置かれていた。


「これだ。一等船室まで運ぶのを手伝ってくれないか。死人が乗ってるなんて他の客が知ったら、不吉に思うだろう。二人だけの秘密にしよう」


「運ぶ方の手間賃は?」


 強欲な少年は、調子付いて強請ってきた。

 ゼスは、銅貨を革袋ごと、ウェイターに手渡した。金の入った革袋は、全てゼスの懐から出ていった。


「へへ、ありがとうございます」


 金を得た少年は、実にゼスの言に忠実に従ってくれた。

 まず一人で上層に行き空いている一等船室を調べ、ゼスと共に目立たぬよう、オーケストラが客の目を惹きつけている間に、棺をそこへ運んでくれた。


 礼を言って、ゼスは頭ひとつ分長身のウェイターに握手を求めた。何気なく握った彼の掌を、握り潰す寸前まで力を入れて握手すると、ぐ、と少年から苦鳴が漏れた。


「金は払った。約束だぞ。二人だけの秘密に」


 フードの奥で光る瞳が、言外に破ったら命はないと語っていた。少年は恐れをなして、慌てて腕を振り解くと、返事もそこそこにその眼光から逃れていった。

 これだけ脅しておけば大丈夫だろう。少年の背が見えなくなってから、ゼスは一等船室に鍵をかけた。

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