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間話(零話) いつか世界の片隅で
細い、人が通る事など有り得ると誰も思わないような山の峰に、人らしき影がうごめいていた。
それは汚れ、傷付き、歩みには力が無く、いましも吹き渡る強風に何処かへと飛ばされそうにすら見える。
切り立った峰は底の知れぬ断崖を両脇に従えて、この、迷い込んだ哀れな生贄を今しも飲み込まんとするかのようだ。
見れば、その者の歩んだ後には擦ったように血の跡が残り、飢えた獣にでも嗅ぎ付けられれば、その足を踏み外さなくとも獰猛な獣の牙に裂かれて終わりを迎えるに違いない。
しかしそもそもが、このような場所に追い込まれた理由こそがその獣を避ける為なのかもしれなかった。
もはやボロボロに接続部が剥がれ本来の意味を失ってはいるが、その人らしき者は前線で戦う歩兵が身に付けるような防具を纏っている。
一見して痩せた敗残兵のようにも見えるが、その手には武器は無かった。
武器の代わりにとでもいうように、前屈みに、何かの包みを深く抱え込むように歩いている。
「坊や、ごめんね、お乳が出なくて、ごめんね」
枯れた声が軋んだような音で紡ぎ出した言葉は、何度も繰り返され、まるで吹き荒ぶ風の一部でもあるかのようだった。
腕の中の包みからちらりと小さな手が見える。
彼女は、そう、それは驚くべき事に女性であり、母親ですらあった。
彼女は、抱えた小さな我が子をあやすように揺するが、その赤子はぴくりとも動かない。
微かに開いた口は閉じられる事なく、赤ん坊らしいふくらみもなかった。
かさかさに干上がったその肌は既に青黒く変色をしていて、まるで生在るものの証が見えない。
肌の色は母親も同様で、血の気の殆ど見えない皮膚は黒く変色して、一部は異様に膨れ上がってすらいた。
その顔は、これは元々なのか生々しさはとうに失せた火傷の痕に覆われ、もし仮にここに彼女を見る者がいたとしても、幽鬼か、呪いを吐く魔物とでも思って逃げ去っただろう。
「この子だけは、どうしても、この子だけは生きなくてはいけないの、どうしても、どうしても」
本当の幽鬼の吐く呪いのように軋んで吐き出される言葉だけが、彼女の存在の証でもあった。
「ここでこの子が死ぬのなら、なぜ、私は他人を殺して生きて来たの?なぜ、あの人は私達を逃がして死んだの?全部がなんの意味もない事だったというの?全部が儚い夢のようなものだったと?」
ギリギリと、歯と歯を擦り合わせる音が響く。
それは呪いのように、祈りのように、他の命の気配すらない切り立った山の上に零れ落ちて行った。
ずるりと、這うようだった足がゆっくりと止まる。
動かない我が子のまぶたを、頬をその黒く膨れ上がった指が辿った。
「聞くが良い!」
吹き荒れる風を切り裂くような声が、その喉から放たれる。
「私は神など信じない!私は世界なぞ信じない!だが、この子が死ぬ事は許さない!絶対に許さない!」
彼女はふらりと一歩を踏む。
「今、この子がここで死ぬのなら、なぜ私をこの世に生み出した!なぜ私に殺された者は死ななければならなかった!なぜあの人を殺した!」
もはや枯れ果てたはずの喉から切り裂くような枯れ割れた、しかし突風をも圧する声が世界に突き付けられる。
「許さない!許さない!魔物でも構わない!悪しきも善きも関係ない!力あるものよ!この子を生かせ!今すぐ生かせぇええ!」
叫び、それが命を削ったかのように、次の瞬間、彼女の体は風に大きく揺らいだ。
足元が空を切り、地面の見えない遠い奈落へと滑り落ちる。
「っ!」
彼女は、弱っていても長年その身一つで戦った戦士であった。
咄嗟に我が子の肩に噛み付くと、力の弱った腕を交差させてその身を覆う。
体を丸め、引き付けた両足を一気に蹴り出して崖壁を蹴った。
バキリと乾いた音が身の内に響く。
弱った足がその衝撃で折れたのだ。
もはや痛みを感じる力すら弱いのが唯一の福音かもしれない。
壁を蹴ったおかげで落下する方に背中を向ける体勢となった彼女は、来るべき衝撃に備えた。
我が子を放り出す訳にはいかない。
その先には死しかないのだ。
目覚めた時、はっきりとしない意識のまま、彼女は小さな赤子の姿を探す。
霞む視界がそれを阻むが、まだ動く腕で探ると小さな身体は自分の胸の上に在った。
赤子をあやそうと声を出そうとしたが、口が微かに動くだけで声は出ない。
自分の視界の先にある青い空間は空だろうと彼女は思った。
どうやら上手く背中から地面に落ちたらしい。
想定したより空が近く、どうやら崖の途中の何かに引っ掛かったのだろう。
(もう、おしまいなのか?)
涙は既に出ない。
必死に生きて、ただ一つ残せた者をも奪うこの世界がひたすら恨めしかった。
本当はとっくにこの子は死んでいるのかもしれないと、心のどこかに感じてはいたが、それを認める事は決して出来ない。
それだけは出来なかった。
(ライカ、坊や、ごめん、ごめんな)
こんな時に子守唄一つ歌えない我が身が口惜しい。
彼女の胸の内に、彼女を彼女たらしめている不屈の熱い意志がうねり猛る。
(こんな世界、滅びればいい!消えぬ呪いに朽ち果てれば良い!たった一人の小さな命を救えないような世界など!)
「人の
在り得ない声に、彼女はびくりと身を震わせた。
無意識に我が子を抱き寄せる。
「救いを求めるか、人の子よ?」
霞む目に相手の姿が良く分からずに、彼女は数度目を瞬かせた。
ただ、新雪のような白い光だけが目に入る。
(お前が何でも構わない。もし、この子を救えるというなら、他の何をも求めない)
「子供を持つ母親か。ならば救わずにおく訳にはいくまい。雛と母親を守るのは我らが本能のようなものだからな」
それが何かは分からないが、救いを約束する存在ならば、他に必要な問いもない。
彼女は怒りにたぎっていた心がやっと満たされて行くのを感じた。
枯れた一つの枝のようになってしまったこの子も、またあの柔らかで暖かな存在に戻るのだと信じればいい。
「しかし、人の子の母もまた恐ろしきものだな」
どこか感銘に似た響きがその声にこもるのを感じながら、彼女はやっと穏やかな気持ちで目を閉じた。
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