第30話 花の季の終わりは月下草の花で知る
「それにしても何度見ても凄いわね、これ、このまま元に戻らなかったらどうするの?」
くすくすと笑いながらミリアムはライカの顔にそっと触れた。
「痛くない?」
「痛いっていうより熱い感じだったんだけど、もうあんまり感じないや。ちょっとまだ痺れてるけどね。でも、このままでもいいんじゃないかな?みんなが良い顔になったって褒めてくれるし」
「ぷっ」
ミリアムは思わず噴き出すと、ライカの頭を撫でた。
「でも私は元の顔の方がいいと思うな。おじいちゃんもびっくりして大変だったんじゃない?」
「最初は喧嘩をしたのか?って聞いてきて機嫌良かったんだけど、喧嘩じゃないって話したらなんか警備隊は何してたんだ!怒鳴り込んでやるとか言い出すし、びっくりしたよ。朝には顔見て泣かれたし」
「おじいちゃん泣いちゃったんだ?」
「う~ん、理由は言ってくれなかったけど」
「おじいちゃんも元の方が好きなのよ、お父さんとお母さんからもらった顔なんだもの」
「ああそうか、そうだね。ちゃんと治るといいな」
「そうそう」
相変わらずくすくすと笑ったまま、彼女は束ねた炊きつけ用の細枝で土の床を掃いた。
「いつも綺麗に模様をつけるよね」
「これはね、
「でも踏まれて消えてしまうけど」
「そこがいいのよ」
「奥が深いんだ」
「そうよ。さ、準備出来たし、一息つきましょうか」
机を拭き終えたライカは、その声に湯沸し用の炉に種火を入れた。
火が丁度大きくなってきているので、そこへやや細めの薪をくべた。
「それで今日もレンガ地区に行って来たんでしょう?私、ノウスンを良く知ってるけど、よくもまあ、あの理屈の通じないカチカチ頭に認めさせたわね。……ってちゃんと認めて貰ったのよね?」
ミリアムは言っている内に不安になったのか、ライカに念押しした。
「ノウスンって?」
「子供達を集めて大将ごっこをやってるあなたを殴った相手の名前」
「ああ、あの人の名前なんだ。うん、好きにしろって言ってくれたよ」
「あはは、それって根負けしたって感じね。ライカったら案外あいつと良い勝負かも。あなたも一度決めたら絶対引かないでしょう?」
「俺はともかく彼はすごいよね、大勢をちゃんと率いてリーダーをやってるし」
「男の子っていつまでも子供なだけよ。お山のてっぺんに立ちたいのよね。まあ、あいつの話はもういいわ。それで、その絵本とかどんなのがあるの?私なんかそういうのに一度もお目にかかった事がないから羨ましいな」
「いろんなのがあるよ、ちょっと小さい子には難しい話とか不思議な話とか怖い話もあったな」
「良かったら今度覚えてきて私にもお話しを聞かせてね」
「うん」
ミリアムは話しながら、朝茹でて冷ましてあった豆を押し棒で潰し、艶やかな緑の葉にそれを塗るように盛り付ける。
「これ、ミルっておやつなんだけど知ってる?」
ミリアムが隣でお茶の準備をしているライカに自分の手元を示して聞いた。
「ううん、ポックスみたいな?」
ミリアムは軽く首を振ると緑色のペースト状のものをコテで掬ってライカの口に少しだけ放り込む。
「豆だね」
真面目に吟味するような声にミリアムは笑った。
「そうね、確かにただの豆、ポックスみたいな今時のお菓子じゃないわ、この豆は茹でてすぐだと潰してもパサパサになるんだけど、こうやって暫く置いておくと潰した時に粘り気が出るの、それをこのちょっと辛い葉っぱに塗って、こうやって巻いて食べるのよ。ちょっともっちりしてるし、自分で巻くのが楽しいしでけっこう子供に人気があるの。忙しい親が子供をおとなしくさせる為にちょっとの時間で手軽に作るおやつって訳ね」
「おい、ミリアム。そりゃ親の手抜きみたいな言い方じゃねぇか」
奥から午後の仕込みに忙しいミリアムの父、ボイズがうなるように言う。
「だって手抜きだもの」
口を尖らせて言う彼女は、普段よりやや幼く見えた。やはりそこには親子だからこその甘えがあるのかもしれない。
「ただ余所から来た人には青臭過ぎるみたいなのよね。中央とかは香辛料やら調味料やらいっぱいあるらしいし、素の味の物ってあんまり食べないみたい。なんならライカのはハチミツのカケラを少し入れましょうか?」
「ああ、大丈夫だよ。俺も昔は草とか根とかそのまま齧ってたりしてたし、そっちの方が慣れた味だから」
「そう?良かった。それじゃお茶にしましょう」
仕込みに忙しい親父さんや、買出しに奔走しているおかみさんはこの時間まだゆっくり出来ないので、二人だけで綺麗になった店内を占拠してのお茶になる。
「こういうのは特権よね」
ミリアムはにこりと笑うと、中央のテーブルにお茶をセットした。
「こうしていると別のお店のようだね」
「表を閉めて側窓だけ開けてるから少し暗いしね、雰囲気が違うわよね」
そう言って持ってきた可愛らしいランプに灯を入れる。
「油もったいなくない?」
「ふふ、匂いを嗅いでごらんなさい」
「あ、これって冬紅の?」
「そうそう、いつも店で買う松の油じゃないの、春先に自分で集めた冬紅の実から採ったものなのよ。ちょっとした贅沢でしょ?」
「へぇ、俺はまだ冬紅の花って見た事ないんだけど綺麗な花なの?」
「ええ、それは綺麗よ。雪が降り始めた頃に咲くんだけどこの木は葉がずっと緑でつやつやしてるの、そこに大きな赤い花がぽつぽつと咲いて、その上花芯が黄色で凄く鮮やかなのよ。冬ってあんまり色が無いからこの花を見ると嬉しくなるわ。でもこの花、香りがないんだけど実に詰まった油はいい香りがするのよね。おめかしする時とかは髪がツヤツヤして見えるから髪に塗ったりもするのよ」
「花は香りがないんだ?」
「そうなの不思議でしょう?」
二人はランプから仄かに香る匂いを互い違いに確かめて笑い合うと、皿に置かれたミルを手に取りくるくると巻いて口にした。
「この葉っぱは疲れを取る効果もあるのよ」
「確か山ハッカの葉だよね?」
「さすがに良く知ってるわね。ハーブ屋のサルトーさんが私の顔を見る度にあの子はうちが将来雇うつもりだったのにってぼやくのよ」
「今でも偶に手伝ってるよ」
「ふふ、それでもなんか取られたみたいで悔しいんじゃないかしら」
「友達が薬を扱うのが好きだったから俺もああいうのが好きなだけで、俺の知識なんて大した事ないんだよ。教わる方が遥かに多いし」
「前にいた所で?」
「うん、ポルパスっていう友達がいたんだ」
「そうなんだ、薬師さんか何かだったの?そういえば育った所で仲良かった人の話は初めてじゃない?」
「名前を言えない相手が多いからね」
「え?どうして」
ライカの言葉に驚いてミリアムは聞き返した。
「不必要に世界を揺り動かすからなんだって」
「有名な人とか?」
「それはないと思う」
普通名前が言えないというと良くない事を思い起こさせるが、ライカ自身があまりに平然と話しているので、ミリアムは自然とそういう悪い方の考えに行き着かなかった。
「そういえばどっかの古い国とかは王族がみんな神に仕える身だから名前は人が呼んではいけないんですって。そういう事なのかもしれないわね」
「分からない。でも理由はよく分からなくても、大事な相手が守っている事は守るものだろ?」
「へぇ」
ミリアムはライカの頭をポンと叩いた。
「そっかそっか、昔の事あんまり話さないのはその人達が大事にしてた事を守りたいからなのね。大好きなんだ?」
「うん」
人達じゃないなどと細かい部分への訂正などせずに、ライカは最後の言葉にうなずいた。
「そっか」
ミリアムはにこりと笑って空いた皿やカップを纏めて片手に持つと立ち上がった。
「じゃ、そろそろ開店しますか。お母さんも帰って来たみたいだし」
「あ、ランプ消しておくね」
「うん、お願い。それはあそこの棚に仕舞っておいてね」
ライカに示しておいて自分は使った食器を裏で洗いに行く。
「ライカちゃん、ミルなんて食べたの?美味しくなかったんじゃない?」
買出し帰りのミリアムの母シアーラが、皿に残った葉っぱを見て察したのか気遣いを見せた。
「美味しかったですよ。実はこういう物の方が塩辛かったりするやつよりずっと好きです」
「あはは!ライカちゃん塩漬肉のスープ出したら食べながら泣いてたもんね。『辛い』って」
宿に泊まっていた最初の頃の出来事を思い出して、シアーラはコロコロと笑う。
実は、竜王達には食べ物に味を付けるという発想が無い。
彼等がこだわるのは香りなので、そっちの方向には豊かな環境だったが、基本的に食べる物は素材そのままの味だった。
唯一白の王のセルヌイは人の世界で暮らした経験から、塩を食べ物と共に摂取するという人間の習慣を知ってはいたが、塩は別に皿に盛って、そこから己で好きなように加える方式だったので、そんなに味を濃くする事は無かったのである。
「ここいらは狩猟時期以外は新鮮な肉がないからなあ。塩漬けが食えなきゃ肉は食えねぇし、困ったんだぜ?」
「濃い塩味がどうも苦手で、でもあれ以外はちゃんと食べてましたよ」
「無理して食ってたんだろ?言ってくれれば工夫してやったのにさ」
「おかげさまで最近は肉も美味しくいただいています」
「うむ、俺さまにもっと感謝せぇよ」
「なに言ってんだい、あんたは!」
バシッ!と広い背中を叩く景気の良い音が響き、厨房が笑いに包まれる。
「なに?どうしたの?」
食器を洗い終えたミリアムが、その声に誘われて顔を出した。
「おやじさんが俺の為に塩抜きしてくれててありがたいなって話」
「あ!そうそう、ライカったら最初、塩苦手な癖においしいおいしいって言って食べるんだもの。この子の美味しいはホント当てにならないわ」
ミリアムが話題から当時を思い出したのか、腹立たしそうにふくれてみせる。
「料理って作る人の気持ちが込められているからありがたく頂きなさいって教えられたから」
「まぁ、教育が行き届いている事!」
再びの笑いが響き、ほどなくしてバクサーの一枝亭の食堂は午後の店開きをしたのだった。
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