山浦 環(美術クラス/美術部)
山浦 環[始業前]
「明日が来なきゃいいのに」
サエがつぶやいたのは聞こえていないふりをした。私は明日、留学する。
「直行便?」
「ううん、アムステルダムで乗り換えて、ミラノ」
「想像もできないわ」
「私だって」
サエと通い慣れた通学路も今日で最後かと思うと切ない。私たちは駅からワザと遠回りになる橘公園を通り抜けて通うことにしていた。放し飼いの鹿がゆったりと歩き回る眺めを忘れないように、私は一歩一歩踏みしめるように歩きながら辺りを見回し続けていた。
「あ、ザキオカ」
写真部の岡崎正恵が鹿の写真を撮っているのも毎朝の景色のひとつだった。
「戻ってくるのは夏頃?」
「たぶん」
中途半端な時期から何とか手を尽くしてもらったものの、もう戻るつもりはなかった。今日で退学になってもそれでいいと思ったし、日本に戻るつもりもなかった。そんな考えが見透かされているのか、サエは随分と寂しそうだった。
「ひとりぼっちになるよ」
泣いてる? サエはこっちに顔を向けない。
「栗原、いい子だよ」
「そうだと思う」
「仲良くしてね」
「話が合うといいな…」
私は栗原と幼なじみで、サエとは中学からの親友で、だから何度か栗原とサエとで帰ったこともあるけれど、二人が直接何かを話したりといったことは今まで無かった。
少し先を、ゆったりと鹿が横断していった。そのはるか先を歩いているのは、月山? 大人の女性と歩いているみたいだった。
「ミラノでは、なんとか服飾の勉強が出来ないか、色々探してみるんだ」
公園を出て、お堀端に差し掛かった。サエは何も言わない。
「どっかのメゾンとか工房とか、なんとか潜り込みたいんだよな~」
「がんばってね。応援してる」
サエが聞こえないように鼻をすすった音が聞こえた。私は努めて明るく振る舞った。
「サトミとの約束だもん。夢に全力で挑むよ」
「たまき、もう思い残すことはないの?」
ぎくっとした。自分の中でまだ解決できていない、年末のことだけが心をくり抜いていた。
「ある。それを今日、どうにか足掻いてみるつもり」
「うん」
「みんな目を背けてる。考えないようにしてる。それはズルいし、あのコも可哀想だよ。そのことを、どうにか思い知らせてやりたいんだ」
「うん。たまきなら、そう言ってくれると思ったよ」
サエは微笑んでみせた。私はカッコイイこと言ったものの、なにか名案があるわけではなかった。教室までそのまま会話もせず、自分の席に座って、何か出来ないか考え続けていた。
やがて担任の三条(https://kakuyomu.jp/works/1177354054880201962/episodes/1177354054880201979)が入ってきて、委員長が号令をかける。
「起立!」
席を立ち上がり、一瞬しんと教室が静まった。
「礼!」
前傾し、元に戻るこの儀式も、今日で最後だ。
「着席!」
席に座ると、三条はいつものように出欠を取り始めた。きっと明日も明後日も来週も、私がここにいなくなってもこの儀式は同じように続けられていくんだな。
「山浦 環」「はい」
右の壁に寄りかかり、体を横にむけて、ぼんやりと一番向こうの窓の外を見つめてみた。雲のない透き通った青空が広がっていた。
「山浦はこの後、地理準備室に来るように」
ああ、私にもやるんだ、面談。だるそうに三条を一瞥して、それからまた窓の外へ目を向けた。
「山浦の後、大和(https://kakuyomu.jp/works/1177354054880201962/episodes/1177354054880598576)もな」
「はい」
一通り全員に話を聞かないといけないのか。それで一体物事が解決するんだろうか。私は三条に対して不信感しか持っていない。それを面談で全てぶつけてやるんだ。
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