第3話 結婚したいな

「シズル、今日はバイトない日でしょ?どっか行こうよ」

 ゆうきの「どっか行こうよ」は、既に場所が決まっている。駅北にある「ポピー」っていうカフェ。‘カフェ’なんていうと随分お洒落で値段も高い風に聞こえるけれど、ごく普通のマンションの1階にある狭いお店で、しかもアイスコーヒーが200円。フランチャイズでもない個店でどうしたらこの値段設定ができるのか、謎だった。たなべ司法書士事務所にバイトに行った時、柳瀬さんにその話をすると、「あそこの店長は、市内のあちこちにアパートを所有してて、その賃料収入で悠悠自適の生活だから。ポピーはまあ、趣味というか暇つぶしにやってるだけだよ」と、謎が解けた。

 さすが柳瀬さん、何でも知ってるんですね、と驚いて見せると、

「いや、私もあの店よく使うから。コーヒー1杯で何時間でもいられるから休みの日は司法書士試験の勉強してるよ。頑張るね、って店長から声掛けられて仲良くなって」

 ちなみに店長は70歳は優に過ぎているおじいちゃん。


 わたしとゆうきは夏休み前の7月の暑い午後、学校からポピーまでいつもどおり自転車で乗り着けた。わたしたちは安いとはいいながらもアイスコーヒー200円の元を取るため、必ず2時間居座る。1時間は学校の課題や資格試験の勉強をする。最初にこれをやっておくと、高3のこの時期にのんびりとカフェに来ていることの罪悪感がちょっとは薄れる。残り1時間は女子高校生っぽい雑談をし、100円/時 × 2 = 200円 という、わたしたちの時間当たりの価値の元が取れる。

「シズルは絞り込んだ?」

 ゆうきが、女子高生っぽい話題から急に進路の話をしてきた。わたしは一瞬だけゆうきの眼を直視して答える。

「佐原事務が一番いいかな、って思ってる。家からも通えるし、ステイショナリーの店舗も3店舗あるから、本社での事務仕事だけじゃなくて接客もさせて貰えるかもしれないし。それに、たなべ司法書士事務所でバイトしてます、って言ったら、「そりゃ安心だ」って総務部長さんが言ってくれたし」

 わたしは先月説明を聞きに行った事務用品を扱う地元の中小企業の話をゆうきにしてあげた。中小企業は大学新卒の採用は大企業と同じタイミングで早々と動いているけど、高卒枠は結構柔軟に随時話をしてくれる。へー、と言いながら、ゆうきはまた訊いて来る。

「採用試験、いつ?」

「9月。ばあちゃんも親も「佐原さんならいいね」って言ってくれてるけど・・・ほんとは、たなべでこのまま正社員になれたらな、なんて」

「その芽はないの?」

「えー・・・だって、みんな基本、司法書士目指してて、将来独立志望だよ?柳瀬さんなんて、大学の時に簿記1級取って、前の会社の時に宅建と社労士とFP2級取ってるんだよ。ちょっと、わたの方向性とは違うな」

「何、シズルの‘方向性’って?」

「将来、主婦志望」

「何だ、そりゃ。仕事してたって主婦じゃない?っていうか、今時共働きじゃないと生きてけないでしょ?」

「結婚する相手にもよる」

 わたしがそう言うと、「結婚、か」、と突然ゆうきが今までに見せたことのない真面目な表情で呟く。わたしは、あれ?と思った。

「何、ゆうき。もしかして結婚したい相手でもいるの?」

「うん」

「え!?」

 本気で驚いた。

 話の内容や喋り方が女子高生なのはともかく、店の中で世間一般の女子高生のような大きな声を出したことが一度もなかったので、わたしのびっくりした声に、店長も反応する。と言っても、ちょっとこちら側に顔を向けただけだったけど。

「誰!?」

 わたしは声の音量をできるだけ普通にしようと、表情だけゆうきに向かってびっくりして見せる。

「いや、2個先輩の北条って人」

「ゆうき、北条先輩と付き合ってたの!?すごいじゃん!」

「え、すごいって、どうして?」

「だって、北条先輩って、弱小フタショー野球部の中で、突然変異みたいに上手くて、日浜大にスポーツ特待生で行ったじゃない。去年、関東リーグで優勝したって聞いたよ」

「うん」

「それに、身長190CM近いでしょ?坊主頭で分かりにくかったけど、顔もかっこよくて、性格もクールで」

「そうだね」

「・・・なんか、リアクション、変」

「付き合ってるなんて、言った?」

「は?」

 ゆうきがにやにやし始めて、じゅーっ、とアイスコーヒーを飲み切ったグラスの底の、氷が溶けた水を吸い上げる。

「付き合ってもないけど、北条先輩と結婚したいな、って話」

「なんのこっちゃ・・・単なるゆうきの妄想か」

「まあ、結構真面目に告白しようか、なんて一年生の時は真剣に悩んだけどね」

「はいはい。てゆうか、同じこと考えてた一年生は山ほどいたと思うよ。結婚まで妄想した

のはゆうきくらいかもしれないけど」

「シズルは妄想しないの?」

「妄想かリアルか分かんないけど、結婚したい、って思った相手がいたことはあるよ」

「ほおー」

「告白もしたよ」

「え、いつの間に!?」

 今度はゆうきがわたしみたく驚いている。

「て言っても、随分昔。小学校の頃」

「あ・・・」

 ゆうきが途端に優しさと、それだけでなく涼しさ・静かさを混ぜた顔に変わる。

「多田くん、て子の話か・・・」

「うん・・・」

 ゆうきとわたしは親友だ。高校に入ってからのこの二年半、ゆうきのお蔭で学校に通おうという意欲が毎朝湧いて来た。大げさではなく、本当にそうだったと思う。絶交しそうなくらいに陰険で真剣なケンカをしたこともあったし、2人して男の友情みたいに熱く語り合ったこともある。親友であり同志でもある。だから、多田くんの話をしたのは、おばあちゃんとゆうきだけ。

 小学校3年生の頃、引っ込み思案なわたしが毎朝学校に通おうという意欲は、多田くんのお蔭で湧いて来ていた。斜め前の席の多田くんの姿をなんとなく視線で追いかけるだけで幸福を感じていた。多田くんは目立って頭がよいわけでも、スポーツが得意なわけでもなかったけど、静かで暖かな雰囲気があり、「なんか、多田くんっていいよね」とぽつりと女子の話題になることがあった。わたしは本当にぼんやりと、『多田くんと結婚したいな』って思った。

 だから、小学校4年生から多田くんがいじめられるようになってからは、学校に通おうという意欲が急速に失せて行った。多田くんがいじめられているのを見てると辛かった。4年生の時のクラス替えでもまた多田くんと同じになって嬉しかったけど、その次の日から多田くんはありとあらゆる方法でいじめられた。きっかけが何だったのかはわたしは知らない。とにかく、最初の内は多田くんを助けてあげたくて、何度も「可哀想だよ」といじめている集団に言おうと勇気を振り絞ろうとしたけど、できなかった。

 多田くんへのいじめが半年、一年と続くと、それがいつの間にかクラス内でも日常のようになり、次第にわたしの心に別の気持ちが湧いて来た。

『森野って、多田にコクったんだってよ』

 もし、誰かがそんなことを言い出したら、一体わたしはどうリアクションすればいいんだろうという恐れ。多田くんに告白した時の、『多田くんと結婚したいな』という気持ちが本物だったのなら、それを打ち消すようなこんな厭らしい気持ちが湧いてくるものだろうか。

 今でもわたしの心に消えない残像として残っている光景。それは、小学校5年生の冬、多田くんが自殺する数日前の光景。いつものように10人ほどの集団に取り囲まれて言葉と態度と暴力でやられているその瞬間に、多田くんと眼が合った。ほんの数秒だったと思う。わたしは固まってしまった。そして、早くその場を離れないとって思った。でも、わたしにとってショックだったのは。多田くんの方から先に眼を反らしたこと。

 この話を、多田くんが自殺したその日におばあちゃんにした。わたしの厭らしい気持ちも含めて全部。おばあちゃんは、「そうか、そうか」と言って、わたしの背中をさすってくれた。わたしはおばあちゃんの手の暖かさを感じて泣いてしまった。

 高校一年生の夏休み。ゆうきの家に泊まりに行った時、おばあちゃん以外に初めて多田くんの話をした。

・・・ゆうき。多田くんが死んだのって、わたしのせいじゃないかって思うことあるんだ・・・

・・・え、なんで?・・・・

・・・だって、自分に告白した女の子がさ、自分が一番見られたくない姿を毎日毎日見てるんだって思ったらさ、死にたくなっちゃうんじゃないかな?・・・

 薄暗いゆうきの部屋のフローリングに並んで寝転び、天井を見上げたまま、わたしは声を出さずに涙を流した。

 ゆうきは何も言わずにわたしの頭を撫でてくれた。

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