第七章

 次の日は土曜日で、いつものように水汲みに誘われて、玲は外に出て、拓真と並んで歩く。

「明日で、ちょうど一週間だね。」

 拓真に言われる。

「私が島に来て?」

 玲は微笑んで答える。

「そうそう。レノの彼女が来たっていうから、どんな人かワクワクして見に行ったら、その人が僕を見てぽろぽろ泣くんだもんな、あれには驚いた。」

「そっか。ごめん。」

「あれに、やられたのかも、僕。」

「そうか、それが勘違いさせた原因か。」

「なにが勘違いだよ。」

 口をとがらせる拓真がおかしい。玲は声を立てて笑う。おかしな距離感にも慣れて、やっと普通に喋れるようになって来た。

「今日は土曜日だからさ、工場も学校も休みだよ。僕は朝から釣りに行くけど、玲さんはみんなと畑仕事して、そのあとは母さんの手伝いをしてなよ。僕は日曜日の料理の準備をしなくちゃ。」

「わかった。日曜日はみんな、教会に行くんでしょう。私はどうすればいいかな?教会行ってみたほうがいい?」

「行ってもいいけど、教会は暑いよ。エアコンもない中、村のみんながすし詰めだ。そんな中で牧師さんの長い説教聞くなんて、ぼくはごめんだ。いるだけで熱中症になりそうな気がする。」

「そうか、じゃあ、私もやめておこう。拓真の料理の手伝いをする。」

「日曜日の料理は男の仕事だよ。玲さんは見てるだけでいい。」

「見てるだけかー。」

「見てるだけでいいよ、何もできない玲さんは可愛い。」

「大人をからかわないでよ。」

「それを言うなら、子ども扱いするなよ。」

 二人は同時に吹き出す。水桶を抱えた拓真は、少し考えて、話し始める。

「一応ね、僕、玲さんと帰るつもりでいるんだけど、パスポートの件とかどうなるのか、ちょっと考えないとね。」

「そっか、誘拐されたってことを伝えないといけないね。」

「それも三年も前の話だしな…。」

「紛失して再発行って形になるのかな?ビザの問題もあるね。」

 玲は首をかしげる。

「どうやっても、父さんの力を借りることにはなりそうだよね…。」

 拓真はため息をつく。

「そうだよね、未成年だしね。本島には日本との連絡手段がありそうだから、なんとか連絡してみよう。」

「うん、そこは玲さんにお願いしておく。やっぱり、父さんと喋るのはまだ、気が引ける。」

「…会ってしまえば、案外大丈夫だよ。」

「父さんと会うときは、玲さんもいてね。」

「もちろん。」

「……日本に帰っちゃうと、しばらく島に来れないね。」

 少しさびしそうに拓真が言う。

「……そうだね、遠いしね。レノの家族にも、当分会えないね。寂しいよね。」

「そうだね。まだ帰ることも、母さんに言えてないし…。うすうすは感じてるんだろうけど。」

「レノは、お祭りが終わったら、すぐ仕事に戻るのかな?」

 玲は考えながら言う。

「どうなんだろうね。日本の感覚だと、そんなに休めないんだろうけど、今の職場次第じゃないかな?」

「レノが島に居る間に拓真が帰るほうが、少しはご家族も寂しくないかもね。」

「そうだね…。やっぱり、僕が日本に帰ることは、レノが島に戻ってから言うことにするよ。」

「それがいいかもしれないね。」

「あー、いよいよ帰るとなると、名残惜しいなー。」

 少し残念そうに拓真が言う。

「玲さん、カメラ持ってる?」

「使い捨てカメラをいくつか。デジカメは充電が心配だったし、紛失が怖いから持ってきてない。」

「使い捨てカメラ懐かしい!僕にも撮らせてよ。」

 嬉しそうに拓真は叫んだ。

「いいよ。軽いし、コンパクトだし、旅行には便利だよね。」

「いっぱい写真撮って帰ろう。風景も、人も。お祭りも…。」

 そう言って、拓真は口をつぐむ。拓真にとっては第二の故郷だ。母を亡くし、家からも出られなくなった拓真を、ここまで快活に戻したのは、間違いなくこの島の人々との暮らしだろう。

「…またいつか、一緒に来ようね。」

「…うん、十年先か、二十年先かわからないけど、また、必ず来よう。…その時も、玲さん、一緒にいてよね。」

「拓真の気が変わってなければ。」

 玲は笑いながら言う。

「僕は変わらないよ。」

 拓真は真面目な顔をして言う。

「十年先も、二十年先も、玲さんと歩いて行きたい。」

「はいはい。」

「軽く流さないでよ、まったくもう。こっちは真剣に言ってんのにな…。」

 拓真はぶつぶつと言う。

「これからのことを話すのは、まず、日本に帰ってから。」

「わかったよ、玲さんは頑固だな…。」

 拓真の真剣さは伝わるのだが、真面目に受け取ることもできない。かといって、真っ向から否定しても、今の拓真は意地になるだけだろう。軽く流しながら、とにかく拓真の手を離さず、帰国まで持っていくしかないだろう。玲はぼんやりと考えた。拓真が自分に依存しているのはわかるのだが、それが恋愛でなくて依存だということは、拓真自身が帰国してから自身で気づけばよいことだ、玲はそう思うことにした。

 泉に着き、いつものように拓真が水浴びを始めた後、玲は水に足を浸しながら、ぼんやりと物思いにふけっていた。拓真のこれからはともかく、自分はいったい、拓真とどうなりたいのだろうか。本当に看護学校にもういちど入学して、看護師になるのか、そうすると、学費をどこから捻出するのか、それもゆっくり考えよう。

「何考えてるの?」

 拓真が目の前に立つ。

「最近は本読んでることが多いけど、珍しいね、考え事とか。」

「うーん、看護学校とか看護学部とか、探さないとなーとかそんなこと思ってたよ…。」

「それを、そんな憂鬱そうな顔で考えるんだ。」

「憂鬱そうな顔してた?」

「うん、とっても。」

「そうか、気にしないでよ。」

「気になるよ。」

 そう言うと、拓真は水の中にしゃがみ込んで、玲の目を見つめた。玲の手を取って、

「悩み事とか、僕に話してよ、ね、玲さん。」

「拓真に相談かぁ。」

 そう言って玲は笑い出した。

「何がおかしいのさ!」

 拓真は怒った顔で立ち上がり、泉の反対側の岸辺に置いた水桶を取りに行き、そのまま滝壺で水を汲みはじめた。後姿の肩が怒っているのがわかる。そのまま黙って、水桶を抱えて、拓真はレノの家に行ってしまった。玲は清冽な水で、水浴びをしながら、ぼんやりとしていた。

 服を着て、石の上で髪を梳かしていたら、いつの間にか帰ってきた拓真が後ろに立っている。

「あ、お帰り。」

 振り向こうとすると、玲の濡れた髪を手に取った拓真が、

「僕が、ココナツオイルつけてあげるよ、瓶、貸して」

 と言ってくる。

「別に…。」

 と言いそうになって、玲は黙って、そのままオイルの瓶を拓真に手渡す。オイルを手に取った拓真は、玲の髪の先にオイルをつけていく。

「ブラシ、貸して。」

 言われるがままに、素直にブラシを渡すと、拓真は丁寧に髪を梳かしていく。

「つけすぎも良くないからね。母さんはべたべたにつけてるから、においもきついし、かえってほこりが付いちゃう気がするよね。」

「上手だね、拓真。美容師さんになれそう。」

 髪の毛を拓真にゆだねて、玲は目をつぶる。拓真の、玲の髪を扱う手は優しかったが、どことなく緊張感をはらんでいた。黙ったまま拓真は玲の髪の毛を梳かしていった。

「終わり。」

 ぽつんと言った拓真は、瓶を玲に返すと、再び水桶を抱えて泉に入って、水を汲みはじめた。玲も帰り支度をする。帰りは黙って並んで歩く。しばらく歩くと、拓真が言う。

「玲さんはさ、完全には心を許してくれないよね、僕に。」

「だって、まだ拓真に出会って間もないし。」

「そのくせ、僕と一緒に住んでもいいっていうし…。わかんないな。」

「私の行動に理由を求めないでよ。私はしたいと思ったことをするだけ。」

「そう…。」

 水桶を抱えて歩く拓真の肩は少し寂しげだった。

 

 その日の午後、拓真はソロファに手伝わせて、子豚を屠った。冷静な目をして、豚を仕留める拓真を玲は見て、「僕は母さんを殺したんだ。」という彼の言葉を思い出した。あの頃に比べて、ずいぶん拓真は大人になり、たくましくもなっていることだろう。きっと、父に会っても大丈夫なはずだ。なにかきっかけがあれば、きっと親子のわだかまりも解けるだろう。その架け橋としての役目を果たすだけで、自分は良いはずだ。この島で拓真と交わす儚い約束も、父子の対面の後に、きちんと見直していけばいいだろう。拓真自身も、それがきっと分かるはずだ…。

「この豚は、一日吊るしておこう。明日、やっと玲さんの歓迎ができるね。」

 拓真は白い歯を見せて笑い、玲も笑顔でそれに応えた。


 日曜日、瀬川が来た。


 その日の朝、蒸し料理の支度を終えると、拓真は玲に言った。

「これから、時間もかかるし、少し散歩でもしようか。どうせ、みんな教会だしね。」

「そうだね。」

 玲も応じて、二人でなんとなく桟橋のほうへ向かって歩き始めた。

「ここに来るのは、サピラの船に乗ってきたの?」

 拓真に尋ねられる。

「うん、そうだよ。レノに教えてもらった。」

「そうか。サピラはサバナ母さんの兄だよ。」

「そうなんだ!知らなかった。」

玲は驚きの声をあげる。

「サバナ母さんはね、一日おきにサピラの船に乗って、本島に店の仕入れに行く。今日は安息日だから、もちろんサバナ母さんは教会に行ってるけど、サピラは本島に行っちゃってるね。珍しいよ。島の人間であんまり教会に行かない人はね。サピラは偏屈なんだ。」

「あははははは。その割に、安息日だからって、料金、倍取られたよ。」

 玲が笑う。

「教会行かない癖に、なにが安息日だって感じだね。」

 拓真も笑う。

 コプラ工場の前に来ると、大きな屋根を拓真は見上げる。今日はもちろん、人影がない。

「ここも、もう少しでお別れだな。」

「寂しい?」

「別に。安月給でこき使いやがって。」

 毒づく拓真が面白くて、玲はまた笑った。ふと海の方に目をやると、鮮やかな水色の海に一隻の白い小型の船が走っているのが見えた。

「…珍しいね、サピラが日曜日にこっちに向かってくるの。だれか客人かな?」

 拓真が眉根を寄せる。

「レノが帰ってきてたりして。」

「…レノが帰るにしては早すぎるでしょ。」

 玲の冗談にまじめに拓真は返す。じっと船を見つめていた拓真は、口の中で「まずい…。」

とつぶやいた。

「どうしたの?」

「…日本人が乗ってるように見える。…僕はビザを持っていない。日本人にあまり会いたくない。ちょっと工場に隠れてる。玲さんは先に帰っておいて。」

 言うなり拓真は駆けだした。玲の目には、船に二人の人影がぼんやりと見えるだけだ。拓真の目の良さに驚きながら、なんとなくそのまま目をこらしていた。船は少しずつ近づいてくる。操船しているサピラの姿がはっきりしてくるころ、玲にもわかった。バックパッカーのような大きなリュックサックを背負った無精ひげのアジア人が乗っている。ダンガリーの半袖シャツにハーフパンツの軽装の中年男だった。…だが、本当に日本人だろうか?

 まじまじと船が桟橋に着くまで見ていると、サピラが船を桟橋につなげて、じろりとこちらを見てきた。慌てて村のほうへ帰ろうと体を反転させると、後ろから、

「待て。」

 と日本語で声をかけられた。仕方なく振り向くと、

「…なんでこんなところに日本の女がいる。」

 そう言いながら、ダンガリーシャツの男が船から降りてきた。やはり、拓真の予想通り、日本人が乗っていたのだ。

「別に…旅行です。」

 玲は答える。

「ここにホテルなぞ無いはずだが…。誰の家に泊まっているんだ。」

「T島で出来た知り合いの実家に、お世話になっています。」

 玲は最低限の答えを言う。その男は、上から下から舐めるように玲を眺めて、

「わかった、お前、ビーチボーイに騙されてここまで来た馬鹿な女だろう。」

 と笑い始めた。

「おっしゃっている意味が分かりませんが、私はこれで失礼します。」

 バカにされていることだけはわかったので、むっとして玲は男から背を向けて、村へ向かって歩き始めた。

「まあ待て、どうせ同じ方向へ行くんだ。一緒に行こう。」

「勘弁してください。」

 玲がそう言ったにもかかわらず、男はふてぶてしく玲に並んで歩き始めた。

「…何しにこの島までいらっしゃったんですか?」

 玲は聞いてみる。拓真がどうしているのか心配だが、振り返ってみる勇気はない。

「ああ、俺はこういう者だ。」

 男はポケットから小型の財布を出してきて、名刺を取り出す。

「まさかこんなところで、日本語の名刺を出すことになるとは思わなかったがな。」

 男はにやりと笑う。名刺には、大学名と、民俗学准教授、瀬川順という名が記されていた。

「この島で近々祭りがあると聞いて、実地調査に来た。準備から調査しないと意味がないから前乗りだ。…まさか日本人に会うとは思わなかったがな。」

「よくわかりました。これはお返しします。」

 玲は瀬川に名刺を返す。瀬川は名刺をまた財布に戻して、玲の顔を見てにやにやと笑う。

「バリで有名になったビーチボーイだが、あの手合いは世界の観光地でどこでもいる。日本人の女はいいカモだ。小金を持っていて、騙されやすい。…ことにお前のように、恋愛に疎そうなタイプがもっとも騙しやすいだろうな。」

 勝手な言い分に腹が立つが、玲はあえて反論はしない。下手な言い訳をして、拓真のことがこの男に知られても厄介だろう。

「…で、その男はどうした。」

「ビーチボーイではありませんが、ただの友達です。彼は、まだT島に居ます。私はさきに島に来て、彼の実家にホームステイさせてもらっています。」

「おまえ、よほど骨抜きにされているな…。こんな未開の島に先にやってくるなぞ…。結婚をちらつかされても、だいたい実家に来たら目が覚めるものだろうに。…そんなにその男は口がうまいか、それほど身体のほうがいいか。」

 嫌らしく言いながら体を寄せてくる瀬川から、距離を開けて玲は歩く。

「島の生活は楽しいです。彼とはただの友達です。そんなに寄らないでください。」

「そうか、そうか。」

 男はにやにや笑う。玲の言葉などまったく信じていない様子だ。玲は不快だが、かまわず足を進める。

「おい。村の権力者の家がわかるか。」

「長のファウラの家なら知っていますが、私はファウラとは喋れないので紹介できません。家を教えるぐらいならできますが。」

「…この辺はフランスの旧領だから、フランス語しか通じないだろう。…言葉が通じんのに、よくもまあ来たもんだ。」

「若い世代は英語を使います。特に不自由はしていません。」

 玲は顔をそむける。少しでも瀬川から離れたいのだが、少し距離を開けると、すかさずそれだけ体を寄せてくる男がうっとおしい。もういっそ、早く村について、ファウラのもとに送り込んでしまおう。玲は無言で足を早めた。

 ファウラの家を教えて、瀬川からやっと離れた玲は、海辺の蒸し料理を作る小屋に着いて、しばらくぼんやりしていた。砂を踏む音で振り返ると、拓真が帰ってきていた。

「玲さん、ごめんね。」

 ぽつんと拓真が言って隣に腰かけた。

「大丈夫。絡まれて面倒だったけど、やっと離れられた。」

「そっか。何者?あの人。」

「民俗学者だって。大学の先生らしい。…あんまり知性的にも見えなかったけどね。祭りの研究調査に来たらしいよ。」

「ていうことは、祭りが済むまでいるのか、厄介だな…。」

 拓真はぶつぶつと言う。

「僕は不法滞在者だからな…。あんまり同国人に存在を知られたくない。」

「…でも、事情もあるんだし、未成年だし、すぐに強制送還ていうことにもならないんじゃない?」

「この国では十九歳は未成年になるのかな?そこもよくわからない。」

「そうだね…。」

 不法滞在の罪に問われ、強制送還という形での帰国は避けたいところだ。拓真がふたたびこの島を訪れようと思っても、それが難しくなる。

 玲と拓真は黙ったまま、蒸し料理のできあがる様子を見つめていた。バナナの葉の焦げる独特の匂いがただよう。そこへ、ざくざくと砂を踏む音がして、男の声がした。

「ほう、ウム料理か。…ここは土の中に入れないところを見ると、サモア式だな。」

 驚いて玲が振り向くと、瀬川が立っていた。

「長の家に行ってはみたが、留守だ。よく考えたら今日は日曜日だ。村人はみんな教会だ。」

 そう言いながら、玲の隣に瀬川が腰を下ろした。

「そうですか。よくここがお分かりでしたね。なんの御用ですか?調査はどうされたんですか?」

 玲は冷たく言った。拓真はうつむいたまま、何も言わない。

「人がおらんのでは、取材してもしょうがなかろう。仕方なく散歩していたら、煙が上がっているのが見えた。」

 そう言いながら、瀬川は拓真にも目を向けた。

「おまえ、モンゴロイドだな、日本人か?」

「…………。」

「嗨,您好什么人你在全国任何地方。」

 瀬川は拓真に中国語のようなもので話しかける。それにも当然、無言を貫く拓真は、やがて黙って立ち上がって、海の方へ歩いて行ってしまった。

「彼は島の言葉しか話さない。どこの国の人間か知りません。」

 玲は言葉少なに瀬川に言う。瀬川は顔をしかめる。

「まあいい。…ところでお前、俺のアシスタントをやらんか。」

「お断りします。」

「一日二千ピナやるぞ。空いた時間だけでいい。」

「結構です。」

「どうせたいして両替もせず、ここに乗り込んできて、現地通貨が足りなくなってくるころだろう。いい話だと思わんか。本島までわざわざ両替に出向くのは時間も金も無駄だぞ。」

 痛いところをつかれるが、玲は断り続ける。拓真のことだけではなく、瀬川の図々しく下卑た人間性がどうも好きにはなれない。

「村に戻りましょう。そろそろ教会からみんな帰ってくるはず。」

 玲は立ち上がって瀬川を促す。瀬川も立ち上がって玲に並ぶ。

「おまえ、名前は何ていう。」

「水川です。」

「下の名前は。」

 一瞬ためらうが、島の人間はみな「レイ」と最近声をかけてくれるようになっている。ここで隠しても仕方がないだろう。

「玲です。」

「字は。」

「王へんに命令の令です。」

「なるほど。…ところで、水川、この島の主食はやはり芋か。」

「そうですね。一番多いのは、五本足のようなタコ足に生えている芋です。八つ手のような葉の」

「キャッサバか。」

「あ、あれ、キャッサバなんだ。」

 玲は驚きの声を上げる。

「そういえば、母さんがタピなんとかって言ってた…。」

「そうだ、タピオカの原料だ。」

「タピオカ粉を仕事で使ってたのに、芋が生えているところは初めて見たな。」

 独り言のように玲は言う。研究室で使用していたのは、白く精製されている粉で、芋がどんなものか知りようもなかった。たいして興味もなかったとも言える。しかしあらためて、あれがキャッサバだと知ると感慨深いものがある。

「ほかにはどんなものを食べている。」

「長芋のようなイモとか。」

「ヤムイモだな。ほかには。」

「里芋の親のような大きな芋。」

「タロイモだ。おまえ、いろいろよく見ているじゃないか。」

「毎日、お母さんの畑仕事を手伝っていますので。」

「殊勝な女だな。だまされているとも知らず。」

「そういうのではありません。ホームステイさせてもらっているので、お手伝いは当然のことです。」

 腹が立って口をつぐむ玲。かまわず瀬川は質問攻めにする。もう、答えるのも面倒でなげやりに答える。

 玲が真面目に答えなくなって来たので、瀬川が勝手にしゃべりはじめる。

「もともとこの辺の住人は、大陸からイカダでわたって来たんだ。そうすると、水に強く保存性の高いイモが主食として適していた。食べることもできるし栽培もできる。タロイモやヤムイモなどはそうやって昔から食されてきた。だが、キャッサバが広まったのはもうちょっと後だ。おそらく20世紀に入ってからだろう。あれは原産がアフリカだ。キャッサバは栽培が容易で赤道直下を中心にあっというまに広まったが、毒性が多少ある。まあ、気にするほどでもないが…。」

「はあ。」

 玲は適当に相槌を打つ。大学の講義でも聞いているような気分だ。

「子どもの頃『コンティキ号漂流記』とか読まなかったか?」

「バルサ材で筏を組んで島に渡る冒険記ですか?なんとなく記憶があります。」

 あいまいな記憶をよみがえらせて、玲は答える。瀬川の人間性は置いておいて、興味のない話でもないのである。

「よく知ってるじゃないか、おまえ。このあたりの島々の文化と南米のインカ文明の類似に着目したヘイエルダールが、当時の図面を参考にしたイカダ、イカダといってもキャビンもマストもついた立派なものだが、それを再現して作り、太平洋を渡る実験をした。それがその本だ。…古代人がそういった船で芋を積んでやってきて、それをここで栽培した。ま、今では南米よりも東南アジアからそうした船で渡ってきたと考えられているが、ともかく、その頃から脈々と受け継がれているのが、ここの主食だ。キャッサバは、お前が見ているのでわかるように、ひとつの樹から大量に芋が獲れるのと、掘り出すのが容易だから、そののちに急速に広まったのだろうな。」

 瀬川の話を聞いているうちに、教会の前に着いた。

「立派な教会じゃないか。というか、比較的この村の建物はどれも近代的だな。そうは思わんか。」

「二十年ほど前にナマコバイヤーが入って、その時の収入で建物が一新されたそうです。」

 玲は言葉少なに説明する。瀬川は舌打ちをした。

「華人バイヤーがこの島にも入ったか。あいつらはそうやって一瞬だけ富を与えるふりをして、島の昔ながらの文化を破壊していく。…学者としてはつまらんな。先進国が与える無駄金も同じだが…ツバルなど酷いものだ。沈むなどと喧伝されて、妙な寄付金が集まってしまって、怠け者が増えた。」

 ぶつぶつ言っている瀬川は、また玲に目を向けた。

「おまえ、馬鹿だと思っていたが、意外にものを知ってるな。そんな女でも、恋路に狂い、道を踏み外すか。恐ろしいものだな。」

「…………。」

 瀬川の言葉に答えず、玲は教会の扉を見つめた。間もなく、ファウラやレノの家族をふくむ村人たちが出てくる。瀬川とファウラたちが話をすれば、拓真が日本人であることも、玲が拓真の客であることも、瀬川に伝わってしまうだろう。

 間もなく教会の扉を開けて、人々が出てきた。みな、知らない顔の日本人を見て怪訝そうな顔をしているが、玲には笑ってなにか話しかけてくる。玲も笑顔で答える。

「あれが、ファウラです。村の長です。」

 玲は、白いシャツを着たファウラを瀬川に教え、玲はアロファと手をつないで、レノの家族に囲まれ教会をあとにした。

 海辺の小屋に着くと、拓真は戻っていた。内心に動揺はあるのだろうが、レノの家族にはそれは見せない。いつもの快活な笑顔を見せる。島の人間と同じぐらい日に焼けた顔から、白い歯がこぼれる。玲もこれから迫りくる悪い予感を振り払うように、安息日の午後のひとときを楽しんだ。

 

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