第一章
会社が行き詰まっている、という噂は、だいぶ前から流れていた。経常赤字が膨らみ、不採算部門は切られるのではないかという話も玲の耳にもちらほら聞こえてきていたが、それは突然だった。
社員の全員が集められ、こう告げられた。
「経営陣は全員交代いたします。」
そして、ずらりと新経営陣なる人々が顔をそろえた。一列に並んだその顔に、誰一人見覚えはなかった。
Mファンドに買収されたらしい、というのは、その日のうちにわかった。
社員の中に不安が渦巻いた。玲はほとんど会社に残る道はない、とあきらめた。玲の属する研究開発部門は、多額の経費が掛かる上に、一発の大当たりでも産まない限り、採算性はほとんどないと言って等しい部門だ。
新経営陣は、まず、大手コンサルティング会社と提携を結んだ。このコンサルティング会社は、事業の再生も得意としていて、倒産しかかった企業を細かにチェックして、不要な部分を切り取り、採算性の合う事業だけを残して、再建しなおすことに長けていた。そうしてある程度企業として信用を取り戻して株価が適当なところまで落ち着いたところで、再びファンドはこの会社を売りに出すのだろう。
このコンサルティング会社から派遣されてきたのが、克哉だった。
不安を通り越して、あきらめに似たムードが漂っている研究開発室に、克哉は現れて、こう言った。
「はじめまして。大森と言います。今日は、普段通りのあなた方の仕事を見せてください。」
笑顔が穏やかだった。
玲は白衣を羽織り、普段と同じ、研究を始めた。
克哉は3日、研究開発部にいた。チームリーダーに研究の成果を尋ねたり、これまでの実績を入念にチェックしていた。
ここ数年、この部署はたいした実績は残せていない。どうせ駄目だとわかってはいるのだが、克哉の仕事ぶりは丁寧で誠実さを感じた。
一週間後、結論は出た。
「研究開発部は廃止いたします。皆さんのこれまでのご苦労を思うと、こういう結果になるのは忍びないのですが、会社の存続のために致し方ありません。申し訳ありません。」
克哉は、白髪のやや見える、きちんと手入れされた頭を丁寧に下げた。
チームの人間は疾うに覚悟が決まっていた。ため息をつきながら、はやばやと机の整理を始めている人もいた。そんな中で、玲は
「水川さん、ちょっと。」
と、克哉に呼び止められた。
「はい。」
玲は素直に克哉の前に足を進めた。この人に敵意などなかった。この人はするべきことをしただけだ。
「このたびは、申し訳ありませんでした…。」
「いいえ。」
玲が答えると、克哉は意外なことを口にした。
「…一つ、お願いしてもいいですか?」
「なんでしょうか。」
玲は不思議に思った。一研究員に過ぎない自分に、何の依頼があるのだろう。
「この会社の、事業の縮小整理に二か月ほどかかると思います。」
「はい。」
「その手伝いを、あなたにお願いしたいのですが…。」
「……言われている意味が分かりませんが。」
玲は戸惑った。克哉は穏やかに微笑んで言った。
「あと二か月、私の仕事の手伝いと言うか、助手をしてほしいんですよ、あなたに。」
「なぜ、私なのでしょう?」
「あなたの仕事ぶりを見て、そう決めたんです。」
玲は押し黙った。そして、黙ったまま、克哉の目を見た。やはり、穏やかな瞳だった。
「わかりました。お手伝いさせて頂きます。」
自分の口から出た言葉に、玲は驚いた。なぜ、そんなことを言ってしまったのだろう。
「良かった。明日から、よろしくお願いします。」
克哉の表情は、玲がそう言ってもさして驚いた様子もなく、穏やかに微笑んだままだった。
……それから二か月、ほとんど玲は克哉の専属秘書のように働いた。
克哉の仕事ぶりは、最初に玲が思ったように誠実なままだった。取引先にどんなに厳しい言葉を浴びせられても、ひたすら頭を下げて回った。克哉が悪いわけでもないのに、会社のこれまでの不手際をまるで克哉の責任であるかのように責めてくる人物もいたが、そんな人にも何一つ言い返すわけでもなく、ひたすらに会社の不手際を謝り、今後のことを説明して回った。
「大森さんは、いつも相手の話をきちんと聞いてあげるんですね、どんな理不尽なことを言われても。」
電車の中で、玲がそう言うと、克哉は寂しげに笑った。
「どんなに大きな会社も、人と人との成り立ちで動いているんだよ。会社でも家庭でもそうだね。…まあ、僕は家庭人としては失格だったが…。」
「…失格って……。」
玲は言葉を失う。克哉の左手を見つめると、そこにはしっかりと結婚指輪がはまっている。
「そんないつも指輪をきちんとされているんだから、家庭人としても失格なんてことないんじゃないですか?」
「…この指輪は、贖罪と戒めだよ…。僕は妻を亡くしたんだ。僕のせいでね。」
「…………。」
克哉の思いがけない言葉に、ただ、玲は黙るしかなかった。
克哉との仕事の最後の日、はじめて克哉と夕食をともにした。
「君はよく働いてくれたね。ありがとう。」
「いいえ。こちらこそ。ありがとうございました。でも、なぜ私だったのでしょう。」
常々疑問に思っていたことを、玲は最後に聞いた。今なら克哉が答えてくれそうな気がしたからだ。
「…なぜかな。君はもうだめだとわかっている仕事でも、最後まで手を抜かなかった。…なにか、君も、もともと人生を諦観を持って、その中で生きているように感じたんだ。僕の勘だが…。こういったネガティヴな仕事は、誰もやりたがらない。だけれども、君なら、僕と一緒に最後までやってくれるように感じたんだ。」
克哉の言葉に玲は黙した。そのまま、デザートの皿に目を落としていった。
「…私、小さなころに両親を亡くして、中学二年まで、施設で過ごしたんです。そのせいで、そう見えたんでしょうか…。」
「…そうだったのか、つまらないことを言った。ごめんね。」
「…でも、すみません、人生を諦めたのは、そのせいじゃない気がするんです。そのあとで、私、養子に行ったんです…。」
不意に玲の頬に涙が伝う。
幼いころに両親を失い、引き取り手もいなかったので、玲は施設に入った。恵まれない環境の中でも、玲は勉強に励み、自分より下の子どもの面倒も見た。将来は看護師になるつもりでいた。身寄りもなく一人で早くから身を立てるにはそれが一番手っ取り早い気がしたからだ。准看の学校への受験も決まっていたその頃、時々玲は誰かの視線を感じるようになった。
見ているのは、うさぎのぬいぐるみを持った女の子だった。三歳か四歳ぐらいだろうか。そして、その側に寄り添う女性は、女の子の母親か祖母か、ちょっと判別しにくかった。
間もなく、施設長から、養子の話が来ているという話がもたらされた。
「いい話のようでもあるし、そうとも言えないし…。玲はもう大きいから、自分で聞いて判断してくれ。」
施設長は、少し顔を曇らせていた。
その話は、やはり、あのぬいぐるみの少女の家からのものだった。幼いあの少女の姉は、少女が生まれる前に亡くなっており、姉が亡くなって幾分かして少女が生まれたのだが、その少女が両親から聞かされた話と写真が、少女の目には玲に重なって見え、少女が玲のことを姉の生まれ変わりと信じるようになった…ということだった。
施設長の話はまだ続いた。
「ここからが難しいんだが、じつは、あの子の姉と同じように、その子自身も内臓に疾患を抱えていて、長くは生きられない身体であるらしい。あの子の姉も十七歳で亡くなったが、あの子の場合、もっと症状が重く、十歳まで生きられるかどうか…という話であるらしい。」
重い話に、玲は黙り込む。
「あの子の『おねえちゃん』になって欲しい、そして、一緒に看取ってほしい、というのがご両親の願いだ…。」
症状のせいで、身体がなかなか成長しないのか、小さく見えたあの少女はもう五歳になっているということだった。入退院を繰り返しているので、幼稚園にもあまりなじまず、ただ、通学途中の玲を見つめることが、少女の日課になっているということだった。
「経済的には問題のない家だ。むしろ裕福、と言っていいだろう。君が看護学校に進み、働きながら看護師の資格を目指す話をしたら、養子になってもらえるのであれば、普通科の高校に進み、大学への進学を目指しても良いのではないか、そのための支援は十分にする、という話だった。」
「…でも、その子が……いなくなってしまったあとは、私はどうなるんでしょう。」
玲は尋ねた。
「さあ…どうなるんだろうね。私も想像はつかない。正式な養子縁組をして引き取りたいという話ではあるし、形の上では親子であり続けるのではあろうが…。…まあ、割り切ってみたらどうかね。進学を支援してもらえる、ということで、学校を卒業するまで、恩返しと思って、その家で暮らしてみたら。」
無責任とも思える施設長の発言に、ため息が漏れた。
「別に私、大学に進みたいとも思いません。…そんなこと、考えてもいなかったし…。」
「そうなんだろうがね…。玲はこの施設始まって以来の秀才だ。私も惜しいとは思っていたんだよ。それもあって、この話を一概に悪いとも言えなくてね…。」
施設長の言葉には、幾分かの真実も含まれている。
玲は、眠れない夜を幾晩か過ごした。ぬいぐるみを抱えた少女の目を思い出す。ひたとこちらを見つめて、笑いもしなかった。忘れようと思っても、忘れられない瞳だった。
「とりあえず、その方々に会って、お話を聞いてみたいです。乗り気にはなれませんが…。」
玲は施設長に告げた。
親子三人と、玲と施設長の面談は、立派な料亭で行われた。ドラマで見るお見合いのようだ、と玲は頭のどこかで冷静に思った。
女の子は、今日もぬいぐるみと一緒だった。
「佐緒里です。」
両親は、女の子を紹介した。
「おねえちゃん…。佐緒里のおねえちゃんだよね?」
佐緒里は挨拶もせずに、最初から玲にそう言った。あの眼差しで…。
佐緒里の言葉を聞いて、両親はともに涙を流した。玲はここに来たことを後悔した。半端に希望を持たせるようなことはすべきではなかった。
「こんにちは、佐緒里ちゃん。今日は、おねえちゃんは、佐緒里ちゃんのお父さんとお母さんと、お話に来たの。」
無理に笑顔を作って、玲は佐緒里に話しかけた。
「あとで佐緒里ちゃんとも遊んであげるから、ちょっとお父さんたちのお話を聞かせてもらえるかな?」
佐緒里の母が、佐緒里を連れて外に出ていくと、玲は佐緒里の父と向き合った。
「このたびは、このような機会を持たせてもらって感謝しています。」
中学生の玲に、佐緒里の父は丁寧に挨拶をした。
「敬語はやめてください。今日は、どういったご用件か、詳しく聞かせてもらいたいだけです。」
玲はきっぱりと言った。
「前に、施設長からお話は伺いましたが、私は佐緒里ちゃんのお姉さんの生まれ変わりだと思われている、と言うことですが、どういうことで、そうなったのでしょうか?」
「はい…。この写真を見ていただけますか。」
一枚の写真を見せられた。一人の少女の横顔だった。
その写真は、よく見れば玲にも似ているようにも見えるが、やはり別人だ。
「佐緒里は、この写真と、あなたが似ていると言うようになって…。私たちはそうは思わなかったのですが、あの子は思い込むと聞かないところがありまして…。」
苦渋の色を父親は顔に浮かべた。
「あの子があまりにそう言い続けて、あなたを見るために、街角に立つようになって…次第に家内も感化されていったような次第です。」
相変わらず丁寧な口調を崩さない佐緒里の父。
「家内は、『あの子がああまで言うのだから、あなたを引き取って、佐緒里と一緒に暮らすことができたら…』というようになりまして。……失礼だが、あなたのことを調べさせてもらいましたら、ご両親が亡くなっているということ、さらに、お名前が…。」
「私の名前がどうかしましたか?」
不審に思って、玲が尋ねる。
「玲さんとおっしゃるのですよね。」
佐緒里の父が、不意に涙ぐむ。
「はい、そうですが…。」
「死んだ私どもの長女の名前は礼子と言いました。」
……ただの偶然だ、そう片づけることもできたが、なにか玲は背筋が慄然とするものを感じた。「レイと、レイコ」………。
「礼子の生まれ変わりかもしれない、そう家内まで言うようになりまして…。」
父親は言葉を続ける。
「長女のことを、レイコ、とは呼ばずに、普段私たちはレイちゃんと呼び馴らしておりました。そんな事情もありまして…。」
「……私には、無理です。」
低い声で、玲はつぶやいた。
「礼子さんの代わりをすることなど、私にはできません。重すぎます。」
「そうでしょうな…。」
佐緒里の父はため息をついた。
佐緒里の父は、開かれた雪見障子から外へ目をやる。
「家内は、礼子を失って相当な痛手を負いました。…さらに、佐緒里までああいう状態で…佐織里はあと5年、生きるのは難しい、と言われています。佐緒里亡き後も、あなたが心の支えとなってくれたら…というのは、私どもの我儘なんでしょうな…。」
「我儘…とは思いませんが、私には重すぎます…。」
玲は小さな声で言う。再び、佐緒里の父は真剣な目を玲に向ける。
「……玲さんが仮に、私どもの家に来てくださるならば、あなたを大学に進学させることもできます。十分な支援をさせていただきます。私どもにできることは、精一杯させていただくつもりでおります。」
「………。」
「…少しでも、前向きに考えていただけたらば…と思っています。」
腰の低い、丁寧な姿勢を崩さない佐緒里の父。それだけに思いの真摯であることは伝わってくる。玲の背中に嫌な汗が流れる。
「…お断りいたします。無理です。私は大学に進学することは考えていません。早く自分の力で生きたいのです。それだけです。」
「……私どもを、あなたの家族として、見てもらえないでしょうか?」
食い下がる佐緒里の父。
「すみません。無理です。もう帰らせてください。」
用意された食事に手をつけることなく、玲は立ち上がって帰ろうとしていると、佐緒里とその母が帰ってきた。
「おねえちゃん!」
嬉しそうに佐緒里が近寄ってきた。壊れ物のようにか細い手足が痛々しい。すがるような目で佐緒里の母が見つめてくるのがうっとおしいが、玲の手の中にある佐緒里の手を、玲はふり払うことができない。
「あそんでくれるんでしょ?」
「そうだったね…。」
口の中でつぶやく玲。ポケットの中を探ると、毛糸が指にふれたので、それを取り出す。施設で、小さい子どもたちにあやとりを見せてやるため、こうしていつも毛糸をポケットに入れる習慣ができている。
娯楽の少ない施設の中で、あやとりなどという古典的な遊びが、いまだ市民権を得ている。
「佐緒里ちゃん、あやとり知ってる?」
「知ってる!前に入院してたとき、看護師さんが見せてくれた!」
嬉しそうに言う佐緒里。
「じゃあ、おねえちゃんも見せてあげる。」
結んだ毛糸を両手に取る玲。
「最初に、『ほうき』ね。」
「うん!」
左手に掛けた糸を、右手ですくい取りながら、指にかけていく。
「ほら、佐緒里ちゃん、ゆっくりここを引っ張ってごらん。優しくね。」
「うん!」
そーっと言われるままに糸を引っ張っていく佐緒里。とても真剣な眼差しのまつ毛は長く、美しい。
「ほら!できたよ!佐緒里ちゃん上手だね!」
「ほんとだ!ほうきだ!」
佐緒里の指に掛けられた糸と、玲の左手に連なる糸は確かに箒の形を示していた。
「すごいね!おねえちゃん!」
嬉しそうに叫ぶと、その後ろから佐緒里の母の嗚咽が聞こえてきた。…逃れられない暗い闇を玲は覗いたように感じた。
「………あの時、私は、自分の人生が、一人では決められるものではないと、悟ったというか…そんな感じです。」
玲は克哉に語った。
「なにか運命っていうか、佐緒里の最期を看取ることが、私の宿命だと、そう受け止めるようになったんです。」
「そうか……。」
克哉はため息をついた。
「准看の学校は、実習をしながら勉強もしなければいけないので、佐緒里といる時間があまり取れません。だから、そこはあきらめて、普通科の高校に進学しました。」
玲は克哉に説明をする。
「佐緒里はそこから、6年生きました…。私は理系の道に進みたかったのですが、佐緒里が生きている間は、理系は実習も多く、難しいような気がしていたので、なるべく佐緒里との時間を多くとることを選び、英文科のあるもっとも水川の家に近い大学に進学しました。」
「…そうか。」
「結局、私が、大学二年の途中で佐緒里は逝きました。そこから、…父母にお願いして、理系に転じることを許してもらい、一年余分にかかりましたが、転部をして、理学部に進みました。」
「……結局、医療の道には進めなかったんだね。」
「そうですね…。その大学に医療系の学部が無かった、というのもありますし、父母も私が医療の道を志すことを望みませんでした。結局、現代医療の道が、佐緒里を治すことは無かったので、不信感もあったのでしょうね。経緯はどうあれ、養われている以上、多くのことを望めませんでした。私が佐緒里といることを願って、養子になったのは確かなわけですから。」
「…妹さんとの関係は、最後までうまくいっていた?」
「はい…。もちろん少しずつ弱っていく佐緒里を看るのは辛かったですが、覚悟を決めて水川の家に入った以上、そこは父母よりは割り切れていたと思います。」
「…まるで君の、これまでの半生は奉仕のためにあったようなものだな…。」
克哉はつぶやく。
「半生、というほどでもありません。二十七年のうちのたった六年ですから…。」
「でも、その六年は、君の人生のこれからを決める大事な時期だったんじゃないのかな…。」
「…それはそうかもしれませんが、それも含めて、自分で決めたことですから…。」
「じゃあ、さっき、涙を流したのはなぜ?」
指摘されて、玲は押し黙った。
そんな玲をじっと見ていた克哉は、ふっとまた目をそらす。
「君の思春期という、人間としてもっとも大事な時期を、わが子可愛さのために踏みにじった君の養父母は、相当なエゴイストだね。……ま、私もまったく同じことをして、結局息子を失う羽目になったのだが…。」
「息子さんを…?」
「そう、一人息子をね…。」
克哉は黙った。そこから何も言わない横顔が、無限の寂寥感に満ちていた。
しばらく黙った後、克哉は、
「僕の話も聞いてくれるかい?」
「はい。」
玲は答えた。克哉は、ゆっくりと口を開いた。
「僕の妻は、精神的な疾患を突如発症して、僕の息子…拓真と言うんだが、拓真が中学生のころから不審な行動を取るようになった。」
「はい。」
克哉の妻、靖恵はそれまで普通の妻であり、母であったが、拓真の話によると、拓真が小学校の高学年のころから、少しずつ前兆はあったようだ。
「家計簿が合わない!」
と、レシートを出してきて、何度も何度も計算を繰り返した。そして、買ったはずのものがない、と店に問い合わせたりしていて、同じものを店に用意させたりしていた。
そして、拓真が中学に入るころから、少しずつ幻聴を訴えるようになった。
「隣の人が、何か私の悪口を言っているように感じる。私には聞こえる。」
繰り返す靖恵の言葉に、克哉も休みの日は隣人に注意を払うようになったが、特に変わった風もなく、こちらの家庭には無関心に日常を送っているようだった。
妻が病みはじめている、と克哉が認めるのは時間がかかった。その間、突拍子もない靖恵の行動に振り回されているのは、息子の拓真だった。
「大丈夫だよ、母さん。隣の人は何も言っていない。」
「ううん、拓真!あなたには聞こえなくても私には聞こえるの!今朝も言っていた。『なんでこんな日にごみを出すの?中を開けてみてみましょう』って言ってた…。」
「大丈夫、もう収集車は行ってしまったよ。ごみ袋は開けてなかった。僕はちゃんと見てたよ。車が回収するところまで…。」
「怖い…。怖い…。また開けられるかもしれない…。」
「大丈夫、お母さん。僕がちゃんと明日も収集車が来るのを見ておくよ。僕が収集車がくるまで見張ってたら、大丈夫でしょ?」
十三歳の拓真は、必死で母を支えた。
「……結局、私は、妻の状態が普通でないことを自分の中で認めるのに時間がかかり、拓真の、母を受診させるように、という訴えを半年以上無視し続けて、仕事に没頭した。朝早く出勤し、夜遅くまで帰らなかった。仕事にかこつけてね。」
「………。」
玲は黙って克哉の話を聞く。
「結局、受診が遅れたことで、妻の病状は重くなった。入院して、一時状態が良くなったのだが、退院して、『もう私は治った』と言い張って、薬を飲むことを怠るようになると、また悪化する。その繰り返しだった…。」
「大変だったんですね…。」
「…大変だったのは息子のほうだ。なだめすかせて薬を飲ませて、病院まで付き添ってやって、タクシーから飛び出そうとする妻を必死で押さえていたのは、息子だ。私は何をしていただろうか?病院通いも金がかかるから、と言って、残業を増やし、家庭を顧みなかった。最低な夫で、父親だった。」
玲はもう相槌すら打つことも放棄して、ただ、黙って克哉の話を聞いていた。
「…拓真は出来のいい子でね、そんな中でも、ちゃんとそれなりの進学校に進学した。…もっとも、妻の状態がもっと普通であったなら、もっといい学校も狙えたかもしれないが…。」
克哉は言葉をつなげる。苦渋の表情を浮かべながら。
「…拓真が高校1年に入った6月、妻は自ら命を絶った。……自宅でね。それを見つけたのも、やはり学校から帰ってきた拓真だったんだ…。」
話を聞きながら、玲は血の気が引く。
「凄惨な現場だった。妻は割腹をはかりながら、首を吊ったんだ。それを十六にもならない拓真が発見し、通報したんだ。どれほどの心の負担をあの子にかけたか…。」
克哉は両の手で、自分の顔を覆った。
「結局、逃げ続けた自分の代わりに、靖恵の一切を引き受けたのは、あの子だったんだ…。思春期というもっとも人間の重要な時期に、私は、病んだ妻を押し付けた。あの子を失ったのは、私自身の無責任な行動だ…。」
「……息子さんは、今?」
「……死んだ、と思っていた。つい最近まで……。」
克哉は鞄から、一枚の絵ハガキを取り出した。南の島の夕陽が映し出された外国の絵葉書に、克哉の住所、名前とが記されていて、そして、
「父さん、僕は生きている。海の底で、なんとか生きている。父さんも元気でやってほしい。拓真」
と一文が綴られていた。
「これを、ちょうど君の会社の担当になる直前に受け取った。」
玲は、まじまじと葉書を見つめた。
「…これ、切手もないし、消印も押されてないですね。」
「そうだ…。それは、私に直接届けられた。…ある人の手によってね。」
大きなため息を克哉はついた。
「私は今も、逃げ続けている。あの子と向かい合うことにね。あの子を失いたくないばかりに、逃げ続けているんだ…。」
二ヶ月前、克哉が仕事をしていたら、SNSを通じてコンタクトを取ってきた見知らぬ男性がいた。
丁寧な挨拶の後、その男性が書いてきたメッセージの一文を見て、克哉は驚愕した。
「失礼ですが、あなたには拓真くんという息子さんはいらっしゃいませんか?実は私は、拓真くんからだという葉書を持ち合わせています。」
克哉は、その男性に会うことにした。
観光の仕事をしているというその男性は、倉元と名乗った。ざわめくホテルのロビーで、克哉は倉元と会った。名刺を交換した後、倉元は一枚の葉書を取り出した。それを読んだ克哉は、呆然として何も言えず、ひたすら葉書をくまなく見つめた。
「私が、T島を仕事で訪れたとき、新人らしきベルボーイにチップを渡そうとしたら、『あなたが日本人であるなら、チップ代わりに、これを日本へ届けてほしい』とこの葉書を渡されたのです。」
倉元は説明をした。
「……そのベルボーイは日本人でしたか?」
克哉は尋ねた。倉元は答える。
「いいえ、T島の人間では無いようでしたが、近くの島から働きに来ているようなふうでした。T島には観光を目的とした外国人が多いので、職を求めて、近場の島から、そういった若者がたくさん働きに来ているのです。」
「……なるほど…。なぜ、その青年はこの葉書を持っていたのでしょうか…。」
「……わかりません。何か事情のありそうな葉書でしたので、切手を貼って出すことをせず、あなたとコンタクトを取らせてもらい、こうしてお会いすることにしたのです。私も息子を持つ身でしてね、なにか他人事にも思えなくて。」
倉元は言う。
「……ご親切にありがとうございます。息子は、留学中に、ハワイ島で消息を断ちました。桟橋に荷物が落ちていたため、海中に落ちて流されて亡くなったと思っていました。」
「……このお葉書だと、ご無事なようですね。何よりです。」
倉元はため息をついた。
「その青年とゆっくり話をして事情を聞きたかったのですが、忙しそうで、あとから捕まえて話を聞くことは困難でした。周りの人間からは『レノ』と呼ばれていました。」
「レノ……。」
克哉はつぶやいた。
「ホテルの名前もお教えしましょう。」
「ありがとうございます。」
ホテルの名前を聞いたあと、二人はまた丁寧な挨拶をして、別れた。
克哉は、玲に言う。
「ホテルに電話をして尋ねてみた。私は英語があまり得意ではないが、なんとか説明を試みた。けれども、レノという青年は、ホテルを辞めていた。そこから先のことは、わからないふうだった…。」
「そうでしたか…。」
「ほんとうは、すぐにでも現地に行って、レノという青年を探したいところなのだが、それを拓真がほんとうに望んでいるのか…。」
玲は、克哉に渡された葉書をもう一度見つめた。
「…私にもわかりませんね。生きていることは伝えていますが、日本に帰りたいようにも見えません。…ただ、大森さんのことは心配されているから、こういった葉書を出して、自分が無事であることを伝えたかったんじゃないでしょうか。」
「…そうだね。私もそう思うよ。自分の居場所を書いていないということは、結局、私に会いたくないということなのだろうな、と思ってね。それがあの子の望みなら、と思って…。」
克哉は両目を閉じた。
「……でも、ご心配なのですね……。」
「……それは心配だ……。あの子は、母を亡くした後、しばらく、普通ではなかった…。良かれと思って行かせたあの留学先であんなことになって…。」
克哉の顔が苦痛で歪む。
母の葬儀を終えた後、二週間ほどで拓真は学校に戻ろうとした。妻が命を絶った自宅は、清掃のあと、そのままにして、二人はマンスリーマンションで仮住まいを始めた。葬儀や引っ越しなどの慌ただしさの中で、拓真は比較的落ち着いているように見えたのだが…。
拓真を送り出して出勤した克哉は、駅から連絡を受けて、すぐに拓真の元にむかった。駅の救護室で、拓真は真っ青な顔をしていた。
「電車に乗ろうと思ったら、目の前が真っ暗になって…気がついたら、ここにいた。」
「そうか…。まだ無理だったんだ。まだ疲れていると思う、今日は家でゆっくり休め。」
克哉が言うと、拓真は頷いた。
ほどなくして拓真は、通学を再開したが、そのあとも、電車に乗ろうとしなかった。バスも無理なようだった。唯一、自家用車なら大丈夫そうだったので、克哉は会社に事情を話して、拓真の学校の送迎をした。
一か月ほどして、克哉は拓真の担任に呼ばれた。
「…拓真くんは、お母さんを亡くしてから、普通ではありません…。」
担任に、はっきりそう言われた。
「…心ここにあらずと言った風で、授業にも集中できていませんし、友達と会話を交わすようなこともありません。成績も芳しくはありませんが、それは一時のことでしょう。…けれど、拓真くんの心のケアは重要だと思います。学校のほうでも、スクールカウンセラーもつけますし、お父さんもご家庭でなにか、力になってあげてください。」
克哉は、慄然とした。受診を怠っていて、妻がああいった惨状になったのを連想したからだ。
「すぐに、専門医に診せたいと思います…。」
克哉は担任にそう告げた。
克哉自身も、拓真が表情を無くしているのを知ってはいたが、学校を休ませて、そのまま社会と関わりを断つと、ますます拓真の意識が内に向かい、自身を傷つけるのではないかと、そのまま通学させていたのだが…。
心療内科に、拓真を連れて訪れると、拓真は、医師に向かって、こう口を開いた。
「……僕、なにか人混みとか、公共交通機関がダメになったみたいで…。教室も、なんか無理で…。たくさんの人の顔を見ると、頭が真っ白になってしまうんです。何も見えない、聞こえない状態になって…。」
医師は、はっきりとした診断名を告げずに、いくつかの薬を出した。
「しばらく、息子さんは学校をお休みになったほうが無難です。」
克哉は黙って医師の言葉を受け入れた。
家の中で、二三日は拓真はただ寝ていた。心身ともに疲れている様子が見て取れた。やがて洗濯や掃除などの役目を引き受けてくれるようになった。もともと靖恵が病んでから、そういったことを手伝っている風だったので、慣れているようだった。ただ、刃物が触れないようで、料理はしなかった。……靖恵は、台所の包丁を自らの腹に突き立てたのだ……。無理もない。
「なにか欲しいものはないか?」
克哉が問うと、
「英語の原書が欲しい。あと、数学の問題集も。」
と言っていた。克哉は言われるがまま、欲しがるものを買い与えた。
「家でどうしてる?」
遅く帰って、弁当を食べながら克哉は聞いた。
「洗濯と掃除を済ませたら、あとは勉強している。」
「TV見たりはしないのか?」
「しない。人の顔が見たくない。」
「…そうか。」
克哉はため息をつく。当分、家から出られることはないだろう。
それでも1か月もするころから、少しずつ、拓真はテレビをつけることが増えてきた。
洋画を英語音声で見ているようだった。
「日本語じゃないほうが、落ち着くんだ。出ている人もアジア人が少ないほうがいい。」
拓真は克哉に説明した。少しずつでも回復の兆しが出ていることに、克哉は安堵した。休みの日は、近くの川べりなど人の少ないところを、克哉と拓真は散歩をした。運動不足とリハビリを兼ねて…。
二週間に一度の心療内科への受診も行われた。処方される薬の量も少しずつ減っていた。
やがて、拓真は希望を口にした。
「僕、留学してみたいな。」
「そうか…。どこへ?」
「島がいい。電車がなさそうだから。」
「そうだな…。」
拓真は、必死で前を向こうとしている。克哉はそう感じた。
「無理はしないほうがいいが、お医者さんと相談して、少しずつ進めていこう。」
克哉はそう言った。
留学をサポートしてくれる会社とコンタクトを取り、ひさびさに拓真と出かけた。コーディネーターとの面接があり、ビルで見知らぬ人に出会うことに、拓真は緊張している様子だったが、一対一での会話だったためか、比較的希望を口に出せたようだ。そのサポート会社の人には、あらかじめ事情を説明してあった。
「最初に、ネイティブの先生とのレッスンを受けることが望ましいね。それが可能かどうかやってみようか。」
コーディネーターの説明に、拓真は頷いた。
「父さんが送迎できない時間は、タクシー使っていいかな?」
すまなそうに拓真は聞いた。
「もちろん、そうするといい。」
克哉は即答した。息子がやりたいことは、費用が掛かってもすべてやらせるつもりだった。
「タクシー代もかかるし、ずっとは疲れるから、skypeでの授業と半々にするよ。」
「そこはお前に任せる。好きなようにすればいい。」
拓真の考えに、克哉は答えた。
語学レッスンに通うようになって、拓真は随分調子が良さそうになって来たようだった。このぶんなら、留学も大丈夫かもしれない…。次の受診の時に、克哉は医師に相談した。
「留学ですか…。」
医師は眉根を寄せた。
「とりあえず、一週間か二週間の短期を考えています。しっかり治ってから長期もいいでしょうが…。」
克哉は説明をする。
「そうですね。薬の処方は続けますし、何よりも心配なのは、拓真くんが長時間のフライトに耐えられるかどうか、というところです。密閉された空間に、数時間乗ることになりますから…。」
「おっしゃる通りですが…。」
拓真に聞く。
「僕、タクシーに乗りながら、音楽をイヤホンで聞いている。それにアイマスクがあれば、なんとかなるんじゃないかと思う。」
拓真は拓真なりに、乗り切る方法を考えていたようだ。
「それに、一週間では半端だから、三週間ぐらいは行ってみたい。」
「そうか…。」
拓真の強い意志に、医師も折れた。
「渡航には、お父さんも付き添えますか?」
医師に尋ねられる。
「ずっと現地にいるわけにはいきませんが、行きと帰りの飛行機は、付き合ってやろうかと思っています。」
克哉は答えた。
留学費用も含めて、そうとうな物入りになるが、そんなことは言っていられなかった。
自宅のあった場所を、更地にして売りに出した。ローンが終わっていたのが幸いだった。立地が良かったため、土地としてなら問題なく売れ、留学費用の元手となった。
八時間に及ぶフライトに、よく拓真は耐えた。アイマスクをしていて表情のほどは、完全にはうかがい知れないけれども、唇が蒼く、震えているのは見て取れた。しかし、途中からは徐々に落ち着いてきて、顔色も普通に戻ってきているようだった。そんな中で少し睡眠も取れたようで、克哉は安心した。
拓真も少しずつ、回復して来ているのだろう。そう克哉は思った。拓真のことに必死で、靖恵を悼む間も無かったが、長い道中で、初めて妻のことを思い返した。克哉が真摯に妻のことに向かい合わなかったばかりに、一心に拓真が傷を引き受けたのだ、そんな気がしてならなかった。拓真の口からは、葬儀の後、母の名前を聞くことは一切なかった。克哉も触れなかった。
学生寮に着くと、現地コーディネーターに部屋を案内され、学校の見学にも行った。日本と違う自由そうな校風に、なんとなく克哉は安心した。
「三週間滞在して、ここが気に入れば、本格的に留学を考えてもいいし、また迎えに来た時に、よく考えよう。」
克哉が言うと、拓真は頷いた。
翌日には、克哉は日本へ戻った。
それから一週間も経たないうちに、拓真の姿が学校からも寮からも消えたと連絡があった。
桟橋に、拓真の鞄が落ちており、財布もパスポートも寮の部屋に残してあった。
克哉は急いで現地に向かったが、何も手がかりはつかめなかった。授業も真面目に出ており、ディスカッションに加わったりと、熱心に授業を受けていたと説明された。
事故か、自らの意思かわからないが、海に落ちて流されたのであろうと推測され、現地での捜索は打ち切られた。失意のまま、克哉は日本に帰国した。
そこから三年の時を経て、その葉書を克哉が受け取ったのだ。
「自ら帰りたい、と言われれば、私はすぐにでも拓真を探しにT島に行くのだが…。拓真の意思がそう汲み取れない以上、なかなか決心がつかないんだ。」
克哉は玲にそう言った。
「私と会うことで、あの子が、また靖恵のことを思い出して生きる意志を失ったら…と思うと、なかなか腰が上がらない…。」
克哉のつぶやきに、玲は答えた。
「私が代わりに、拓真くんを探してきましょうか…?」
克哉は驚いたように伏せていた目を上げた。
「私はそんなつもりで拓真のことを話したわけではない。君の半生を聞いていたら、自分の無責任な行動を思い返してしまっただけだ。君の人生を二度も誰かのために犠牲にするような、そんなことはよくないよ。」
「犠牲にするわけではありません。期間を区切って、探しに行くだけです。幸い、私は英語はある程度使えます。現地で不自由することもあるでしょうが、大森さんご自身が探しに行かれるよりは不都合はないかと思います。」
玲は笑って言った。
「それに、私、拓真くんにお会いしてみたいですね。私が思うに、拓真くんは、きっと大森さんを恨んだりしていませんよ。……ただ、抜け出せないだけです。私も、自分の両親を恨んだりしていませんから。」
そんな玲を、克哉は不思議そうな顔をして見返す。
「抜け出せないって、何から?…拓真は何から抜け出せないんだろうか…。」
克哉の問いに、玲は先ほどの葉書を見つめながら、言った。
「たぶん、海の底から。」
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