第4話 教室では距離を置いて、図書室では隣に座る
翌日、教室の空気は、昨日までとは少しだけ違っていた。美咲は自分の席で、一人で昼食を食べていた。以前なら、美咲の周りにはいつも誰かがいた。笑い声があって、雑談があって、美咲はその中心にいた。今日は、その中心が少しだけずれていた。クラスメイトは、美咲のことを遠巻きに見ている。誰も、美咲を責めているわけではない。ただ、昨日の罰ゲームのことを、どう扱えばいいのか、誰もわからなくなっているようだった。
俺は自分の席で、弁当を開いた。美咲の方を見ないようにした。見れば、声をかけたくなる。声をかければ、昨日までの関係に戻ってしまう気がした。でも、美咲を一人にしておくことが、正しいのかどうかもわからなかった。俺は、美咲を罰したいわけではない。ただ、まだ元の距離には戻れない。その気持ちを、どう言葉にすればいいのか、昼休みの間ずっと考えていた。
隣の席の男子が、小声で言った。「高坂さん、今日は静かだな」。俺は「うん」とだけ答えた。それ以上は、何も言わなかった。美咲のことを、他の人に説明する気はなかった。説明すれば、美咲の悪口になってしまう気がしたからだ。俺は、美咲のことを悪く言いたいわけではない。ただ、もう一度笑い話の材料にはなりたくない。その線引きを、俺はまだ探している途中だった。
授業が終わると、俺は鞄を持って図書室へ向かった。廊下を歩く足取りは、昨日よりも少しだけ重かった。教室での緊張が、体に残っていた。図書室の扉を開けると、窓際の席に桐生先輩がいた。先輩はいつも通り、本を開いて座っている。俺が入ってきたことに気づくと、ほんの少しだけ顔を上げた。
「来たね」
その一言で、教室での重さが少しだけ軽くなった。俺は頷いて、窓際の隣の席に座った。先輩は俺の様子を、じっと見ることはしなかった。ただ、本のページをめくりながら、短く言った。
「……無理しなくていい」
その言葉は、俺の今日のことを指しているようで、同時に指してはいないようだった。先輩は、俺の事情を詮索しない。ただ、本の中の人物の気持ちを、自分の言葉で短く置く。それが、先輩なりの気遣いなのだと、俺はもうわかっていた。俺は「ありがとうございます」とだけ返して、本を開いた。無理をしないというのは、簡単なようで難しい。でも、ここでは、無理をしなくてもいいのだと、先輩が言ってくれた。
しばらく、二人で黙って本を読んだ。俺は、昨日借りた本の続きを読んだ。主人公が、自分の居場所を探して旅をする話だった。主人公は、旅の途中で何度も立ち止まる。立ち止まるたびに、誰かがそっと隣に座ってくれる。俺はその場面を、ゆっくりと読んだ。隣に座ってくれる人がいるだけで、旅は続けられる。そんな当たり前のことが、今日の俺には沁みた。
「この主人公、どうして立ち止まるんですかね」
俺が小声で尋ねると、先輩は本から目を上げずに答えた。
「……疲れたから。じゃない?」
その答えは、今日の俺のことを指しているようで、同時に指してはいないようだった。先輩は、俺の事情を詮索しない。ただ、本の中の人物の気持ちを、自分の言葉で短く置く。俺は「疲れたら、立ち止まっていいんですね」と返した。先輩は頷いて、「うん。立ち止まっても、旅は終わらない」と言った。その言葉が、今日の俺には、教室での緊張を解く言葉のように聞こえた。疲れたら休んでいい。休んでも、居場所が消えるわけではない。先輩は、そんな当たり前のことを、短い言葉で教えてくれた。
俺はまた本に戻った。主人公が立ち止まった場面を、もう一度読んだ。隣に座る人物は、主人公に何も言わない。ただ、同じ景色を見ている。それだけで、主人公はまた歩き出す。俺は、その場面が好きだと思った。誰かを励ますのは、言葉だけではない。隣にいること自体が、励ましになる。先輩は、俺に対して、まさにそのことをしていた。何も言わずに、ただ隣にいてくれる。そのことが、今日の俺を支えていた。
やがて、俺は少しだけ眠くなってきた。昨日の夜、返事の言葉を考えすぎて、あまり眠れていなかったからだ。図書室の静けさと、窓からの午後の光が、まぶたを重くした。俺は本に顔を近づけて、目を閉じた。ほんの少しだけ、休もう。そう思った。
目が覚めたとき、時計は三十分ほど進んでいた。俺は慌てて顔を上げた。先輩は、俺を起こさなかった。ただ、自分の本を読み続けていた。俺が眠っている間、先輩は、俺の本に栞を挟んでくれていた。どこまで読んだのか、わからなくならないように、だ。先輩は、俺が眠ったことを責めなかった。むしろ、休むことを許してくれたようだった。
「……すみません、寝てしまって」
俺がそう言うと、先輩は首を振った。
「いいよ。疲れたら、ここで休んでいい」
その言葉は、短かった。でも、俺の今日の疲れを、全部受け止めてくれるように聞こえた。教室では、疲れていることを見せるのが怖かった。ここでは、疲れていることを隠さなくてもいい。先輩は、俺の弱さを見ても、笑わなかった。それだけで、十分だった。
俺はまた本を開いた。主人公が、旅の途中で小屋に泊まる場面だった。主人公は、小屋の主人に「休んでいきなさい」と言われて、最初は断る。でも、主人は「休むのも、旅のうちだ」とだけ言う。俺はその場面を、ゆっくりと読んだ。休むことは、立ち止まることではない。休むことは、次に歩くための準備なのだ。そう思うと、今日の眠気が、怠けではなく、必要な休みだったように思えた。
俺は、自分のノートの端に、先輩の言葉を書き写した。『疲れたら、ここで休んでいい』。第3話から始めた習慣だった。貸出カードは本と一緒に図書室に残る。だから、俺のノートにだけ、先輩の言葉を残しておきたかった。誰にも見せないノートだ。そこにだけ、先輩との短いやり取りが、静かに増えていく。先輩は、俺がノートに何を書いているのか、聞かなかった。ただ、自分の本を読み続けていた。その距離感が、今日の俺には心地よかった。
夕方、閉館の放送が流れると、先輩は本を閉じた。俺も本を閉じた。先輩は、今日読んでいた本の貸出カードを、俺の方へそっと押し出した。そのカードの裏には、新しい字があった。
『疲れたら、ここで休んでいい』
先輩の字は、昨日よりも少しだけ大きく見えた。俺はそのカードを、しばらく見つめた。先輩が、俺の疲れを気にかけてくれた。その事実が、胸の奥で静かに広がった。俺は、自分のノートの端に、その言葉を書き写した。『疲れたら、ここで休んでいい』。誰にも見せないノートだ。そこにだけ、先輩との短いやり取りが、静かに増えていく。書き写すたびに、先輩の言葉が、俺の中で少しずつ自分の言葉になっていく気がした。先輩の言葉は、俺を急かさない。だからこそ、俺は自分のペースで、先輩の言葉を受け取ることができた。俺はカードをそっと閉じて、本を返却のカウンターへ持っていった。
図書室を出ると、夕日の光が廊下に伸びていた。俺は鞄の中の本を、そっと確かめた。明日、その本の続きを読むために、また図書室へ行く。それだけが、今の俺の楽しみだった。廊下を歩きながら、昼休みの美咲のことを思い出した。一人で昼食を食べていた美咲。あの姿を見て、俺は何もできなかった。声をかければ、昨日までの関係に戻ってしまう気がした。でも、声をかけないことが、美咲を孤立させることになるのではないかとも思った。その二つの気持ちの間で、俺はまだ答えを出せていない。答えが出せないまま、図書室へ通う日々が続いている。それでいいのかどうか、俺にはまだわからない。ただ、今日の先輩の言葉「疲れたら、ここで休んでいい」が、俺のその迷いを、少しだけ軽くしてくれた。休むことは、逃げることではない。立ち止まることは、諦めることではない。そう思えたから、今日は帰り道を、ゆっくりと歩くことができた。
帰り道、美咲の姿は見えなかった。俺は、美咲のことを許したわけではない。謝罪を聞かなかったことについて、後ろめたさが残っているのも本当だ。でも、今日の俺は、誰かの謝罪を受け取るために図書室に行ったのではない。先輩との約束を守るために行ったのだ。その順番を、間違えたくなかった。明日も、ここに来る。そう思うと、足取りは昨日より少しだけ軽かった。
教室では距離を置いて、図書室では隣に座る。その二つが、今日の俺の精一杯だった。無理をしないで、でも逃げないで、明日も同じことを繰り返す。それが、今の俺にできる、誠実な距離の取り方なのだと思った。先輩の言葉をノートに残しながら、俺は明日もここに来ることを、自分に約束した。その約束は、誰かに見せるためのものではない。俺だけが知っている、小さな約束だった。
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