【雑感】自分はいつ、どのように死ぬのだろうかへの応援コメント
私の妄想だと、この意識は何所か誰かの世界線に過ぎず(夢の中)
死で初めてそこから出れて自分が始まるんじゃないかと。
言い当たってないかもですが、
遠足の前夜みたいなものではないでしょうか。
それはそれで楽しく、いろんな準備をするときっと遠足が楽しいんだろうと。
今はみんな遠足前夜なのではないしょうか。
作者からの返信
肩に雪粉さん、お読みいただきありがとうございます。
遠足前夜……なるほど、確かにそう考えると楽しいですね。
今回この雑感を書いて、いろいろな人の生の死生観に触れられて、それが一番の収穫だったかもしれません!
【雑感】自分はいつ、どのように死ぬのだろうかへの応援コメント
クスッと笑えて深く考えさせられる、素晴らしい死生観のエッセイですね。
「老衰で全パーツが同時に衰えるなんて無理ゲーではないか」というご指摘が面白く印象に残りました。
死というテーマを扱いつつ、最後には「そもそも心臓すら勝手に動いているのは奇跡だ」という境地にたどり着くテンポ感が魅力的です。
AI時代の150歳寿命を見据えながらも、最終的に「今日の暮らしを大切にしよう」という温かいメッセージに着地される点が素晴らしいと思います。
死を考えることが、実はとても尊く面白いことなのだと気付かされました。
次の作品も楽しみです。
お体に気をつけて執筆頑張ってくださいね。
作者からの返信
かーすけさん、お読みいただきありがとうございます!
老衰は本当に無理ゲーだと思うんですよね……😅
またお立ち寄りいただけると嬉しいです!
【雑感】自分はいつ、どのように死ぬのだろうかへの応援コメント
コメント失礼いたします。大変、興味深く読ませていただき、沁み入りました。
当方53歳。同様に、死について考える時間が増えました。
死、その時の己の尊厳、痛み、周囲への影響、タイミング。
死について考えるとは、まさに自ら深淵をのぞきに行き、その中に呑み込まれるような恐ろしさも伴い。
最後の段落にあります、「死について考えるとき、同時に今日の暮らしを見つめたい」。まさに当方が今、欲していた文章と出会えました。感謝いたします。
読ませていただき、ありがとうございました。
作者からの返信
ナカメグミさん、お読みいただきありがとうございます。
同世代です!(#^.^#)
「まさに当方が今、欲していた文章と出会えました」というお言葉には震えました。お役に立てて良かったです……!
ただ、実感を書いただけなので、恐縮ですが……(^_^;)
もしよろしければまたお寄りいただけると嬉しいです。
【雑感】自分はいつ、どのように死ぬのだろうかへの応援コメント
亡くなる人の家族の立場では、「数日~数か月くらい前に死期を予見できる状況で、安らかに天に帰る」のが望ましいと考えています。
自分自身が逝く立場なら、やはり「ピンピンコロリ」は次善で、周囲が何日か前から私の死を覚悟できる状況で醜態をさらさずに逝きたい。
現在、法的な安楽死は認められていないので、自分自身の死の状況をコントロールするなら自死ということになりますが、家族への世間の風当たりを考えると、安易に選択できるものではない。
私は今のところ、運を天に任せることにしていますが、健康状況が変われば気持ちが変わるかもしれません。
結局、健康が許す限り、私らしく生きていくのでしょう。
作者からの返信
矢島さん、お読みいただきありがとうございます。
「健康が許す限り、私らしく生きていく」のは本当にそうだと思います。
日本では法的な安楽死は認められていませんからね……
安楽死するために日本からオランダに渡った人のドキュメンタリーを観たことがありますが、なんとも名状しがたい気持ちになりましたね……
他にもパラリンピックメダリストのマリーケ・フェルフールトさんの安楽死の選択にも深く考えさせられるものがありました
https://www.bbc.com/japanese/50150446
104歳で安楽死を選んだオーストラリアの環境・植物学者デイビッド・グドールさんもいらっしゃいましたね……
https://www.bbc.com/japanese/44078519
こうしてみると、生きるとは、死ぬとは、いったいなんなんだろう……と改めて思いますね
編集済
【雑感】自分はいつ、どのように死ぬのだろうかへの応援コメント
コメントを失礼します。
死に付いて、深く思い悩まれている事がよく伝わります。
しかし、死ってそれほど深く思いにやむことではない。と思っています。
例えば、学校の卒業式、や転職と一緒と考えた時。今後一切会う事の無い人たちとの別れが待っています。
一切会う事が無い=死と同じです。
そう考えると、死とは何かが見えてくるような気がします。
実際の親族の葬儀でも一緒ですよ。他人の場合(親族含む)辛い、寂しいは死を迎えた時と、納棺された故人の顔を見た時だけです。また自分の死の場合は他人もそう思っている。と思えばそれぼど気に病むこともない。
私も藍埜佑(あいのたすく)様と同じ事を考えた時に出した結論です。
実際の死ってそう言うものですよ。
作者からの返信
池田さん、こちらお読みいただきありがとうございます。
「一切会う事が無い=死」
なるほど、確かにそのような面はあるかもしれません。
でも親しければ親しいほど、一切会うことがない、というのはちょっと違うかもしれません(※個人的な想いです)。
たとえば私は、急逝した母と何度も夢の中で逢っています。かなりリアルに。
そして普段の生活の中でも「母だったらこう言うだろうな」といつも想います。
これは私にとっては「何度も逢っている」のと同じです。
人それぞれだとは想いますが……。
全然関係ないですが、これを書きながら昔見た映画「かくも長き不在」を思い出しました。
【雑感】自分はいつ、どのように死ぬのだろうかへの応援コメント
『命は自分の所有物のようでいて、完全には自分の思いどおりにならない。だからこそ、いつか終わりが来ると知っていても、その終わりを正確に決めることはできないのだろう。生きることも、死ぬことも、どこか自分の手を離れたところにある。』
極論、このコメントを読んだ/書いた30分後に交通事故に遭って死ぬかもしれません。
…
死に方や死ぬ時を選べないとしても、生き方はある程度、どうにかできるはずなのと……
人間は、全能ではありません。遺せるものは、いま、所有しているモノか、いま、知っていることだけ。
知っていることを、カクヨムでもブログでも、日記でも遺書でも、頭の中にあるものを書き残すことはできるというのが、人間の限界であると同時に、少なくとも、知ってることは誰かに伝えることはできる。とも。
…
だから、認知症を患うとか、衰弱によりスマホのフリック操作がおぼつかなくなるとか、そうなる前に、なにか書き残したいものがあるなら、書けるときに書きたいように書けるだけ書き残しておけば、それだけ、後悔は減らせるのではないでしょうか?
作者からの返信
mily-liwさん、お読みいただきありがとうございます。
私もそう思って日々いろいろと書き続けております!