魔力供給を絶った真聖女、すべてを奪われたので北の大公に嫁ぎます 〜「お前は用済みだ」と追放した王太子が滅亡寸前で泣きついても、溺愛してくれる旦那様がいるので絶対に許しません〜
第36話 金はあっても、従順を買う気はありません
第36話 金はあっても、従順を買う気はありません
離れの北側の小部屋に、白い霜の混じる朝が訪れていた。
初冬三日目の朝日が昇り、板で塞がれた窓の隙間から灰白色の光を投げかけ、木の床を照らしている。
真鍮のストーブの炭は、すでに燃え尽きて灰になっていた。
ルシアナはストーブのそばまで歩いていって中を確かめ、再び机の前へと戻った。
身にまとっているのは、着古した冬着だ。袖口にテオが縫い付けてくれた古いボタンは、縫い目こそ歪んでいるものの、しっかりと留まっていた。
板敷きのベッドの奥で、テオが薄い毛布にくるまっている。熱は引いたものの、喉の奥からはまだ微かにぜいぜいと鳴る音が漏れていた。
小さな机の上には、二つのものが並べられている。
一つは昨日の午後、トムが差し入れてくれた、丁寧な敬語で綴られた手紙。
便箋には直接の連絡を控えるようにと記されており、その文面は他人行儀なまでに余所余所しかった。
もう一つは、『金天秤の公証役場』の赤い封蝋の印が押された、契約書の写しである。
ルシアナは羽根ペンを取り、羊皮紙を一枚引き寄せて数字を書き留め始めた。
昨日の午後に手紙を受け取って以来、最悪の事態はすでに覚悟していた。正式な婚姻契約書が手に入らない状況を想定し、姉弟が屋敷を出た後にかかる費用を正確に見積もっておかなければならなかった。
彼女はすでに移転を完了させた資産を書き出していく。
高純度魔晶鉱の採掘権契約書が一通、エルザの手で北境大公家の別邸へと運ばれている。
箱いっぱいの純金の延べ棒も、同じく別邸の地下倉庫に保管済みだ。
数枚の小規模な土地の権利書も、すべて公証による名義変更を終えている。
これらの財産には、ガーラン伯爵は銅貨一枚たりとも手を付けられない。
ルシアナは屋敷を出た後の支出を計算し始めた。
大公の庇護に頼らなくとも、手元にある金の延べ棒と採掘権の収益だけで、姉弟二人が不自由なく暮らしていくには十分すぎる。最高の薬師を雇ってテオの薬を調合させたとしても、資金が尽きることはない。
羊皮紙の最下部にある余白に視線を落としたところで、ルシアナの羽根ペンが止まった。
金があれば、薬草も買える。馬車も買える。暖かい家だって手に入る。
だが、金でガーラン伯爵の後見権を断ち切ることはできない。
外から足音が近づいてきた。
「お嬢様? ルシアナお嬢様、起きていらっしゃいますか?」
老執事バースマンの声だった。
ルシアナは羽根ペンを置き、扉のそばへと歩み寄った。
ドア下の隙間から、ぬるま湯の入った小さな鉄瓶が押し込まれ、続いてひとかけらの乾いたパンが差し入れられた。
扉の向こうでバースマンがため息を漏らす。
「お嬢様、伯爵様は今朝早く、書斎でまたあの譲渡書の件をお尋ねになりましたぞ」
「伯爵様は、まだあの紙をお待ちですか?」
「お嬢様が持参金管理権の譲渡書に署名して返してくだされば、私めはすぐにでも調剤室へ赴き、差し止められている坊ちゃんの喉の薬をすべて受け取ってまいります。厨房からもすぐに上質な白炭が届けられましょう」
「なぜ伯爵様とそこまで意地を張り合われるのですか? 隙間風の吹き込む部屋で凍えるより、よほどましでございましょうに」
「バースマン。わたくしがあの証文に署名したら、テオの薬はずっと受け取り続けられるのですか?」
外が、しばし沈黙に包まれた。
「それは……坊ちゃんが必要とされる限り、伯爵様とて父親でございますから……」
「この三年間、亡き母の遺産から上がる収益はすべて伯爵によって領地の穴埋めに使われ、テオの薬は年々減らされていきました」
「バースマン、あなたもよくご存じのはずです。あの紙にわたくしの名が記されれば、離れのストーブはせいぜい三日ほど暖まるかもしれませんが、四日目からはテオのもとに薬など一滴も届かなくなります」
「ですがお嬢様、婚約破棄の儀式の準備はすでに進んでおります。管理権さえ引き渡せば、儀式の後も伯爵様がお嬢様を無下になさることは……」
「わたくしが署名すれば、外の近衛騎士たちは道をあけ、わたくしとテオを行かせてくれるのですか?」
扉の向こうが、再び静まり返った。
寒風の中、近衛騎士たちの甲冑が擦れ合い、かすかな金属音を立てていた。
「退きはしません。正式に発効した文書がない限り、ガーラン伯爵は法に則ってわたくしをここに一生閉じ込めることができる。署名するなど、母が遺してくれた盾を自らの手で打ち砕くようなものです」
バースマンが外で、かじかんだ手を擦り合わせる気配がした。
「お嬢様は、あまりにも強情でいらっしゃいます。外にまだ何かしらの当てがおありとお考えなのかもしれませんが……実は今朝、外の買い出し係から気になる噂を耳にいたしました」
「どんな噂ですか?」
「かの北の大公、ウォルフラム閣下が……ここ数日、屋敷に引き籠もったきりだそうでございます。大公家の別邸は門を固く閉ざし、王家から遣わされたご機嫌伺いの使者すら追い返されたとか」
「お嬢様、北境にすべてを賭けておられるのだとすれば、恐らく……いくら待たれても援軍など現れますまい」
「大公閣下が、引き籠もっていると? 王家の使者すら追い返したのですか?」
「紛れもない事実にございます、お嬢様」
彼女がようやく動揺したと受け取ったのか、バースマンは好機とばかりに畳みかけた。
「どうか私の言葉を聞き入れ、署名をして伯爵様に頭をお下げください」
「ぬるま湯とパンは受け取りました。足を運んでくれて感謝します、バースマン」
「では、譲渡書は……」
「署名はいたしません」
扉の向こうでバースマンは長い沈黙の後、重いため息を一つ残して立ち去っていった。
ルシアナは昨日届いた手紙を手元に引き寄せた。
羽根ペンを取り、便箋の余白に一行書き留める。
『初冬三日目の朝。バースマンの言:ウォルフラム、近頃は屋敷に引き籠もり、すべての面会を謝絶』
昨日手紙を読んだ時点では、大公が損得を天秤にかけ、一方的に距離を置くことを選んだのだと思っていた。
だが、ウォルフラムが避けているのは、彼女一人ではない。
盟約を破棄する腹づもりなら、わざわざ自室に閉じこもってすべての来客を拒む必要など毛頭ないはずだ。
盟約の破綻という推測を、確定事項と見なすわけにはいかなかった。
大公がなぜ門を閉ざしているのか、今の彼女には知る由もない。
二枚の羊皮紙を引き寄せ、机の左右に並べて置いた。
左には契約書の写しと自ら試算した目録。それは『自由に使える財産』。
『母方持参金の絶対相続法』に基づき、ガーラン伯爵には先妻の持参金を直接使い込む権限はない。
右に置いたのは、依然として白紙のままの譲渡書と、自らの手で書き記した『未入手の文書』――大公の印章が捺された正式な婚姻契約書。
『王国貴族婚姻法』において、未婚の貴族令嬢は家父長の後見権に縛られる。その拘束を打ち破る唯一の合法的根拠は、前の婚約が解消された瞬間にその場で発効する、新たな婚姻契約書をおいて他にない。
「つまり、金は金。婚姻契約書は婚姻契約書、ね」
白紙の譲渡書を折りたたみ、帳簿の下へと押し込んだ。
彼女には金がある。だがその金を、ガーラン伯爵の言う『従順』を買い取るために使う気など毛頭なかった。
テオの枕元へ歩み寄り、弟の冷たい額にそっと触れる。
枕元には中身が半分になった薬瓶。一日の規定量を考えれば、せいぜいあと二日しかもたない。
大公が引き籠もっている以上、直接の連絡経路はもう頼れない。
けれど弟の薬は、一日たりとも途絶えさせるわけにはいかなかった。
以前、北境から薬が届けられた際、厨房の雑役であるトムが離れまで運んでくれたことがあった。
ルシアナは袖の中に隠したメモをぎゅっと握りしめた。
彼女は厨房の連絡経路を使い、この必要な薬の書き付けをトムの手へ託すことを決意した。
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