恋バナの件もあり、昨日はなんだかよく寝つけなかった。しかし、自然教室の朝は早い。
「みんな、起きてる?」
梨花が小声で声をかける。
「…うん。起きてるよ。」
寝れるわけねーだろとっくに起きてるよと言うのをこらえる。
「起きてるよー!」
「私も!」
あちこちから、「起きている。」という声が聞こえる。
もう、全員起きているようだ。
しかし、『自然教室の規則第七条:起床時間までは目が覚めてもトイレ以外、起き上がってはならない』という謎のルールがあるので、起き上がれない。
数分後、部屋のスピーカーから、割れた音質のラジオ体操の音楽が流れ始めた。それが「解禁」の合図だった。
「はい、みんな! 朝だよ、起きて!」
梨花の声は、昨夜の尋問者としての鋭さを微塵も感じさせない、爽やかな「班長」のトーンに戻っていた。布団を跳ね除ける音、大きなあくび、そして誰かの笑い声。昨日あんなに重苦しかった空気は、朝の光とともに綺麗に漂白されたかのようだった。
「ゆら、よく眠れた?」
二段ベッドの下からひょいと顔を出したのは、明日香だった。
「……うん、まあまあかな」
私は努めて平静を装い、梯子を降りる。明日香の目は、昨夜の「棘」をすっかり隠して、親しげなクラスメートのそれにすり替わっている。彼女たちのこの切り替えの早さは、もはや一種の才能だ。
「さあ、急いで洗面所行こう! 混んじゃうから」
香奈が急かす。私たちは一団となって廊下へ出た。
洗面所は、各部屋から溢れ出した女子たちで戦場のような騒ぎだった。鏡の前を陣取り、寝癖を直したり、薄く色づくリップを塗り直したりする彼女たちの背中を見ながら、私は冷たい水で顔を洗った。
昨夜の「晴人くん」という名前。
梨花がなぜあんな確信を持って口にしたのか、その理由は結局わからない。ただ、彼女たちにとってあのやり取りは、朝食のメニューを確認する程度の、あるいはドラマの感想を言い合う程度の「消費される娯楽」に過ぎなかったのだ。
深刻になっているのは、私だけ。
「ゆら、朝ごはん食べたら今日のオリエンテーリング、同じ班だよね。よろしくね!」
歯を磨きながら、明日香が鏡越しに私を見て微笑んだ。
その笑顔に、私は言葉に詰まる。
昨夜、琴と意味深な顔を見合わせていたはずの彼女が、今は何事もなかったかのように「仲間」としての顔を見せている。
「……うん、よろしく」
私は、自分の顔にこびりついた昨夜の違和感を、タオルで強く拭き取った。
鏡の中に映っているのは、昨日と変わらない「無害な転校生」だ。
食堂へ向かう長い廊下。
窓の外には、朝霧に包まれた瑞々しい森が広がっていた。
空気は澄んでいるのに、私の胸の奥には、出口のない湿った重みが居座り続けている。
「ねえ、見て! 晴人くんたちの班、もう並んでるよ」
梨花が小声で、けれど弾んだ声で言った。
前方、食堂の入り口に並ぶ男子の列。その中に、いつものように眠そうな顔で立っている晴人の姿が見えた。
視線を感じたのか、彼がふとこちらを向く。
目が合った。
昨夜のあの尋問が、彼の名前を巡るあの醜悪な時間が、一瞬で脳裏を駆け抜ける。
私は、とっさに視線を逸らした。
「ほら、やっぱり!」
隣で梨花が、クスクスと楽しげに喉を鳴らすのが聞こえた。
呪縛は、解けるどころか、朝の光の中でより鮮明に私を縛り付けていた。