2.きみのそばにいたい(上)

 早いもので、ハフリを森に送り届けてから一年と幾月かが経った。出会ってからは一年半ほどだろうか——といっても、ここまで一緒に過ごせた時間はあまりに少なく短い。離れてからは、ことさらそう感じる。

 村から森までは、翼獣ティエンでも片道半月かかる。ハフリに会いに行くのもこれでようやく三度目だ。そのうえ、二度目から今日までは、遠方へ遣わされていたこともあり半年近くの間が空いた。

 ティエンの手綱を繰りつつ、森に近づけば近づくほどソラトは眉間の皺を深くしていた。時折、頭を抱えて蹲りたい衝動にも駆られている。

 何か失態をおかしたわけではない。ハフリに一刻でも早く会いたいと思っている。

 けれどこれは、いわば会いたくてたまらないからこその問題で——と考えながら、ソラトは空いた手で髪をかき乱した。


(せめて、あの服装はもう少しどうにかならねえかな)


 南方に住むがゆえだろうか、歌鳥の民はソラトら北方の民からすると信じられないほど開放的だ。肌の露出や人に触れることに対する抵抗があまりに薄い。ハフリも例に漏れず、森で身にまとうのは麻の貫頭衣一枚で、目のやり場に困っている。生腕生足はまだ辛抱できるが、前回ちらとのぞいた胸元を目にしたときには意識が遠のきかけた。

 一度目の時は再会の喜びでいっぱいいっぱいだったのと、二度目、つまり前回はツムギとスオウが同行していたものあったのでことなきを得た。けれど今回は一人である。率直に言って不安しかない。上着を羽織らせると暑さに倒れてしまいそうであるし、理由も告げずに距離を置けばハフリは傷つくだろう。包み隠さず話せば済む話かもしれないが、それではあまりにも格好がつかず情けない。よこしまな目で見ていますと宣言するも同然だ。言えない。絶対に言えない。

 生まれ育った環境によるものだとわかっているが、ハフリの無防備さが恐ろしい。誰に対しても無防備だとは思わないものの、自分に対してももう少し警戒してくれと思う。

 ハフリが向ける信頼は、あまりにまっすぐすぎてソラトにとって少しだけ、時折、居心地が悪い。言うなれば、ハフリは絶妙な時期にソラトが拾ってしまった小鳥だ。彼女が自分に向けてくれる感情、その根っこには擦り込みじみたものがある。それがなければ今の関係もないわけだけれど——歯がゆくないと言ったら嘘になる。ソラトはハフリの庇護者でありたいと思っているが、保護者になりたいわけではないのだ。


 草原の果てに現れる、青々と茂る木々の海。風にのって空にたゆたうのは、木の葉のささめきと鳥たちの歌。全てを包み込む晴れ渡った空。

 ハフリと出会った日も、空は青く森は緑に満ちていたことを思い出す。

 雨を降らす術を探し草原を翔け、けれども何も収穫はなく時間ばかりがいたずらに過ぎ去っていった日々。引き返すか引き返すまいか悩んでいた矢先、地平線にこの森があらわれ、近づいて見下ろした広大な森の外れには、淡い金が灯っていた。惹かれるように地上に降りて、ハフリと出会った。

(星みたいだって、思ったんだよな)

 柄にもなく、と苦笑する。疲れと焦りと不安に押しつぶされそうなただなかで、地上に見出した光はソラトに安堵にも似た感覚をもたらした。


 こうしてティエンに騎乗し森を訪れるたび、まるであの日を繰り返しているような気がしてくる。


 ソラト、と呼ぶ声が風に乗ってかすかに聞こえる。地上の星、ソラトにとっての光。あの日と似た光景。

 ハフリが手を振っている。おそらく数日前から、時間をつくっては森外れの木の下で待っていたのだろう。ティエンの手綱を繰って少し離れたところに着地すると、ぱたぱたと駆け寄る足音が響く。

「ソラト!」

 振り返ると、ぽふ、と軽い衝撃。衣越しでも伝わる体温。押し付けられるやわらかい何か。状況を理解するより先に、頭の中が爆発的に白む。

(ちょちょちょちょちょっと待て!?)

 行き場のない手を宙に固定しつつ、そろそろと見下ろすと金色のつむじがそこにある。抱きしめられている。それもなかなかにがっちりと。

 歌鳥の民には南方の民特有の開放的な気質がある。肌の露出に加え握手や抱擁にあまりためらいがないことは薄々察していたが——なぜなら前回の来訪時、森中の人という人に会うたびに抱きしめられた——ハフリはその時「ごめんね、驚くよね」と恐縮していた。手をつなぐことはあっても、抱きしめるのは基本的にソラトからであったような気がする。多分。おそらく。少なくともこんなに唐突にがっちりと体を押し付けられたことはない。

 故郷に戻って一年が過ぎ、ついに周りに習うことにしたのだろうか。そんなばかな。

 すり、と衣に顔がする感触が伝わった。それだけのことに、再度頭が爆発しそうになる。違和感も理性も自制心も衝撃で吹っ飛びそうになる。思考が空回りしてしまう。

「ハ、ハフリ?」

 無言で抱きつくハフリに恐る恐る声をかけると、ハフリははっとしたように顔を上げ、ぱっと体を離した。可哀想なほどに顔を真っ赤に染め、両手をわたわたと振る。

「と、突然ごめんなさい!」

「いや、いいけど」

 むしろ嬉しかったとは口が裂けても言えないが、気の利いた言葉の一つ出てこない自分にソラトはため息をつきたくなった。結局絞り出した言葉といえば、

「……元気にしてたか?」

 なんのひねりもない社交辞令のような問いかけで。けれどもハフリは表情を明るくしはにかんだ。

「元気だったよ。ソラトは?」

「俺も別に変わりない」

「ツムギさんとスオウは元気?」

「元気だよ」

「どこか遠くに行ってきたんだよね」

「ああ。双鳥ふたとりの里に」

 山烏の村から遥か西方に位置する双鳥の里。染織を生業とする二つの種族が暮らす山あいの里へとツムギが赴くことになり、スオウとともに随伴した。山烏の村とは全く違う文化に触れる中で、ソラトが気づいていたこと、気づいていなかったこと、とにかく多くのことに変化があった。

「結構色々……色んなことがあったんだけど。ツムギが話したがってたから、近いうちに鳥をこっちに飛ばしてくると思う。本当はこっちに来れればよかったんだけど、あいつも忙しくて」

「そうなんだね。鳥が来るの、楽しみだな」

 並んで、どちらともなく歩を進める。これからセトのもとに挨拶に言って、お茶を飲んで世間話をして森を散歩して——帰る。予定通り。いつも通りだ。

 あの、とハフリがうつむき気味に言葉をこぼす。

「今日もすぐに、帰っちゃう?」

「そうだな」

 ソラトは努めて冷静に、用意してきた台詞を返した。

「急ぎで片付けないといけないことがあって。……ごめんな」

「ううん、仕方ないよ。気にしないで」

 ハフリの寂しげな笑みにことさら心が痛むのは、嘘を彼女に伝えたからだ。本当は今や急務なんてそうそうない。今山烏の村やその近辺の土地に必要なのは、人の手ではなく太陽の光や雨、そして時間だった。

 スオウやツムギにも「せめて二、三日くらい泊まってこい」と言われ送り出された。けれど、歌鳥の民の住まいは山烏の住まいのように広さに余裕がない。閉鎖的な民族であるがゆえに来客用の家屋もない。セトの家には家族がいるし、そうなると必然的にハフリの家に泊まらざるを得なくなる。数日間も同じ空間で寝食を共にしたら、情けない話、ソラトは自分を抑えられる自信がなかった。

 こうして隣を歩いているだけでも、頭の片隅で本能が、近づきたい、触れたいと喚き散らしている。さっきのようにもう一度抱きつかれたら、理性も自制心も違和感も吹っ飛んでしまいそうだった。

(……違和感?)

 そう、違和感だ。いつもなら手をつないでゆっくり言葉を交わし合って、沈黙もどこか心地よくて、目が合うとどちらともなく笑った。それが今日は、

「最近ね、セトおじいさまが新しい本を下さったの。獣のことが書かれた本で、ティエンたち翼獣の絵も載ってるんだよ。文字は難しくてまだほとんど読めてないんだけど、たぶん『あわせなるけもの』って書いてあると思うんだ。どういう意味だと思う?——ソラト?」

 ハフリが言葉を打ち切って、こちらを見る。深緑の瞳をぱちぱちと瞬かせ、首をかしげる。その瞳がどこか潤んで見えるのは、気のせいだろうか。頬も未だに赤い気がする。

 唐突な抱擁、いつもより饒舌な口調、赤い顔、衣越しにも伝わってきた体温、これはもしや。

 とっさに、ハフリの額に手のひらを当てがう。ハフリが息を飲んだのがわかった。ハフリはソラトが何か言うよりも早く、数歩退いて手から逃れ、誤魔化すように笑う。

「だ、だいじょうぶ」

「なにが?」

 声に苛立ちが滲んでしまう。手のひらにまだ、ハフリの熱が残っている。

 体の不調を隠し無理をして、なおも何事もないかのように振舞おうとするハフリに腹が立つ。今に至るまで気がつかなかった自分にも。

「だいじょうぶ、だから」

「大丈夫じゃないだろ」

 逃げるようにあとずさるハフリの手首をがっちりと掴む。ハフリが泣き出しそうな顔をする。なんでそんな顔をするんだ、とさらに苛立ちが募る。怒りらしい怒りを覚えたのは久しぶりのことで、自制がきかない。きっと声音だけでなく、顔にも現れているだろう。けれど自分ではどうしようもできなかった。

 ハフリが泣きそうなのはきっと、自分に怯えているからだ。

「は、はなして」

 追い討ちをかけるように拒絶され、決壊する。手首を引き寄せ膝裏に腕を差し込んで抱えあげる。ハフリは逃れようと身じろぎしていたが、その動きにすら力がない。

「やだ、おろして。やだ、やだ」

 にも関わらず、今までになく強い拒否を示す彼女にソラトはついに声を荒げた。

「大人しくしてろ!」

 ハフリは雷に打たれたように目を見開いた。う、と言葉にならない声を漏らし、大きな瞳からぽろぽろと涙をこぼす。ごめんなさい、ごめんなさい、とかすれた声で繰り返し、ごしごしと涙と肌をこする。

 その様子にソラトはふと冷静になる。

(もしかして……体調崩すとといつもこうなのか? 誰にも頼らないで拒絶して、一人で?)

 熱を出す、風邪を引く。ソラトにとってそれらは、誰かに頼って当たり前のことだった。暖かい寝床、やわらかい食事、常にそばにある誰かの気配。

 ハフリには親がいない。セトを懇意にしてはいるが、彼女にとってセトは尊敬する人物であって、決して家族と言える間柄ではない。キリといった友人たちにも家族がいて、きっとハフリはその輪に図々しく入っていけるたちではない。

 ソラトにとっての当たり前は多分、彼女にとっての当たり前ではないのだと気づく。気づかされる。

「顔、こすんな」

 自分で自分を傷つけるかのようなハフリを制する。涙を拭おうにも両手でハフリを抱えている状態だったので、そっと目元に口付ける。深い考えがあっての行為ではなかったが、ハフリがはたと大人しくなったので安堵した。

「いやかもしんないけど……セトさんちに行くからな」

 この森でソラトが頼れるのはかの老爺しかいない。

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