終章 いつかかえる場所(2)

  *


 朝日が昇る。

 麻の貫頭衣に父の外套を羽織り、鞄を肩にかけた。鞄のなかには、マトイがつくった白い花のような編み物と深緑の表紙の本二冊、そして母から譲られた額飾りがおさまっている。

 胸元に方位磁針があることを確認し、ハフリはひとつ息をついた。机をひとなでし、本で埋め尽くされた小屋をあとにする。

 空を飛び回る小鳥に「迷子にならないでね」と声をかけ、東からさす陽光のまばゆさとあたたかさに目を伏せた。ほのかに潤った草原の空気をめいっぱい吸い込んで、この村に来たときにはじめて通された場所へと向かう。

 村のなかで最も大きな幕家。両翼を広げる鳥の彫刻が施された扉を引き開けると、色とりどりの刺繍布に迎えられた。

「出立前に呼び出すことになって、すまないな」

 最奧に据えられた木椅子に腰掛けていたイグサが、おもむろに手を挙げる。

「いいえ。わたしもイグサさまとお話ししたかったんです」

 龍の山での一件以降、イグサと話す時間をとることができずにいた。村人の手前、勘ぐられるようなことができなかったこともあるし、ハフリはハフリで、山烏の村のひとびとの名前を覚え、交流をはかるので手一杯だったのだ。

 床に敷かれた波紋模様の刺繍された座布団にハフリが正座すると、イグサは深く頭を垂れた。

「こたびは、お前には本当に苦労をかけた。改めて詫びたい。すまなかった」

 おのれの数倍も長く生きている人が頭を下げる様子におののき、ハフリは慌てて口を開いた。

「イグサさま。謝っていただくようなこと、なにもありません」

 ゆっくりと顔を上げたイグサの瞳と視線がかちあう。皺に埋もれた深くも澄み渡った茶色の瞳を見つめていると、ふと一つの疑問が頭をよぎった。

「イグサさまは、こうなることがわかっていらっしゃったのですか」

 いや、とイグサは首を横に振る。

「私が受け取った予言は、お前に伝えたままのことだったよ。私はお前を火口に落とせば良いものだと信じていた。その反面で、疑いたくもあった」

 それでもイグサは山の頂きで起こったことをある程度理解しているように思えて、ハフリはさらに問いかける。

「鳥の民って、一体なんなんでしょうか。わたしたちのなかにいるものは、なんなのですか。火蜥蜴の山の噴火は、なぜやんだのです」

 矢継ぎ早な質問に、イグサが深く息をつく。

「私が知ることのほとんどは、先代の長に口伝されたことだ。真偽などわからない。話半分でききなさい」

 イグサははじめてハフリと話したときのように、傍らの台から水晶玉を取り上げひとなでした。水晶に視線を落としながら、その奥を見据えるようなまなざしで言葉を紡ぐ。

「お前が見たものを、ひとまず『鳥』と呼ぶことにしよう。身体は言わば『殻』。鳥の民はふつう、身のうちに父母それぞれから分け与えられた『鳥』を二羽宿している。一つの身体に宿る二羽の『鳥』は、孵化に必要な宿主の魂を狙いながらも、狭い空間で互いに反発し牽制しあい、結果、孵化することができない。だから私たちは、人であることができる」

 つ、とハフリに細めた目を向ける。

「ただ、お前さんの身体のなかには『鳥』が一羽しかいなかった。ゆえに、枷が外れ、鳥が孵化をするに至った」

 いるはずの『鳥』が、いない。それは一体どういうことかと首を傾げたハフリに、イグサは「気にするな」と笑った。

「それ以上のことを考える必要はあるまいよ」

 ハフリに考える隙を与えまいとするように、

「火蜥蜴の山の噴火がやんだ理由だが。鳥の孵化には宿主の魂が必要といったね」

「はい」

「魂を、膨大な力の塊だと考えるといい。『鳥』の孵化には魂と対等な力が必要で、『鳥』はお前から搾り取れなかった力を、火蜥蜴の山の持つ力で補ったのだろうと、私は考えている。……これがまあ、私の考える、ことの顛末だ。本当のことは、誰にもわからないがね」

 水晶を定位置に戻し、イグサが腰を上げる。

「さて。早々ではあるが、外に待たせているのだろう」

 ハフリの方に歩み寄ると、イグサは額をハフリの額にあわせた。祈るように、目を伏せて言葉を紡ぐ。

「いっておいで、ハフリ」

 いってきますと、あのとき告げた言葉へのこたえを受け取った気がして、ハフリは喉を詰まらせながらも言葉を返した。

「はい、イグサさま。……いってきます」

 

   


「ハフリ、またくるよね?」

 見送りに来たハルハが泣きそうな顔で問いかける。

 ハルハの体調は以前と比べて見違えるほど良くなって、最近はよく外を走り回っている。馬が欲しいとねだって仕方がないのだとオウミが苦笑していた。

 無垢なまなざしを前にしては強情に自分の意思を伝えることはできず、ハフリはわらってこたえた。

「うん、またくるよ」

 ハルハの傍らに立つ、オウミとリクヤに深く頭を下げる。

「ほんとうに、お世話になりました」

「そんな言い方、今生のおわかれみたいだわ」

 オウミの声はわずかに震えていた。

 龍の山から帰還したとき、彼女に叱られ心配され抱きしめられ、ひどく安堵したのを思い出す。母の記憶がなきに等しいハフリは、彼女との距離感をなかなかつかめずにいたけれど、

「いつだって、きていいのよ。送り迎えにはうちの息子をつかってくれればいいから」

 与えられるやさしさが、ほんとうにうれしかった。

 滅多に口を開かないリクヤが、目をやわく細める。

「また、来るといい」

 控えめな口調と微笑は、父のそれを想起させた。

 差し出されたふたりの手を握る。たおやかながらも芯のとおったオウミの手。岩のようでありながらもあたたかいリクヤの手。

 ふたりを通して、たまゆら、今は亡き父母とつながったような気がした。

 くちびるが、わななく。

「ありがとう、ございます」

 ウバタマへ荷の括り付けを終えたツムギがハフリを呼んだ。

「ハフリ、いくわよ」

 馬上のツムギに引き上げられウバタマに騎乗する。

 一歩、また一歩とウバタマが進んでいく。いよいよ喉が詰まって声が出ず、ただただ、徐々に遠ざかっていく人びとが見えなくなるまで、ハフリは手を振り続けた。


   *


 平原を埋め尽くす青々とした草たちが、風に揺られて歌っている。

 道程はすでに二十日目を迎えた。数日後には森に到着するだろう。翼獣で飛べば半月の距離ではあるが、馬の速度を上げずに陸路で向かえば、ひと月近くかかる。それでも、過ぎゆく時間は早く、残された時間はとても短い。

 ツムギの背中から顔を覗かせ前方をうかがうと、少し離れたところに、スオウを乗せたホムラと、ソラトを乗せて地上近くを滑空するティエンが並んでいる。ふたりとも、あまり話している様子はない。

 四人で休憩や食事をとればそれなりに言葉を交わすものの、ソラトとは相変わらず、まともに会話ができていない。ハフリが声をかけられないこともあるが、何よりソラトもハフリを避けている。

 その最たると思われる理由には、昨日気づいたばかりだ。

「ツムギさん」

「なに」

「……ソラト、足引きずってますよね」

 問いかけというより、確認だ。

 とうに気づいていたのだろう、ツムギの返答はあくまでも平淡だった。

「そうね」

 昨日の休憩時、ティエンに頭を預けまどろみながら、ソラトの背中を目で追っていた。地面を引きずるような音に、反射的に眠気が飛び、視界が冴える。泉へと向かっていった彼の右足は、半ば引きずられていた。

 龍の山で重傷を負った彼の右足は、歌によって完治したと思い込んでいた。けれどそうではなかったのだ。

 ソラトは普段は努めて、何事もないように歩いている。ハフリが怪我を治せなかったばかりに、無理をさせている。そのことがずんと胸にのしかかり、ソラトに近づくこともできない。

 本当は、たくさん訊きたかったことがある。食べ物は何が好きか、色は何色が好きか、苦手なものは何か。そんな、他愛もないことを。

 長く一緒にいれば自然とわかるであろうことを少しでもかき集めて、胸に大切にしまっておきたかったのだ。でもそれすらできそうにない。謝ることすら、覚束ない。情けなさに身体が震える。

「ああ、もう」

 ふいに、我慢ならないようにツムギが唸り、

「うじうじめんどくさい子ね。——降りなさい」

 突然ウバタマを停止させる。え、とハフリは声を漏らすも、有無を言わさぬ口調で「いいから」と続けられ、やむを得ずウバタマから降りる。口調の割に怒っているわけではないとわかるのだけれども、事態が飲み込めない。

「スオウ!」

 ツムギに呼ばれたスオウが、ホムラを旋回させこちらへ駆けてくる。ふたりは意味ありげに視線を交わし、うなずいた。

 ツムギが高らかに宣言する。

「あたしたちこれから狗鷲の民と合流するから。森にはあんたたち二人で行って」

 は、と吐き出された声はソラトのものだ。少し距離を置いた場所から、呆気に取られた表情でツムギとスオウを見つめている。

「イグサさまからの大切な大切な頼まれごとだもの。本当の本当に残念だけど、無視するわけにはいかないわ。向こうにも鳥を使って話を通してくれてるし、待たせるわけにはいかないの。本当に、とっても、心底残念だけど」

「そー、そー」

 ツムギの大げさな言いように、スオウが笑いをかみ殺してうなずいている。

 はめられたという感情よりも、唐突すぎる別れの衝撃のほうが大きくて、言葉がうまく出てこない。

「だからここでお別れよ、ハフリ」

 馬上からあまりにはっきりと告げられて、「そんな」と震えた声がこぼれる。相当情けない顔をしていたのだろう、ツムギが眦をゆるめて「ばかね」とつぶやき、地面に降り立った。

 両手をハフリの肩に置いて、ツムギは猫のような群青の瞳でハフリを捉える。

「いくら相手の気持ちを考えたとこで結局それは自分の予測よ。訊かなきゃわかんないわけよ。悩むだけ無駄。わかる?」

 真剣な表情と勢いに圧され、首肯する。

「言いたいこと言って、訊きたいこと訊いて、望まないこたえが返ってきたら、とりあえず殴ってやりなさい。それくらいの権利はあると思うわ」

 目を丸くするハフリに、ツムギはふわりと、笑って。

「あたしは、またあんたに会いたいって思ってる。必要があれば、むかえに」

 言いかけて「それはあたしの役目じゃないわね」と、打ち切ったかと思うと、

声伝こえつたいって呼ばれてる、風真似鳥みたいに人の声を覚える鳥がいるの。時々そっちに向かわすから、ちゃんと返しなさい」

 わかった? と念を押され、こくりとうなずく。ツムギは「良い子ね」とささやくと、懐から何かを取り出した。

「あとこれ。あげるわ」

 差し出されたものに息を飲む。

 それは、刺繍の施された一枚の細長い布。歌鳥の民の額飾り。歌鳥の民が好む直線的な幾何学模様ではなく、ツムギたち織鶴の民の手に寄って施される曲線にによって、花や雲、鳥の姿などが精緻に活き活きと、色鮮やかに描かれている。覇気を感じる強い色遣いには覚えがある——これはまごうことなく、ツムギがつくってくれたものだった。

「ちんたらしてないで! 早く巻きなさいよ!」

 頬を染めたツムギに急かされて、慌てて額に巻く。紐を結ぶ。ツムギは満足げに笑った。

「うん、似合ってる」

 とん、とハフリの左胸を軽く小突いて「胸張りなさい」と。瞬間、ハフリの身体は無意識にツムギに飛びついていた。首もとに腕を回してしがみつくと、言葉がほろりとこぼれる。

「だいすきです」

「伝える相手を間違ってるわよ……」

 ツムギの声は呆れていたが、嬉しげでもあった。

「スオウも、ほんとうにありがとう。スオウがいなかったら、どうなってたかわからなかった」

 ハフリは馬上のスオウに目をやって、言葉を紡ぐ。スオウはやさしく目を細め、肩をすくめた。

「オレも抱きしめて頂こうと思ってたんやけど、やめとくわ。あとが怖いから」

 ぎゅっと、背に回されたツムギの腕に力が篭る。

「またね、ハフリ」

 だいすきよ、と。秘めごとのようにささめかれた言葉を、ハフリは一生忘れないだろう。


   *


 道中、交わされる言葉は少なかった。ソラトの眉間の皺は消えるどころか深まっていく一方で、ティエンは陸路にかけた時間を取り戻すような勢いで空を翔けている。フゥは翼獣の速度にはついてこられないので、今は胸元の小袋のなかだ。

 すっとティエンが緩やかな降下を始める。ソラトの背を避けて前を見渡すと、そこには広大な森が広がっていた。

 歌鳥の民の森。ハフリが生まれ育った場所。かえってきたのだと実感する。

「誰かいる」

 ソラトが小さく呟いた。目線の先を追うと、森の外れ、ハフリがいつもいた小さな樹々の許に、人影がうずくまっている。近づくにつれて輪郭がはっきりとし、それが少女であることが知れた。

 艶めく蜜色の髪、こちらにむかって驚くように見開かれているのは、若葉色の瞳。

 着陸と同時に、ハフリはティエンから飛び降りてその人物へと駆け寄った。

「——キリ!」

「ハフリ……?」

 こちらに目を向けながらも、キリはほうけた口調でハフリの名前を呼ぶだけだった。ハフリが彼女の手を握ってはじめて、これが現実だと気づいたようにまばたきを繰り返す。

 キリはハフリの足先からてっぺんまでをゆっくりと眺め、信じられない様子で言葉を紡いだ。

「ほんとにハフリなの。どうやってここに。どうしたの、その髪」

 ううん、と首を横に振って、仕切り直すように、

「無事で良かった。セトおじいさまにハフリが森を出たってきいて、もう、帰って来ないんじゃないかって」

 いつも勝ち気で朗らかだった少女が、瞳を潤ませ声を震わせるさまをはじめて目にし、ハフリは自分の愚かさを思い知る。なぜ、省みることもなく彼女を置いてでてきたのだろう、と。

「ごめんね。ごめんね、ハフリ。私、ずっとそれが言いたくて、ここで待ってた」

「謝るのは、わたしの方だよ」

 かえってきてよかったと思った。帰って来なければ、彼女を傷つけたことにすら気づけなかった。こうして言葉を交わすことも、できなかった。

「おかえり、ハフリ」

 顔をほころばせたキリに、ハフリもまた少し不格好な笑顔を返した。

「ただいま」

 はたと、キリが距離を置いて立っているソラトに目をやる。

「あちらの方は?」

「ええと、わたしを連れて来てくれて、その」

 ふうん、とキリはハフリの表情をうかがい見て、どこか合点がいったようにうなずいた。ふっとハフリから離れて、身を翻す。

「わたし、セトおじいさまに伝えてくる!」

 止める間もなく疾風のごとく森へと駆けていったキリを見送って、ソラトが声を漏らした。

「じゃあ、俺は」

 早々にティエンに括り付けた荷物を確認しはじめるソラトの背に、ハフリは言葉を投げかけた。

「帰っちゃう、よね」

「帰るよ」

 森に滞在することはないだろうと思っていたけれど、素気ない返事に傷つく自分がいた。「そっ、か」と吐き出した声が震えていて、唾を無理矢理飲み下す。

 これだけは、伝えなければと口を開く。

「ご、ごめんね。足、ちゃんと治せなかった。痛い、よね」

 絞り出した声はみっともないほどに震えていた。

 ソラトが振り返って瞠目する。

「ばれてたか。……あのさ」

 ソラトが荷から何かを取り出して、ハフリに差し出した。

「これ」

 それは、手のひらふたつ分ほどの長さを持つ、つやめく金色の羽根だった。

 言葉を失ったハフリに、ソラトが話を続ける。

「ツムギに、その額飾りには羽根が必要だってきいた。これはティエンの羽根だけど、それでよければ」

 全身が震える。何気ない会話を気に留めていてくれたツムギの気遣いが嬉しかった。一方で、ソラトの傷すら完治できなかった自分に「一人前のあかし」が差し出されていることに動揺を隠せない。

「もらえないよ。わたしにそんな資格、ない」

「あるよ」

 返ってきたのは断言だった。

 ゆうるりと、ソラトの内側で何かがほどけたのを感じた。虎目石の瞳にやわらかなひかりが浮かぶ。笑顔というには控えめで、微笑というにはぎこちない、大人びているようでいて少年じみてもいる表情は、ハフリがはじめて見るものだった。

 胸が軽い。胸が痛い。ごちゃごちゃ、で。けれど、

「言っただろ、俺はお前にすくわれたんだって」

 そんな顔で、そんな声音で言われたら。頑なになる理由なんて、どこかに消え失せてしまう。

 ふいに、胸元のフゥがもぞもぞと動き、小袋から抜け出して空へと向かっていった。太陽を背負って、青い翼の先が透ける。

「……飾って、くれる?」

 かすれた声で、ささめくように問いかける。ソラトの首肯を見届けて目を伏せ、わずかに前に屈んでみせた。

 鞄のなかにおさまっている、母の額飾りを意識した。こんなかたちで誰かのあたたかさに触れて、得るはずのなかったものを得られるだなんて、思ってもみなかった。

 ソラトの手が髪をかすめる。触れられた部分が熱を持ち心臓のように脈を打っていた。

「……できたよ」

 まぶたを持ち上げる。

 羽根は軽く、重みはない。けれども今確かにハフリの額飾りには、羽根がそえられている。それも、誇り高くうつくしい獣の、何度もハフリを助けてくれたティエンの羽根だ。

 顔をあげて前を向く。ハフリは癒しの歌を歌うことができない。けれど、贈られた想いにこたえたいと強く思った。

「ど、どうかな」

「綺麗だ」

 あまりにもてらいなく言われたので面食らってしまう。ソラトもソラトで、はっとしたかと思うと再び顔を険しくさせて黙り込んでしまった。

 なにか話さなければと思うのに、なにも言葉がでてこない。ツムギの言葉がぐるぐると頭の中を回っていたが、くちびるはくっ付いてしまったかのようだった。

 このままでは、ソラトが行ってしまう。

 あれこれ考えているあいだに、ソラトの表情はまたかたいものに戻っていて。

「じゃあ、また。……元気で」

「また、って」

 もう、手を差しのべてはくれないくせに。連れて行ってはくれないくせに、と叫びそうになるのをこらえ。

 苦笑した拍子に、じわりと視界がにじんだ。ティエンで飛んでも半月かかる距離なのだ。馬も乗れないハフリに、辿り着けるはずがない。

 ソラトは、この先ハフリと会う気がないのだろう。ハフリを傷つけたと気に病む彼は、会わないことが償いになるのだと思っているに違いない。

「行けない、よ。行けるわけ、ない」 

 こぼれたのは弱音で、ついに涙がとりとめなくあふれだしてしまって、声は声にならなくなった。 別れの悲しみより、最後のさいごまで、彼にこんな姿しか見せられない自分が悔しく情けなく、心のどこかでソラトが手を差し伸べてくれるのではと思っていた自分が、浅ましくて仕方がなかった。

「泣くなよ」

 無骨な指先がハフリの目許を拭う。触れられて嬉しいくせに、いとわしくもあった。

「ソラトは、」

 嗚咽を飲み込んで涙を振り切って、声を絞り出す。

「ソラトは、わたしと会わないことが償いになると思ってるんだ」

 ハフリの言いように、ソラトははたと触れていた手を降ろした。「そうだよ」と返された言葉には、どこか自暴自棄な響きが宿っている。

「お前は俺をすくってくれたけど、俺はお前をたくさん傷つけて、裏切った。もう会わない方が良いんだろうと、思ってる」

「ソラトはなんにもわかってない!」

 いよいよ我慢ならず、ハフリはソラトの胸元を両手で掴み叫んだ。深緑の瞳でソラトを見据える。

「ううん、わかってるのに、わからないふりしてるんだ。それでわたしが、引き下がると思ってるんだ」

 勢いで吐き出した言葉が、真実めいて響いた。

「なにが言いたいんだよ」

 ソラトが瞳に頑なな影を落とそうとするのを阻止するように、濡れた瞳で睨みつける。

「償う必要なんてない。そんなことしてもらわなくていい。たとえ償う必要があったとしても、会わないことは償いになんてならないよ。わたしはソラトと、もっと一緒にいたい。ソラトのことがもっと知りたい。だってわたしは、」

 息を吸い込む。ソラトが自分ことをどう思っているかなんてこの際どうでもいい。償いだと思うのならばハフリが望むことに従えばいい。躊躇なんてするものかと、燃えるように思った。

「わたしはソラトが」

「——好きだ」

 遮るように放たれた言葉にハフリは絶句し、ソラトの胸元を掴んでいた手を思わず離してしまう。空耳だと思ったけれど、まっすぐに自分を射抜くソラトの瞳の奥に獣じみた鋭さを感じて、知らず息を飲む。

「俺は、おまえが、好きだ」

 再度、一語一語を言い聞かせるように紡がれた言葉は、それでもなお信じ難かった。

「うそ」

「嘘じゃない」

「だって、」

 後頭部を押さえられる感覚とともに、言い募ろうとした口がなにかに塞がれる。何が起こったのかまったく理解ができなかった。ただソラトの顔が目と鼻の先にあって、むしろ触れていて、いや触れているのはくちびるで。息が、できない。

 めまぐるしく考えているあいだに風が割り込んで、ソラトの顔が離れてゆく。働かない頭の片隅で、ソラトの瞳の色が熱いと思った。

「これで信じた?」

 問うも呆然としているハフリを見て、ソラトは髪をかきあげる。

「……嫌われても仕方ねえと思って、したんだけど」

 捨て鉢のごとく続けられた言葉は、

「信じられないっつーなら、もう一回でもしますが」 

「いい! だいじょうぶ!」

 ハフリは慌てて両手を振って一歩後ずさった。指先でくちびるに触れる。ソラトの言葉を頭のなかで反芻する。

 俺は、お前が、好きだ。

「ずるい」

 思わず、言葉がこぼれた。

「ソラトは、ずるい」

 先に言わせてすらくれない。そのくせ、ハフリが伝えようとしなければ、このひとは何も言おうとしなかっただろう。それが悔しく、かなしかった。

 ソラトがばつ悪そうに目を逸らし「ごめん」と呟く。彼もまた、想いを伝えることで、傷つくこと傷つけることを恐れていたのだろうか。臆病で、狡くて、独りよがりで——ハフリとよく似ている。けれどそこに落胆はなかった。

「ソラト」

 こっち見て、と暗に伝える。足を揃えて背筋を伸ばす。まっすぐに目の前の人を見つめる。

 勝手な人だ。真面目で、馬鹿で、愚直で、まっすぐで、だから。

「好き」

 あなたのことが、

「大好き」

 手首を掴まれ引き寄せられて、ふわりと何かに包まれた。草とおひさま、風のにおいがくゆる。とてもあたたかかった。

「後悔しない?」

 耳もとでささやかれる。まだそんなことを訊くのかと苦笑が漏れた。

「するはずない」

 ソラトの背中に手を回して、力をこめる。こんな細い腕でも、せいいっぱいの力で。言葉を超えて、体温も、胸の鼓動も、すべてが伝わればいいと願う。

 不安がないと言ったら嘘だった。何かを伝えること、伝えられること、すべてが怖くて仕方ない。それでも、ソラトが傍にいればだいじょうぶだとも思った。

 身体を離して見つめあう。澄んだ虎目石の瞳が、ハフリだけをうつしていた。

「村のことが落ち着いて、お前がここでやることに区切りがつけられたなら。必ず迎えにくる」

 だからそのときは、と硬い声で、


「俺の村に来て欲しい」


——ハフリ、俺の村に来るか。

 いつかの問いかけを思い出し、まるで繰り返しているようだと思った。ひとつひとつ、やり直すように仕切り直すように、繰り返して選び直して、そこでようやく、今立っている場所が以前とは違う場所なのだと気づく。一歩でも前に進んでいることを実感する。今ここに在ることを、いきていることを、確かめる。そのいとなみを、ハフリは心底、いとおしいと思った。

「連れていって。待っているから」

「迎えにくる前でも、会いに来てやるから。ティエンも喜ぶし……」

 ふい、とそらされたソラトの顔が、未だに熟れた果実より赤いことを知りながら、そして自分もそうだろうと思いながら、ハフリは言った。

「まるでソラトは来たくないみたい」

「……そこまで言わなきゃいけねえの」

 眉尻を下げるソラトにハフリは花ひらくようにわらいかけ、彼の頰にそっと顔をよせた。


 天高く翔けるフゥが、笛の音をさえずっている。

 あまねくものに贈られる祈り、あるいは祝福。

 青碧の空より響き、ひかりのごとく降り注ぐ音色は、まるで世界を言祝いでいるかのようだった。


【本編・完】

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