二章 山烏の村(3)

   *


 幕家の横に設えられた薪置き場にはハフリの目の高さまで薪が備蓄されている。しかしこれだけあっても三日保てば良い方だ。

 暖をとるための樹木は潤沢にあるとは言い難く節制が必要だ。けれど惜しみ過ぎれば命に関わるため、補充の加減がなかなか難しいのだと薪を割る男がこぼしていた。

「あら、おかえりなさい」

 ハルハと薪を積み終えた頃、幕家の裏からオウミが顔を覗かせた。

「おかあさん、ぼく、おてつだいしたよ」

 自慢げなハルハに、オウミはやれやれと息をつく。

「ありがとう、ハルハ。でも、あまり外に出ないでって言ったでしょう。今日はもうお家に入ってね」

「はあい」

 ぱたぱたと幕家に戻ったハルハを見送ると、ふと、オウミが持つ木桶の中身が目に留まった。

「あの、それは」

 のぞきこむと、水気のない黒い物体と対面する。

「ああ、これね。乾燥させた羊のフンなの。燃やすと火が長持ちするから、貯めておくのよ」

「フ、ン」

 思わず繰り返した一言に、逡巡と少しの嫌悪を含んでしまったことに気づいて息を飲む。

 歌鳥の民にとって火は、暖をとるものではなく闇夜を照らす聖なるもの。そこに動物の排泄物をくべることなど、想定したことがなかったのだ。

 咄嗟に受け入れられるだけの余裕がハフリにはなかった。「やります」「手伝います」と、本当は言うべきなのとわかっている。けれど喉が動かない。

 身体の奥底からせり上げってくるのは、そんな自分への嫌悪感。自分と自分が、内側で睨み合っている。

 きっとオウミを、傷つけた。くちびるが、わななく。

 あの、とこぼれた言葉はあまりに弱々しい。

「わたし」

「ハフリちゃん、あのね」

 オウミの表情と声音は、どこまでもやわらかい。

「少しずつ。少しずつ慣れてくれたら、嬉しいわ。急がなくても良いから。ね?」

「……っ、はい」

 ハフリの頭に伸ばした手をオウミは引き戻し、「いい子ね」とささやいた。オウミの目線が一瞬木桶に向かったのを、ハフリは見逃さない。

「お疲れ様。今日のお仕事はこれぐらいでいいわ。あとは家にいても良いし、外を回って来ても良いし」

 オウミは「また明日、よろしくね」と告げてふわりと笑ったが、ハフリははにかむことすらできなかった。


 村はずれの小屋の外壁に背を預け、ハフリは地面に座りこむ。本を開き文字の羅列を眺めたところで、ひとつも頭に入らない。

 小屋は村を見渡す限り唯一木造の建物だったが、倉庫か何かなのだろうか、誰かが訪れる様子はない。

 こうしていると、森のはずれの木の許に戻ったかのような心地がした。けれど吹き抜ける冷たい風は、今いる場所と起こったことを容赦無く突きつける。

 役立たずであるうえにオウミを傷つけ、果てにはこちらを気遣わせた。

 栞代わりに額飾りを挟んで本を閉じ、膝を抱えうずくまろうとした­­——そのとき。

「ちょっとあんた」

 荒々しい足音と落ちてきた声に、ハフリはおずおず頭を上げた。

 青みがかった黒髪を肩先で揺らして、少女がひとり立っている。まとめて片側に編みまれた前髪、晒された額。群青の瞳がハフリを見下ろす。

 おそらく彼女も山烏の民だろう。けれどその外見はソラト一家と大きく異なっている。

 この村の人々は山烏の民を名乗りながらも共通した容姿を持たない。まるで、複数の民がここに集って暮らしているかのようだ。

 そして——目の前のことから逸脱したことに考えが及んでしまうのは、ハフリの悪い癖なのかもしれなかった。

 気づいたときにはすでに遅く、少女は眉を釣り上げて、ハフリを睨みつけている。

 高い声が空気を貫いた。

「あんたさ、役立たずだってわかってるんでしょ?」

 剥き出しの容赦ない言葉に、ハフリは言葉を失った。

 指先に紙の感触を感じながら、ただ固まって少女を見上げる。

 心臓の低い鼓動が内側から鼓膜を叩き、相手の声を遮るかのように耳鳴りがする。

 けれどそんなものは、少女の高く鋭く、屈折のない声の前には意味をなさなかった。

「役立たず」

 声は乾いた空気を切り裂き、ハフリを貫いた。

「あんたみたいな目をした子、大嫌い」

 突き刺さった言葉が内側を抉る。抜くことのできない刃の痛みに、ハフリは顔を歪めた。

 初対面の相手に罵られているのに、理不尽さは感じない。かわりに、親しい相手に見限られたような絶望が、体を支配する。

 自分が臆病だから? 単に相手が怖いから? 

——違う。

 彼女の声が、山烏の民の総意に聞こえるからだ。

 ソラトの声に、聞こえるからだ。

 ほら、と。少女の口調に嘲りが混じる。

「自分はかわいそうって顔してる。こんなところでこそこそして、嫌なことから逃げてるんでしょ」

 何かを見いだそうとするかのように目を眇めた少女は、「なんで」とかすれた声を漏らした。

「ソラトはあんたみたいなのを連れてきたんだろう」

 独白に等しいつぶやきが、ハフリに今までにない痛みを与える。息ができなくなりそうだった。

 ソラトはなぜ、ハフリを連れてきたのだろう。彼は自分の意志だと告げたが、その理由など知らない。

 ただ森から出たくて。ソラトについていきたくて、ここまで来た。望みを叶えてもらった。それだけだ。

 けれどそれでいいのだろうか。

 良いはずがない。けれどどうしていいかわからない。

 涙がせりあがる。このまま泣いてしまえば、彼女は立ち去ってくれるのではないだろうかと、ずるい思考が頭をよぎった。

「泣きたいなら泣けば。あたしは構わないけど?」

「……っ」

 少女と視線が交差する。

 彼女の夜空色の瞳は、怒りと侮蔑のはざまに、強い光を宿していた。ソラトと同じ、まっすぐで強いものの光だ。

 ハフリにはないもの。欲しいと願うもの。

 わたし、と。手を伸ばすように言葉がこぼれた。

「山烏の民に、なりたい」

「はあ?」

 相手のもっともな反応にうなずきたくなった。自分でもわけがわからず閉口する。

「ばかね。あんたやっぱりなんにもわかってない」

 少女は乾いた笑いを浮かべる。

「無理ね。あんたじゃ無理よ。あんたは——」

「はーい、ツムギ。そこまでにしときーや」

 耳慣れないなまりをもった声とともに、炎や夕焼けよりも鮮烈な赤色せきしょくが視界に飛び込む。

 少女の背後から顔を覗かせた少年は、腰まで伸びた束ね髪を揺らして笑った。歳はハフリと同じくらいだろうか、端正な顔立ちが目を引く。

「さて。ハフリちゃんは、オレとオシゴトにいこか」

「おしごと……?」

「そうそう」

 鳶茶の瞳を面白げに細める少年に、ツムギと呼ばれた少女が、肩越しに振り返り眉根を寄せた。

「仕事ってなによ」

 んー? と少年は一瞬考え込んで、

「馬の手入れ?」

「それは朝一で終らせる仕事よ」

「いやー手間取っておりまして」

 少年はひらりとツムギから離れ、おもむろにハフリの手首をとった。

 見かけにそぐわない固い手のひらに、驚く。

「ってことで、いこ?」

 促され、立ち上がる。落としそうになった本と額飾りを慌てて抱え直す。ツムギはハフリと少年を睨んでいたが、口を開く様子はない。

 一歩、二歩。手を引かれて走り出す。

 ツムギに突きつけられたことと向き合わずに、このまま逃げてしまって良いのだろうか。

 そう思ってはみるくせに足を止めることはできず、後ろ髪を引かれながら歩を早める。

 手首を引く少年の足取りは軽快だ。尻尾のような長い赤毛が揺れては跳ねて、時折ハフリの頬をくすぐる。癖のない美しい髪だった。

 引かれるがままに走りながら、少年の名前を聞きそびれていることに思い当たる。先ほどの少女——ツムギの名前だって、彼が呼ばなければ知らぬままだった。

 この村でハフリが名前を知っているひとの数は、両手で足りるほどだ。行き交うたびに声をかけてくれる人もいるのに、会釈を返すので精一杯で、話しかけることもできない。

 長い前髪がはらりと視界を覆う。

「それ、邪魔やない?」

 首を傾げると、少年は歩調を緩めて、空いた手で自身の額を指差した。

「前髪」

 確かに視界を遮られてはいるので、首肯する。

 続けて「切らんの?」と尋ねられるも、それにはなぜだかうなずけない自分がいた。

「ま、えーか」

 つぶやき、少年はハフリの手首を解放した。

 あたりを見渡すと、羊や牛たちの姿が目に留まる。居住区から離れ、放牧場のあたりに来ているようだった。たしかこの先にはうまやがある。

「ごめんな、走らせて」

 少年が手をあわせ頭を下げる。

「紹介遅うなったけど、オレはスオウ」

 同じ言葉でも発音が微妙に違ったりする、陽気でどこか食えない訛が耳に残る。

 その所以を尋ねても良いのだろうか。気を悪くしたりはしないだろうか。けれど訊かなければなにもわからない。知らないままでいるしかない。

 恐れをのみ下し、ハフリは喉を震わせた。

「その、話し方は」

「ああこれ?」

 スオウはこともなげに、

「これは赤鷹あかたかの民に伝わる話し方。耳慣れんかな? 直そうと思えば直せるけど」

「ううん、全然気にならない。それよりも、ええと」

 スオウの気安い口調に励まされ、問いを重ねた。

「スオウ、は……山烏の民じゃないの?」

 スオウは瞬きを繰り返した後、大仰にため息をついた。呆れているようだった。

「……ソラト、なんも教えず出てったんやな。こたえんの、ちょっと待ってくれる?」

 スオウが指笛を鳴らすと、地を蹴る音が近づく。

 駆けてきた栗毛の馬はスオウに鼻先をすり寄せ、黒曜石の瞳をちらとハフリに向けた。

「こいつはホムラ、オレの相棒。で、今からこいつに乗って出かける」

 浮遊感。ぐんとあがる、目線。

「え」

 スオウに腰を抱え上げられていた。ホムラの胴を前にするも、力強い腕と唐突な状況にハフリはうろたえるしかない。

「ど、どうして?」

「イグサさまにお使いを頼まれて、ハフリちゃんにも一緒に行ってほしーなと。まあ、このまま抱っこしてても構わんけど。どっちがえ?」

 そんな言い方をされたら乗るしかない。

 額飾りを挟んだ本を片手に持ち、馬の胴に足をかけ、齧り付くようにどうにか乗り上げる。

 顔を赤くし息をあげるハフリに、軽々と騎乗したスオウが顔だけ振り向いて笑った。

「さーて。じゃあ、お話しながらいこ?」



 ふたりを乗せて、ホムラは枯れた草の上を進む。

 既に村からはだいぶ離れていた。灰色の空のもと、くすんだ色の草原に人家や人影は見当たらない。

 ソラトと比べて若干細いスオウの腰に、落馬せぬよう、けれど控えめに片手を回して、ハフリは彼の話に耳を傾けていた。

 定期的に近くを通りかかる商人——狗鷲いぬわしの民から物品を購うのが、イグサからの頼まれごとだという。

「今日買うんは金属類と、あとは糸や綿かな」

 商いを生業とする人々と言えば虎鶇の民だったハフリは、同じような民がいることに内心驚いていた。

「何かと交換するの?」

「大抵は刺繍を施した布。割と良い値がつくんよ」

 けれど、布らしきものはどこにも見当たらない。

 ハフリの怪訝なまなざしに気づいたのか、スオウは

「あー、布はな。大丈夫」

 と、いたずらめいた言葉を返した。

 首を傾げたハフリを「まーまー」といなし、彼は「そんで」と切り出す。

「聞きたがっとること。今の山烏の民は混血の民なんよ。先祖の山烏の民は、山奥に暮らす黒目黒髪の民で、それが山を降りて流浪の民になって、他の血と混ざり合い今に至る」

 混血の民。

 その言葉を口のなかで繰り返し、おのれの心臓と脈拍を意識する。

 異なる二つの民の血を引くことが、特異なことだと思ってきた。けれどここに暮らす人々は皆、複数の血を併せ持っている。

 それがここでは、当たり前なのだ­——

「昔は、みんな散らばって生活しとったけど、今は基本まとまっとるかな。そんで、とりあえず先祖が山烏の民なら皆山烏の民を名乗る。加えて、だいたいもう一つの民の名前も冠する。まあ家の識別のため、って感じ。実際血が混ざりすぎて誰がどの民って言うのも正確にはわからんしから、わりと皆好き勝手に名乗っとるかな。あーでも異能チカラの種類で区別したりもするかも」

「チカラ?」

 スオウはうなずき、自身の赤茶色の瞳を指差した。

「オレら赤鷹の民やと、優れた視覚と聴覚。もとからよう見えるし聞こえるし、本気出したらかなり遠くのことまでわかる」

 ホムラの手綱を繰りつつ、スオウは言葉を紡ぐ。

「せやから、ハフリちゃんのちっさい声、オレにはよう聞こえるよ。まあもうちょい大きいと助かるけど」

「……ごめんなさい」

 ふと、もしかするとソラトも耳が良いからハフリの声が聞こえていただけなのかもしれないと思い当たる。

 心に重く暗い影が落ち、そんな自分に戸惑った。

「わっ」

 ホムラが止まって足を踏んだので、ぐらりと身体がかしぎ、勢い余ってスオウの背中に顔をぶつける。

 スオウが振り向き遠く後方を見るように目をすがめた。眉根を寄せ、声を潜めて「まずいな」と小さく呟く。

 ホムラ、と愛馬の名前を呼んで脇腹を軽く蹴ると、ホムラは進み始める。

 徐々に地面を蹴る速度が上がっていく。

「なに、が、あったの」

 切れ切れに問うと、スオウは前を見据えかたい口調でこたえた。

「まずい奴らに見つかったかも。俗に言う、人攫い」

 漏らされた一言にハフリは目を見張る。

 後方を振り返ると、黒い点が見えた。おそらく馬だろう。乗り手こそ見えないが、こちらへと向かってきている。

「ホムラ、もっと早く」

 スオウがささやく。風がホムラの身体にしなやかにまとわりつき、一体となる。

 風がごうと鳴り、ハフリの身体は上下に揺さぶられた。下手をすれば振り落とされそうで、やむを得ずスオウにしがみつく。

 走る。走る。走る。ホムラがぶるるといなないた。砂塵を起こし、疾風のような速さで駆け抜ける。

 しかし、猛然と走る黒い馬が徐々に迫ってくる。ホムラも相当速いというのに、距離が縮まっていく。

 黒馬の騎手が見えそうなまでに近づき、たまらずハフリは目をそらした。このままでは追いつかれる。

 ホムラの走り方は洗練された何か——風すら従えるようなものを感じさせたが、黒馬のそれはあまりに荒々しい。蹄が地面を削る音がする。風を破り、切り捨てるかのような走りだった。

 後方から何がしかを叫ぶ声が響く。怒気をはらんだ、高い声だった。

——高い?

 少女のような声に疑問符が浮かぶ。あのような馬に乗っているのだ、乗り手も相当いかつい人物だと思っていた。

 そっとふりむくと、黒馬の顔が眼と鼻の先にあって。きゃ、と小さく悲鳴が漏れる。このままでは捕まる——

「ちょっとなんで逃げんのよ待ちなさいバカスオウ!」

 一息に叫ぶまぎれもない少女の声とともに、黒馬が凄まじい勢いでホムラの横を通過していった。

 猛然とした直進は先回りの類ではなく、止まれないのだと一目でわかる。一方ホムラが速度をゆるめるものだから、ハフリは拍子抜けした。

 一体なんだというのだ。それに、この声はたしか、

「ああこら止まりなさいよバカタマぁ!」

 黒髪の乗り手が、馬上で憤然と声を上げる。

 スオウが「乗り手にそっくりやな」とのんびり呟き、「本当はウバタマって言うんよ、あの馬」とハフリに耳打ちした。

 状況がつかめずしがみついたままのハフリを見やって、スオウがからからと笑う。

「うそや。人攫いなんて、うーそ。いるっちゃいるけど、ここにはおらん」

「うそ?」

 問えば、スオウは悪びれる様子もなく「そう、うそ」と繰り返す。

「んで、ツムギの一族は織鶴おりづるの民。手先が器用で刺繍が得意」

 いまだに黒馬ウバタマと格闘しているツムギを横目に、スオウが説明を加える。

 見れば、ウバタマはなにやら荷物を積んでいる。

 おそらくあれが、ぬの。ヌノ。布。つまりは、

「えーと、もうしがみつかんで大丈夫やで? オレとしてはうれしいけど」

 役得やったなあ、とスオウがあっけらかんと宣う。

 ようやく事態を飲み込んだハフリは、

「ご、ごめんなさい!」

 慌ててスオウの腰から手を放す。咄嗟の動作に身体が傾ぎ、あっと思った時にはもう遅い。

 身体が馬上から滑り落ち、一瞬の、浮遊感。

 衝撃。詰まる息、横転した視界。

 そのなかで、腕からこぼれ落ちた本が地面に叩き付けられるさまが網膜に焼きついた。

 古びた背表紙が衝撃に耐えられずに裂け、紙が生き物のように草原を走り出す。

 父から与えられた本。森を出た今となっては、ハフリと父をつなぐ唯一のもの。痛みに構わず身体を起こし、転げるように紙を追いかけ手を伸ばす。

 待って、と。風に言っても仕方のないことなのに、祈るように心が叫ぶ。待って。持っていかないで。

「ちょっとあんた、身体は」

 ツムギの声も、耳に入らない。

 ハフリの尋常ならざる様子に、ツムギとスオウも紙を追い始める。そして——


「なんなのこの紙の量は!」

 地面から羊皮紙をつまみあげ、ツムギが我慢ならないように叫んだ。

 ハフリは縮こまりながら、地面ではためいた一枚を右手で拾う。左手に抱えているのは紙の束だ。

 スオウが空に舞い上がった紙を跳ねて掴み取る。

「草原で紙拾いっつーのも、そうそうない経験」

 ちろと舌を出すスオウに、ツムギが眉を吊り上げた。

「ぜんぶあんたのせいよバカスオウ!」

 そして足音を立ててこちらに歩み寄ってくるものだから、ハフリは思わず身を構えた。

 ツムギの視線が、ハフリの頭のてっぺんから足先まで移動する。無言で差し出されたのは紙の束。慌てて受け取れば苛立ちもあらわな紺色の瞳と目が合って、息を飲む。

 ツムギは一瞬口を開きかけたものの鼻息荒くそっぽを向いた。かと思うと紙を追いかけていたスオウにつかつかと近づき、彼の背中を思い切り蹴り飛ばす。

 中腰だったスオウはそのまま顔から地面に突っ込み、乾いた音と小さな砂塵が立ちのぼった。

「痛え……」

 身を起こし顔をさするスオウに、ツムギは素気なく言い放った。

「自業自得よ」

 ふたりを横目にハフリも紙を追うが、なかなかままならず、油断すると紙束を落としそうになる。

「あんたって本当にとろいのね」

 呆れた声とともに、拾い損ねたものを含めた数枚が突きつけられる。

 その動作は決してやさしいものではないのに、手に取った紙の束は角がきちんと揃えられていて。

 手許を見つめ、指先で紙の角をなぞる。

 この紙の塊が父の形見だとツムギは知らない。口調も態度も刺々しい。けれどもこうして、ハフリの大切なものを丁寧に扱ってくれる。

「ツムギ、さん」

「なによ」

 顔を上げた。言わなきゃ。言うんだ。萎縮する必要なんてない。縮こまってしまったら、伝えられない。

「ありがとうございます」

 ハフリの言葉に、ツムギは眉間にしわを寄せ、落ち着かなげに辺りを見渡した。

 かと思うと「もう、なさそうね」と独り言のようにつぶやいて「こんなとろとろしてたら日が暮れる」とウバタマに騎乗する。

 空は雲に閉ざされ太陽の位置は知れないが、相当の時間が経っていることは察せられた。急がなければイグサに頼まれたお使いにも支障が出るだろう。

「ハフリちゃん、落としもの」

 ホムラに向かおうとしたハフリにスオウが差し出したのは、母の額飾りだった。

 刺繍の極彩色が咎めるようにまなうらを刺し、息を飲む。伸ばしかけた手が止まる。

(これは、わたしの持っていいものじゃない)

 母のものとはいえ、歌えぬハフリには持つ資格のないものだ。

 けれど、手放すことのできなかったものでもあった。

「それ、貸して」

 スオウが指差したのは、ハフリの抱える紙の束。言われるままに手渡すと、スオウは懐から取り出した布で、紙と額飾りをまとめて包む。

「はい。今度は落とさんよーに」

 包みをハフリに戻し、スオウが歯を見せ笑う。

 その笑顔がソラトに重なって、目をみはった。

「う、ん」

 包みを抱きしめちいさくうなずき、ハフリは深く息をつく。なぜだろう、自分でも戸惑うほどの安堵が、胸のなかを占めていた。

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