二章 山烏の村

二章 山烏の村(1)

 枯れた草々のれ合う音が、歩むたびに空虚に響く。頭上に広がるのは一分の隙間もなく灰色の雲に覆われた空。吐いた息はかすかに白い。

 風が甲高い音を立てて吹き抜ける。肌打つ砂塵を目を伏せしのぎ、落ち着いたのを見計らって、ハフリはまぶたを持ち上げた。

 風は、目前にそびえ立つ山の頂からやってくる。

 龍の山。春になると頂上から若葉が萌えてさんざめき、さながら龍が降り立つようだと聞いたその山には、今や枯れ木しか残っていない。大地は乾いてひび割れ、わずかな草がしがみつくように根を下ろしている。

 森から眺めた草原には草が青々と波打っていたけれど、地続きであるはずのこの土地に今や緑は存在しない。そっと匂いをかいでみても、冷たい空気が鼻から流れ込むだけだ。

 瑞々しい森の空気が時折無性に欲しくなるのは、身体がまだ、新しい環境に馴染んでいないからだろう。

 ハフリが身に纏うのは、生成りの布で仕立てられた中綿の衣で、下裾着したすそぎも揃いになっている。腰に帯を巻き革の長靴を履けば、露出しているのは顔と手先だけ。麻の貫頭衣とは全く異なる、寒地での服装だ。

 踏み入った集落に建ち並ぶのは、白い布を張り巡らせた大きな幕家。歌鳥の民が暮らす円錐状の天幕とは違って、平らな円のような形をしている。

 両腕に抱えた木片の束を、落ちないように持ち直す。集落から離れたところにあるきこり小屋からたきぎを運ぶのが、ハフリに与えられた仕事だ。

 山烏の民の村で暮らし始めて、半月ほど。

 ハフリをソラトの家に住まわせ、仕事をくれたのはソラトの祖母であり、この村の長であるイグサだ。ソラトの両親や彼の幼い弟も、ハフリのことをあたたかく迎え入れてくれた。

 けれど思っていた通り、ここでもハフリはお荷物だ。力仕事どころか、森とは食べるものも異なるため調理もまともに手伝えない。森には潤沢にあった果実や菜っ葉が、寒く乾いたこの土地にはないのだ。果てに昨日は、家畜を捌く様を目の当たりにして卒倒した。

 役に立ちたい。必要とされたい。気持ちばかりが先走り、焦りが日に日に増していく——

「ハフリっ」

 舌足らずな声とともに幕家から小さな影が躍り出て、手を振りとてとてと駆けてくる。

「ハルハ」

 息を切らせてやってきたのは、ハフリの腰ほどの身の丈の幼子だ。ふわふわとしたこげ茶の髪を風に揺らす、愛らしい子どもはソラトの弟。つい最近六の年を迎えたばかりだと言っていた。

「どうしたの? なにかあった?」

 病気がちのハルハは、外に出ることがあまりない。そのハルハがわざわざハフリのもとにやってきたのだから、何か伝えたいことがあるのだろう。

 予想は当たっていたようで、ハルハがふふっと笑う。

「フゥがね、ぼくの名前をよんだの」

 ハルハは胸に下げた小袋を持ち上げ、フゥと向き合うと、真剣な顔で「ほら」と促した。

「ハルハ、だよ」

 フゥは目を瞬かせ、ハルハの声をそっくりに真似る。

「ハルハ、ダヨ」

 鈴を転がすように笑うハルハの、白い頬に朱がさしている。村にはハルハと年の近い子どもが少ない。フゥは彼にとって良い遊び相手のようだった。

「ね、ハフリ。きいたでしょ?」

「うん、きこえたよ」

 フゥと踊るようにくるくると回るハルハが、ふいに何かに目を留める。

「ハフリ、空みて!」

 言われるままに空を見上げると、ぱっと裂けた雲間から、薄い光の幕がさした。頼りない陽光、けれどそれは、雲の上の太陽の存在を知らしめている。

 光は舞うかのようにさらさらと揺れ、淡く輝いた。

「きれいだね」

 ハルハがハフリの衣の裾を引く。

——うつむいてたら見逃すばかりだぞ。

 ハルハの声に、ソラトの言葉が重なった。

 当のソラトは、ハフリを村に送り届けて数日休んだのち、雨を降らす術を探すため、再びティエンと飛び立った。後ろ姿を見送ることしか、ハフリにはできなかった。

「どうしたの?」

 ハルハの問いに「なんでもないよ」と首を横に振り、徐々に細くなっていく光を見つめる。

「ほんとうに、きれい」

 ここに暮らす人々は、乾いた景色のなかから息をするように潤いを見出す。厳しい環境のなか、前を向いて生きる強い人々ばかりだ。

 そうなれたらと、思う。

 光が雲に閉ざされる。吹き抜けた風の冷たさに、身が震え、すくんだ。そんな身体の反応すら、自分の弱さに感じられていとわしい。

 どうしたら、強くなれるのだろう。

「ハフリ」

 ハルハが腰にぴとりと抱きつき、

「こうすれば、さむくないよ」

 ね? と。くすぐったそうに笑う。

 つんとした鼻の奥の痛みに耐えながら、ハフリは声を絞り出した。

「ありがとう」

 薪があるため抱き返せないので、お礼を言うに留めると、「どういたしまして」とハルハははにかんだ。

「薪、届けないとね」

「ぼくも、もつ」

 伸ばされた小さな手に木片をひとつ渡すと、ハルハは嬉しげに頬を緩めた。

 幕家へと向かう道すがら、ハフリの口から小さく咳が漏れる。じっとこちらを見つめるハルハに「だいじょうぶだよ」と笑い返して。

 光失せた曇天を仰ぎながら、ハフリはこの村に来た日のことを思い出していた。

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