Q2月14日 A明日は登校する
ますます乾燥して寒くなってきたというのに、胸の奥はほんのり温かい。その理由が何なのか最近自覚してきている。
視線の先にいる黒い短髪をちらちら見つめて、一度で良いからこちらを向かないかななどと叶わなそうな希望を抱く。
「体育館、寒かったねサユ。」
「うん、もう少し暖かくしてくれてもいいのにね。」
腕を掴むサカナに笑いかけると、こうして楽しく過ごす教室での時間も残りわずかだと寂しくなる。
「優子ちゃん、これ。バレンタインだから作ってきたの。昨日は試験お疲れさま。」
「ありがとう。試験かあ、全然手応えなかったよ。」
推薦で志望校に受かっている雪菜の余裕が羨ましい。苦手な英語の長文が予想外に解けなくて凹んでいたので、嬉しいプレゼントだった。
差し出された透明なラッピング袋には美味しそうなチョコチップクッキーが並んでいる。雪菜らしいピンクのリボンをすぐにほどいて、中から一つクッキーをつまみあげた。
「食べちゃおう。」
「これ、加奈子ちゃんにも。」
「ありがとう雪菜。ねえねえ亮君とはどうなの?」
小さい声で今日一緒に帰るよと赤い顔をする雪菜は可愛らしかった。小型犬のようなつぶらな丸い瞳が佐藤亮平に向けられる。
今日もいつもの3人で集まっている。
中山孝介の勉強を指導する佐藤亮平と彼。その姿が微笑ましくてつい見てしまう。
クッキーを頬張りながら、眉間に皺を寄せてペンを回す彼を眺めた。こうして教室で姿を見ることが出来るのも残りわずかなのだと思うと寂しい。
「そうじゃなくって、ねえ?」
「いい加減手を繋ぐ以上はしたの?」
私の腕から離れてサカナがずいっと雪菜に近寄る。追い打ちをかけるように美香が雪菜の頬を突っついた。手を繋ぐという行為すら恥ずかしくてなかなか出来ない雪菜、そんな彼女のペースに合わせる佐藤亮平の関係は正直羨ましい。
「そんな、まだ恥ずかしくて無理だよ。」
ふいにこちらを見た、正しくは雪菜を見た佐藤亮平がこちらに向かって手を振ってきた。きりっとした切れ長の目が優しく細くなる。こそばゆそうに雪菜が手を振りかえした。
その間、相も変わらず問題集に視線を落として気難しい顔つきをしている彼。少し待ってみても、やっぱりこちらを向くことはない。
「うわ、調子に乗ってる。」
香が冗談交じりに雪菜を小突く。便乗してサカナと美香も雪菜にふざけて体当たりした。
「結局、サユに彼氏がいないって予想外だよね。」
「そうかな?」
告白したことも、されたこともないのだから彼氏が居ないのは当たり前なのだけれど。と口を開く前に予鈴が鳴った。
卒業式の練習も終わったし、あとはHRが終了すれば今日は下校だ。帰宅したらうんざりするような問題集と向き合わなければならない。
こんな風に雑談して笑っていられる時間は貴重でまだ帰りたくなかった。
暗く淀んだ空気の家に戻るというのが酷く辛い。学校が楽しいからこそ、余計にそう感じてしまう。
席に戻ってもソワソワ落ち着かない。彼にいつ声を掛けよう。見慣れた白い項を見つめて深呼吸を繰り返した。担任が来るまで時間がある。こちらを振り返らないかな、とつい見てしまう。
「あの、賢輔君。」
短かったHRの直後に背中に向かって声を出した。ゆっくりとこちらへ向けられた顔が上手く見れなくて視線をずらした。彼の左側の泣きぼくろを見つめてぎこちなく笑った。
「甘いもの、平気?」
一昨日送ったメールと同じ内容の質問を投げかける。
試験頑張れ
あの返信メールに精いっぱいの勇気をもらったのだから、めげずに問いかけようと心に決めていた。
「別に。」
何度も聞いた台詞だけれども、少し待てば続きがあるという事を最近知った。
佐藤亮平にわざわざ確認をとって、彼が甘いものが嫌いではないという事は知っている。むしろ甘いものは好きらしい。そこまで調べてあるのだ、後は勇気を出すだけだ。
「嫌いじゃない。」
「そっか。」
「何?」
伝えたいことは沢山ある筈なのに喉が詰まってしまって苦笑いしかできなかった。鞄の中にしまってある昨日意を決して買ってきたチョコレートを眠らせたまま私はすっと立ち上がった。
「また来週会えるの楽しみにしてるね。」
どうしてあと一歩を踏み出せないのだろう。折角買ってきたのにこのまま渡せずに持って帰るのかと自問自答して手を握りしめた。
「あのさ。これ、もう使わないからやるよ。」
いつの間にか私の背を追い越していた彼が私を見下ろす。一昨年の今頃なら同じ高さにあっただろう二重瞼が随分と遠い。
差し出された赤い問題集に目を落とす。白くて形の良い親指に思わず見とれた。同じ問題集を持っていたんだと口から出る前に、彼は推薦でとっくに受験が終了していることに思い当たる。受け取った問題集をパラパラと捲ると赤ペンで様々な書き込みがしてあった。目頭が熱い。ぶっきらぼうなのに優しいところが胸に響く。
「わざわざ、ありがとう。」
「じゃあな。」
そう告げて背中を向けると彼は遠ざかっていった。
「サユ、サトケンと何話してたの?」
「この赤本、賢輔君がくれて…。」
いつ本命の大学がどこだか話をしたのかと考えても、記憶になかった。何度も勉強が上手く行かないとはこぼしたけれど。
「サトケンって推薦決まってるもんね。でも今更もらってもサユこの本持ってるよね?」
「あのね、ごめんね。皆で帰ってて。」
私は鞄に問題集を入れると、鞄を握りしめて小走りで彼を追いかけた。下駄箱で中山孝介と話す彼にどう声を掛けて良いのか分からず戸惑う。
「あの。」
「どうしたんだサユ、息切らして。」
きょとんとした中山孝介が私をしげしげと眺めた。
「一緒に!」
先ほどまで全く決意できなかったのに、そしてさっきまでの方が確実に恥ずかしくない状況だったのに、思わず叫んでいた。
「一緒に帰りたいなと。」
語尾は小さくなっていった。心臓が込み上げてきて口から出てくるのではないかと感じるほど、恥ずかしかった。
興味深々で何か言いたげな中山孝介のニヤニヤした視線が痛い。真ん丸にした瞳を私に向けている彼が、口を開けたまま立ちつくしている。
「なあサユ、まだ亮って教室にいた?」
「え?雪菜もまだだから、まだ帰ってないと思う。」
中山孝介はにっと八重歯の目立つ歯を見せて笑うと、手にしていた運動靴を下駄箱に戻して教室の方へと戻って行った。去り際に彼の肩を叩いたので気を利かせてくれたというのは十分すぎるほど分かった。
「行く?」
「あ、うん。」
2年間、クラスメートだった。それで今日、初めて二人で帰る。
通学路は何度も何度も歩いてきた道の筈なのに、全く新しい道を歩いている錯覚に陥る。
いつもなら裏道を通って猫の写真やわ撮ったり、皆でアイスを買いにコンビニに立ち寄ったりするのだけれども、彼に話したいことや聞きたいことが山ほどある筈なのに無言で並んで歩き続けた。
凛とした横顔を何度か覗き見して、相変わらず白くて綺麗な肌をしているなとそんな事を考えていた。白い息を交互に吐きながらいつ口を開こうと悩んだ。
「あのさ。」
「うん。」
「平気?色々。」
「ありがとう、気にしてくれて。」
いつからこんなに真っ直ぐ優しくなったっけと彼を見上げると視線がぶつかった。今だ、と鞄の中から包みを取り出してグッと前に差し出した。
「お礼。」
試験会場を後にして、息抜き気分で寄ったデパートで結局小一時間も悩みに悩んで選んだ小さい青い包みのチョコレート。
「別にいいのに。」
そう口にした彼のほくろの多い頬が少し緩んでいて、赤らんでいた。ありがとうと小さい声が堪らなく嬉しくて、そこから駅までの間ずっと無言だったけれど気にはならなかった。
吐いた息の白さが暗い夜空に散っていく。ぼやける視界にオリオン座が飛び込んできた。小さい頃から、北斗七星とオリオン座だけはすぐに分かる。
彼はそういう存在だった。どこに居てもすぐに見つけられる。
もう永遠に会えないね。もう一度会いたかった。
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