プロローグ2

 チック……タック……チック……タック……


 少々狭いがゆったりと落ち着いた雰囲気の店内に、振り子時計の音が時間を区切るかのごとく響いていた。

 俺は喉の乾きを癒すべく、オレンジジュースの入ったグラスに手を伸ばし…………伸ばしかけたところで、猛烈な違和感に襲われた。

 はて? 俺は何で此処にいるのだろうか?

 それについ先ほども同じ行動を取った気がする。その時は今日の献立を決めるべく、端末を手に取り魚光のページを閲覧して……そう、確か魚光へ行ったはずだ。そして二箱の発泡スチロール箱を抱えてマスターに届けに戻ろうとして……っ!

 記憶を辿ろうとしているうちに、ぼやけていた頭が急にクリアになった。

 そうだ!! 戻る途中の横断歩道の上で急に体が動かなくなって、トラックに轢かれ……いや、轢かれかけたところで黒い穴に飲み込まれたのだ。

 そこからの記憶はないが、此処にこうして座っているということは先ほどの出来事は白昼夢であったのだろうか。

 だが、未だに頬にはアスファルトの熱が残っている。いったい何が起きたんだ?


 俺が理解不能の出来事に困惑していようとも、静かな店内にはお構いなしに振り子時計の音が響き続ける。


 しばらく硬直していたが、喉の渇きには逆らえずグラスを手に取った。

 オレンジジュースを一口飲むと、酸味がいい感じに頭を刺激してくれたのか新しい疑問が浮かび上がってきた。普段は聞こえてくるBGMが何故かかかっていない。変わりに聞こえてくるのは時計の音だが、この店に置いてある振り子時計が動いているのを見たことがあっただろうか? 

 人がまったくおらず、普段とは様子の違う店内の雰囲気が薄ら寒く、つい人の姿を見たくて後ろの窓を覗き込み……俺は息をのんだ。

 そこにあったのは、まるで水溜りに浮かぶ油膜のような虹色の膜であった。膜は常に揺れ動いており非常に見通しが悪いが、その向こうには日常の景色が写真のように見えていた。歩行者も車も、果ては空を飛ぶ鳥さえも微動だにしないその景色は、精巧なジオラマの街に迷い込んだかのような錯覚を俺に与えた。

 見渡せる中で動くのは俺と振り子時計のみ。急に押し寄せてきた焦燥感に突き動かされ、外に出ようと立ち上がりかけたとき、カウンターの奥からマスターが現れた。


「座りなさい、文弥君。まずはこれを食べて落ち着きなさい」


 そう言ってマスターが差し出してきたのは、秋刀魚の竜田揚げであった。

 薄いキツネ色の衣をたっぷりと纏った秋刀魚の切り身に、添えられた大根おろしと食欲をそそる梅肉のソース。脇を彩る旬の野菜は素揚げされ、仄かな香りと光沢を放っている。手前には湯気をたてる根菜たっぷりの味噌汁と白く輝く炊きたてのご飯。毎度のことながら、和食屋に転向したほうが良いんじゃないかと思ってしまう逸品である。

 冷めないうちに頂いてしまいたいところではあるが、現状の不可解さが箸をつけることをためらわせた。真意を問おうとマスターの方を見ると、めったに感情を見せないマスターが珍しく笑っていた。


「いろいろと聞きたい事があるだろうが、話せば長くなる。冷めてしまわないうちに食べなさい」


 許可も得られたので、謎の飢餓感に突き動かされて食べ始める。

 しかし、マスターは何で笑っていたのやら。そう思って聞いてみると、


「なに、お預けを喰らった犬のようだったのでな」


 との御言葉を頂いた。マスターとここまで話したのは初めてだが、意外と毒舌である。


「これでも誉めているのだよ。目を覚ました時から無性にお腹が減っていただろう?」


 失礼とは思いつつも食べながら頷く。確かに言われた通りであり、今も箸を置く気が起きないのだ。


「詳しい話は面子が揃ってからにするが、今の君は霊体――精神だけの存在でな、とても不安定な状態なのだよ。そのままでは通常霧散してしまうか、あるいは自我が崩壊し、肉体を得ようと生きている者へと襲いかかってしまう。今食べてもらっているのはそれを防ぐためのものなのだよ」


 色々と聞き捨てならないことを言っているが、秋刀魚を頂いてしまう必要がありそうなので今は聴きに徹することにしよう。知的好奇心を満たすためであって、食欲を満たす為ではない……ええ、ソンナハズナイデスヨ。


「その料理には霊体の総量を増すための源と、物質化させるための術式が組み込まれておる。それを完食すれば暴走することもなかろう」


 なるほど、術式というのはプログラムのようなものだろうか? それが料理に組み込まれていて完食すれば……って完食!?

 疑問というには生易しい、最悪の可能性が頭をよぎる。

 その想像を肯定するかのようにマスターは話を続ける。


「中途半端に霊体の総量が増えたままだと暴走どころか暴発してしまうかもしれないのでな、早く食べてしまいなさい」


 それを始めに言ってくれ!! そう叫びたくなるのを必死に押さえ、とにかく料理をかき込んでいく。

 マスターが「食べきれなくなったら言いなさい」などと、たくさん食べる孫を微笑ましく見守るような顔で言ってくるが、先程までとまるで変わらないはずのその微笑みの裏に、悪魔が嗤っている姿を幻視してしまう。


 秋刀魚の骨に苦戦しつつも、料理を順調に片づけていく。ところが秋刀魚一切れとご飯、味噌汁を少々残すところで、急に箸が止まってしまった。

 ……く……苦しい。

 物理的に腹が膨れているわけではないのだが、満腹感に襲われて食欲が無くなってしまった。

 直感的に霊体の総量とやらが限界を迎えつつあるのだと理解するが、だからと言ってごちそうさまと言うわけにも行かない。体積が限界であるのならば、後はもう密度を上げるしかないだろう。術式完成のためと腹をくくり、残りの料理に箸をつける。

 吐き出しそうになるのを意志の力でねじ伏せて、無理やり詰め込んでいく。米の一粒一粒を押し込むうちに、すんなり入る時となかなか入ってくれない時があることに気づく。

 密度の他に関わる要因があるとすると……まさか術式?

 術式というのがどの様なものかは知らないが、マスターの話から推測するにパズルのピース、あるいは歯車のようなものが料理に組み込まれていて、それが俺の体内で組み上がることで効果を発揮すると考えられる。

 そうであるのなら俺の得意分野である。身体の内側に意識を向けると歯車が乱雑に積み上げられ、あふれそうになっている光景が幻視出来た。こうも考えなしに積み上げられては収まりきるはずもないと、妙に納得してしまった。

 さて、パーツが把握できてしまえば後はもうこちらの物。素早く内面を俯瞰し、有るべき場所へとパーツを配置していく。体内に散らばる無数のパーツを直感に従い組み上げていくと、複雑かつ美しい幾何紋様が幻視出来た。それぞれの構成要素が意味するところは理解できないが、全体像を見てみれば何となくではあるが、自身の存在の固定と、魂の枠組みを限界まで拡張させる意図が感じられた。

 最後のお米一粒を嚥下した瞬間、完成した幾何紋様――おそらく術式というものであろう――に、自分の中にうずまく不可視の“何か”が流れ込んだ。

 強制的に自分の魂が拡張される、不愉快な全能感と共に、身体が実体を得たのか、肌に触れる服や空気、髪の毛の感触や、心臓の鼓動、個々の細胞に掛かる自身の重みといった、普段認識していない感覚が一斉に襲いかかってきた。気を抜けば叫びだしてしまうであろう衝動を飲み込み、背骨に掛かる体重に今までどれほど不安定な状態だったのかを、直感的に理解した。

 気付いてしまえば当たり前である感覚の不在に、気が動転していたとはいえ気付けなかった自分の未熟さを痛感する。


「落ち着いたかね?」


 その問いに顔を上げると、僅かに目を見開いたマスターと目が合った。


「こちらの補助無しに術式を完成させるとは、運のいい……いや、それが君の力ということか……」


 補助ってなんだよ補助って。もしかして、あの「食べきれなくなったら言いなさい」ってのは、補助するよって言っていた積もりだったのだろうか。

 愚痴が口を衝いて出そうになったが、いつの間にかいつも通りの微笑みに戻ったその顔に、言っても無駄だと判断して飲み込んだ。

 当て付けとばかりにオレンジジュースを飲み干し、


「それで、一体全体何がどうなっているんですか?」


 そう訪ねると、


「まあ、そう急くでない。ちょうど面子が揃ったところだ。先ずは自己紹介といこうではないか」



 そんなマスターの言葉と共に店の入り口が開き、油膜のような境目から二つの人影が飛び出てきた。

 一人は、主観時間でつい先ほど会った魚光のおやっさんだった。もう一人は少々小柄な、白衣を着た女性である。茶髪のショートボブな、可愛らしい女性ではあるのだが、趣味なのか罰ゲームなのか、犬耳が着いていた。

 二人は勝手知ったる様子で迷いなく進んでくると、おやっさんはカウンター席に怒りも露わにどっかりと腰掛け、女性は申し訳無さそうに俺の向かい側に腰掛けた。


「マスター、酒出せ酒。前納めた奴がまだ残ってんだろ?」

「私は抹茶ラテ、ホットでお願いします」


 注文も手慣れた様子であることから、二人は常連なのであろう。しかし、よくよく常連がコーヒーを頼まない店である。この店のブレンドは他の店と比べても美味しい部類ではあるのだが、如何せん他のメニューが絶品過ぎるのである。常連の大半は、コーヒーではなく各々の嗜好に合った飲み物目当てにこの店を訪れる。


「マスター、こちらもオレンジジュースおかわり」


 まあ、かく言う俺もオレンジジュース目当てで、この店を訪れていたのだが。

 注文を終えると、向かいに座る女性と目が合った。正直マスターやおやっさんとの繋がりがよくわからない人物であるが、俺の前に座ったということは、一連の不可解な出来事の説明は彼女が行ってくれるのだろう。その彼女は目が合ったまま固まっており、何か喋りたいのだろうがその口からは弱々しい吐息しか出てこない。しかしその代わりとでも言うように、頭の上の犬耳は雄弁に動いていた。

 こちらとしては彼女の耳の動きを見ているだけでも面白いのだが、このままずっとお見合いというわけにも行くまい。


「あの……」

「は、はひっ」

「とりあえず、飲み物が来るまでに自己紹介だけでも済ませませんか?」

「そ、そうですね! 自己紹介、自己紹介をしましょう!」


 彼女は救いの手を差し伸べられたかのごとく、嬉しそうな表情で前のめりに立ち上がった。犬耳をピンと立たせ、見えないが尻尾があればブンブンと振っているであろうその有り様に、思わず詐欺に逢わないか心配してしまった。

 ふと視線を逸らすと、おやっさんがカウンターで人の悪い笑みを浮かべていた。


「文弥、そいつは筋金入りの引きこもりかつ、人見知りでな。初対面の人間と話すのは久々なんだ。多めに見てやってくれ」


 くつくつと笑うその姿は、出来の悪い後輩を見守る先輩のようでもあったが、笑われた当の本人は顔を真っ赤にして噛みついた。


「人見知りはともかく引きこもりって何ですか引きこもりって! 私はしっかり仕事をしてるだけです! そういうのは寝てばかりの他の管理者やつらに言ってください!」

「そうは言っても、この中で一番引きこもっておるのがお主であることに変わりはなかろう?」

「魚屋やマスターが人の世に関わりすぎてるだけですぅ! あなた達の行動一つでこちらの仕事が増えるのですから、少しは引きこもってください!」

「なに、現世における監視の目も多少は必要じゃろう? おかげで今回の事態にも、すぐさま対応出来たのだしの……」


 最後の台詞でからかうようだったおやっさんの表情が、苦いものへと変化した。


「それはそうなんですけど……」


 釣られるように彼女の表情も沈んでしまった。その様子から、彼女が強い自己嫌悪と責任感に押しつぶされているのがよくわかる。

 ……まあ、つまるところ今回の事態は、何らかの突発的な事故に彼女が対応仕切れなかった為に起きたということだろう。


「ともかく自己紹介しましょう。私の名前はノイエ。ここ一万年程、世界の監視と記録を担当しています。この度は私の力が至らなかったためにご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません」


 彼女は頭を垂れると共に、犬耳を畳んでいた。

 しかし一万年ときたか。常識の範疇を越えた事態に巻き込まれたとは感じてしたが、その事態の対処に赴いたということは、彼女自身、普通の人とは異なるということだろう。まあ、犬耳なんてものが付いているし。

 不慮の事故に巻き込まれた憤りも無いわけではない。しかし彼女や他の管理者と呼ばれていた、恐らくは人の理を外れているであろう集団――会話から察するにマスターやおやっさんも含まれるのであろう――ですら未然に防ぐことが出来なかったのだ。彼らにとっても、今回の事態は常識の埒外の出来事なのだろう。


「頭を上げてください。現状を把握できている訳ではないですが、今回の事態があなた方の人為的なミスでないのなら、責任を問うつもりはありません」

「すまんな文弥。今回ばっかりは俺たちにも予測する事が出来なかった。今後同じことが起きた時の対策は始めている。だが、お前に関してはできる限りフォローするが、元の生活に戻してやることは出来ない。本当にすまん」


 普段の飄々とした雰囲気を一切覗かせず、真摯に謝るその姿に、改めて取り返しのつかない事態に巻き込まれたことを悟る。

 ノイエの方を見ると、おやっさんの言葉を受けて、ただでさえ大きくないその体をさらに縮こまらせて、上目遣いでこちらを窺っていた。少なくとも一万年は生きてるはずの彼女のあんまりな姿に、思わず嗜虐心がくすぐられるが、まあ、デコピンくらいで済ませてやるとしよう。


「だから頭を上げてください。おやっさんも、もう起きてしまったことです。気にしないでください。それからノイエさん、あなたがそんな顔をしていてはこちらまで不安になってしまいます。責任者であるのなら、どんな時でも矜持を失わないでください」


 そう言って笑いかけると、デコピンの痛みで額をさすっていたノイエの表情から、徐々に暗さが抜けていった。


「うぅ……そう、そうですよね! 私が責任者なんです。しっかりしないと。任せてください……うっ……あ、あなたの今後は私が責任もってサポートいたします!」


 なんというか、全体的にチョロい人である。元の性格なのか一万年も引きこもってた故なのかは分からないが、いったん親しくなってしまうとどこまでも心を許してしまいそうなタイプである。その耳と相まって、忠犬という印象がぴったりである。途中言いよどんでいたのは……そういえば、こちらからは自己紹介していなかったな。


「よろしくお願いします。そういえば、こちらの名前をお伝えしていませんでしたね。僕の名前は副島 文弥。この近くの大学に通っている大学生で、機械工学を学んでいます」


 自己紹介を済ませると、見計らったようなタイミングでマスターが厨房から出てきた。


「お互いの自己紹介は終わったようじゃの。それでは今回の事態の説明をするとしようか」

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