1 豚と貴族と生ビール

「だからさ、『女神ラブ!』の本質は主人公のなみがチアリーディング部を名実ともに勝利の女神にしようと奮闘する部分にあるんだよ。彼女の一途な気持ちが全員を動かすっていうのがテーマなわけ。つまり穂波は唯一神ということだ」

ぼたもちは言ったが、まったく的外れだったので当然反論する。

「いいや、違うね! 応援したいという気持ちは誰にでもある! それを束ねた穂波はすごいとは思うけど、これは……そう! メインの四人全員が主役の群像劇なんだよ!」

「なんだそれ。四人にスポットライト当てたらブレるだろ? 小説担当がそんなんだから本が売れないんじゃ……」

言うに事欠いてそれかい。ぼたもちが鼻で笑うのが癇に障る。カチンとくる。

「はああ!? 売れなかったのは表紙のイラストが可愛くないからだろ!」

「すぐ人のせいにするなよ。そういうのを思考停止っていうんだぞ」

「どっちがだよ!」


侃々諤々とでも言うべきか——いや、意味もわからず言葉を使うのは良くないな。帰ったら辞書で調べよう。

ともあれ。

ゴスロリ美少女との不思議な遭遇からおよそ二時間後。

いちおう完売はしたため、予定されていた『反省会』の開催は免れ、一転『祝勝会』を開いていたはずの俺とぼたもちだったが。

……絶賛口論中だった。ご覧の通り。

場所は居酒屋チェーン『豚貴族』。高校生なのでもちろん酒は飲まないが、看板メニューの豚串が美味いのと、メニューが全品三百円とリーズナブルなので、若者を中心に『ブタキ』の愛称で親しまれている。俺たちも例に漏れず時々利用する。

ちょうどイベント会場近くに『豚貴族』があったため、意気揚々と入ったのだった。

「いらっしゃいませ〜! ですね〜♪」

「いえ、です」

「……? こちらにどうぞ〜」

やけに威勢のいい女性店員の言葉遣いを正しつつ、案内されたテーブル席へと歩く途中、店員が床を指し示し俺たちに注意を向ける。

「こちら、段差がございますのでご注意ください〜★」

「あ、はい」

指示された通り、俺たちは通路と席の境目にあったごく小さな段差を上った。

……いつも思うのだが、これって無意味じゃないか? いろんな店で見かけるけどさ。

店を作る際にわざわざ段差を作ったとしたらもちろん無意味だし、店員が客に注意する手間も無意味だし、足を必要以上に上げる俺の手間も無意味だ。バリアフリーだとかユニバーサルデザインだとか、そういう優しい社会設計からもかけ離れてる。

それに、俺の個人的な気持ちを言えば、こんな段差くらいで転ぶ可能性があるって思われるのもなんかイヤなんだよな。

まあ、そんなことをアルバイトの女性に言っても仕方ないのは分かってるので、大人しく着席する。

座るなり、ぼたもちはすかさず店員に告げた。

「お通しカットで」

出た。お通しカッター。こいつはケチなのだ。まあ彼が言わなければ俺が言ったのだけど。だいたいお通しなんて得体の知れない食材の細切りだしな(偏見)。

「ですよね〜」

となぜか女性店員は同意した。

俺はカルピス、ぼたもちはウーロン茶を注文し、我らがぼたもちジャックの祝勝会はしめやかに開かれた。

……そして、しめやかとはほど遠い現在に至るというわけだ。


「そもそも、お前が客を睨むからいけないんだろ……」

「同人イベントに客はいませーん! 売り手も買い手も全員が『参加者』ですー! パンフ読んでくださーい!」

俺が煽ると、ぼたもちは「やれやれ」と嘆息した。村上春樹の小説の主人公みたいで腹が立つ。煽り甲斐のない奴め。

「便宜的に『客』と言ってるだけだからこの場合はいいんだよ」

「……っていうか、イベント時の態度で言うならお前もだからな!」

「はあ?」

ぼたもちはまったく心当たりがないようだった。俺は普段から感じていたことをぶつけてみる。

「お前、何かにつけていちいちカッコつけるだろ。モテたいって気持ちダダ漏れなんだよね!」

「べ、別にカッコつけてなんて……ないぜ?」

「それだよ、その喋り方! 必死かよ。彼女ができないとこうもヒネくれちゃうんかねえ……こわいこわい」

「モテないのはお前も同じだろうが!」

「俺はメガラブのおんちゃんと付き合ってるんだもーん!」

莉音ちゃんはブラウンのショートヘアーの女の子で、小柄ながら元気いっぱいの女の子で、いわゆる『俺の嫁』だ。彼女の笑顔を見ているだけで人生オールオッケーという気分になれる。俺の数少ない幸福の中のひとつだ。

「うっわ……キモ……」

ぼたもちは急にクールダウンして豚串をつまんで食べた。

「やっぱうまいなあ、ブタキの豚串」

どうやら話は終わったらしい。俺だっていつまでも責任の擦り付け合いをしようなどとは思っていなかったので、ぼたもちにならって豚串を食べた。

うん。美味い。豚肉の歯ごたえがしっかりとある。

近頃じゃあ『肉は柔らかければ柔らかいほど美味い』だなんていう価値観が氾濫しているみたいだが、あれは間違っていると思う。肉は顎をしっかりと使ってゴリゴリと噛み切って、その過程で肉汁がジュワリ、ジュワリと口の中で踊るのがいいんじゃないか。

「今日はいくら食べても大丈夫だな——なんてったって十万あるんだからな!」

俺は今日の戦果である万札の束を高く掲げた。

確かに十万円はこの手に握られているが、しかし疑問が晴れたわけではない。

「いやあ、あのゴスロリ少女、何だったんだろうなマジで」

「だよなあ……」

俺の問いに考え込むぼたもち。でも考えたって答えが出ないのはわかりきっている。

腕を組んでいたぼたもちは、すぐに考えるのをやめて、小さくぼやいた。

「ひとつ分かるのは、あの女はマトモじゃないってことくらいだな」

「それはそうかも」

「かもじゃない。確実だ。だってさ、考えてもみろよ」

ぼたもちは食べ終えた豚串の串で俺を指した。少し熱がこもった様子だった。

「今日はたまたま、売り上げがゼロだった所を救ってくれた救世主に見えるかも知れないが……これから即売会の度に毎回買い占められた日にはたまったもんじゃないぞ」

「それは……確かになぁ」

俺たちは別に、あのゴスロリ少女の為だけに同人誌を作っているわけではないのだ。できることなら、より多くの人の手に行き渡らせたいと思っている。普通のことだ。

ぼたもちは首を傾げる。

「そもそも同じ本を百部も買ってどうするつもりなんだろうか?」

「それは……」

俺は思考を巡らせる。

いわゆるオタクの世界において、同じ商品をいくつも買うという行為は特段珍しいことではない。『鑑賞用、保存用、布教用』として三つ買い揃えることだってある。

購入特典としてライブの応募券だとか、アイドルであれば握手券など『多く買えば当選確率が上がる』という性質のものであれば、それを十個も二十個も買う輩だって出てくる。

しかし当然、今回の場合はこの限りではないだろう。俺の小説を百部買うメリットなどない。

他に考えられるのは——転売? いや、誰もが欲しがるもの=売れるものを買い占めるからこそ転売が成立するんだろうし、残念ながら俺たちの本を買い占めたところで儲けは計算できまい。

それではただ単に『在庫を抱える苦しみ』が俺たちからあのゴスロリ少女に移るだけだ。無意味すぎる。

「さっぱり見当もつかん」

「だよなぁ……」

会話はここで暗礁に乗り上げた。

話題を変えるべく、横に置いていたバッグに手を突っ込み、即売会で頒布していた自分たちの同人小説本を取り出した。

その文庫サイズの本の表紙を眺める。

『メガラブ』の主人公である穂波と、俺の推しキャラである莉音が手と手を取り合ったイラストが印刷されている。夕暮れの教室での秘め事のような雰囲気だ。

有明穂波と花園莉音のカップリングなので、『ほなりお』または『りおほな』と呼ばれている。

ただ、この組み合わせは非常に珍しく、まだジャンルとして確立されているとは言い難い。

なぜなら、莉音には亀田ゆたという心が通じ合った幼なじみの女の子がいて、同人的にもこの二人の組み合わせ、つまり『りおゆた』『ゆたりお』が鉄板だからだ。

だが、そんなニーズの最大公約数を探って書くことだけが同人ではない! という思想のもと、俺は本能に従って『ほなりお』で小説を書いている。

俺にとっては、ほなりおが正義なのだ。いろいろとたぎるのだ。いろいろとみなぎるのだ。

穂波と莉音のどちらも陽気な元気っ子だからキャラがケンカするという同人界隈の定説も、俺にとっては関係のないことだ。

好きなことを情熱のままに描くのが同人だろうに。定説に縛られてどうする。

本をパラパラと捲る。小説を書いたのは自分なので、もちろん内容はすべて頭の中にある。——だが、こうして本になっているのを見る喜びはひとしおだ。形になることの素晴らしさ。

質量、ページを捲る音、親指の腹に感じる紙層の厚み。……恍惚さえ覚える。

近頃は電子書籍もぐんぐんとシェアを伸ばしていて、電車で立ちながらkindleで本を読む際などは便利な世の中になったなあなどと感じるのだが……。

だが! しかしだ! ……俺たちは知っているはずだ。紙の本でしか得られない体験があることを。

俺が一番『紙の本』の利点を感じるのが、流し読みをするときだ。

一冊の本を手に取る——気の赴くままに紙を手繰る——ふと気になる単語を見つけて手が止まる——その地点から何行か読み進めてみる——物語は頭には入らないが、ほほう、何となく面白そうなことが書いてあるぞと感じる——また紙を手繰る——手が止まる——読む——ほほう——

ってな具合だ。

言うなれば、セルフコマーシャル映像だ。自分が読みたい内容が記されているかを自分で探る。この偶然性に満ち満ちた宣伝こそが、俺にとって一番の、物語の『入り口』なのだ。

これは紙の本でしかできないことだ。だから紙の本は素晴らしい。

もう一度言う。

……おそらく自分の中で千回は達した結論に満足して、ふと前を見ると、ぼたもちも小説本を手に取って眺めていた。

しかし俺とは見る部分が違っているようだ。表紙のイラストを凝視している。

そして——ニヘラ、と笑った。

確実に自分が描いたイラストの出来の良さに悦に入っていた。ナルシストかよ。

まあ、たしかにぼたもちの描くイラストは素晴らしい。さっき本人には意地の悪いことを言ったが、俺はぼたもちの絵が好きだ。女の子のふわふわと柔らかそうな肌感がよく出ているし、パステルカラーを多用していてどこか儚げな感じがするのもいい。

少女趣味に近いイラストだ。俺の小説には合ってないかも知れないけど。

「表紙で立ち止まってくれた人も何人かいたよな?」

「ああ、いたな」

「しゃっ」

ぼたもちは小さくガッツポーズをした。なんか女子っぽい仕草だった。ギャップ萌えでも狙ってるのか、俺は寒気がした。

普通にしてればそこそこの爽やかイケメンだと思うのに、変にカッコつけたり女子っぽかったりするからモテなさそうだな。

……ともかく、イラストに惹かれて本を立ち読みする人がいたのは事実だ。それについては感謝している。たとえ俺がどんなに素晴らしい小説を書こうと、第一印象はぼたもちのイラストに懸かっているのだから。

「まあ、いいイラストだと思うよ。穂波が先輩として莉音をリードしようっていう決意も眼差しから感じられるし、莉音の不安げな視線も『受け』としての気持ち——『ホントはいけないことなのに、この気持ちは何だろう?』みたいな感情をうまく宿らせていると思う。何より、背景の教室の雰囲気がなんとなく儚くて、百合が世間的に認知されていないっていう、関係の不可能性を匂わせているし」

俺が一気にまくしたてると、ぼたもちは何度も大きく頷いた。

「おお……おお。やっぱお前はわかってるな……! ジャックナイフが相方でホント良かったぜ」

「…………」

やめろ。そういうのはやめよう。そういう友情の確認は、男子的じゃないだろ。こいつ、恥ずかしくないのか?

「それに、小説も面白いしな」

ぼたもちは持っていた本を開いた。

「ここが好きなんだよな——


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莉音の横顔は夕日に照らされて、赤く染まっていた。

穂波はその頬がトマトみたいだと思って、かぶりついてみた。

「ひゃいっ!?」

甲高い声を上げる莉音。ボーイッシュな部分がある彼女からはあまり聞かない種類の声だ。

「も、もう! 穂波先輩! 誰かに見られたらどうするッスか!!」

莉音は慌ててカーテンを閉めた。

……夕焼けが遮られる。

だが、薄闇に包まれた教室の中で、莉音の顔はまだ赤く染まっていた——

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——ってところとか」

ぼたもちは恍惚の表情で小説を読み上げた。

今、こいつは、作者の前で小説を読み上げるという今世紀最大の愚行に走ったのだ!

「やめてくれ……」

「なんでだよ? 褒めてるんだぜ? 莉音の甘酸っぱい胸の中を覗き込んじゃったような罪の意識にさえ駆られるいいシーンだよな! そうだなあ、他には……あ、ここも——



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キス、しちゃった。ううぅ〜。ゆっちんになんて言えばいいの……。い、いや言えないッスよ! だって相手は憧れの穂波先輩なんだよ!? どうして? どうしてボクなんスか?

莉音が俯いていると、穂波はその頭を優しく撫でた。

「秘密、できちゃったね」

「…………」

「豊歌ちゃんにも内緒……ね?」

「……は、はい。言えないッスよ」

「『言えないよ』」

「え?」

「はい! リピートアフターミー。『言えないよ』」

「ダメッス。先輩にタメ口なんてきけないッス!」

「ううん、私、全然先輩じゃないよ」

穂波は莉音の手を取って、自らの胸へと導いた。

「な、なななッ何をして……!」

セクシャルな想像をしたのか、爆発するように顔を赤くした莉音。

その膨らみの大きさを確認して、莉音は心の中で『——やっぱ先輩じゃん!』と叫んだ。

穂波はクスッと笑う。

「ほらね? 私の方がドキドキしちゃってるでしょ?」

「——あ」

胸じゃなくて、鼓動の方か……ボク、バカみたいだ。何を舞い上がってるんだろう。

でも確かに、指先と手のひらで感じる先輩の鼓動は、まるで檻に閉じ込められた野獣のように暴れている。

寿命が縮まっちゃうんじゃないかと心配になるくらい。バックンバックンと。

ボクとキスして、こうなったの……?

ボクなんかで……? どうして……?

「すごいでしょ?」

「…………はい。すごいッス……」

「りぃちゃんとこうなれて、私、こんなにドキドキしてるんだよ……だから私は、全然先輩じゃないの」

「穂波先輩……」

「先輩じゃなくて?」

「………………ほ、ほなみん……」

「よろしい♪」

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——う〜ん、いいねえ! 悶え! 悶え〜! 甘〜く淡〜いのにナイフを突きつけられているような鋭い場面だぜ!」

「うわぁー! やめろ! やめてくれ!」

思わず立ち上がり絶叫した。気が狂いそうだ。こんなん拷問だろ!

それと『萌え〜!』みたいな感じで『悶え〜!』とか言うな。なんか腹立つ。オリジナリティを出そうとしてるところが。

「あっ、すいませ〜ん! 豚串二つオナシャス!」

俺が奇妙な怒りと顔の内側がこそばゆい妙な感じを鎮めていると、ぼたもちはコロリと表情を変えて店員に注文を追加した。

「お前も食うだろ?」

「……あ、ああ」

答えると、ぼたもちはニシシッと笑った。二つ頼んだのは俺の分もということらしい。話が早くて助かる。

「お待たせしました〜」

注文して十五秒ほどで、やる気のなさそうな女性店員が豚串をテーブルに置いた。

「早いな!」

思わず突っ込むと、大学生くらいに見える女性店員が満面の笑みで答える。

「はいっ! ブロイラーの育成時点からすでに焼き始めてるんで!」

「それは残酷ですね……」

「やだなあ、ウソですよ?」

「わかってますよ!」

「ふふ、そう? ではごゆっくりどうぞ♪」

そして去っていった。

「………………」

やけにフランクな店員もいたものだ。変な人。……美人だったけど。

というか、あまり『ブロイラー』とかそういう単語を出さないで欲しい。映像を思い浮かべると食欲が失せる。

注文が入ってから焼き始めたとしたらあり得ない速度で提供される豚串だが、人気メニューだし、きっと注文を見越して常に焼いているのだろう。

「じゃ、早速」

ぼたもちはすぐさま串を取り、口に運んだ。豪快に二個ずつ食べる姿は男らしかった。

すぐに食べきり、串を串入れに放り込む。

そして何かをぼんやり考えながら、口の中の豚肉を咀嚼している。

「何だよ?」

俺は串の肉をひとつずつ食みながら訊ねた。するとぼたもちが言う。

「ひとつ気になったんだけどさ」

「ん?」

「あのゴスロリ女、小説を最後まで読むと思うか?」

「読まないだろ」

俺は確信を持って答える。

「やっぱそうかねえ……」

そりゃそうだろう。目的は不明だが、本の中身も見ないで俺の顔だけ見て買ったんだからな。下手したら小説本であることもわかってないんじゃないか? それで最後まで読んでくれると期待する方がおかしい。

俺は豚串を食べ終えて、串を串入れに入れた。

「いらっしゃいませ〜! 一名様でよろしかったでしょうか〜!」

威勢のいい接客の声が聞こえる。入り口に背を向ける形で座っているので見ることはできないが、さっきのフランクな女子大生店員だろう。日本語が緩いのが気になるのは小説書きの宿命だろうか。

「お……おい……!」

ぼたもちが俺を呼びかけているようだが、特に気にせず飲み物の追加を選ぶ為にメニューを手に取って目を落とす。

「おい! ジャックナイフってば!」

「あん?」

できれば、その名を大声で呼ばないで欲しいんだが。

顔を上げると、なぜか口をパクパクさせて焦っているぼたもち。視線は俺の背後へ向けられている。

すると、背後からゴロゴロゴロゴロ……と、キャリーケースを転がすような音が聞こえる。

——ん? この音、どこかで……。いや、まさかな。

「こちらの席でお願いします〜♪ 荷物入れはお足下にございま〜す」

店員の声がすぐ後ろで聞こえた。どうやら俺たちの横のテーブル席に新しい客を案内したようだ。

「すぐにおしぼりとお通しをご用意致しますので!」

「それと麦酒ペインを頼む」

「ペイン……?」

「ああ、この世界ではビールと呼ぶのだったな」

「生ビールですね!」

「うむ。カムチャッカの空気のごとく凍てつく麦酒ペインを」

「よくわかりませんがキンッキンに冷えたやつですね? かしこまりました♪」

すぐ背後でやりとりしている店員と客。

「あ、お足下、段差があるのでご注意くださいね♪」

「ふむ。これしきの段差、我にとって何ら障害ではない」

聞き覚えのある声だった。……いや、声というか喋り方だ。

いや……でもビールを注文してたしなあ。もし俺の想像が当たっていたとしたら、大きな疑問が沸く。

「(今来た客! 見ろ! 左! 左!)」

ぼたもちは、ほとんどテレパシーのようなものすごい小声で俺に絶叫した。このぼたもちの焦りの表情がすべてを物語っているのでは?

覚悟を決めて、俺は言われた通り左を見た。

——そこにいたのは。

「む……そなたらか」

件のゴスロリ少女——ブラン・ノワールだった。

「お、おおおおおお!?」

思わず立ち上がる。

「なんでここに!?」

しかし、恐慌状態の俺たちを他所にブラン・ノワールはツンと澄ました顔で言う。

「何故……? ここは酒場であるぞ。酒を呑む為に決まっておろう」

「いや、お前どう見ても未成年だろ!?」

俺はわだかまっていた疑問を噴出させた。この金髪縦ロールのゴスロリ少女、誰がどう見たって高校一年の俺たちより年下——つまり中学生にしか見えない。

しかし、ブラン・ノワールは首を傾げた。

「……? 我は十万二十三歳であるぞ……?」

「どこぞの閣下みたいな悪魔設定はいいから!」

話しが通じず、つい声を荒げてしまう。未成年が居酒屋に入店するとは何事か。いや、まあ俺たちも未成年なんだけど。でも酒は注文してないし……。

——ん? 待てよ?

「悪魔年齢で十万二十三歳ということは——人間で言うと二十三歳、なのか……?」

「いかにも」

「ウソつけ! そんな訳あるか」

しかしブラン・ノワールは俺の言葉を無視して席に着いた。

彼女が案内されたのは隣のテーブルだった。何の因果なのか。

——いや、何の罰ゲームだこりゃ? 気まず過ぎるだろ。

ぼたもちを見やる。ウーロン茶のグラスを傾ける彼の顔には「我関せず」と書いてあった。いや、関しろよ。こういう時に頼れないとモテないぞ。

「は〜いお待たせしました! ブタキ三種の神器、お通し・おしぼり・生ビールです!」

やけにハイテンションで例の美人店員がやってきて、手際良くテーブルに三種の神器とやらを配置していく。

お通しおしぼり生ビール。不思議と語呂が良い。だがブタキ三種の神器という概念が存在するなら、今すぐにでもおしぼりなどというただの湿らせた布切れを追放して豚串を入れるべきだ。絶対に。

「ふうむ……」

ブラン・ノワールは、おしぼりで丁寧に手を拭きながら、神器の一つ、お通しをテーブルの隅に追いやった。……やっぱそうだよな。謎の食材の細切りに魅力はないよな……。

人形みたいな見た目のくせに、その仕草が妙に人間くさくて、つい親近感を抱いてしまった。

おしぼりをテーブルに置くと、彼女の眼差しは、巻き髪と同じ黄金色の液体に満たされたジョッキをじっと射抜いた。まるで水滴の形で占いをしているかのようだ。

ゴスロリ少女と生ビール。おおよそ似つかわしくない取り合わせだ。……どうやら正確には少女ではなかったようだが、まだ納得しきれていない。見た目はどう考えても中学生ほどだ。

ビールをゴクゴクと飲む姿なんてなおさらだ。まったく想像がつかない。どちらかと言えばワインを好んで飲みそうな風貌だし。

下手したら、懐からマイストローを取り出してちうちう吸い始めるんじゃないか。その方がよっぽど彼女らしいと思う。

しかし、俺の予想は完全に裏切られた。

彼女はおもむろにそれを手に取って——豪快にあおった。

「んぐっ……んぐっ……んぐっ……んぐっ……」

喉を鳴らす、とはこういうことを言うのかと目を見張るような飲みっぷりだった。

液体はみるみるうちに減っていき、間もなくジョッキは空になった。

「……ぷはぁっ!」

ビールを一気に飲み干し(良い子は真似しないでね)、歓喜の吐息を漏らした彼女。

「はああ悪魔的……! 浄福ッ! このまま死んでもいいっ!」

相変わらず意味はわからないが、おっさんのように唸るこのゴスロリ少女、実は結構苦労してるのだろうか?

俺が哀れみの視線を向けていると、彼女と目が合った。

「なんだ? 随分と見るではないか……我に恋でもしたか?」

「するか!」

これはマジで本音だ。いくら多感な思春期だからって、こんな意味不明生物は御免だ。

顔は幼いながらも整ってると感じるし、いちアニメファンとして『不思議ちゃん』というジャンルの魅力があることも知っている。でも、だからと言ってこの女と恋仲になりたいなどとは微塵も思わなかった。

「意外とお似合いかもよ。ヒューヒュー」

ぼたもちは囁いたが、目で殺した。

「…………」

視線に『黙れ』という情報を込めることに成功したようで、ぼたもちは苦笑してからウーロン茶の入ったグラスを傾けた。

カラン、と氷が鳴った。

「……ふむ。冗談はさておき、恋などしてはいかんぞ少年。恋心はたちまち魔術書グリモワールを濁らせ、野望メテオラは遥か遠のくであろう」

ブラン・ノワールはそう言って、灰色の瞳で俺を覗き込んだ。

「お、おう……」

思わず眼を逸らす。行動、発言は痛々しいが、美女は美女なのだ……見つめられると弱る。

恋なんてしてはいけない——か。いつだったか、ぼたもちにもそんなことを言われたような。

まあ俺だって、恋に現を抜かしている暇があったら野望の為に原稿をしたいと思っていたので、その点では三人の意見は一致しているのかも知れない。

——だけど、ふと思う。

目の前にブラン・ノワールがいる状況……これは絶好のチャンスじゃないか? と。

いや、もちろんお近づきになりたいという意味ではない。むしろ逆だ。

同人即売会において完売という実績を手にしたのは喜ばしいことだ。気持ちの上でもそうだし、参加サークルを抽選で《公正に》決定する即売会でも、本が完売するような力のあるサークルをおいそれと落選させてしまってはイベントの盛り上がりが削がれるから、それは避けたいと思うはずだ。

参加者としてはあまり触れるべきではない裏事情だし、そんな事情があったところで、実際に裏でどんなことが行われているのかは知る由もないが。

完売したという事実は嬉しい……だが実際のところ、それはブラン・ノワールたった一人の手によってのことだ。

百部完売すれば百人に行き渡るという『当たり前のこと』を達成していない。

たった一人の購入者であるブラン・ノワールでさえ、俺の小説をこれから読む可能性は期待できそうにない。

……そんなの、あまりに報われないじゃないか。

俺の情熱も、ぼたもちの情熱も。

この本に持てる力を注いだ数ヶ月の頑張りが——すべて水の泡だ。

だったら、いっそのこと本を返してもらった方が丸く収まるってものじゃないか? 在庫を持つのは悔しいし辛いけど、こんな裏技みたいな方法で完売するよりマシなんじゃないか?

「お前に言いたいことがある」

俺は改まって言ったが、彼女は手で俺を制した。

「しばし待たれよ」

そして壁に備え付けられている呼び鈴のボタンを押す。すぐに店員がやってくる。

「ご注文でしょーか!」

麦酒ペインの追加だ。それとクリスタルを頼む」

「ビールと、クリスタル……?」

「これである」

彼女は優雅な手つきでメニューを開いて指差した。陽の光を一切浴びてこなかったような白い指の先には、梅水晶の写真が載っていた。

梅水晶。鮫の軟骨に梅を和えたもので、コリコリで酸っぱくて酒のアテには最高らしい。という知識だけはあったが、実物を見たことはない。

「はい! かしこまりました♪」

店員は威勢良く返事をして、去って行った。

『梅水晶』と書いて『クリスタル』と読む……『梅』感が完全に消えたな。どうでもいいけど。

「お待たせしました! ビールと梅水晶です!」

「だから早いなッ!?」

しまった。隣のテーブルまで思わずツッコんでしまった。

美人な女子大生店員は少し驚いたように俺を見たが、クスッと笑う。

「梅に鮫の軟骨を混ぜて品種改良しているので、調理の必要がないんです★」

だから嘘をつけ。満面の笑顔で客に嘘を教える残念な美人店員だった。この店のアルバイト教育はどうなってるんだ?

疑惑の視線を知ってか知らずか、店員は俺にウインクをして行ってしまった。

「んぐっ……んぐっ……ぷはぁ〜!」

一方で、気づくとブラン・ノワールはたった今渡されたビールをジョッキ半分ほど飲んでしまっていた。

すげえ飲みっぷりだ。ビールってそんなにうまいのか?

どんなもんかな、と舐める程度はしたことがあるので、味をまったく知らないとは言わないが、ただ苦いという記憶しか残っていない。

こんな風に……うまそうにビールを飲む日が俺にも来るのだろうか?

などと——つい彼女を観察してしまっている俺がいる。でも仕方ないだろう? 『しばし待て』と言われたから、いつまで待てばいいのかを探っているのだ。

彼女はジョッキを置くとすぐに箸を手に取り、眼前のクリスタル——もとい梅水晶をつまんで、上品な手つきで口に運ぶ。

彼女が言う通り、クリスタルのようにキラキラ光る梅水晶を口に入れる瞬間、細身の割にはぷっくりとした唇がてらてらと光沢を纏っているのを見て、思わず息を飲んだ。

噛むたびにコリコリと心地よい音が聞こえて、クリスタルは噛むとそういう音がするのか、いやいや、そうだあれはクリスタルじゃない、鮫の軟骨だったと思い出した。

彼女の魅力にあてられているのだろうか? ゴスロリ姿が醸し出す得体の知れない説得力なのか、不思議と引き込まれるものを感じた。

——って、そうじゃなくて!

「もういいか? お楽しみ中悪いがな」

「む? なんぞ?」

彼女はあまりの幸福感に本当に別世界にトリップしていたようで、ハッと驚いて俺を見た。虚を突かれた表情はゴスロリの奥に確実に存在する『等身大の彼女』を想像させた。

ゴテゴテした装飾品やメイクを全部取っ払っても、彼女の美しさは損なわれないのかも知れない。

——じゃなくて!

「あのさ、俺らの本のことなんだけど……」

やはり、本が読まれないのは納得がいかない。どうせ読む気がないのなら返して欲しい。もちろん金は返すからと、そう告げるつもりだった。

「ああ、例の魔術書グリモワールのことか? とても面白かったぞ」

「そう、その面白い本を…………って、」

「女性同士の恋の淡い感情が良く描かれていて胸が高鳴った。やはり我の魔眼ルナに狂いはなかったのだな」

しみじみと頷くブラン・ノワール。

「マジ? 読んだのか? ……っていうか、もう読み終わったのか!?」

俺は思わず立ち上がった。

「……? 手に入れて二時間経っておろう。読んでない方がおかしいではないか」

「…………」

俺は絶句した。

「……意外だったな」

ぼたもちが言う。その通りだった。超意外だった。

ブラン・ノワールは本を読み終えていた。しかも、買ってから今に至るまでの二時間で。

そんなことって可能だろうか? でも事実、彼女は小説の内容を知っていた。本当に読んだのだろう。

「イラストレーションも素晴らしかった。そなたが描いたのか?」

彼女がぼたもちに問いかけると、ぼたもちは妙にどぎまぎしたような態度で「あ、ああ……」と頷いた。気持ちは分かる。彼女が美しすぎるのだ。

黒を基調とした服に身を包んでいるのに、輝いて見えた。ブラックオニキスをあしらった宝石のような魅力を持った人だと思った。

「まるで女性が描いたようなしなやかな曲線に、淡い色遣い。そなたもまた、選ばれし者セレクションであるのかも知れぬな」

「セレクション……?」

ぼたもちは首を捻ったが、文脈的に褒められているのは間違いない。あまり深く考えず喜んでおくのが正解だろう。

「そなたたち……ぼたもちジャック、と言ったな?」

「うん」

「よろしい。今は長月であるな」

「……ああ、九月の頭だな」

旧暦で言うな。頭の中で変換するため返事が一拍空いてしまう。

だが、だんだん彼女の語彙に慣れてきている自分がいる。割と嘆かわしい。

「さすれば、師走が近い」

「そうだな。十二月が近いな」

「では問おう。師走には何がある?」

なぜかドヤ顔のブラン・ノワール。俺と彼女の間に横たわる『十二月にあること』と言ったら、クリスマス——ではない。断じてないのだ。

「……コミケがあるな」

そう。コミケ。コミックマーケットだ。——東京ビックサイトで夏と冬の年二回催される、日本最大の同人即売会の名称だ。

俺たち『ぼたもちジャック』も、およそ四カ月後に迫った冬のコミケをひとつの大きな目標に活動している。と言っても、まだ申し込んだだけで当落が出ていないから、出られるかは不明だけど。

「そう。最終戦争ラグナロクだ」

「は? ラグナロク?」

このゴスロリ女、コミケのことをラグナロクと言ったか?

「ふむ。そなたらになら教えても良かろう。……こんな話がある」

ビールジョッキを持ちながら、しみじみと何かを語り始めようとしているが、聞く前からロクなモンじゃない妄言だと確信していた。

「人類の歴史は魔力クレアと共にある。太古の時代であれば食肉を手に入れる為に、恐竜や獣に向けて行使した魔力クレアは火や石器を生み出した。魔力とは誰にでも文明が備わった『生命力』のようなものなのだから」

ほらみろ。ロクなもんじゃない。俺はカルピスをぐいっと飲んで、もう一度彼女に目を向けた。

「……だが、やがて魔力クレアは複雑な運命を辿ることになる。獣狩りに飽きたのか、やがて人は人に向けて魔力クレアの刃を突きつけた。それが政治であり、または経済であり、悲喜劇を含むあらゆる意味での、人間社会の成り立ちである」

だんだん不安になってきた。俺、このまま新興宗教に加入させられるのでは?

……むしろ今の今までそんな不安を頭をよぎることもなかったのは、心のどこかでこの女を許してしまっていることの表れではないのか。

しかも——彼女が西洋人形のように美しいからという、あられもない理由で。

「だが何も、我は魔力クレアの数奇な運命の悲劇を説きたいのではない。状況はもう一歩進んでいる。重要なのは、現代日本の若者にとって魔力クレアは表現活動へと向けられたという事実である」

なんとなく、言いたいことは分かる気がする。

……つまり、俺たちは生命力を使う方向が他にないから、同人誌という『表現活動』をしている、と。

「なるほどね……」

予想していたよりもいくらか分かりやすい話だったことに安堵する。

俺が理解を示したことが伝わったのか、彼女は俺に向けてひとつ頷いた。

「理解してくれるか——さすがは我が同胞。我の魔眼ルナは、優れた魔術書グリモワールの作り手の中から選ばれし者セレクションを見通す力を持つ。我ができるのは、そんな選ばれし者セレクション魔力クレアを高める協力をしつつ、来たる最終戦争ラグナロクに備えることである。それが我の求める『世界の真理プロット』に繋がると信じているのだ」

すまん。前言撤回。まったくわからない。

「世界の真理プロットって一体何なんだよ?」

俺が問うと、ブラン・ノワールはかぶりを振った。縦ロールの金髪がわさわさと揺れる。

——つい目で追ってしまう。たぶん本能的な働きだろう。巨乳に目が言ってしまうのと同じだ。たぶん。

ちなみにブラン・ノワールの胸はほとんど無乳と言って差し支えないボリュームなのだが、そのことを指摘したら彼女は赤面したり怒ったりするのだろうか? ちょっと想像がつかない。

「ふっ。真理プロットとは何か……か」

俺の頭の内のことなど露知らず、意味深な笑顔を浮かべるブラン・ノワール。

「それを問われて答えられたら苦労しないと思わんか?」

「…………」

座席から崩れ落ちそうだった。いや、そりゃそうだけどさ。

『世界の真理とは何ですか?』『それは○○です』——だなんて簡単なことじゃないってのは分かってる。でも、設定とかゴチャゴチャ作り込んでるから、そういうのも用意してるのかもと思っちゃったんだよ。

それにしても、この会話は一体どこへ向かっているのだろう……と考えていると。

「あなたはさっき、俺たちの魔力クレアを高める協力をすると言いましたね?」

横からぼたもちが問うた。ブラン・ノワールは「いかにも」と首肯する。

「具体的にはどんなことをするんですか?」

「ふむ、そうだな。では作業に入ろうか」

「作業?」

なんだ? 魔法陣でも書き始めるのか?

すると彼女はキャリーケースを開き、奥の方に入っていた平たい板状のものを取り出した。

サイズはA4ほどだろうか、黒く硬そうなケースだった。

それはどう見ても……

「そう。見ての通り、これはアインザムカイトである」

「いや、ノートパソコンにしか見えないから」

「そうとも言うな」

そうとしか言わん。いやラップトップとか別名はあるけど。なんだよアインザムカイトって。無駄にカッコいいがドイツ語だろうか?

……というか、パソコンって思ったより現代的だな。てっきり魔法の杖とか水晶玉とかを持ち出すのかと思ってた。

眺めていると、彼女はそのケースからパソコンを取り出してテーブルに置き、次にキャリーケースから俺たちの本を一冊取り出した。

パラパラとそれを捲る。すでに読み終わっていることは理解しているが、それでも目の前で自作を読まれる瞬間の緊張感は少なくない。

彼女は本を置き、パソコンを開いた。

メタリックな素材で曲線が排除されたデザインのパソコンは、Apple社製のノートブックに見えたが、どこかディテールが違っている。大きなシルバーリングのような無骨な雰囲気を纏っていて、薄さの割に重厚な印象。

特注品か? それか改造したものだろうか。

「で、パソコンで何をするんだ?」

魔術書グリモワール感想フィードを書く」

「感想を?」

ふと気づく。普通に会話になっている自分が恐ろしい。

「うむ。Twitterにな。……安心せよ、褒め讃えるつもりだ」

「いや、それは嬉しいんですけど……」

ぼたもちが遠慮がちに口を挟む。俺には彼の発言の意図が読み取れた。

同人作家が出来るささやかなメディア戦略——それがTwitterをはじめとするSNS上の展開だ。

同人誌を出した者なら誰しも感想が欲しい。褒めてくれればなお良いが、酷評であっても、それがあまりに不当なものでない限りは受け入れる。

だが、過度に告知や宣伝をするのはあまりウケが良くない。同人活動は金の為じゃなくあくまで趣味、という大義名分があるからだ。

商業誌であれば、作家の作品を出版社という他者がプッシュするという『客観性』があるが、同人誌にはそれがない。

『俺が書いた小説、最強!』とはなかなか言えないだろう。心の中でそう思っていたとしても、説得力がなさすぎて事前告知が難しいのだ。

理想は、イベント前の告知はさらりと済ませて、イベント後に本を買ってくれた人が好意的なレビューを寄せてくれて、それがどんどん集まるという状態だ。

こうなれば、こちらが何かアクションを起こさずとも勝手に本の評価が上がっていく。

『みんなが面白いと言っているのだから面白いのだろう』と万人に思わせればいい。行列のできるラーメン屋はさぞかしおいしいのだろう、と思ってしまうのと同じだ。

……ただこの場合はどうだ。感想を書く可能性があるのは、ブラン・ノワールただ一人だけだ。

仮に彼女が俺たちの本を褒めちぎったとしてとも、それは『たった一人の熱狂的なファン』で済まされてしまう可能性が高い。ラーメン屋の店内でたった一人の客がいくら『うまい! うまい!』と叫んでも、集客の観点から言えばさほど意味がないのと同じだ。

そういった意味で、俺もぼたもちと同じように、彼女が俺たちの本をSNS上で褒めてくれるのは嬉しいが、その反面で『それに何の意味があるの?』と思わざるを得ないのだ。

だが、この考えを彼女に伝えるのは非常に骨が折れるし、理解してもらえそうにないし、何より褒めてくれると言ってくれている人の気分を害するのはためらわれた。

その結果、俺とぼたもちは生暖かい視線でブラン・ノワールを見守った。

彼女は上機嫌なのか、口元に薄く笑みを浮かべながらキーボードを叩いていた。

「……………」

三人の間に無言の時間が流れる。打鍵音だけが耳に届く。

ブラン・ノワールが時折、梅水晶に手を伸ばしたり、ぼたもちが手持ち無沙汰な様子でグラスの中の氷を噛み砕いたり、俺は俺で薄いカルピスで喉を潤したり。

——そんな時間を過ごすこと、数分。

ブラン・ノワールの手が止まった。

「ふむ。まずはこんなところか」

そして彼女は服のポケットから携帯電話を取り出し、テーブルの上の本をパシャリと撮影した。それからまたパソコンを何度か操作し、最後に『ッターン!』と小気味よくエンターキーを押した。

「……今日はこれくらいで良かろう」

今日は、という言葉が引っかかったが、訊ねる。 

「感想をTwitterに上げたのか?」

「いかにも。そなたらの身に何が起こっているか、すぐに分かるであろう。そして我に平身低頭して感謝の句を述べるに違いないわ! ふ、ふふ……ふふふ……」

不敵というか不気味というか薄気味悪い笑みを浮かべ、彼女はパソコンをキャリーケースにしまった。

「…………?」

俺とぼたもちは顔を見合わせた。

——一体、何をしたんだ? ブラン・ノワールの考えがまったく読めなかった。

何を訊ねればいいのかさえよく分からない。疑惑は確実に存在するのに、その正体がうまく掴めなかった。

さて、どうしようかと考えていると、斜め後ろから店員の声が。

「はい〜ご注文でしょうか?」

どうやら、いつの間にかブラン・ノワールが呼び鈴を押していたようだった。

終焉ジ・エンドだ」

「お会計ですね♪ こちらの伝票をレジまでお持ちください〜」

美人店員は驚異的な理解力を見せて、手のひらサイズの伝票ホルダーをブラン・ノワールに手渡した。

うむ、と彼女は頷いて、立ち上がる。

選ばれし者セレクション同士は惹かれ合う運命……光と闇カオスを構成する『白』と『黒』——すなわちブランとノワールの使者、ブラン・ノワールは予言する。我らはまた運命の邂逅を果たすであろうと! ……ではな。また逢おうオ・ルヴォワール

ぽかーん、とアホみたいな顔をしていたであろう俺たち二人にそう言い残し、彼女は優雅に歩き出した。

ブラン・ノワールって『白と黒』って意味だったのか。きっと俺たちが訊かないから業を煮やして自主的に説明したんだな……。

などと考えながら——颯爽と去り行く彼女の背中を何気なく見送っていると、突然彼女がフッと姿を消した。

……え? また手品か? と思いかけた直後、

「きゃうっ!!」

と、聞いたことのない嬌声が聞こえた。

目を落とすと、そこには、居酒屋特有の不必要な段差で盛大にコケたブラン・ノワールの姿があった。

四つん這いのような格好で、お尻をこちらに突き出している。

もう一度言う。お尻をこちらに突き出している。

見るなという方が無理からぬ話。

転んだ拍子に、ふんわりとしたフレアスカートはめくれ上がり、俺は謎多き彼女の中で最も神秘的な花園の風景に目を細めた。

——思わず詩的な表現になってしまった。

彼女はすぐに立ち上がり、スカートを手でササッと直した。

「ふむ……これも大いなる試練フェノメノンか」

落ち着き払った様子でボソリ呟いたが、涙目で悔しそうに唇を噛み、顔は真っ赤だった。

どうやらこういう状況には弱いらしい。

そして、俺もまた、こういう状況には弱いらしい。

……可愛いヤツだなと思ってしまっていた。

また逢おうオ・ルヴォワール

すぐにブラン・ノワールは踵を返し、今度こそ颯爽と去って行った。

俺とぼたもちはその様子を呆気に取られたように眺めていたが、しばらくの沈黙の後、ぼたもちが口を開いた。

ブランだったな……フフ」

キザったらしく笑ったが、何のことはない、たった今見た高慢なゴスロリ女のパンツの色の話だ。

「ああ……」

俺はおかしな感情が胸の奥に芽生えるのを感じながら返事をした。


それから程なくして、『ぼたもちジャック』のささやかな打ち上げはお開きとなった。

帰り道、二人並んで電車のつり革を掴んで立っていると、ふと、さっきのブラン・ノワールの行動が気になった。

彼女はいったい、Twitterに何を書いたのだろう?

きっとぼたもちも同じだっただろう、俺たちは示し合わせたかのように携帯電話を取り出して、Twitterのアプリを立ち上げる。

……そして『ぼたもちジャック』と入力し、検索をかけた。

検索結果は、三件。

「…………」

その内容を見て、俺たちは思わず顔を見合わせた。


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AkAri@寝坊 20:01

今日のメガラブイベ戦利品! 寝坊しちゃってギリギリになっちゃったけど、小説本衝動買いなり〜。サークルぼたもちジャック様のほなりお本、、、読むの楽しみ!

(添付:本の画像)



幼女@納豆カレー(ガ15b) 19:48

今日はメガラブイベントお疲れさまでした! おかげさまで納豆カレーの新刊完売ぜよ! やっぴー。感想待ってる! 次は冬コミ〜(予定は未定w) あっ、ひとつ心残りが……向かいのサークル、ぼたもちジャックさんの小説本が気になってたのに買えなかった〜(泣 通販やってるかなあ



るびぃ准将 19:12

なんとなく買ったほなりお本読了。ぼたもちジャックマジ神

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「……は?」

複数人の手によって本の感想が記されていた。

だがそんなはずはない。悔しい事実だが、本はブラン・ノワールの手にしか渡っていないのだから。

一体、何が起きているってんだ?

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