プロローグ メテオラを聞かせて

「ほぼ全滅……だね」

なみは机に突っ伏した。傍らには部活動の大会での戦績が記されたプリントが置かれている。

「まあ、うちの高校は平凡な進学校だから、こういうのはパッとしないわよね」

まるで自分のことのようにショックを受けている穂波に、みずほは正論を言いながらプリントをもう一度見た。


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【各部活動における夏期大会の成績一覧】


野球部…………一回戦敗退(0対10コールドゲーム)

サッカー部…………一回戦敗退(1対7)

バスケ部…………一回戦敗退(22対89)

バレー部…………大会不出場

ハンドボール部…………不戦敗

テニス部…………団体:一回戦敗退 個人:県大会出場(1年・花園莉音さん)

ラグビー部…………大会不出場

卓球部…………一回戦敗退

柔道部…………一回戦敗退

剣道部…………大会不出場


クイズ研究部…………地区予選敗退

囲碁部…………予選敗退

美術部…………入選1点(1年・亀田豊歌さん)


《生徒会からの連絡》

柔道部で1名骨折、テニス部で1名ももの肉離れと、大きな怪我が立て続けに発生。

学生の本分は学業です。部活動での怪我が日常生活に支障をきたしては元も子もありませんので、各部で活動の見直し、ストレッチ等準備運動の徹底をお願いします。


橙坂高校生徒会


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「…………」

何度見ても言葉にならない。……というか、お話にならない。

いくつかは朗報と呼べる情報も盛り込まれているけど、そのほとんどが暗いニュースだった。

プリントを発行したのは生徒会のようだが、なぜこれを全校生徒に配ったのか、その意図を問い質したいほどだ。

穂波は未だにうなだれている。

「う〜ん。たしかにウチにはスポーツ推薦とかもないし、他の高校に比べるとちょっとアレだけど……でも、なんだろう。もっとこう……」

「もっと?」

「うん。もっと……」

「?」

穂波は言葉を探しているようだった。一本気な彼女にしては珍しい態度だ。

みずほは不思議でならなかった。

いくら同級生たちの部活の成績が良くないからって、どうして穂波はここまで落ち込めるんだろう。冷酷に聞こえるかも知れないけれど、正直言って関係ないじゃない。

——だって私たち、帰宅部よ?

でも、穂波がこれだけ悩んでいるということは、そこに自分が気づいていない『何か』が存在するのだろうともみずほは感じていた。

「うちの高校が弱い理由があるの?」

みずほが訊ねると、考え込んでいた穂波は静かに首を振った。

「いや、そうじゃないんだ、きっと」

「そうじゃない?」

「たぶん、みんな弱くないんだよ」

「……ほとんど一回戦敗退だけど?」

いや、別に負けた人を責め立てている訳じゃない。ただ『弱くない』という意見に対して事実を述べただけだ。

「違うの。そうじゃなくて!」

穂波は立ち上がり、拳をぐっと固く握りしめた。何かの確信を抱いたようだが、みずほにはさっぱりわからない。

「みんな、頑張ってるんだ」

うんうん、と自分の中で納得した様子の穂波。

意味が分からなかった。

だけど、みずほは自分なりに穂波の考えを推察してみた。

「つまり、部活動は精神の鍛錬の場だから、大会で負けたとしても鍛錬はできていて、それは目的を果たしているから『勝利』ってこと?」

「ちっがーう! ぜんぜん違う!」

「はあ?」

穂波はぷりぷりと怒る。……違ったようだ。いい線いってると思ったのだけど。

「ああもう、どうして分かんないかなあ! みずほちゃんなら分かってくれると思ったのに」

そんなことを言われても。

「だから〜、みんな頑張ってるんだから、ずっと負けてばかりいるわけないじゃんっていうか、あとはもう一押しっていうか……」

「分かった。……つまり穂波は、頑張った人が報われないのはおかしいと思ってるのね?」

「う〜ん……」

今度こそはと思ったが、これもはっきりとピンときてはいないようだ。

「近いと言えば近いんだけど……なんて言えばいいの……?」

いや、私に分かる訳がない。みずほは困惑した。

穂波は腕を組んで言葉を探している。

「う〜ん。だから、勝ち負けってさ、実力の差だけで決まるわけじゃないじゃん?」

「ほとんど実力で決まるような気もするけど」

「でも、全部じゃないでしょ?」

「運もあるってこと?」

「運というか……瞬間のきらめきというか……?」

きらめき……? きらめきで勝負が決まるの……?

だけど、ほんの少しだけ——空気中の二酸化炭素の割合くらいは、穂波の言うことも理解できる。

「まあ、たしかに下馬評がどうあれ『勝った方が強い』という価値観もあるくらいだし、そういう意味では『実力』は単純には比較できないね」

「そうそう! そういうこと。……だから、みんなに足りないのは——」

「足りないのは?」

「そう! 勝利の女神だよ!」

そして穂波は間髪入れずにみずほに提案した。

「よし! チアリーディング部を作ろう!」

穂波はその燃えるような瞳でみずほを真正面から射抜く。

「……なぜそうなる……」

頭がくらくらする。視線で射抜かれてたじろいだ訳ではない、が……穂波にこう出られるとみずほは弱い。

今に始まったことではないが、穂波は思い込みが激しい。これと決めたら即実行という超行動派(というか強情?)人間なのだ。

「勝利の女神になるんだから!」

「はいはい。止めたって、無駄だもんね」

「にっしっし〜」

穂波の笑顔を見ていたいという理由で、みずほは仕方なく頷いた。


——アニメ『女神ラブ!』第一話より



少なくとも現時点で知り得ない未来がある。

このシーンの直後、穂波はすぐさまチアリーディング部を設立する。

次に、一週間ほどで、校内で唯一の県大会出場者であり、現在はももの肉離れを起こしているテニス部の一年生・ 花園おんをチアリーディング部に引き込む。

同時に、美術部の作品展で入選を果たした一年生・ 亀田ゆたもチアリーディング部に転部する。

穂波、みずほ、莉音、豊歌の四人は、チアリーディング部のコアメンバーとして、『勝利の女神』になるべく奮闘し、互いの結束を高めていく……。

アニメ『女神ラブ!』は、青春群像劇なのだ。

そう俺は強く主張したい。





「小説本です! どうぞ、立ち読みだけでもしていってくださ〜い!」

「…………」

「メガラブ小説本です! どうぞお手に取ってくださ〜い!」

「…………………」

ちくしょう。なんでだ。

世間は冷たい。ひどく世知辛い。

次々と前を通り行く人々ににこやかに声を掛けまくるが、耳には届いても心にまでは響かないらしい。

彼らはまるで、路傍の石ころでも見るような目で俺を見て……そして、すぐに興味をなくすんだ。

なぜだ? これが漫画ではなく、文字ばかりの小説本だからか?

——いや、答えは分かりきっている。

面白くなさそうだからだ。

同人即売会。それは、残酷な世界だ。

面白そうな本は売れて、面白くなさそうな本は売れない。

シンプルだが、鉄の掟。

人気サークルが数時間で数千部を売りさばく一方、俺たちのような弱小サークルは下手すれば一日で一部も売れない可能性だってある。

それは恐怖にほかならない。

売れない本なら、作らない方がよかった——そんなロジックさえ頭をよぎり、まるで自分の存在価値さえ否定されているような気分になる。

「新刊五百円です! 今ならイラストペーパーが付きますよ〜」

我ながら、なんて良心的なんだ。涙が出そうだ。

二百ページほどの小説本にイラストペーパーがついて五百円。儲け度外視の超優良設定である。

——だというのに。

イベント開始から三時間が経った今も、本はまったく売れていなかった。実売ゼロ。

「…………堪えるぜ……」

一冊でも同人誌を作ったことがある人なら理解してくれると思うが、いくら同人即売会が趣味の場だとはいえ、本を作るというのはそれなりに大変なことだ。

視線を落とし、長机を見る。

悲しいまでに綺麗に平置きされたこの本を作るのにだって、およそ三カ月かかっている。

……それをたったの五百円で人の手に渡そうというのだから、かなりの奉仕精神なのだ。

などと考えている間にも、次々と人が俺の前を歩き去っていく。

チラリと見てすぐやめる人、そもそも見向きもしない人、目的地へ向かう通路としか思っていないのか足早に通り過ぎていく人。

様々だが、売れないことに変わりはない。

「おっ。イラスト可愛い」

と、たまに立ち止まっても、本を開いた瞬間に「うげっ」と言って去ってしまう人もいた。文字ばっかで悪かったな。ポスターにも『小説本』と書いてるだろうに。


十時に開場して、二時間、三時間、四時間と時は過ぎ……十五時の閉場まで一時間を切った。

未だ実売ゼロ。

昼飯から戻って来た相棒のぼたもち(もちろんペンネーム)が、小さくうなだれる。

「……今日は反省会だな」

ぼたもちだなんて可愛いペンネームだが、男だ。なかなかのイケメンだが、中身が少し残念なタイプ。

俺は無言で頷く。返事をするのも煩わしいほど心が荒んできた。

まったく、何だってンだ? 

なぜ俺の本が売れない? 自信作だ。読んでさえもらえれば、人々は俺の才能に気づいてひれ伏すはずなのに。

俺は素晴らしいものを書いているはずなのに、世間がバカだからそれに気がつかない——そんな気持ちがまったくないと言えばそれは嘘になる。……いや、世間の人間が皆バカだと言いたいわけじゃない。要点はそこじゃなく、そう思いたくなるほど頑張って書いたし、自信があるということだ。そこは履き違えてもらいたくない。

と、そこにふらりと少年が寄ってきて、立ち読みを始める。

ページをめくる彼の表情には、いくらかの純粋な『期待』が表れていた。『面白そうな本だ!』という心の声が聞こえるかのようだ。

——チャンス。もしかしたら、今日唯一の売り上げになるかもしれない。しかし立ち読みする人に話しかけるのは押し売りのような気がして、ポリシーに反するのでじっと見守る。

「…………」

「…………」

少年はページをめくる。

「…………」

「…………」

沈黙。さらにページをめくる。

——しかし結局、彼は本を元の位置に置いて、ペコリと会釈をして行ってしまった。

「お前、ガン飛ばしすぎ……」

横からぼたもちが俺を非難する。心外すぎる指摘に当然異議を唱える。

「は? 飛ばしてねーよ」

「自覚ないのかよ!? 買え買えオーラ出すぎてて少年ビビってたから……」

「そう……なのか?」

まったく気づかなかった。そんなに怖い目をしていたのか。

たしかに、そうでなければあの期待に満ちあふれた少年が本を買うのをやめる理由が見当たらない。(読んでみて面白くなかったから、という線はここでは考えない。なぜなら面白いはずだからだ)

「今売れなかったのはお前のせい」

どこか遠くを眺めながらぼたもちが言う。

「……やめようぜ」

「えっ!? やめんの……?」

俺の言葉に、ぼたもちは驚いて懇願するような視線を向けた。

「いや、そうじゃなくて……。責任のなすりつけあいをやめようって」

「なんだ、そういうことか……」

ぼたもちは胸を撫で下ろした。同人活動をやめようと言ったと勘違いしたらしい。変な部分で可愛いやつだ。

「活動はやめねーよ。俺には野望があるからな」

「ああ、そうだったな」

そう。俺には大きな野望がある。だからこんなことで——即売会で一部も売れなかったからって、腐ってる暇なんてないのだ。

心の中で力強く拳を握る。

と、その瞬間——

視界に闇のような黒い塊が飛び込んできた。


「ほう。いい眼を持っているな」


気づけば、目の前に一人の少女が立っていた。

「……は?」

思わず固まる。

なぜって——その少女の風貌が、俗に言うゴスロリファッションというやつだったからだ。

モノトーンを基調としたドレスのようなフリフリの服。

髪は眩い金髪を縦にロールさせている。ひとつ間違えればキャバ嬢のような髪型だが、不思議と静謐さが保たれていた。

肌は病的なまでの白。太陽の存在を知らぬ夜の世界を生きているかのようだ。

体型は小柄で、細身で少し骨張った肢体。

つまり総合して、絵に描いたようなゴスロリ少女だった。美少女であるのは間違いないが、生気があまり感じられない。まるで人形だ。

彼女は、いかにも不遜な視線でじっと俺を見ている。

何を考えているのかまったく読めない。出方を待っていると、彼女は俺にそっと問うた。

を聞かせてもらおう」

「……メテオラ?」

「いかにも。その胸に宿す熱き野望——すなわちメテオラを」

少女は不敵な笑みをこぼしながら唇を舐めた。

ああ、感情がなさそうに見えたけど、そんな表情もできるんだな……と妙に感心しながらも、俺は頭を掻いた。

「ちょっと意味が分からない」

いや、意味が分かったところで真面目に話を聞き入れる気もさらさらないんだけど。

見るからに関わっちゃいけない『ヤバい奴』だった。メテオラとか言われてもマジで意味が分からないし、本を買う気がないならできるだけ早く去ってもらいたい。

どうしたもんかな、と投げやりな視線を向けると、彼女は「ほう!」と瞠目した。

「やはりその眼、素晴らしい。上質の魔力クレアを得られそう……!」

眼? クレア? 意味が分からない。頭のネジがブッ飛んでるとしか思えない。

コスプレかと思ったが、いわゆるゴスロリファッションであること以外に、特定のキャラを真似ている要素はなかった。

見た目は中学生ほどだろうか。不自然なほどキューティクルが光る金髪はウィッグのようだ。どこか弱々しさを残した灰色の瞳だが、放たれる眼光は鋭い。体つきは病弱そうだが、不思議とオーラがあってゴスロリが様になっている。

やけに俺の『眼』を褒めるのも意味が分からない。『いい眼を持っている』ってどういうことだ? 視力は良い方だけど、きっとそういうことじゃないんだろう。

「さあ、少年よ。その瞳はどんな夢を見る? 同人活動アルケミアの果てに何を望む?」

「何を望む、って……」

年下にしか見えない少女に『少年』呼ばわりされるのはまったく心外だし、アルケミアとやらの意味もよく分からない。……ただ、何を訊ねられているのかは分かった。

俺がこの同人活動で、この即売会の先に、どんな野望を持っているのか——それを彼女は問うているのだ。

少女は本には見向きもせず、ただ真っ直ぐに、俺の目を見ていた。貫かれそうなほどの強い視線。

きっと答えるまでここを離れる気はないのだろう。だったらさっさと答えて満足してもらうしかなさそうだ。

仕方ない。俺の野望を話そう。

「俺は、壁サークルになりたいんだ」

「ほう………?」

壁サークル。同人即売会の会場の壁際に配置されるサークルのことだ。会場の内側に並んだテーブルに配置されるサークルとは違い、あらかじめ行列ができることが予想される人気サークルが壁際に配置されるケースが多い。

モンスター級の人気サークルであれば頒布数も数千部になる。これを一日で売るというのだから、商業誌顔負けの勢いだろう。瞬間的な風速であれば書店で売られている本を圧倒している。——ともあれ、壁際であればスペースを広く確保できるため、在庫置き場に困ることもない。それに、混雑によって隣接するサークルに迷惑をかけるリスクも減るし、差別化を図ることによって行列の整理が楽になる。

そういった人気サークルが参加するのであれば即売会の運営側としても集客が期待でき、イベントの盛り上がりが底上げされるので有り難いことだろう。

まさに即売会の花形。壁サークル——通称『壁サー』とは、人々の期待と羨望(と、時に嫉妬)を集めるサークルなのだ。

俺はそれになりたい。

しかしまだ彼女は続きを求めているようだった。期待に満ちた視線が痛い。

「——それで、俺の書いた小説で、明日も仕事頑張ろうって思えたり、また明日も強く生きていこうと思えたりする人がいたら、それが——」

「では、そなたの夢は他者の救済にあると?」

「ああ、」

と言いかけたが、はたと思い直す。

「いや…………どうだろう?」

腕を組んで考える。……なんか違うな。俺はそんなに清らかな善人じゃない。もっとドロドロとした野望が潜んでいる気がする。

人を助けるとかそういうことじゃない。そんなのはきっと建前だ。もし本当に根っこからそう願っているなら、小説なんてまどろっこしいものを選ぶだろうか?

だったら同人活動なんてせずに、ボランティアとか慈善活動をした方がよっぽどいいんじゃないか? 

どんな過程があったにせよ、俺は小説を選んだんだ。

時間もかかるし、伝わりにくいし、難しいし、うまくやらないと誤解を招きかねない、面倒な方法を選んだんだ。『人の笑顔が見たい』だなんて、そんな聖人みたいなことを言うべきじゃないのかも知れない。

だから俺の野望の根っこは、きっと——

「俺は、俺の書いた小説で、読者を打ちのめしたい。殴りつけるような、切りつけるような表現をしたい。カリスマになって崇められたい。褒められたい。読者の期待のさらに上を行って驚かせたい」

きっと、俺の本音はこういうことなんだろう。卑しい奴めと罵られても、反論の言葉はない。

「…………」

しばらく、じっと見合う。

「(え、マジで何……? 俺、マズいこと言ったかな?)」

「(知るか……)」

謎のゴスロリ少女と睨めっこしながら、ひそひそと話す俺とぼたもち。

「……そなた、名は?」

少女はこちらを見ている。俺に訊ねているのだろうが、いまいち感情が伺い知れない。

「ジャックナイフだ」

これが俺のペンネーム。理由は特にないが、カッコいいと思ったから付けた。

すると彼女はニンマリと口角を釣り上げた。面倒なことに、どうやらお気に召してしまったらしい。

「ほう。自らをナイフと申すか。一度触れれば人を傷付ける、真に危険な存在であると」

「細かに解説されると割と死にたくなるけど、まあその通りだな」

そうありたいとは思っている。人に刃を突きつけるような小説を書きたいと。

「気に入った。……我が名はブラン・ノワール。光と闇カオスの中に眠る真理プロットを探求し、語終焉カタルシスをもたらす使者である!」

決めポーズなのか、彼女は——ブラン・ノワールとやらは、顔の前に手をかざした。

「うっわぁ……」

あまりに中二病全開の自己紹介に、思わず声が漏れてしまった。そうしないとこっちが恥ずかしくて消えてしまいそうだったのだ。

しかし、彼女はそんな俺の冷ややかな眼差しをものともしない。随分と強いハートの持ち主だ。そこだけは尊敬できる。いやマジで。

「そなたを選ばれし者セレクションと認めようぞ!」

彼女は声高らかに叫び、彼女は右手を天高く掲げた。

幼さの残る細い指を見て——それを美しいと思った次の瞬間、何も持っていなかったはずの右手に一万円札の束が出現した。

悲しい性か、つい扇状に広げられたそれを数えてしまう。

一、二……九、十枚。……つまり十万円だ。

「おお、すげえ……!」

俺は感嘆の声を上げた。手品の手際が良かったことと、高校生からすれば手の届かない大金を間近で見たからだ。

手品か? このゴスロリ少女——ブラン・ノワールとやらは、マジシャンだったのか?

「ここに置いてある魔術書グリモワールを全ていただこう」

「へ? グリモ……?」

少女は左手で机の上に平積みされた同人誌を指差した。その仕草さえも高貴で、キャラ作りが徹底している。

「この本を、すべて?」

机の上に並んだ本を見ていると、何かがヒラヒラと落ちた。

さっきの万札だった。十枚すべて。

「これで……本全部買うってこと?」

少女を見る。彼女は無表情できつくカールがかかった髪をふわりと揺らして頷いた。

「足りるな?」

「た、足りる……けど……」

「では全てもらおう」

そう言って、彼女は机の上に並べた本を、足下にあったキャリーケースにすべてしまいこんでしまった。

——まじで? いや、本が捌けたのは嬉しいけど……。

本をしまい終え、ケースの鍵をパチリと閉める少女。俺はどういう感情で、どんな表情でいればいいのだろう。わからない。

十万円をしっかり握りしめる俺を見て、彼女は悪魔のように口を歪ませた。

最終戦争ラグナロクの日は近い。運命はまた我らを引き寄せるであろう……ククク……!」

はあ? ラグナロク?

最後に訳の分からないことを言い残して、少女はキャリーケースを引っぱりながら優雅な足取りで去っていった。

「…………」

「…………」

顔を見合わせる俺とぼたもち。何が起こったのかよくわからない。

そこで思い出す。

「あっ、お釣り返してねえ……」

「別に要求されてないし、いらなかったんじゃね?」

「……女神なのかな?」

「いや、あれは○○○○だろ……」

ぼたもちはあまり誉められない言葉を使って彼女を表現した。文章表現を嗜む俺にはそれが少しだけ許せなかったので、彼の言葉を無視した。


ともあれ。

かくしてサークル『ぼたもちジャック』の同人小説本は、即売会イベント初参加にして初の完売を成し遂げた。

——謎のゴスロリ美少女たった一人の手によって。

彼女の気まぐれによって始まったこの物語が、すぐに俺たちの手に負えない事態へと転じていくこととも知らずに。

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