事実

 貸本屋の裏の階段から、二人は自室へ上がろうとした。すると、階下から二人を呼ぶ、鈴を転がすような声が聞こえた。この貸本屋を一人で営んでいる女主人である。

「あら、お帰りなさい。何処へ行ってらしたの」

「ああ、ちょっとね、調査ですよ。例の、喫茶店のやつです」

「あら、まあ……ご苦労様。御夕飯、どうします? あとで私、お部屋に運んでおきましょうか」

「そいつあ有難い。じゃあ、お願いします、

 女主人、――元畑もとはた佳代子かよこはにっこり笑って、また家へ入っていった。空と潔子は、その様子をぼんやりと眺めていた。


***


 元畑佳代子。二年ほど前から、此処S坂で貸本屋を始めた、器量のいい女性。

 うつろたちがこの貸本屋で暮らし始めた時、二人は佳代子についてこのくらいの情報しか知らなかった。彼女に良人があったことも、その良人の不倫が原因で別居を始めたという事も、何一つ知らなかったのだ。それが、近頃の喫茶店での事件で、空たちはこの女主人について、知らなくていいことまで知ってしまった。あの事件の被害者、元畑辰弥が、この佳代子の良人であるということ。あの小橋廉蔵と、ただならぬ関係であったこと。これらの「本当なら知らなくてもよかった事実」の全ては、あの事件に密接に関係しているのだ。空は佳代子の運んでくれた食事をつまみながら、ぼんやりと思考を巡らせていた。

 事件が起こった日のことだ。空は、夕食の席で、佳代子にそれとなく事件のことを話した。すると、佳代子は目に真珠のような涙を溜め、顔を伏せた。涙ながらに、辰弥が自分の良人であること、美江が辰弥の不倫相手であることを話したのだ。つまり、この二人を殺す動機が、彼女には充分あるということだ。更に、佳代子の部屋の押し入れから、例の事件で使われたものとしか思えぬ、血まみれのガラス瓶と縄が見つかった。……

「潔子ちゃん、あの凶器は、佳代子さんのお部屋にあったんだね」

「ええ、そうよ」

「そうか、そうなんだよなァ……」

「空君、どうしなすって?」

 彼が煮物の芋を箸先で弄ぶのを咎めるように見ながら、潔子が尋ねた。箸を置き、空は膝に乗せていた襟巻を引っ掴んで、くちゃくちゃにする。

「空君、お行儀が悪いわ。……あなた、もう十中八九は掴めてらっしゃるんでしょう。だったら今は、まだ分かっていない一、二を綺麗にまとめるために、しっかり御飯をお食べなさいな」

「は、はい……」

 空は肩を竦めて、再び箸を取った。どっちが保護者だか、分かりやしないな――しかしその口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。

 そう、十中八九は掴めているのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る