男女

 先に述べた通り、喫茶店「黒百合」は、昼間は純喫茶、夜間は特殊喫茶といった風な、少し変わった営業をしていた。それゆえ、女性の給仕が圧倒的に多いのである。ここの店主は女のような美しい顔立ちの男で、名を小橋こばし廉蔵れんぞうといった。この廉蔵という男は、既に四十近い年齢であったが、独り身で、あちらこちらでの自由奔放な肉体関係を築いていたという。

 さて、その廉蔵が独りで暮らす住宅の一室で、茶を啜るうつろと潔子の姿があった。

「やあ、旦那、どうもすみませんね。大変なときに押しかけてしまって。……」

「いやあ、構いませんよ、書生さん。暫く店が開けられないから、なかなか暇でね。こうしてお客が来てくれると、気も紛れますよ」

 廉蔵は快活に笑い、自身もぐっと茶を飲んだ。空と潔子は、その廉蔵の様子をじっと眺めている。廉蔵が湯呑を置くと同時に、空は如何にも悲しそうな顔をして、低い声で言った。

「旦那、この度は本当に……僕、元畑さんとは多少お話した程度でしたけど、旦那はさぞかしつらかったでしょう。元畑さんとは、古い仲だったそうじゃあないですか」

「ああ、全くです。たっちゃんの奴、俺より先に逝きやあがって……喧嘩だって、一度しかしたことなかったんですよ。私たち三人、仲が良かったんです」

「三人?」

 食いついたのは潔子だった。廉蔵は部屋の隅に置いてあった写真帖を卓袱台に広げて見せ、

「ほら、これが小学校の卒業写真ですよ。これが俺、これがたっちゃん、そしてこれ、これが、たっちゃんの嫁の佳代子です」

 廉蔵の指先にいるのは、男とも女ともつかぬが、着物で辛うじて男とわかる廉蔵と、空の知る頃よりはいくらか張りのある顔の元畑辰弥、そしてもう一人が、驚くほど器量の良い娘、佳代子だった。他の二枚は、三人で並んだ写真で、廉蔵と佳代子の美しさが、元畑辰弥の平凡な笑顔をみじめなものにしていた。空は口先を尖がらせ、写真を見比べている。

「いやはや、これはこれは……旦那、変わらないんですねえ。ああ、これが佳代子さんですか。へえ、別嬪さん。こう言っちゃあなんですが、元畑さんよかァ、旦那の方が釣り合ったんじゃあないですかね」

 廉蔵は快活な笑顔をさっと仕舞い込んでしまった。目を見開き、息さえ止めて、空の顔をじっと見据えている。潔子が、顔を上げて、

「おじさま、ずっと佳代子さんのこと、好きでいらしたんじゃあなくって? 三人で映ってるこれらの写真、おじさま、いつも真ん中にいらっしゃるじゃない。女の方がお一人、男の方がお二人なら、女の方が真ん中にいるほうが収まりがいいわ」

 潔子の言うとおり、二枚の写真は、どちらも廉蔵が中央を陣取っていた。それも、隣合っていた元畑辰弥と佳代子の間に、無理やり入ったような、不自然な立ち方である。空が更に口先を窄めて写真を眺めていると、廉蔵が力いっぱいに畳をぶっ叩いて叫んだ。

「やめてくれ!」

 弾かれたように、潔子と空は顔を上げた。潔子は全くの無表情だが、空はぎょっと、目をまん丸くしている。廉蔵は頬を真っ赤にして、

「確かに俺は、佳代ちゃんのことを想ってましたよ。物心ついたときから、何年も何年も! そして、あんな器量のいい子だからね、当然、たっちゃんも佳代ちゃんのことが好きだったんです。でも、佳代ちゃんは最初、俺を選んだんだ。俺たちは、互いに愛し合っていたんです。だから、写真じゃあいつもそういう構図になるんですよ」

 この色男の美しい顔の裏には、何が隠されているのかしらん。空は、ただそればかりを考え、じっと怒れる廉蔵の顔を見つめていた。ふと、空は口を開いた。

「旦那、何をそんなに怒ってらっしゃるんです。……まさか、佳代子さんを、元畑さんに奪われたからですか」

 廉蔵の瞳が、大きく揺らいだ。しめた! ――空は、抑えきれぬ笑みを襟巻の中に隠し、小首を傾げて、不思議で仕様がないという表情を装う。いよいよ廉蔵は美しい顔を憎悪に歪め、噛み付くように叫んだ。

「佳代ちゃんは、たっちゃんに手籠めに……あ、いや、その、たっちゃんとの間に子ができたと言うんだ。佳代ちゃんは律儀な子だから、そのままたっちゃんと結婚したんです。そのときに、俺とたっちゃんはえらい喧嘩をしたんですよ」

 廉蔵は怒りに任せ、すっかり饒舌になっていた。思うつぼだ――空はにやにや笑いを噛み殺しながら、廉蔵の言葉を、卓袱台の下に隠した手帖に書き綴った。

「はあ、そいつあ、また……旦那、辛いことがございましたね。それでもおゆるしなさったと、僕にはそっちが驚きですよ。流石は旦那、懐が広いといいますか……」

「ああ、まあ……失うのには、もったいない親友でしたからね。佳代ちゃんも、たっちゃんを嫌ってはいなかったから。二人は案外、良い夫婦になったんですよ。俺にはそれが、憎らしくも喜ばしくもあったんです。それ以来、まあ噂になっているんでご存じでしょうが、俺は自棄になって、あちこちで体を売るようなことを始めてね。その繋がりから、喫茶店なんか開くことになったんですが。今、それはそれで良かったと思ってますよ。まあ、喫茶店なんかにあんたみたいな綺麗な人が、小さい子を連れてくるのには驚きましたがね。確かに純喫茶の顔も持ってはいたが、基本は特殊喫茶なんだもの」

 そりゃあそうでしょうな。空は苦笑し、襟巻の端を指先でいじった。潔子が手洗いに行くと言って部屋を出てから、空は声を潜めて廉蔵に尋ねた。

「しかし、その……恋人を孕ませただなんて、旦那、よくゆるせましたね。そんなこと、たとえ親友でも普通はゆるせませんよ。いったいどうしてなんです」

「何だって君、そんな探偵みたいに色々尋ねるのです。探偵小説の読みすぎじゃあないんですか。まあ、興味があるのでしたら、教えて差し上げましょうか。ちょっと、君には早い話かもしれませんが、なあに、一種の社会勉強と思ってお聞きなさい」

 廉蔵は、目の前にいるが、警察に協力している探偵だとはつゆ知らず、ぺらぺらと語りだした。空の、狐のような笑みには目も呉れずに……。

「たっちゃんも、流石に後ろ暗く思ったんでしょうよ。佳代ちゃんの気持ちが、俺に向いていることも知っていた。だからね、たっちゃんは、佳代ちゃんと俺が情を交わすことを、許してくれたんです」

「な、何ですって?」

 流石の空も、狐の笑みを引っ込めて驚いた。自分の妻を和解の道具として利用する辰弥も、それを享受する佳代子も、友人の妻と情を交わしていながら、悪びれもせずあちこちで女をひっかける廉蔵も、空にはとてつもなく恐ろしく、我慾に満ちた邪淫の悪魔のように見えてきた。

「それじゃあ旦那、その佳代子さんは、辰弥さんは勿論、あなたとも体を重ねていたと、そうおっしゃいますか」

「ええ、そうです。その通りです。二年前ぐらいまでね。それ以降は佳代ちゃん、家を出て行っちまって、滅多に会わなくなったんですが……私がたっちゃんの家に行ったときは、三人で良い思いを……おっと、この話はおしまいだ」

 潔子が戻ってきたので、廉蔵は話を打ち切った。手をぐっと固めた潔子が空に目配せすると、空は慌てて腕時計に目をやり、

「ああ、ええと、もう七時か。あっはっは、まだ日が短いですからね、お潔ちゃんもそろそろ疲れたろうから、僕ら、今日はもうお暇しますよ」

「あ、そうかい。そう、それが良い。じゃあ、気をつけてお帰り」

 頭が冷えたのか、廉蔵は顔を真っ赧にして、急き立てるように空たちを見送った。

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