その4 ごくごく平凡なボーイ・ミーツ・ガール

 ひどい夢を見た気がした。


 罰が当たったのだ、と思う。

 しかし、何に対する罰なのかは検討もつかなかった。

 親に無断で学校をサボったからかもしれない。

 ふと、夢の中で出会った少女の姿を思い出す。


――あの子。可愛かったな。


 色白、黒髪、ショートカットは、光久が女性に求めるささやかな外見的特徴であったが、あの子は完全にその基準を満たしていた。

 最初から夢だとわかっていれば。

 少しだけ後悔する。


 ちょっとナイフを振り回すくらいがなんだ。

 アニメや漫画の世界では、そういう美少女としょっちゅうねんごろになるではないか。


 現実は、嫌と言うほど灰色なのだ。

 夢の中でくらい幸せでいたい。

 そんな風に考えていると、誰かの話し声が聞こえてくる。


『どうやら、ずいぶん早まった真似をしたようで』

「ま、お互い怪我がなかっただけ良しとしましょう。……彼は?」

『隣の部屋に』

「わかった。このことはあたしから話しておく。“ショートケーキ”は、しばらくどっか行ってた方が良いと思うわ。芋の収穫があるんでしょ? 手伝いに行ってきたらどうかな」

『しかし……』

「まず、彼には安心してもらわなくちゃいけないの。あなた、見た目に威圧感があるのよ。フランケンシュタインの怪物みたいななりをしてるんだから」

『フランケン……?』

「そーいう本があるのよ」

『承知しました。……それでは、明日の朝には帰ります』

「うん」


 少しだけ間が空いた後、光久の居る部屋のドアが開かれた。

 光が漏れた方向に薄目を向ける。

 夢の中にのみ存在すると思っていた女の子が、難しそうな表情でこちらを見下ろしていた。


「うわっ」

 悲鳴を上げて、半身を起こす。


 唐突に現実味が押し寄せてきた。


 ――夢だけど、夢じゃなかった。……とか。


 頭を強く振って、正気を取り戻す。

 脳裏に焼き付いているのは、少女がナイフを振り回している姿だ。

 光久の中で、二種類の感情が葛藤した。

 一瞬、その感情に詩的な名前を付けようと試みるが、要するに生存本能と色欲である。


「ええと。その。……おはよう」

 気まずそうに少女が呟く。


「…………」


 数秒の逡巡。

 かろうじて生存本能が優先される。


 ――色白で黒髪の女の子は、この世に星の数ほどいるのだ。

 その中から、わざわざナイフを振り回す系女子を選ぶ必要はない。


「……そんな、物の怪を見るみたいな目をしないで」

 少女は、少し哀しそうに言った。


 想定していたよりかは、幾分理性的な台詞である。


「二度と刃物を振り回さないって約束してくれるんならな」


 心の底から安心するには、必要最低限の人権が保障されている必要があるのだ。


「あれは……、えっと、その。ちょっとした行き違いがあっただけなの」

 視線を泳がせながら、少女は言う。


「行き違い、ね……」


 どのような行き違いがあろうと、ナイフを振り回して解決せねばならないことがある時点で異常だ。


 緊張を解かないまま、腰を上げる。

 これ以上ここにいても、素敵なことは何一つ起こらない。

 そういう確信があった。


「もう大丈夫なの?」

「問題ない。……だいぶん楽になった」

「そう」


 どうやらここは、古めかしい木造家屋の一部屋であるらしい。

 床は少々痛んでいたが、掃除は行き届いているようで、不潔な感じはしない。


「怪我はない? どっか痛むところとか」


 少なくとも、こちらを心配しているのは本心のようだ。声には真剣味が感じられる。


「……ない。少し、身体はだるいけど」

「ああ。それは多分、“時空酔い”だと思う。まだ少し、頭がぼーっとするでしょ? 一種の高山病のようなものだから。身体が慣れてくれば、すぐに良くなるわ」

「ふーん。なるほど」

「あたし、上水流魔衣かみずるまいっていうの。よろしくね」

「……合原光久あいはらみつひさだ」

 言うと、奇妙な間が生まれた。


 魔衣は、光久を真っ直ぐに見据えて、口をぱくぱくしている。

 正気でない人間特有の何かだろうか。


 黙って少女を見ていると、

「ごめん……っ」

 喉に詰まっていたものを吐き出すように、言った。


 そして、頭を下げる。


「……何?」

「さっきのこと」


 “さっき”、というのは、どこからどこまでを指すのだろう。出会い頭にナイフを振り回したところまでか。それら全てを、「行き違い」という一言で済ましたことか。


「人違いだったのよ。……ええと。あたし、すごく悪いやつを追いかけてて。そいつの逃げた先に、たまたま君がいたもんだから……。悪かったわ」

「そうなのか」


 うなずきながらも、――だからといって、彼女の危険性が消滅した訳ではないし、警察に出頭すべきであるという事実に変わりはない――なんとか立ち上がろうと試みる。


「言いたいことはわかった。……うん。それじゃ、俺、帰るよ」


 「帰る」と言ったのはもちろん、この少女の半径1キロメートル圏内から離れるために必要だったからである。

 しかし、そこで少女は、何か不可解なものでも見るような目をした。


「帰る? ……君、帰るの?」


 まるで、そういう選択肢が最初から念頭になかったかのような口調だ。


「どこに?」


 あまりにも当然のことを聞かれたものだから、何かの暗喩だろうかと疑う。

 得体の知れない嫌な予感がしたが、とりあえず、応えた。


「……家。桜台駅の近くだけど」


 実際、ここはどこらへんなんだ?

 そう続く言葉は、魔衣の言葉に遮られた。


「サクラダイ?」

「……ああ。練馬区の」

「ネリマ? ……ああ、練馬町のこと?」

「はあ」

 光久が胡乱に応えると、魔衣は一旦、頭を抱える。


「……あれ? ちょっとまって」


 そして、眉間を押さえながら、なんとか言葉を紡ぎだす。


「ひょっとして君、元の世界のこと言ってる?」


 光久は答えない。

 質問の意味がわからなかった。


「まさか……君、なんの説明されてないわけ?」


 魔衣の表情に、見る見る苦渋が満ち溢れる。

 やがて、沈黙を肯定と受け取った彼女は、「あちゃー」と額に手を当てた。


「ときたまそーいう人がいるって聞いたけど。……困ったなあ。詳しい説明は全部こっち任せってことか」

「そういう人って?」


 訊ねると、

「“神は気まぐれ”ってことよ」

 少女はため息交じりに応える。


 答えになってないぞ。

 そう反論してやろうかと思ったが、魔衣自身、どう言えば良いか迷っている様子だ。

 やむなく、光久は質問を切り替えた。


「……で? ここはいったい、どこなんだ?」


 要するに、そこさえはっきりしてしまえば、何もかも解決するのだ。

 この得体の知れない不安感の正体は、そこにある。

 すでに、ここがずいぶん気温の高い場所であることには気付いていた。上着を羽織る気にすらならない。長袖のワイシャツは肘までまくっていたが、できればそれさえ脱ぎ捨てたいほどの陽気だ。

 ほんの少し前まで、冬のまっただ中、あんまんが美味しい季節だったはず。

 このことから考えられる可能性は、二つ。


 一、ここは、遠い異国の地である。

 二、半年以上、意識を失っていて、季節の移り変わりの記憶がすっぽり抜けている。


 どちらの可能性も均等に検討してみるが、結論はでない。

 どちらの推論も、あまり決定的ではない気がしていた。

 何より、一介の男子高校生にすぎない自分が、どういう理由でこんな目に遭わされているのかが理解できない。

 魔衣はというと、どう説明するのが最適か、ずいぶん悩んでくれているようだ。

 そして、一つの結論を導き出す。


「うん。……やっぱ、あれを見せるのが一番早いかな」


 そして光久の手を取り、くい、と控えめな腕力で引っ張った。


「ついてきて」


 魔衣の後ろに続いて、廊下に出る。

 廊下は最近、増築された痕跡が見られた。廊下は広く、天井は高くなっている。


 ――こういう廊下を歩く人間がいるなら、よほどの巨体なのだろう。


 ぼんやりとした頭で考える。

 廊下を十メートルほど進むと、玄関に行き当たった。

 そこには、光久の革靴が綺麗に並べられている。よく見ると、靴はピカピカに磨かれているようだ。もっとも、感謝する気にはなれなかったが。


「あのね」

 少女はどこか、いたずらっぽく言う。


「たぶん、度肝を抜くと思うから。覚悟しといて」


 そうハードルを上げられると、何を見ても驚く気がしなくなるものだが。

 覚悟を固めつつ、玄関の扉を開いた。

 光久がいた建物はどうやら、小高い丘の上に建てられているらしい。

 眼下には、時代劇でしか見たことがないような、小さな農村が見えた。

 村では、数十人の人々が農作業をしている。


「……ん?」


 さすがに度肝を抜かれるほどではなかったが、確かに少し、驚くべきものが見えた。


 その村に住む人々の髪は、いずれも鮮やかな緑色をしていたのだ。


 光久の知る限り、アニメのキャラクターを除いて、緑髪の人間というのは存在しない。

 と、なると、ここの村人は揃って髪を染めていることになる。

 近所の美容院はさぞかし儲かったことだろう。

 遠目に見ても、それが異様な光景だということがわかった。

 都会から隔絶された村。揃いの奇妙なファッション。

 そのことから、推測できることは。


――何らかの、奇妙な習慣がある団体(宗教系?)による拉致。


 そう考えると、いろいろなつじつまが合う気がした。

 と、なると。

 この、上水流魔衣と名乗った女の子も、その手の団体から派遣された使者か何かだろうか? その割には、振る舞いがおかしい気がするが。

 視線を向けると、少女は少しじれったそうに口を開いた。


「……上よ」

「上?」

「度肝を抜くって言ったでしょ」


 そう言われても、もう十分に驚かされた気がするが。

 意味がわからないまま、視線を少女が指さす方向に向ける。


 そして合原光久は、 を目の当たりにした。


「う、……うああああっ! うああああああああああああああああああああああっ」


 絶叫する。

 絶叫して、腰を抜かす。

 腰を抜かしたあと、何かの間違いがあってはいけないと思って、念のためもう一度絶叫した。


「た、た、……た……た」


 喉がひくつく。

 目の前にある光景が信じられなかった。



!」



 口に出すと、その光景のデタラメさが、よりはっきりとわかった。


 これが何らかの比喩表現であれば、どれだけ良かっただろう?

 見上げた先にあったそれは、光久が知る太陽とは、まさしく似て非なるものであった。

 タロットカードや漫画なんかで、太陽に顔が描かれているものがある。



 光久が目の当たりにしているのは、まさしくそれ であったのだ。



*        *        *


 この世界の“太陽”に関する伝承は、なかなか興味深い書物が残されている。


 とある人の言葉を借りるのであれば、“太陽”は、「生と死の象徴」であり、「困ったとき、寂しいときに話を聞いてくれる無口な隣人」であり、「ただし、詩や歌に関する論評は極めて厳しい」存在でもあるという。この“はじまりの世界”において“太陽”は、あらゆる文化的な活動を守護者であるようだ。

 

 不可解なのは、ここでは太陽光と植物の成長にはなんの因果関係もない、ということ。

 光合成だとか。葉緑素だとか。

 “造物主”を名乗ったチビッコが、あそこらへんの完成されたシステムを思いつくのは、もう少し後のことだったらしい。

(2015年3月19日 記)


*        *        *

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