その47 心の鍵

 綱渡り、だが。

 らいかとの戦い方がわかってきていた。


――要するにコイツは、力自慢なだけの子供だ。


 はくやによると、“魔女”は感情の爆発によって強くなるという。

 この“強くなる”という性質は、単純な膂力の増幅を指すようだ。

 殴り合い、立ち合いの技術、経験などが、ふと頭の中に浮かんでくるような、……そういう便利なものではないらしい。


――直撃さえ避ければ、なんとか渡り合えるかも知れない。


 全身の感覚を、空手を習っていた時代のそれに戻しつつ、紙一重で“魔女”の一撃を避けていく。

 同じことが二度、三度続いて始めて、らいかの表情に苛立ちが見え始めてきた。


「ンモー。ちょこまか動くの、やめていただけマセン?」

「いやだッ! 殴られたくないからな!」


 自然、勝負は防戦一方となっている。

 このままでは、ジリ貧であることは目に見えていた。

 反撃する必要があるのは、わかっている。


「――ッ! くそッ」


 それでも。

 先ほどから、どうしても攻撃の手が伸びないでいた。

 実を言うと、これまで数度ほど、反撃の機会を逃している。


――あいつ、へらへら笑いながら人を殺すから。気をつけて。

――あのピンク髪は、良き仲間ではなかった。そうだろう?

――“魔女”とは、災厄である。


 嫌な記憶が、次々思い出された。

 その中でももっとも鮮烈なのは、


――でもナンカ、スグ死にそうデスね、アナタ。

――“恐怖”だとか、“死”だとか。そういうのとは縁遠いセカイからやってきたご様子デ。


 彼女に殺されかけた、あの時の経験。


 背筋を、冷たいものが撫でる。

 目の前の敵は、邪悪なるものだ。

 殴っても許される。

 傷つけても許される。

 殺しても、許される。……そのはずだ。


――果たして、本当にそうなのか?


「戦いの最中に迷うのは、新兵がかかる流行病のようなものだ」

 この場にシキナがいれば、そう言って叱咤されていたかもしれない。


 迷いは、光久の動作を鈍らせた。

 それは、ほんの一瞬の隙であったが。


 気付いた瞬間。

 らいかの攻撃が、眼前にまで迫っていることに気づく。

 歯を食いしばって、


――マズいッ! かわせな……ッ!


 らいかの右拳が、顎部へと突き刺さった。

 いとも容易く奥歯が破壊され、口の中いっぱいに血の味が広がる。


「……ぐッ」


 同時に、苦し紛れに繰り出した前蹴りが、らいかの腹に直撃した。


「……げほっ!」


 気の入っていない蹴りだったが、みぞおちに当たったらしい。

 まぐれ当たりのカウンターをもらって、らいかは子供のように尻餅をついた。


――いまだッ!


 瞬間、本能的な憎悪が、光久の全身を焼く。


 自分を傷つけた目の前の女を、滅茶苦茶にしてやらなければ気が済まなかった。自分にはそうする権利がある気がしていた。

 口から血を吐き出しながら、光久は少女にのし掛かる。

 敗者を踏みつけにするとき特有の、ぞくぞくするような快感が全身を満たしていた。


――首を絞める。……殺してやる。


 世界を滅ぼそうとするもの。

 他者の生命を踏みつけにするもの。


――“魔女”めッ!


 光久の親指が、らいかの喉元を押さえた。

 力を込めると、その首をつないでいた糸が、ぶちぶちと千切れていく。

 そこから、ぞっとしない量の血が溢れてきた。


 普段の光久であれば、それだけで怖じ気づいていたかもしれない。


 だが。


――死ね!

――死ね! 死ね!

――死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!


 殺人の一瞬。

 多くの凡人が良心の呵責に阻まれ、“その一線”を超えることに躊躇するという瞬間。

 光久の心には、打ち震えるような歓喜だけがあった。

 美空らいかと、視線が交錯する。


「――………………」


 少女は、小さく微笑んでいた。

 甘く囁く、娼婦のように。

 交尾に誘う、蛞蝓のように。


――そう。上手デスよ。そのまま続けて下サイ。


 そう言っているように見えた。

 心臓が軋むように痛む。

 その時。


――私たちね、これでも、仲良し四人組だったのよ♪


 ふと、はくやと名乗った”魔女”の言葉が脳裏に蘇った。

 ほとんど反射的に、親指の力が緩む。

 友達。はくやは、らいかをそう表現していた。


――そうだ。

――そもそも俺は、殴ったり蹴ったりで事態を解決するために、ここまできたのか?

――落ち着け、合原光久。お前は本当にこんなことを望んでいたのか?


 自問する。

 答えは、火を見るより明らかだった。


 ずき、と。

 再度、心臓が締め上げられるように痛む。


「ウウッ……」


 あまりの痛苦に、片手が胸に伸びた。


「なっ、これは、――!」


 同時に、戦慄する。

 いつの間にか、胸のあたりから銀色に輝く鍵のようなものが突き出ていたのだ。


――いま、”鍵”はあなたと共に有ります。


 不意に、……いつだったか、手記に書いた夢の光景が蘇る。

 胸に突き刺さった“心の鍵”を見て、光久は本能的に理解した。


――こいつ、


 光久の身体から、力が抜けていく。


「お前。……お前……」


 うまく、息ができない。


「お前、……まさか、俺に殺しをさせようと……」


 らいかの表情に、明らかな失望が浮かんだ。


「ナルホド。

「……?」

「“不思議なコトが起こりにくいセカイ”、……だからアナタが選ばれた訳デスか」


 ”魔女”は視線を逸らす。


 その時。

 光久には、彼女の心の有り様が、手に取るようにわかる気がした。


――らいかは、コインを投げたんだ。


 何故?

 答えは明白だ。

 彼女はまだ、迷っている。

 天秤にかけている。


 この手で世界を滅ぼすか。

 誰かの手によって滅ぼされるか。


「要らないなら、返してもらいマス」


 と、らいかの手が、光久の“鍵”に伸びた。


「……ぐあ……ッ」


 自分の身体の一部が失われるような感覚の後、“心の鍵”が引き抜かれる。

 “鍵”の長さは小刀ほどだろうか。先ほど見かけたもう一本の“心の鍵”と一対のデザインになっていて、こちらは一回り小さい。


 らいかは、寝たままの体勢で、その“心の鍵”を振るった。

 馬乗りになっていた光久は、羽虫のように吹き飛ばされる。

 身体をしたたか打ち、ごろりと床に転がった。


「………………ごふっ」

「やれやれ。……もう少しで逝けそうだったのに。興ざめデス」


 今、らいかの両手には、二本の“鍵”が握られている。

 長さの違う“鍵”の二刀流が、“魔女”本来の戦闘スタイルらしい。


――なんだ。こいつ、本気を出してすらいなかったのか。


「今度こそ……終わりデス。“造物主”サマ」


 つかつかと光久に歩み寄りながら、らいかが言う。

 その口調は、どこか上の空だった。


「……ふむ」


 “造物主”の口調は険しい。

 らいかは、光久の腹部に手を遣った。

 何をしているのかと思えば、……どうやら、光久の腸を切り取っているところらしい。

 一瞬のことで気付かなかったが、さきほど吹き飛ばされた時、“心の鍵”で腹を割かれていたようだ。あまり見たくはないが、すでに内臓の一部がはみ出しているようだった。


 らいかの手のひらに、赤い何かが握られる。


「では、約束通り」


 痛みはなかった。ただ喪失感だけがあった。

 らいかは“造物主”へと歩み寄り、少女の頭の上で、それを握りしめる。


 びちゃ、びちゃ、と。


 “造物主”の白いローブが、赤黒い液体で穢れた。

 神を名乗る少女は、これっぽっちも動じずに、


「今まで、いろんな種類の冒涜を受けてきたが」


 むしろ、余裕混じりに嘆息する。


「休暇をどこで過ごすかでとやかく言われたのは、これが初めてだ」


 そして、ゆっくりと操作パネルの前にある椅子から飛び退いた。


「まあ、いい。好きにしなさい」

「“造物主”サマは……。ワタシを恨みマスか?」

「“かんなり”には平等に接するようにしているつもりだが、お前のことは嫌いだな」

「でも、認めざるを得ませんよね。……ワタシが、次の“造物主”となります」

「そうだな。実際お前は、ずいぶん多くのものを犠牲にしてきた。これからも、多くのものを犠牲にするだろう。考え方自体は悪くない。グッドだ。とても“造物主”らしいぞ」

「では……」

「どうなるか? は、私自身もわからん。こういう例は初めてだからな」


 らいかは、力なく微笑んだ。


「これがワタシに与えられた最後の“試練”。……の、答えデス」

「ふん」

「“この世界を、より善く変える”こと。これできっと、何もかもが変わりマス」


 “試練”。……そうだったのか。

 光久は茫洋とする頭で、その言葉を聞く。


「アナタの権威は地に落ち、――新たな“造物主”の存在が求められる。より、力のある“造物主”を。……ワタシの力をッ」


 ”造物主”は、心底どうでも良さそうに、肩をすくめるだけだ。


「かもな」

「……本当に、お止めにならないんデスね」

「“試練”のことには手出ししない。そう決めたからな。“造物主”は、自分が定めたルールを守る義務がある。仮に、それで大切な何かを失うとしても……」

「そうデスか。愚かデスね」

「君も“造物主”になってみればわかるさ」


 らいかは“心の鍵”を、高く十字に掲げる。


「では。……試してみまショウ」

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