4.消えていく

Act.1一人目


 空は今にも雨が降り出しそうな厚い雲に覆われている。健は自分の上履きロッカーの前まで行き、ロッカーを開けると中からは側面辺りが茶色く汚れ始めた上履きのゴムの匂いが鼻を突いてくる。上履きを取ってスニーカーと入れ替え、上履きを履くと広樹、絵梨とともに教室へ向かう。その間もいつもと同じような会話が続き、教室に入ると他の仲間と合流して授業の話しや昨日のテレビ番組の話などで盛り上がるが、やがて担任がやってくるとそれに敏感に反応した生徒達はさっと自分の席へ戻る。

 と、その時だった。健は均がいないことに気が付いた。風邪でも引いたのだろうか、朝礼ぎりぎりまで他のクラスの女子のところへお喋りに言っていることも少なくなかったのであまり気にしていなかったがこの時点でいないということは休みなのだろう。担任の仁美は教室を見回し、出席の確認をしている。

「欠席は麻井さんだけね。」

仁美は一人で呟いているが均はどうしたのだろうか。健は気になったのだが、ただ単に確認し忘れただけなのだろうと思っていた。その日は英作文やら体育やら小テストやらがあり午前中はバタバタしていた為、昼休みにようやくいつものメンバーでゆっくり話が出来た。いつものように教室の一角に健、広樹、誠、貴之、潤、絵梨で固まって弁当を食べていた。そこでようやく健が聞いてみた。

「なあ、均今日どうしたのかな。」

と言った瞬間他のメンバーは不思議そうな顔をし、健の顔を見てくる。

「今日均休んでるじゃん。昨日あんなに元気だったのにどうしたのかな?」

他のメンバーは健の発言に、まるで不審者を見るような目でその顔を見つめている。

「いや、均だよ。今日来てないよな。なぁ潤、昨日俺達と別れてからなんか言ってなかったのか?」

急に自分の名前を呼ばれたことに驚くように潤は目を丸くし、健を見つめながら口を開く。

「あのさ…均って誰だよ。昨日健達と別れてからは一人だったよ。」

今度は健が、潤と同じく驚きの顔を見せた。

「待てよ、均と潤は同じ方向に帰って行っただろ?おいおい、怖いこと言うなよ。」

すると今度は潤が驚きの表情の中に少し怒りを見せながら言う。

「怖がらせてるのはどっちだよ。健達と別れたらいつも一人だよ。何だよ均って、気味悪いな。」

健は頭が混乱した。一体何を言っているのだと健も少し苛立つ。しかし、潤が口を開いたのを皮切りに他のメンバーも健の言動に突っ込んでくる。

「お前まさか前の学校の友達と勘違いでもしてるんじゃないか?」

と鋭い目で行ってくるのは貴之だった。

「いや、違うでしょ。おい、何ふざけてんだよ。お前たちこそ、俺をからかってるのか?」

「からかってないよ。お前こそ大丈夫か。このクラスに均って名前居ないだろ?」

広樹も不思議そうに健に言ってくるが、健は絶対に自分がからかわれているのだと思い少し落ち着いた。

「からかってないだって?一体何の真似だよ。もう分かったから。俺は十分にはまりましたよ。だからさ、あの席の佐仲均君は今日はどうしたのかなって話。麻井さんも風邪で休みだったみたいだし、やっぱり風邪なのかな。」

すると全員が呆れたような顔になり、次に口を開いたのは絵梨だった。

「健君、あの席はもともと空席だよ。ほんとに、どうしたの?健君。」

「おい!絵梨までなんだよ。」

健は絵梨まで自分をからかおうとしていると思い、腹が立つというよりも全てから突き放されたような気持ちになった。他のメンバーもその話ははいこれで終わりといわんばかりに次の話題へ移っていくが、健にはその後何を皆が話していたかなんて一切耳に入って来なかった。一体どういうことなのか、何が起こっているのか、健は頭の中が整理できないでいたのだ。

 昼休み後くらいからだろうか、あの厚い雲からついに大粒の雨が勢いよく降り出したのだ。当然グラウンドを使う部活のほとんどは休みになり、放課後は多くの生徒が雨の中下校しようとしていた。健は未だに頭が整理できず、午後からの授業がほとんど頭に入って来なかった。終礼の後頭のスッキリしないままカバンに荷物を詰め込み席を立とうとした時誰かに肩を掴まれた。

「健、ちょっと…付き合ってくれない?」

健が振り返るとそこには誠の姿があった。誠は健を部室前に連れていき部室の前にカバンを置く。ピロティからグラウンドを見ると大粒の雨は音を立ててグラウンドを打ちつけている。

「ああ、そうか、部室閉まってんだ。部室の中に道具あるんだもんな、キャッチボールの相手して欲しかったんだけど、ボール持ってなかった。」

と誠は部室の小窓をのぞきながら言う。ピロティは誠と健以外に誰も居ない。部活が休みになり皆帰っているのだろう。

「やっぱ毎日キャッチボールくらいはしないとさ、俺特に皆より下手だからさ。ごめんな、急に誘って。」

誠は困ったような笑顔で健に言ってくる。

「いいよ別に、特に帰っても用事があるわけじゃないし…。ボールなら持ってるよ。」

と言うと誠は嬉しそうな顔になり、

「本当?ありがとう!」

と言ってきた。健はカバンからグローブとボールを取り出し、誠もカバンからグローブを取り出す。そうして2人は自然とキャッチボールに適した距離を取り、健は肩を温めるようにゆっくりと回すと、初めはあまり勢いをつけずにゆるく誠に向かって投げる。誠はその球をしっかりと受け止め、グローブに入る音がピロティに響いた。そのやり取りが何往復と静かに続く。双方取り損じることなくそのボールの軌跡が2人を繋ぐように弧を描きながら行き来している。やがて誠が口を開く。

「あのさ、今日の昼休みの話だけどさ。」

と誠は健に向かってボールを投げ、健はボールを受けるとそのまま止まってしまった。

「俺達本当に健をからかってたわけじゃないんだよ。」

健はグローブの中のボールをギュッと掴むと少し力を込めて誠に投げる。力んだボールは誠の胸よりも少し低い位置に到達し、誠はなんとかそれを受け止める。誠はボールを取れたことに少し嬉しそうな顔になる。

「うお!取れた!俺低いボール苦手だったんだよ。なんか嬉しいな。」

しかし健は表情を変えないままあえて誠から視線を外そうとしている。誠は体制を整え再びボールを健に向かって投げる。

「なぁ、その均ってやつさ、俺達の仲間なのか?」

健は誠のその台詞自体がふざけて聞こえ、更に怒りを募らせていき何も答える気がしなくなっていた。誠の顔を見ないように投げているせいか健は誠の胸に向かってボールを投げることが出来なくなっていた。今誠の顔を見れば怒りが爆発してしまいそうだったからだ。しかし誠は健に向かってしっかりと投げている。健はそんな自分に対しても腹立たしかった。この会話がどうあれ、キャッチボールをしている以上は相手に向かってしっかりと投げ込まなければならないのに自分の感情だけでボールを投げ込んでしまっているというのがあり得ないことだったからだ。

 そんな時、誠は覚悟を決めるようにキャッチボールの手を止めて話し始めた。

「これ以上言っても疑われちゃうだけなんだろうけどさ、今俺達の記憶の中にはその均ってやつはいないんだ。でもさ、健があまりに真剣に言うからもしかしたら昨日までその均ってやつと俺達は一緒に過ごしてたのかもしれないなって…思ったんだ。最初は健何言ってるんだろうって思ったけど、なんか健が嘘言ってる気がしなくて。だからさ、健も信じて欲しいんだ、俺達にその均ってやつのことが本当に分からないってこと。もし本当にいたとしてもなぜだか思い出せないんだってこと。」

健は本当は自分の方がおかしいんじゃないかとも感じ始めていた。もしかしたら均というのは自分の記憶の中にだけいて、現実にはそんな均という人物なんかいなくて、自分の頭の中だけにいるその均という人物を現実世界に勝手に投影しているだけじゃないのかと。しかしそれにしては昨日までの記憶が鮮明すぎる。均の声や可愛い女の子を見つけた時に見せるニカッと笑う顔、皆を驚かせようと悪戯する時の顔、皆で笑う時の顔、全てがしっかりと思い出せるのだ。そんな均がこの世に存在していない人物だった、しかしそれもまた現実のようで、誠も嘘を言っているような気がしなくなってきた。そうしてようやく誠の顔をしっかりと見てボールを投げようと顔を上げた時、そこにいたのは誠で無くなっていたのだ。健の前に立っていたのは自分だった。いや、よく見ると自分にそっくりではあるのだが、背の高さや身体のつくりが微妙に違う。今目の前に立っている彼は一体誰なのだ。誠はどこへ行ったのだろうか。そして健はもう一つおかしなことに気が付く。周りの音が一切聞こえなくなっていたのだ。初めは耳が悪くなってしまったのかと思ったが、自分が無音映画のフィルムの中にいるような感覚にあるということに気が付いた。目の前の自分に似た彼は何か話しているようなのだが全く音がしない。やがて健が見ている光景は昔のプロジェクターに入っている写真のように変わり始めた。その背景はどれもこの東第一高等学校だということは分かったが、いつも見ている光景とは少し違うような気がする。そこに出てくる人物も知らない人ばかりだ。昼休みに昼食をとっている様子、授業の様子、閉鎖されているはずの屋上でふざけ合っている様子、野球の練習をしている様子など映し出されるが、その中でよく見かけるのが先ほどの自分によく似た人物と少し髪の明るめでおさげ髪にした女子生徒だった。やがてその映像は見慣れない場所を多く写すようになってきた。薄暗い場所で、両側を壁に挟まれ、その先には不気味な垣根がある。なんとなく見覚えがあると思えば、絵梨の所属する茶道部が使う和室の庭の垣根によく似ていて、その垣根は部室のすぐ裏側にあるので見覚えがあった。やがてその映像は壁のところで止まり、自分は壁を見つめている状態になる。壁をじっと見つめていると、壁のあちらこちらから黒い虫のようなものがちょろちょろと湧いて来ていることに気が付いた。初めは蟻か何かが壁を這っているのだろうという程度だったが、その黒い物体が不気味に蠢きながらどんどんと湧いて来て大きくなっていく。やがて壁全体からその黒い物体がじわじわと吹き出しゆっくりと自分を包み込んでゆく。そうして目の前まで真っ暗になったその時だった。

「健、大丈夫?」

健は我に返った。手にはいつの間にかボールが握られ、目の前に誠がいた。

「大丈夫?急に全く動かなくなったからびっくりしたよ。そろそろ帰ろうか。また雨酷くなってきたし。」

そう言うと誠は自分のカバンにグローブを入れ、肩に担いだ。健は眠りから覚めたように頭がボーっとしていたが、カバンにグローブとボールを片付けて途中まで誠と帰った。その間も誠とはほとんど会話をしなかった。最後に分かれる時に互いに「じゃあな。」と交わした程度だった。2人が分かれそれぞれの方向へ進み出した時健はまたあの感覚に襲われた。昨日均と別れる時に感じたあのゴムや紐がプツリと切れてしまうような感覚。急いで後ろを振り向くと誠はだいぶ遠くへ行っていた。その後ろ姿を見た時、健は誠がそのままずっとずっと遠くへ行ってもう戻って来なくなるのではないかという感覚が襲っていた。行ってはいけない。そのまま行ってしまってはいけない。健は誠を止めなければいけないという衝動にも駆られたが声は出ず、その後ろ姿をじっと見つめることしかできなかったのだ。そのうちに誠は雨に紛れるように視界から消えてしまった。その瞬間、呪縛が解けたように身体の自由が効くようになった。

 健は、一体自分の身に何が起きているのだろうと不安になっていた。普通ではない何かが起きているのは明らかだったが、その何かは全く分からなかった。同時にまだまだこれからも何かが起こり続けるような気がして、健の胸の中に大きな闇が覆ってきているのを感じていた。






Act.2 繋がらない番号


 健は夕食の後、自分の部屋に籠ってベッドに寝そべっていた。明日の予習をやらなければならないのは分かっているが、こんな状況で全くやる気が起きず、天井を見上げて1時間が経とうとしていた。祖母からお風呂に入るように一階から促されようやくベッドから身体を起こした時携帯電話が目に入った。健は均が学校へ来ていないと分かった時から均に電話をかけてみようかどうかずっと迷っていたのだが、広樹達が健を騙しているのではないかと疑うようになってからどうしても均へ電話をかけることが怖かった。その恐怖心がどこからきているのかは分からなかったが、どうしてもかける勇気が出なかったのだ。もし本当に均という人物がこの世に存在していなくて、その電話番号へかけたとしたのなら何処へ繋がるというのだろうか。均は本当に存在しない人物で、誰の記憶の中にもいないということなのか。それとも誠も、最後の最後まで自分のことをからかおうと演技をしていただけなのかもしれないではないのだろうかとも思った。結果はどうあれ一度確かめてみればスッキリするはずだ。ならば今電話してみるしかないと健は思ったのだ。

 健は携帯電話を手に取り、アドレス帳から均の電話番号を探したのだが均の電話番号が何処にも見つからなかった。アドレス帳の隅から隅まで探したのだが、均の電話番号は見つからなかった。その代わりに名前のない番号が登録されていたのだ。健は番号だけの登録はこれまでした記憶はなく、もしかしたらその電話番号が均のものではないかと感じた。しかしなぜ名前が消えてしまっているのだろうか。アドレス帳の編集を行ってみても番号以外入力された形跡はない。健はまたそこで不安に襲われた。その番号が均の番号だという確信はないのだが、あるとすればその番号しかないのだ。もしかけて全く違う人が出たならば間違えましたと言って電話を切ってしまい番号を削除してしまえばいい、ただそれだけのことなのだ。他のメンバーの番号はあるのに均の番号だけないはずがない。そして健はついにその番号に発信する決心をした。少し震える指で携帯電話の決定ボタンを押し、携帯電話を耳に当てて繋がるのを待つ。その間が長く感じられ、実際数秒のところが何分にも感じられたのだ。しばらくはプツップツッという音が鳴っていたが、ようやく繋がったかと思えば機械の音声が聞こえてきた。

「只今、電波の届かないところにいるか、電源が入っていません。御用の方は…。」

健は茫然としたがホッとしたところもあった。もし繋がったとしてそれは本当に均なのかも疑っていたし、均が出たところで何を話せばいいのかも考えていなかった。普段通り軽く「おう」とでも言って、学校であったことなどを話せばいいのだろうか。それとも自分を騙していることを怒ればいいのだろうか。しかし、そもそも今繋がろうとした相手は均ではないかもしれない。一度頭をスッキリさせようと健は風呂へ入り、部屋へ戻ってくるとようやく予習へ入った。それから何度かあの番号へかけてみたがやはり結果は同じだった。

 しかし、布団に入り眠りに着く直前、最後にもう一度かけてみようと履歴からあの番号を出し、発信ボタンを押した時だった、やはりこれまでと同じようにプツップツッと音が鳴り、そのまま機械音声が流れると思っていたのだが、今回はそのまま呼び出し音に移った。健はドキッとした。何とこれまで繋がらなかった電話が繋がったのだ。その瞬間健はなぜだか相手が出てしまう前に電話を切らなければならないと感じたのだが気持ちとは裏腹に指が動かず、呼び出しのコールが1回、2回、3回と鳴っていき4回目のコールが鳴ったか鳴らないかのうちにブツッと電話を取る音がした。健は全身に寒気が走り体に氷の矢が刺さったような衝撃を感じた。電話の向こう側ではノイズのような音が聞こえ、それは轟音のようにも、強い風の音にも聞こえた。健は気味が悪くなり電話を切ろうとした時、その音に混じって何か別の音が聞こえてきたのだ。初めはノイズの所々が大きくなったり小さくなったりしているのかと思ったのだが、それは何かの音を一音一音発音しているのだと分かってきた。

「た…け…る…。」

その発音はそう聞こえ、それが分かるとそれは人間の声なのだということが分かった。その声はまるで人間が死に際に苦しんで絞り出しているような声に聞こえた。もちろんそれが均の声なのかどうかは判別が付かない。

「た…け…ううっ…ううう。」

その声は地の底から聞こえてくるうめき声のような声に変わっていき、ノイズ全体をその声が支配して徐々に大きくなってくる。その声は健の耳を不快にさせるほど大きくなり、あまりの恐怖に健は電話を急いで切った。すると受話器からは通話の切れた音だけが響き、部屋の中の静寂が一層静かに思えた。その時だった、健はただならぬ気配に襲われ電話の画面から顔を上げると、信じられない光景を目にした。窓の外に人影が見えるのだ。カーテンの向こう側、暗闇の中に更に黒く浮かび上がる人影。その顔は部屋の中を覗き込んでいるように見える。その瞬間だった、さっきあの電話の向こう側から聞こえていたうめき声が部屋中に響いてきたのだ。健はあまりの恐怖に布団の中に身を隠し、そのうめき声に必死で耐え続けた。そうして健は知らないうちに眠りについていたのだった。






Act.3 2人目


 昨晩のことが夢だったのかどうかは分からない。眠りにつく直前だったのでもしかしたら夢を見ていたのかもしれないが、健が目覚めた時には片手に携帯電話を持っていた。いつもよりも少し早く目覚めたようだが昨晩のことが頭から離れずボーっとしていた。外はまだ雨が降り続いていて日はもう昇っているのだが外は薄暗い。やがて祖母の声が聞こえ、健は制服に着替えようとベッドから起き上がり、部屋着を脱ごうとするとどうやら汗をかいたらしく下着が湿っていた。朝から気持ちが悪いがシャワーを浴びている暇はなくそのまま制服に着替え、1階へと降りて行った。

 健は朝食をとるといつものように家を出て、学校へ向かう。いつものように途中で広樹と絵梨に会い、何気ない会話をするが健はその会話のほとんどが頭に入って来なかった。

「健君大丈夫?昨日から顔色悪いよ。」

心配そうに顔を覗き込みながら言ってくるのは絵梨だった。

「もう実際居ない奴のことなんか考えるの止めようぜ。それより今日の小テストだよ。やばくねぇ?全然できる気しないんだけど。」

と広樹はいつもの会話に戻してくるが、健は会話が頭に入って来ず、ほとんど相槌しか打っていなかった。考えるのをやめろと言われたところでこれだけのことが起こっておきながらやめることなどできるわけがなかった。

 学校へ着いても普段の会話はほとんど頭に入って来ず、教室でも均の居た席ばかりが目に付いてしまう。その日は小テストを控えていたせいかほとんどの人が朝の時間を使ってその勉強をしていて教室内は割と静かだった。いつもなら朝ワイワイと喋っている広樹、潤、貴之、絵梨も机に向かって小テストの勉強をしているが、もしかすると様子のおかしい健に気を使っているのかもしれない。とその時健はあることに気が付き、その瞬間嫌な予感がふつふつと湧いて来た。その嫌な予感がし始めてからは目の前に広げていた小テストの範囲の問題集も全く頭に入って来なくなり、もしその嫌な予感が当たっていたらと考えると健は絶望に襲われる感覚に襲われていた。なんとかその嫌な予感を振り払おうと窓の外を見ると、雨はまだ降り続きグラウンドを濡らしていた。

 やがて担任の仁美が入ってくると仲良し同士で固まって勉強していた生徒やお喋りをしていた生徒が一気に席に戻る。その時健は仁美がいつもと何かが違うような違和感を覚えた。そこへ拓郎の号令がかかり、挨拶をすると仁美は出席簿を開き出席の確認をしているようだがいつもと様子が違う。何度も何度も出席簿と教室内を見返している。それから仁美の表情が変わり、その表情から健は何か恐怖を感じて健は仁美から目が離せなくなってしまっていたのだ。

「あそことあそこに机あるけど、誰か持ってきた人いる?こういう時正直に言えなきゃだめよ。ここで名乗り出にくいのなら、朝礼が終わってからでも先生のところに報告にいらっしゃい。」

仁美は一体何を言っているのだ。健はますます仁美から目が離せなくなっていた。その机は均と誠のものだったのだから誰かが持ってきたわけがない。もしそうでないとすれば、やはり均と誠はこの世に存在しない人物になったとでもいうのか。しかし誠は昨日健とキャッチボールをしたばかりなのだ。健はそのまま仁美の方を見ていると仁美と目が合った。もし健に度胸というものがあったなら、均と誠の存在を大声で訴えていたのかもしれないがそれはできなかった。仁美も健のことを見つめていた。どれくらいの時間見つめていたのかは分からないが、互いに何かを感じているようでその目で何かを訴えているようにも思えたが、いつの間にか仁美は教室を出て行っていた。

 それから誰も誠がいないことに触れないまま時間は流れ、健は小テストもどんな問題が出て何点取ったのかも覚えていなかった。ただ一つ言えるのはその小テストの問題がそっくり次の中間試験に出てくるということくらいだった。そうして昼休み、やはり均と誠を除くメンバーが集まって昼食をとっていた。広樹、潤、貴之、絵梨はいつもどおりの会話をしているが、その場に数日前までいた2人がいないということに違和感を何も感じていない様子は健にとってなんだか腹立たしかった。本当に2人のことを全く覚えていないというのだろうか。そんな非現実的なことが本当に起こっているのだろうかと健はまだ疑っていた。それまで一言も会話に入らなかった健が、いつの間にか口を開いていた。

「なぁ、お前らまさか誠のことも忘れたって言うんじゃないだろうな。」

突然の発言に会話が途切れた。健はどんな会話をしていたかなんか聞いていなかったが、その会話を断ち切ってしまったことは分かった。

「昨日まで、いたよな、ここに誠がさ。まさか誰だそれなんて言わせないからな!」

と強い口調で健が言うと、他のメンバーは不思議そうに健の顔を突然どうしたんだ、という表情で見てきて沈黙が流れる。

「あのさ、昨日から何なんだよ。全然知らない奴の名前出してさ。なんか今度怖くなってきたよ。あれか、なんかお前見えちゃいけないもんでも見てるんじゃないのか?」

と茶化すように言ってきたのは潤だった。健はこれ以上言っても無駄だと感じ、何も言わなかった。他のメンバーもそれ以上健の方に話を振ってくることはなかった。その時、健は溝を感じた。もし本当に均や誠のことが記憶にないとすれば、今健は孤立してしまっている。健自身もまだ、これが何か大がかりなドッキリか何かではないのかという不信感も抱いていた為、何を信じてよいのか分からない状況だったのだ。

 その日の放課後だった、健は仁美に職員室に呼び出された。内容はあの均と誠の空席についてだった。しかし、健はもう自分の知っていることなど話す気はなかった。話したからと言って恐らく結果は広樹達に話した時と同じだろうと感じていたからだ。それでも仁美がしつこく健に何か知らないかと自分を責めるように聞いてくることと、自分の話など信じてくれるはずがないと人を疑っているばかりの自分にイライラし、

「俺は何も知りませんから。なんで俺なんです!疑ってるんですか?先生、もういいですか。俺には何も分からないんでこれ以上は役に立てません。これから一年生は雨上がりのグラウンド整備をしなきゃいけないんです。すいません、失礼します。」

と早口に言って健は職員室を出ていった。

昨日から続いていた雨は上がり、空は明るくスッキリとしていた。雨上がりに一年生は先輩よりも先にグラウンドに出てグラウンド整備をしなければならず、健がグラウンドに出る頃にはもう皆水抜きをしたりトンボがけをしたりしていたので、健も急いでネット裏からトンボを一本持ち、グラウンド整備に加わる。やがて2、3年生がやってくると、1年生を手伝ってくれてグラウンド整備を終わらせ、いつもの練習に入る。空は晴れたと言っても、雨上がりの湿気はこの時期には少し蒸し暑く感じさせた。ウォーミングアップの後は肩慣らし、投球練習に入るが、ここからそれぞれのパートに分かれることになる。外野手、内野手、投手捕手という感じだ。健は捕手の為投げ込みの練習を受ける。その時、それぞれのグループにパートリーダーがいるのだが、ここでは最初にパートリーダーにペアを決められて投げ込みに入る。大体いつも同じ組み合わせで、健はほとんどいつも貴之と組んでいる。その日も貴之と組むことになったのだが、先ほど急いで準備をしてグラウンドに入ったせいでキャッチャーミットを部室のロッカーに忘れてきてしまったのだ。健はダッシュで部室棟まで戻り、キャッチャーミットを取ってきて「ごめん。」と貴之に謝ると、貴之は職員室へ呼び出された事情も知っていた為快く許してくれた。そうしていつものごとくストレートから投げ込み練習を始める。その後はいくつか変化球の投げ込みを受け、最後に肩を落ち着かせる為通常のキャッチボールをもう一度行う。そのキャッチボールを始めようとした時だった、貴之はボールを一度グローブの中に入れて握り方を調整していると、ボールを見つめたまま少し止まっていたので気になった。少し遠くで分かりにくかったが、健には貴之が驚いた表情をしているようにも見えた。健が「おーい。」と声をかけるとはっとしたように顔を上げ、更に健のことを見て動きが止まっていた。そして少し後ずさりをしたかと思うと、少し目線を落としてまたボールを見つめ始めた。貴之の行動があまりに不自然だった為健は走って貴之に近づいていった。

「おい、大丈夫か?」

健が声をかけると、貴之は顔を上げて恐る恐る健の方を見た。その姿は何かに怯えているようにも見え顔色も悪かった。

「具合悪いのか?」

健は心配そうに貴之に聞いた。

「大丈夫…続けようか。」

というが顔は青ざめていた。

「ほんとに大丈夫なのか?具合悪いなら言ってきてやろうか?」

「大丈夫、もう大丈夫だから、キャッチボール続けよう。」

と貴之は言うので、健は元の位置に戻った。それから貴之はまた少しボールを見つめたが、すぐに健の方に向き直ってキャッチボールを始めた。健はそのことが気になって仕方がなかったが、あまり考えないようにした。

そうして練習を終えた後だった。いつものように2、3年生がクールダウンをしている間に1年生は道具の片付けやグラウンド整備をしていた。健も貴之とバットの入ったケースを運んでいると、貴之があの独特の鋭い目で健をチラリと見て話しかけてきた。

「あのさ、今日の帰りなんだけど、ちょっと話したいことあるんだ。いいか?」

というその表情は何か思い悩んでいるようにも見えた。健と貴之はバットのケースを部室に持っていくと他の部員達はもう帰る準備に取り掛かっており、健と貴之もそのまま着替えに入った。その日は湿気で汗をかいていたせいだろうか、ユニフォームは湿っており、脱ぐときに肌に張り付いて気持ちが悪い。他の人たちもそうなのだろう、部室内では清感スプレーなどを使っていて汗と交った匂いが部室に籠っている。健がユニフォームの上着のボタンをはずしていると、広樹が横からスプレーを差し出してきた。健はその銀色に白い蓋の付いた金属の筒を見た後広樹の顔をゆっくりと見上げ、その身長差から広樹は健を少し見下ろす形になっていた。

「あ、ごめん…俺スプレー肌に合わないみたいで…かけると肌かぶれちゃうんだ。」

と健は断った。

「そうか…。」

広樹は差し出したスプレー缶を自分のカバンにしまい、一言そう言ってワイシャツに腕を通していた。健はその時、広樹との間に見えない壁が出来てしまったように感じ、酷くそのことに不安を感じたのだった。






Act.4 気付いた者


それからいつものように同じメンバーで帰ったのだが、その日はいつもと雰囲気が違い会話の続かないことが多かった。

「ねえ、何かあった?」

と絵梨はその様子に何度か同じ質問をしたが、特に何があったという訳でもなかったので「別に」とはぐらかしていた。しかし絵梨はその言葉には納得していないように見えた。もちろん健自身も普段の会話をするほどの気ではなく、貴之も様子がおかしかったし、広樹との会話もなぜだか妙に気を使ってしまっていたことからいつものような普段通りの会話なんかできる状況でないのは分かっていた。絵梨と潤はその様子を不思議に思っていたのだが、その他の誰もこの状況を説明できるものはいなかったのだ。

 そんな中皆それぞれ分かれて家に着いた時、健の携帯電話に貴之からのメールが入った。大通りの反対側にある河原で待っているらしく、健はそのまま家に入らずに河原に向かった。河原に着くと、整備されている遊歩道脇に設置されているベンチに貴之は川の対岸をじっと見つめて座っていた。健は貴之に近づき、貴之がそれに気が付いて健の方を振り向くと、貴之はほっとした表情に変わったような気がした。

「ああ、ごめん。呼び出して…。」

健もベンチの横に自転車を止め、貴之の隣に座った。目の前の川は暗闇に溶け込み、健はあの影のことを思い出し、あの川の中から影達が這い上がってここにいる2人を襲ってくるのではないかという恐怖が湧き上がり川から目を逸らした。貴之の方を見ると、貴之はやはり対岸をじっと見つめて何か考え事をしているようでなかなか話を始めず、少しの間暗闇に浮かぶ街灯の下に沈黙が流れていた。

「健…悪かった。」

貴之が考えて発した最初の言葉だった。健はその言葉の意味を理解できず、それに応える言葉が見つからずに再び沈黙が流れた。

「何が…悪かったなんだ?」

沈黙の中次に言葉を発したのは健だった。それに反応し、貴之は恐らくまだ言葉が見つからないまま口を開いたのだが、健はその言葉に驚いた。

「佐仲均…中村誠…。」

あれだけ皆が知らないと言っていた名前を貴之自ら口にしたのだ。それを皮切りに貴之は話を始めた。

「ごめん…俺達は本当に記憶から消えてたんだよ…均と誠のことが。」

貴之はゆっくりと言葉を探すように話していく。

「でも、俺は思い出したんだ。今日お前と投げ込みの練習してる時、いきなり思い出したんだよ、均と誠のこと。それまで全く記憶から消えてたのに…。」

健はその時頭がパニックを起こしていた。そんなことがあるのであろうか。今貴之が言っていることは本当のことなのだろうか。散々均と誠のことをそんな人物いないと言っておきながら、全く記憶から消えていて今更思い出したということなどあり得るのであろうか。もしかしたらこれは大掛かりなドッキリで、今にテレビ番組みたいに実はドッキリでしたと大きな看板を持ったテレビカメラ達でもやってくるのではないかとも想像した。

「そんな…まさか。今更そんなことありえるのかよ。あれだけ散々俺のことバカにするように…。」

「ごめん!!本当なんだ!!信じてくれ!!」

貴之らしくない取り乱し方だった。必死で信じてもらおうとしているのが伝わってくるが、どうしても信じることが出来なかった。しかし、貴之の次の言葉で健ははっとした。

「俺、2人を見たんだ…いや、見たっていうか…それが均なのか誠なのか分かんなかったけど…。」

貴之はまたもその続きを言うかどうか迷っているようだった。

「見たって…何処で見たんだよ!」

健は2人を見たという言葉に驚いていた。

「それは…。」

貴之はどうしてもその先を言うのを躊躇っているらしい。そこで健はもうこれがドッキリだとか思うのをやめにして、貴之の言うことは全て信じることにした。もしこれがドッキリならそっち方が良い。この訳の分からない状況から出られるなら、バカにされようがそっちの方がよかった。

「どこで見たんだよ。俺、信じるから。貴之の言うこと信じるからさ。」

すると貴之は何故か健から思い切り顔を逸らし、何かに脅えるように言った。

「お前の…後ろだよ…。」

健は全身から熱が奪われていくような冷たさを感じた。体中が氷になっていくような感覚だ。後ろにいる、その言葉に健はその場から逃げだしたいという気持ちを抑えながら必死で耐えた。しかし、身体が気持ちとは裏腹に後ろを振り向こうとしている。ゆっくりゆっくりと健は後ろを振り向いていく。貴之は尚も健から顔を逸らしたままだ。ついに健の視界に自分の背後が入ってきたが、そこには特に変わった様子はなく遠くの暗闇が不気味に見えた。健はその時少しほっとした。

「お前と投げ込みしてて俺が2人を思い出した時さ。お前の後ろに2人が見えたんだよ。それが2人なのかどうかははっきり分からなかった。見えたのは黒い塊で、なんとなく人の形をしていただけだった。でもその時俺には分かったんだ。あの2つの影は均と誠なんだって。そん時すごい怖くなって、今でもお前の後ろにまたあいつらが見えるんじゃないかって思うとなんか怖くて、あの暗闇から影が出てくるんじゃないかって!」

貴之は一気にそう言うと、また健の方を見ないようにして怯えていた。確かに今貴之は「影」と言った。貴之にも見えたのだ、あの不気味に蠢く影が。確かに暗闇を見ていると影が蠢いているようで恐怖に襲われる。

「やっぱり信じてくれないよな…。見間違えかもしれないし…。」

貴之は恐らくその影に怯えていて、自分の言っていることが信じてもらえないのではないかという不安にも襲われていた。いつもの鋭い目は恐怖に怯え、話すのに力んだせいか目が赤くなっていた。

「俺も見た。しかも2人だけじゃない…もっとたくさん…。」

その言葉に貴之は再びゆっくりと健の方に顔を向けた。

「俺が見たのも2人かどうかわからない。でも俺も見たんだよ、2人の影を。」

その言葉に貴之は少し顔を上げ、健の目を見てきた。恐らくそれが慰めの嘘でなく、本当に信じているのかということを確かめようとしたのではないかと感じた。

「でも、貴之以外の皆はまだ誠と均のことを忘れたままだってことになるのかな?」

健は少し冷静になって考えた。なぜ皆は2人のことを忘れてしまったのか。そして2人は何処へ行ってしまったというのか。

「多分そうだと思う。」

「でも、貴之はなんで2人のことを思い出したんだろう?もしかして皆も2人のこと思い出したのか?それに何で俺だけ忘れなかったんだよ。」

なぜ皆は2人のことを忘れてしまい、健は忘れず、貴之は思い出すことが出来たのだろうか。2人のことを覚えている理解者が出てきたところで、大元の謎は全く解けなかった。

「もし思い出したなら、皆俺と同じように普通じゃいられないはずだ。仲間のことを完全に忘れてんだから。」

貴之も少し冷静になってきたようだった。

「俺も急に思い出したんだ。もしかして、他の奴らも何かきっかけがあれば思い出すことが出来るのかもしれない。」

きっかけとはなんだろうか。確かに本当に忘れていて、急に思い出したとすれば普通ではいられないだろうが、そんな様子は無かった。

「健は何か思い当たることはないのか?お前だけ忘れなかったんだろ?」

と貴之が言ってくるが、健に思い当たることはなかった。

「無いよ…。」

やはり皆が思い出さなければこの話は先に進まないらしい。

「俺もさ、皆に話して見るよ。だから明日思い出すきっかけが何なのか皆で考えよう。」

健はその時心が晴れて行くのを感じた。この数日一人で思い悩んでいたところに理解者が出来たということ自体が大きな進展だ。2人なら皆ももっと真剣に話を聞いてくれる。

「貴之…ありがとう。俺も皆にこの状況を分かってもらえなくて辛かったんだ。ありがとう。」

目の前で不気味に流れている川も、暗闇も影も今ならなぜだか恐怖を感じなかったし、もしそこから影が現れても2人なら立ち向かえそうな気さえしたのだ。

それから、帰るのが遅くなるとまずいからとそれぞれ帰宅することにした。健の身体は軽かったし、数日ぶりにほっとすることが出来た。と言ってもまだ均と誠が戻ってきたわけでもないが、もしかしたらこれは何か悪い夢で、明日学校へ行けばまた全員揃って何気ない会話やバカ言って笑いあって、これまで通りの学校生活を送れているのではないかとさえ思えたのだった。いろんなことで疲れたせいもあってか、健はその日布団に入るとなんの恐怖も感じることなくいつの間にか眠りについていた。






Act.5 消えた理解者


 朝の太陽の光を受けて健は目覚めた。外を見ると雲ひとつないスッキリとした晴天が広がっていて、健の心もスッキリとしていた。いつものように祖母から呼ばれ、制服に着替えてカバンを持つと一階に下り、朝食を取ると家を出る。健の心の中には、もしかしたら学校に行けば均も誠もいるのではないかという期待もあり、もしいなかったとしても貴之という理解者が出来たことで何か進展があると感じていて自転車を漕ぐ足も軽い。そうして広樹と絵梨と合流した後も、何気ない会話を楽しむ余裕さえ生まれていたのだった。

 教室に入ると健は真っ先に貴之の姿を探したが、まだ来ていないようだった。いつものメンバーでそこにいたのは潤だけだ。しばらくはいつものようにその日の予習の話しや昨日のテレビの話しをしていたがなかなか貴之はやって来ない。いつもならこの時間には話に加わってここにいるはずなのに、と不安になり健は貴之の話題を出した。

「そう言えば、今日貴之遅くね?」

その瞬間だった、そこにいた3人の顔が驚いたような顔になるが健は続ける。

「いつもならもう来てるよな?貴之休みかな。」

そうしてその言葉にぽかんとしていた広樹が聞きたくない言葉を発する。

「貴之って誰だ?」

健はその言葉を聞いた瞬間この世の端っこというものから突き落とされ、だんだん自分自身が闇に飲まれていくようなそんな感覚に襲われた。健が言葉を失っていると担任の仁美が入ってきたのでそれぞれ自分の席へと戻っていった。

 教室へ入ってきた仁美は誰が見てもいつもと違うと思えるほど暗い顔をして、少し腰を屈めて誰の顔も見ようともせずにまっすぐ教卓へと向かって行った。挨拶をして仁美がようやく顔を上げて教室を見回すと、一瞬その顔に恐怖を浮かべて動けなくなっていた。生徒たちもその行動を何事かと見つめていると、今まで見たことのないような荒い声で、

「その誰も使ってない机!この後直ぐに教室から出しておきなさい!誰でもいいから、いい、分かった!」

と怒鳴った。まるで何かに取りつかれたかのようにいつもの仁美が一瞬消えていたのだ。その瞬間に教室は静まり返っていたが、健だけは違った。その机とは均、誠、そして貴之の机のことを言っている。ということは貴之もまた消えてしまったのだ。健は瞬時に机が教室から無くなってしまえばもう絶対彼らは戻って来られない、この教室へ帰ってくる場所を失ってしまうと思い、気が付けば声を上げていた。

「やめてください、机はこのままにしておいてください!」

言ってしまってからなぜ自分はそんなことを言っているのだろうと後悔した。皆はあの席に3人がいたことなんて記憶から消えているのに、自分がこんなことを言えばただの変な奴としか思われない。現に全員の視線が自分に集まっているのが分かり、健は周りを見ることが出来なかった。誰とも顔を緒合わせないようにうつむいても、見えない矢が自分に突き刺さってくるような気分になり言ってしまったことを後悔する。仁美も少し冷静になったのか健の言うことを受けてなのか一呼吸置いていつもの口調で続けた。

「机は、何処に持っていくか分かった時にするから。とりあえず今はまだこのままでいいから。」

と言ってそそくさと教室を出て行った。

 その日、健は教室での居心地が悪かった。なんだか皆が健を避けているように思えたし、昼休みも健は自ら教室を出て別の場所で昼食を取った。部活へ行く気もなく終礼の後にそのまま帰ろうとしたのだがその時、

「おい、行くぞ。」

と広樹が声をかけてきて教室を出ようとした健の腕を引っ張り、部室まで離さなかった。元々広樹は少し強引なところはあるがここまで強引なのも初めてだった。健は仕方なく引っ張られていったが、部室までの間は一言もしゃべることはなかった。それから部活が始まると、投げ込みの練習では貴之もいない為ペアを組むように指示されたのは広樹だった。部活にまで私情を持ち込みたくないとは思うのだがなぜだかエラーが多く、変化球の練習になるとほとんどの球を受けることが出来ずに健自身が悔しい思いをしていた。投げ込みの後健は広樹に謝ろうと近づいたのだが、わざと避けるように健から離れていき、健は広樹に謝るタイミングを逃してしまった。しかし、練習が終わった後着替えを終えてカバンを肩にかけ部室から出ようとした時、広樹が健に声をかけてきた。

「おい、ちょっといいか。」

健はさっきの投げ込み練習のことだろうと思っていた。

「さっきの投げ込みのことだろう?悪かった。」

と言うが何故か素直に言葉が出てこず、吐き捨てるように言っていた。その言い方にやはり気を悪くしたのか、広樹は少し声を荒げる。

「お前さ、この前からおかしいんじゃねえか?いない奴の名前ばっかり言ってよ。どうしたんだよ。なんかあったのか?それとも何か、前の学校の奴が懐かしくなってどうかしちまったんじゃねえのかよ!全然練習にも集中できてねえみてえだしよ!」

健にとってそれは断じて違っていた。確かにおかしいこと続きで集中はできていなかったかもしれないが、逆に皆が分かってくれないだけだ。それでも広樹は言いたかったことを全てぶちまけるように続ける。

「自分の気分で周りに迷惑かけんなよ。そんなに前の学校がいいなら戻っちまえ!そんなんであんな練習の仕方されたら迷惑なんだよ!どうせお前はよそ者なんだからよ!!」

健はその言葉で一気に何かが噴き出していくのが分かった。それを抑えられずに健は行動に出ていて、気が付いた時には「ドンッ!」という大きな音を聞いていた。健は自分より身体の大きな広樹の胸倉を掴み、思い切りロッカーへ押しつけていたのだ。広樹の顔は憎悪の表情で満ちていた。

「自分の大切な仲間を忘れちまうような奴によそ者なんて言われる筋合いはねえよ!均のことも、誠のことも、昨日までいた貴之のことだって思い出せないくせによ!」

すると今度は広樹が健の胸倉を掴み返し、凄い力で地面に押し倒す。その場にいた他の部員たちは一気に避け、その様子をただただ茫然と見ていた。

「ふざけんなよ。そんなわけ分かんないことばっか言ってないで、それ以上そんなこと言い続けるなら野球部辞めちまえよ!」

健はその言葉に更に力を入れ、馬乗り状態になっている広樹を思いっ切り撥ね退けてもう一度広樹の胸倉を掴み、気が付けば腕を振り上げて広樹を殴ろうとしていた。

「おい!止めないか!」

そこへ仲裁に入ってきたのは尚樹だった。誰かが急いで呼んできたらしい。

「おい、何やってんだ。どうしたんだよ。どっちが先にやったんだ。」

「……すいません、俺からです。」

健はこれ以上物事を大きくしてはならないと感じ、先に謝った。広樹は尚樹とも健とも顔を合わせようとせずに黙っていた。

「…時枝、何があったんだ。」

と尚樹は聞いてくるが、健はなんと言っていいかわからなかった。自分が悪いわけでもなく、広樹が悪いわけでもなくどっちが悪いと言われればどちらにも非がある。考えているうちに健は衝動的に近くに転がっていた自分のカバンを掴むと、目の前にいた尚樹を押し退けて立ち上がり、勢いよく部室を飛び出した。

「おい!!時枝!!」

と尚樹が叫ぶのも無視してとにかく走って駐輪場まで行き、急いで学校から離れなければとカバンも肩に担いだままペダルを漕いで学校を出た。

 健はまっすぐ家へと帰り、何かから逃げるように家に入るとそのまま自分の部屋まで駆け上がっていった。

「健!お帰り!どうかしたの?」

と祖母の声が聞こえてくるがそれにも答えず、カバンをベッドの脇に放り投げると制服のままベッドへと潜り込み、布団を頭から被ると周りの世界からその空間だけ遮断されたような気分になり少し落ち着く。やがて心配した祖母が部屋へやってきた。

「健。具合でも悪いのかい?」

「うん…寝れば大丈夫だから…。」

と健は何気ないことを言って祖母を部屋から出そうとする。

「せめて着替えてから寝なさい。晩御飯は準備できてるから、お腹空いたら降りておいで。」

と祖母は心配そうに言って部屋を出て行った。しかし健は布団から出るとまたあの影達に襲われてどこかへ連れて行かれるのではないかという恐怖再び襲われたのと、あの場を逃げ出してきてしまった罪悪感で布団から出ることが出来なかった。どれくらいの時間が経ってからなのかは分からないが電話が鳴っていた。電話は1階にある為会話の内容は聞こえないが健には学校からの電話ではないかと予想はついた。しかしその後部屋には誰もやって来ず、気が付けば健はそのまま眠りについていた。

 健は夢を見た。断片的ではあるが、均も誠も貴之もいていつものように何気ない会話をして部活をやっていた。しかし、その中で見慣れない顔がちらちら出てきていた。見慣れない顔ではあるがなぜだか知っている。誰なのか…いつも僕らの方を見ているあの顔は一体誰なのだろう。健は夢の中でその顔のことが妙に記憶に残っていた。それを除けば、とても心地の良い夢だった。3人に戻ってきて欲しい。もう3人は戻って来ないのか、そしてまた誰かいなくなってしまうのではないかという不安も襲ってきていた。

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