3.増えていく

Act.1 曇天の朝


 今日はスッキリとしない天気だ、雨は降っていないまでもどんよりとした雲が流れている。

「健!起きなさい!朝ごはんよ!」

祖母の声で健は目覚め、窓の外を眺めながら部屋着から制服へ着替えていた。中学校の時はずっと詰襟の制服で、高校ではブレザーになった為まだ学年カラーのネクタイを締めるのに手間取ってしまう。ようやくネクタイを締め、カバンに予習をした教科書、ノートと練習着を詰め込んでカバンを持ち上げると、あの巾着袋が目に入った。何気なくそれを拾ってカバンに詰め、階段を下りてリビングへ向かうと味噌汁の香りが漂っていた。白いご飯に味噌汁、芋の煮付けの残りに目玉焼きと、朝食らしいメニューが並ぶ。

「おはよう。」

健が祖父母に向かって言う。

「おはよう。さ、早く食べないと遅刻するよ。」

と味噌汁を椀に注ぎながら祖母言う。祖父は新聞を広げ、お茶をすすっている。

「そうだ、今日は雨が降るらしいから、傘持っていきなさいよ。」

祖母が朝のニュースを映し出しているテレビを見ながら言っている。テレビはお天気コーナーらしく、そこそこ綺麗な女性アナウンサーがニコニコ太陽の付いた指し棒を日本地図に向けながら各地の天気を言っている。映像は東京なのだろうか、ここの天気とは違い、雲ひとつ無い晴天がテレビ画面に映し出される。

「うん、分かった。雨降ったら部活休みになるかも。」

「そう、その時は寄り道しないで帰ってきなさいね。」

祖母は健の目の前に味噌汁の椀を置きながら言う。健は朝食を手早く食べ、食器を洗い場に持っていくとカバンを肩にかけリビングを出ていく。

「行ってきます。」

「気を付けてな。」

新聞を閉じ、今度はテレビに目をやりながら祖父が声をかけてきた。

 玄関でスニーカーをつま先に引っかけ、家を出てから踏んでいた踵を起こして履き直すと、自転車に跨りガレージから出ていく。外の空気も湿っぽく、肌が風に当たるとそこがじんわりべとべとしてくるようだった。まだそんなに自転車を漕いでいないが、ワイシャツが肌に張り付いてくるのが分かった。しばらく自転車を走らせると、カーブミラーの辺りで大体いつも広樹、絵梨の2人と出会う。この日もそうだった。

「おう!」

健が2人を見つけると声をかけた。

「おはよう!」

楽しそうな笑顔を浮かべていつも最初に返してくるのは絵梨だった。

「おう、健。なぁ、今日の英語の予習したか?俺全然分かんないとこあってさ、学校着いたらノート見せてくんねぇ?」

 とこういう会話が学校へ着くまで続く。3人は待ち合わせようと決めたわけではないのだが、いつの間にか朝こうして一緒に行くようになった。他の面々は出会う時もあれば出会わない時もあり、この日は他には出会わずに学校へと向かった。

 いつもと変わらない朝、いつものように今日の授業の話しや、雨が降って部活が休みになったら何しようとか、そんな話をしながら学校へ近づいていく。校門には登校してきた生徒や校門指導をする先生、挨拶活動をする生徒会の人たちで混雑していた。生徒たちや先生達は次々と校門へ吸い込まれ、学校という舞台に出ていく。この学校という場所はいろんな物語や感情が凝縮され、渦巻いている不思議な空間で、人によって学校の捉え方、感じ方は様々であり、居心地がいいという人もいれば悪いという人もいる。ここで繰り広げられる物語も、ラブストーリーや友情物語、スポーツや成功物語、失敗物語などさまざまであろう。そして今日はそれぞれ一人一人にどのような物語が繰り広げられるのだろうか。今校門を抜けた健達にも、そしてほぼ同時に校門を抜けた仁美にも、今日は一体どのような物語が待っているのであろうか。






Act.2 始まり


 教員生活10年目、後輩教員からはベテラン教師と呼ばれることもちらちらと出始め、つい最近まで新人教師として緊張しながら授業を行っていたように感じるというのに、月日の経つ速さに戸惑いを見せながらも最近は事務的に授業をこなしている姿は当にベテランだとも感じている室井仁美むろいひとみは、いつもと同じ8時に登校して今日の予定を確認していた。

「おはようございます、仁美せんせ。」

片言の日本語で挨拶をしてきたのは隣の席のアマンダだった。彼女は英会話の教師としてこの学校に来ている。

「おはようございます。そう言えば今日は1年1組のTTでしたっけ。」

TTとは2人制のことで、この学校ではアマンダの授業のない時間は定期的に英語教師の授業に入って補助をしているのだ。

「イエス。2時間目ね。よろしくおねがいいたします。」

「こちらこそ、お願いしますね。一年生はまだ高校生活始まったばかりだから、TTの時間は助かるわ。」

TTの時間だと普段あまり質問をしない生徒も気軽に質問をしてくれるのでとても助かる。教師側としても質問攻めなどで授業が滞ることも減るのでありがたい。仁美が更にその日の確認をしていると、いつもは感じない嫌な感じが胸のあたりを襲った。吐き気や胸やけという体調的なものではない気はするのだが、何か落ち着かないような、胸の奥から何か込み上げてくるような感じ。朝遅刻しそうになった時や忘れ物をしてしまった時に感じる気分に似ている。まさか何か大事なことを忘れているのだろうかと考えているのだが、記憶の中にはない。しかし忘れたことが何かということ自体を忘れているのではないかと不安に襲われるのだが、いくら考えても何か忘れているようなことは無い気がする。

「室井先生。」

急に呼ばれて向かいを見ると、2年生担当の桜庭尚樹さくらばなおきが電話の方を指さして仁美の顔を見ている。

「1年1組の麻井さんのお母さんからですよ。」

自分の机の電話を見ると、内線の保留ランプが点滅していた。

「あ、すいません。ありがとうございます。」

と言うと仁美は受話器を手に取り、保留ランプを解除する。電話の相手は1年1組の生徒、麻井美帆あさいみほの母親からだった。美帆が高熱を出し、今日は欠席させてもらうという連絡だった。仁美は電話の最後でお大事に、と言うと受話器を置いた。

 その後はいつも通り職員朝礼が行われ、各自持ち場へと散っていき、仁美も教材の入ったボックスケースを持って担当の1年1組へと向かった。1年生の教室は最上階の5階にあり、職員室のある2階から階段で登って行くのだがやはり少しずつこの階段の上り下りもしんどいように感じる時がある。特に荷物が多い時などは膝に加えて腕も張ってくるのだが、まだまだ歳と言うには早い年齢でなるべくしんどさを表に出さないように無表情で上って行く。途中急いで自分の教室に向かう生徒たちに出会い、挨拶をしない生徒には指導を行う。この時も仁美の横をダッシュで駆け抜けようとした男子生徒がいたので注意をした。

「こら!挨拶は?あと上履き、踵は踏みつぶさない!」

すると男子生徒はちらっと仁美の方を見て、

「さっせーん。」

と言ってまたダッシュで駆け上がって行った。

「あ!こら!ちゃんと挨拶!」

と言った言葉も聞こえたのか聞こえなかったのか、踊り場を曲がる頃には姿はなかった。上履きの学年カラーから恐らく3年生なのだろう、ああいう姿は新入生に悪影響を与えると思い、仁美はなるべく細かく注意をしていた。しかしそれ故に生徒たちからうるさいおばさん先生と認識されることも少なくなかった。

 1年1組は校舎の一番端にあり、校内では最も食堂から遠い教室の為お昼休み前の授業では、甘い先生は少し早めに授業を切り上げ生徒達にそっと食堂へ行かせることもあった。もちろん仁美は甘やかすことなどせず、それなりの状況に合わせて自分たちで対策を打たせていた。

 教室へ入ると、生徒達は予習をしたりお喋りをしたり本を読んでいたりと思い思いに過ごしていたが、仁美に気が付きそれぞれの席へ戻り静かになった。仁美が教卓へ付くと、学級委員の小林拓郎こばやしたくろうが号令をかける。

「起立!きおつけ!礼!」

「「おはようございます。」」

生徒が一斉に礼をする。

「着席!」

それから仁美は出席簿を開き、出欠の確認を行う。先ほど連絡の来た麻井美帆の席は確かに空席だ。更に仁美が教室を見回すと、ある違和感を覚えた。麻井美帆の机の他に、もうひとつ空席があるのだ。あんなところに空席なんかあっただろうか。確かにこの教室には人数分の机しかなかったはずなのだが、どういうことなのだろうかともう一度出席簿に目を移し、麻井美帆以外に欠席者がいなかったどうかを確認するがやはり他に欠席者はいない。それでも納得がいかずに何度も空席と出席簿を見返す。そのうちに生徒たちも仁美の行動を不思議な顔で眺めていて、それに気が付いた時には始業5分前のチャイムが鳴っていた。それに合わせて生徒たちも授業の準備を始めたので、仁美も出席簿を閉じて1時間目の授業の教室へ向かった。あの空席のことは気のせいだ、きっと他の授業で使ったか、昨日の放課後にでも生徒が持ち込んだのだろうと無理やり解釈し、授業に集中することにした。

 そうして1時間目の授業を終え、2時間目は再び1年1組で授業なのだが、次の授業で使う予定の配布プリントを印刷室へ忘れてきてしまったことに気が付いた。印刷室は職員室の中にある為また5階から2階へと往復しなければならない。授業と授業の間は10分しかない為仕方なく早足で2階まで階段を下りる。印刷室へ行くとやはり壁側の棚に自分の印刷した授業プリントが置いてある。それを急いで取ろうとした瞬間、台の上からプリントが滑り落ち、床にばら撒かれてしまったのだ。こういう時に限って面倒なことが起こるなと仁美はイライラしながら散らばったプリントを集め、軽く整えるとあと3分ほどで2時間目始業のチャイムが鳴るところまで時計の針が迫っていた。このままでは普段あれだけ生徒に授業に遅刻しないようにと注意をしているところ、生徒に合わせる顔がなくなってしまうと思い仁美は覚悟を決めダッシュで階段を上ることにした。

 教室へ付く頃には息は切れ、呼吸も整わず目眩もしてきたがここで弱音は吐けないと背筋を正し教室へ入った。教室ではすでにアマンダが来ていて生徒と笑いながら英語で会話をしている。その瞬間、目眩がピークへ来たのか教室中がぐるぐると回り出し、立っているのも辛くなってしまった。急な吐き気も覚え、一瞬胃に痙攣を覚えたがぐっとこらえて倒れないよう踏ん張った。なんとか平然を装って教材を教卓に置くと丁度よく始業のチャイムが鳴った。チャイムが鳴り終わると同時に再び学級委員の拓郎が号令をかけて礼をし、仁美はその礼の瞬間に深呼吸をして息を整える。なんとか目眩はおさまったようだ。

 この日の授業はアマンダがいる為、英作文が中心だ。生徒たちに文法の講義をした後、先ほど印刷室へ忘れてきたプリントを配布して、ありきたりな「将来の夢」というお題で英作文を書いてもらい一人一人発表する。こういう時アマンダがいると、生徒の間に入ってくれ質問を受けてくれるので助かる。この日も制限時間15分の間に文章を作るのだが、それぞれ単語を調べたり文法を調べたりしながら書いていくので少しの文章でも手間取ってしまう。この間は仁美も生徒の間に入り質問を受けていくのだが、ある生徒の文章作りを手伝っている時仁美の背後に何かが突き刺さってくるような衝撃が走った。はっとなって振り返ると、そこには信じられない光景が広がっていたのだ。自分が背にしていたのはあの誰もいないはずの空席だったのだが、そこに誰かが座っている。誰かがではない、そこに座っているのは人間ではなく黒い影のような靄のようなものだったのだが、人の形はしているように見えた。椅子に座った黒い影はただの黒い塊のようだがどの辺りが頭で、膝に手を付くような格好でそこに座っているのを感じ取ることができ、その頭はゆっくりゆっくりと仁美の方を向いているのだが、あまりの恐怖に仁美はその影から顔をそむけることが出来ず、ついにその影と向き合ってしまった。向き合ったと言ってもそこに目も口も鼻もないのだが、確実にその顔は仁美のことを見上げている。更にその影は仁美の方を向いたままゆっくりと立ち上がり、仁美の方へ手を伸ばしてきた。それはまるで仁美に助けを求めているようにも思えたし、どこかへ引きずり込もうとしているようにも思えた。その手が仁美の腕を掴もうとしたその時。

「むろいせんせ、むろいせんせ、アーユーオーケー?」

その声にようやく声のした方へ顔を動かすと、そこには心配そうに自分を見つめるアマンダの顔があった。時計を見るとそろそろ発表の時間に移らなければならない時間だった。仁美は足元をふらつかせながらも教卓へ戻り、文章の発表へ移った。途中何度か生徒に心配してもらいながらなんとか授業を終えることができたのだが、やはりあの光景が頭から離れない。慣れもしないダッシュなんかしたからきっと疲れたのだろう、あの光景は気のせいだと思うようにしたが、朝から続くおかしなことにどうも不安を覚えていた。自分が疲れているせいなのか、本当に自分は何かを見てしまったのか不安と恐怖に襲われながらも、あまりに幻覚を見たり目眩を起こしたりするようならば病院へ行くことも考えなければならないと仁美は気が重くなった。






Act.3 増えている


 昨日の夕方から降りだした雨は尚も続いている。そんなにひどくはないが、ポツリポツリと傘がほしいくらいには降っている。そんな雨の湿気のせいもあるのか、仁美は朝から頭痛がしていて、頭を抱えていた。

「室井先生、大丈夫ですか?」

声をかけてきたのは尚樹だった。

「聞きましたよ、昨日の授業の時も顔真っ青だったんでしょ?なんだか今も顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」

仁美は抱えていた頭を上げ、

「大丈夫よ。頭痛薬飲んだら治るから。今休んだら授業が遅れちゃう。中間試験も直ぐだっていうのに。」

というもののやはり頭が重い。

「あんまり無理はしないでくださいね。」

と尚樹が心配そうな表情を変えないで言ってきた。そしてその日もいつも通り朝礼を終え、1年1組へと向かった。今日は休みの連絡は誰からもないので空席はないはずだ。あるとしても昨日の一つだけ。そう頭の中で何度も考え、教室に入ると、生徒たちが席に戻り号令がかかる。なんとなくだが教室を見回すのが怖く、見る前に出席簿を開く。そうしてようやく顔を上げ教室を見回すと、一瞬違和感なく見えたのだが、まるで間違い探しの間違いを探し出したようにすぐに気が付いた。そう、空席は2つあるのだ。急いで麻井美帆の存在を確認すると、今日は自分の席に座っている。それではあとひとつは一体誰だ。昨日発見した机と後もう一つは一体誰の席なのか。もう一度何度も何度も出席簿と一人一人を確認するが、やはり全員居る。その時仁美は思った。そうか、誰か悪戯をしているんだ。きっと誰かが机を勝手に持ってきているんだ。そうして仁美はついに生徒へ机のことを投げかけることにした。

「あそことあそこに机あるけど、誰か持ってきた人いる?」

生徒たちは不思議な顔をし、自分ではないというようにそれぞれ顔を見合わせている。やはり悪戯ではないのか。

「こういう時正直に言えなきゃだめよ。ここで名乗り出にくいのなら、朝礼が終わってからでも先生のところに報告にいらっしゃい。」

というも生徒たちはやはり自分ではないという顔をしている。確かに机を教室へ持ってくるなんて悪戯をして一体何になるのだろうとも思うのだが、やはり誰かがやっているとしか思えない。その時だった、生徒の中に他の生徒とは違い、自分の顔をじっと見ている男子生徒がいた。その時仁美は、ああ、この子がきっとやっているに違いないと感じた。それなら後で本人に話を聞いてみようと朝礼を終わらせ授業へ向かった。

 放課後、終礼を終えると、朝気になった男子生徒を職員室へ呼び出した。その生徒は野球部へ入部している為、部活の前に来るように言ってあった。仁美が自分の机で教材の整理をしていると、

「失礼します!!」

と元気な声が聞こえてきた。この声は仁美が呼び出した時枝健の声だ。健は足早に仁美の方へ向かってきた。

「室井先生。」

健は背筋をきちっと伸ばし、仁美の前で立ち止まった。

「時枝君、ごめんね、部活前に呼び出して。」

そう言うと健は仁美を見ながら、

「いえ、大丈夫です。」

と言った。

「それでね、時枝君を呼び出したのは朝私が言った机の件なんだけど、時枝君何か知らない?」

と率直に聞いた。その時、それまで背筋を正して仁美を見ていた健は顔を少し下に向け、黙っていた。

「時枝君がやったって責めてるわけじゃないんだけど、もし何か知っていたら教えてほしいかなって思って。」

「知りません。」

健は下を向いたまま吐き捨てるように言った。

「俺は何も知りませんから。なんで俺なんです!疑ってるんですか?」

尚も健は仁美に顔を向けることなく言った。確かにこれでは健を責めているだけのようになってしまい、頭から健を犯人だと決めつけているようなものだ。仁美も決して健が犯人だと決めつけているわけではない。しかも本人が知らないと言い張ればそれを信じない訳にはいかない。

「先生、もういいですか。俺には何も分からないんでこれ以上は役に立てません。これから一年生は雨上がりのグラウンド整備をしなきゃいけないんです。すいません、失礼します。」

と早口に言うと健はやはり仁美に顔を合わせることなく仁美に背を向けると、職員室の出口に向かった。

「失礼しました!」

その声は明らかに入ってきた時の挨拶よりも不機嫌になっていた。この年頃の子たちは感情の変化が非常に分かりやすい。恐らく健は何か知っているのではないか、顔は合わせなかったものの、健は仁美に何か伝えようとしていたようにも思える。あの顔を合わせない行動も、いじめを受けている生徒でなかなか助けを求められない時にいじめられていないと嘘をつく時の行動にも似ていた。しかしそういう生徒にこちらから圧力をかけても逆効果だというのは十分分かっている。だからと言って向こうから助けを求めるまで待つというのは手遅れになりかねない。何かきっかけが必要なのだ。もちろん健が何かを知っているという確信もないのだが。

「室井先生。」

と声をかけてきたのは高田雪江たかだゆきえだった。

「学年会議、始まりますよ。」

そうだった、今日は学年会議が放課後行われる予定だったのだ。

「今日はどこでやるんでしたっけ?」

仁美は会議があること自体は覚えていたのだが、どこで行われるのかということはすっかり忘れてしまっていた。

「1組、あなたのクラスですよ。しっかりして下さいよ。まさか生徒達に伝えていないんじゃないでしょうね。」

そう言えば朝礼で生徒達に、放課後職員会議を行うので教室に居残らないように言ったのを自分のことで頭が一杯になり忘れてしまっていた。

「大丈夫です。生徒には伝えてあります。」

と自分を擁護するように言う。

「そう、ならいいんだけど。」

と雪江はそれでも疑いの目を向けて言った。仁美も会議で使う資料を抱え、1年1組へと向かった。

 その日の会議は、新入生初めての中間試験について、難易度や問題が漏洩しないようにどのような対策を打つかなどの話と、6月の文化祭についての会議が行われた。会議が終わると、会議で使ったお茶のコップやら資料やらプロジェクターの片づけはそのクラスの担任が行うことになっている。教室に仁美一人になると、プロジェクターを使う為に閉めておいたカーテンを開けた。外はすっかり晴れて丁度夕日でグラウンドが染められていて、各体育系の部活が活動している光景は、当に青春の一コマとなっていた。仁美はプロジェクターの接続ケーブルをまとめて専用のバッグの中に片付け、コップをカゴにまとめている時、さっきまで明るかった教室内が急に暗くなってきたことに気が付いた。どうしたのだろうと仁美が振り返った瞬間に仁美は動けなくなってしまった。教室全体に黒い靄がかかっているのだ。更に仁美は目を疑った。あの空席の2つに人の形に見える影が立っていたのだ。仁美はその光景に動けなくなってしまい、その間にも黒い靄はまるで仁美を包み込むように何処からか湧いて出てきてどんどん充満し、あの2体の影は仁美の方へとゆっくりゆっくり近寄ってきている。じりじりと、それはまるで仁美に助けを求めているようにも思えた。しかしやはり仁美にとってみればその光景は恐怖でしかなく、なんとか教室から逃げようとするが身体が全く動かない。窓からの光は入ってくるものの黒い靄はどんどん濃くなり、2体はもう仁美の数メートル先にまで来ていて、黒い靄もよく見ると無数の人の形をした影の集まりに見えてきた。無数の影達と2体のはっきりした影達は仁美を飲み込もうとして、2体の影はもう仁美の体に触れそうになるところまで来ている。影2体はその手をゆっくりと仁美の方へ伸ばしその腕を掴もうとしていたその時、教室のドアが開く音がした。

 音がした瞬間ようやく体が動き、教室の入り口の方を見ることが出来た。そこには1年1組の生徒皐月絵梨がいた。

「すいません。忘れ物しちゃって。教室に先生しかいなかったから、もう職員会議終わったのかと思って入ってしまいました。大丈夫でした?」

今彼女は教室の中を見たら仁美しかいなかったと言った。つまり、絵梨にはあの黒い影達は見えていなかったということだ。そう、やはりあれは幻覚で仁美はきっと疲れたのか頭がおかしくなってしまったのだと思った。

「ええ、大丈夫よ。」

そう言うと絵梨は自分の机へと向かい、机から教科書を出してカバンへ詰め、教室を出て行こうとした。

「あ、皐月さん。」

仁美はなぜか絵梨を止めた。

「ねぇ、うちの教室にある空席のこと何か知らない?初めから空席なんてなかったよね?」

絵梨に聞くつもりはなかったのだが、何故か空席について聞いていた。絵梨を疑う理由などは無かったが、自然と口から出ていたのだ。

「ああ…そう言えば、健もあの空席がどうとか…言ってました…。でも多分健が机を持ってきたとかそんなんじゃないと思います。だから健を疑わないでくださいね。あと…机は増えてないと思います…最初からこの教室はこうだったと思います……すいません!!さようなら!」

と言って絵梨は教室を出て行った。教室には初めから空席があったのだろうか。確かに机が増えたというのは妙に違和感がある気もする。しかし、新学期前、机は人数分しか教室に入れていなかったはずだし、新入生が来る前に自分のクラスは何度も確認したはずだ。そして、絵梨の話からやはり健は何か知っているということが分かる。しかしそれを話したくないということなのだが、話せない理由とはなんなのか、そして、机のことと健がどう関係しているというのか。もしかするとあの影についても健は何か知っているのではないかとも思った。とにかく仁美は、またあの影達が出てくるのではないかという恐怖にも襲われて急いで片付けを済ませ、職員室に戻った。






Act.4 また増えた


 やはりその日も頭痛がしていた。外は雲ひとつない青空が広がっているというのに、仁美の気持ちは沈んでいた。いつものように職員朝礼を終え、1年1組へ向かっていく。自分の横を数名の生徒が通り過ぎたかもしれないが、挨拶は交わさなかったように感じる。そんなこと教員生活始まって以降初めてかもしれない。この朝の教室までの道中がとても長く、そしてとてつもなく時間がかかっているように感じ、いっそうのことこのまま教室へ着かなければいいのにとこれまでの教員生活で一度も感じたことのないようなことを感じていたのだがそうはいかない。教室の前に着くと、教室の扉を開けるのも怖くなってくる。とはいえ、入らなければならないので教室のドアを開け教室へ入り、なるべく教室を見ないように教卓へ一直線に向かうと、いつものように拓郎の号令が聞こえ礼をした後出席簿を開いてようやく教室を見渡す。

その瞬間仁美は落胆する。なんとなく予想はしていたものの空席が3つ、やはり机は増えていたのだ。どういうことなのだ、一体何が起こっているというのか、もう我慢が出来ないと感じた仁美は知らずのうちに荒い口調でこう言っていた。

「その誰も使ってない机!この後直ぐに教室から出しておきなさい!誰でもいいから、いい、分かった!」

仁美は自分でも驚いていた。今まで一度も生徒に感情的になったことなどなく、怒る時も一度落ち着いてから生徒たちに話すようにしていたというのにこのようなことは初めてだった。教室中が静まり返りそれに応えるものはいないと思われたその時だった。

「やめてください、机はこのままにしておいてください!」

そう言ったのは健だった。健もまた感情的になっていたようだった。全員からの注目を一斉に浴び、それに気が付いたのか顔を下に向けて机を見つめたまま動かなくなってしまった。その姿を見て仁美も少し冷静になり、今一度頭を整理させた。

「机は、何処に持っていくか分かった時にするから。とりあえず今はまだこのままでいいから。」

と言って仁美は1年1組を後にした。

 仁美は本気で一度病院へ行こうかと悩んでいた。ここ数日間のことが本当に現実に起こっていることなのか、自分の幻覚や気のせいなのか分からなかった。もし身体に異常があるのならば診てもらわなければならないだろう。夕方の職員室では、先生の半分は部活動の顧問も兼任している為そちらへ行っていて、残りは自分のデスクで仕事をしている。いくら教師とはいえそんなに早く帰れることはない、たいてい7時くらいまでは学校にいることが多い。仁美もこの日は色々考えながらも、教材や小テストなどを作っていた。外はだいぶ暗くなり、運動部の声もしなくなっていて、時計を見ると6時半。早い人はちらほらと帰り始め、仁美も帰ろうと身の回りを片付けていた時に声をかけられた。

「室井先生。」

ふと顔を上げると、野球のユニフォーム姿の尚樹が向かいのデスクのところに立っていた。

「桜庭先生、お疲れ様です。」

尚樹は深刻そうな顔をしている、

「室井先生のクラスの時枝君、さっき喧嘩したんです。」

「え?」

生徒同士の喧嘩などよくあることであり、自分のクラスの子が喧嘩したと聞いても普段はそんなに驚くことではなく冷静に対処していけばいいのだが、今名前が出たのはあの健だ。

「時枝君、同じクラスの小川君に飛びかかって行ったみたいです。幸い怪我とかはなかったんですけど、1年1組の野球部グループ、普段はすごく仲がいんですけど急にどうしちゃったんでしょうか?」

尚樹は不思議そうに言う。

「うーん…。」

仁美もなんとも言えなかった。机の件についてのことがあった為、健の身に何かが起こっているのは分からなかった。朝は感情的になっており、部活では友達と喧嘩をしているというのだが、それもあの机の件とは関係しているのだろうか。仁美は尚樹になんと言っていいのか分からなかった。

「室井先生、大丈夫ですか?なんだかここ何日間で酷く疲れてる気がします。」

仁美はその言葉にはっとした。やはり顔に出ていたのだ。

「クラスで問題でも起こったんですか?なら、早いうちに対処しないと取り返しのつかないことになってしまいますよ。」

「そんなこと、あんたみたいな若造に言われなくっても分かってるわよ。」

また感情的になってしまった。酷いことを言ってしまったと思い再び尚樹の顔を見ると、尚樹の顔は少し微笑んでいてそれは呆れているようにも哀れんでいるようにも見えた。

「今日の夜暇でしょ?」

と、急に尚樹は表情を変えずに言ってきた。

「暇でしょって…何よ。」

「どうせ独身なんだから暇でしょう?飲みにでも行きましょうよ。」

という尚樹の言葉に仁美は少しムッとした。

「何よ、その言い方。あんただってまだ独身でしょう。」

「まあ、そうなんですけどね。良いじゃないですか、たまには飲みにでも行きましょうよ。そうだ、せっかくだからアマンダでも誘ってさ。」

「なんだ、二人きりじゃないんだ。」

と冗談を言いながらも帰って特にすることもないので、飲みに行くことにした。

「やっと少し笑顔になりましたね。飲みにでも行けば少しは元気になるでしょ。」

と今度はニカッと笑顔を見せて尚樹が言うと、野球のユニフォームを着ているせいもあってか生徒だと言っても疑われないような姿にみえた。

 それにしても、健が喧嘩をしたとはどういうことなのだろうか。普段は暴力的になるような子ではなさそうなのだが、それほど彼を突き動かすこととは一体なんなのだろう。健の周りで、仁美の周りで何が起こっているというのであろうか。






Act.5 気晴らし


 東第一高等学校のある町では居酒屋らしい居酒屋はほとんど存在しなかった。駅の周辺に数件、少し住宅地に近いところに伊都子の情報屋があった。学校職員の年齢の高い人たちは割と昔ながらの居酒屋へ、若い職員は情報屋へ行くことが多く、仁美、尚樹、アマンダの3人もこの日は情報屋へ飲みに来ていた。時刻は7時半ごろだった。3人はお通しのひじきと大豆の煮付けとビールを片手に話をしていた。

「桜庭君、煙草まだ止めてなかったんだ。」

尚樹は1ミリの煙草をゆっくりと吸いながらビールを飲んでいて、煙草のことそれを咎めたのは仁美だった。

「学校は全面禁煙ですしね、やめようとは思うんですけどなかなかやめられなくて、これでも1ミリにして、こうやって飲む時くらいですよ。嗜み程度にはいいかなって。」

と言った後尚樹は煙を吸い、ゆっくりと吐いている。その横でアマンダはニコニコとビールを飲んでいた。

「まあいいけどさ。私も一時期吸ってたしね。」

「桜庭せんせ、タバコ吸うのあまり見ないですから、珍しいね。」

そうアマンダが言うのも無理はない。普段職員での飲み会は、年配教師も時代の流れからかほとんど煙草を吸わなかった。恐らく普段は吸っているだろうなと感じる人はいるものの、今の時代は教師が煙草を吸っているというだけでも印象が悪くなるからなのだろう。昔は職員室や校庭の隅でもスパスパと煙草を吸っていたのに、いつの頃やら専用の喫煙室ができて今では校内全面禁煙だ。あまり煙草を吸う姿を晒さないようにしているに違いない。そんな仁美も新人教師時代はたまに校内の喫煙室で吸っていた。

「ところで室井先生、どうしたんですか最近。クラスで問題ですか?」

煙草の火を消しながら尚樹が言う。注文を受けた枝豆とポテトフライ、チーズの盛り合わせを準備しながら、情報屋の伊都子も聞き耳を立てている。

「うーん。」

仁美は机が増えていること、黒い影の幻覚を見ることなどを話そうかどうか迷い、なかなか話し始められなかった。

「そう言えば室井せんせ、この前の授業の時顔がブルーになってたです。大丈夫だった?」

とアマンダが言う。あの最初に影を見た時のことだ。それから仁美はあの時のことから話すことにした。

「実は、あの時おかしな幻覚が見えちゃって。」

「幻覚?」

尚樹が目を細めてようやく話し始めた仁美の顔を見てくる。

「いやね、バカみたいな話なんだけど、誰もいない席に人影みたいなのが見えて…。」

伊都子は更に聞き耳を立て、ポテトフライを上げる音をなるべく立てないようにゆっくりとポテトをひっくり返していた。尚樹も真剣に聞いてくれていて、それに安心したのか仁美はここまでのことを話し始めた。

「その日の朝に教室の机が一つ増えているのに気が付いて、その机も増えたのか初めからあったのかその時点で分からなくなっちゃって、その日にその人影の幻覚を見たの。それから次の日もまた机が一つ増えて…。」

仁美はここまでおかしな話しを本当に聞いてくれているのだろうかと尚樹の方を見ると、じっと真剣な表情で聞いてくれている。その時、仁美の前に揚げたてのポテトフライが置かれた。

「ポテトフライお待ちどう。」

やはり伊都子は話が気になっているようで、3人の様子を見ながら次の作業に入る。

「ありがとうございます。」

仁美はポテトフライを2人の居る方へ差し出しながら話を続ける。

「それで、生徒たちにその机のこと何か知らないかって聞いたんだけど誰も知らないみたいで。」

健のことに関しては確証がないのでまだ言わないことにした。

「その日の夕方にまた影の幻覚を見ちゃって、その影、なんだか私のことをどこかへ引き摺り込もうとしてるようにも見えるの。ただの幻覚だと思うんだけど…。やっぱり疲れてるのかな?」

尚樹は真剣な顔のまま仁美を見ている。その奥ではアマンダもビールを飲みながら面白いうわさ話でも聞くようにポテトをつまんでいた。

「それで…増えてたの…今日も…。」

そこへ今度はチーズの盛り合わせが置かれる。尚樹はビールを飲み干し、もう一杯ビールを頼むとカウンターの奥を見ながら何かを考えていた。

「もしかしたらその件に関して時枝君が関わっているかもしれない。」

仁美は驚いた。なぜ尚樹はその考えに行きついたのか。

「え?どうして…。」

「だって、さっき時枝君に何かあったのか聞いた時何か言おうとしてたのが分かりましたから。それでこの話を聞いてると、何か時枝君が関わってたのかなって。」

そうだった。健が喧嘩をしたその原因を尚樹は知りたかったのだ。しかも同じクラスの生徒と喧嘩している。今クラスで起こっていることと関係しているのではないかと感じるのは当たり前のことだ。しかし仁美は、自分がおかしなことに遭遇していること以外は何も分かっていない。

「でも、そこに時枝君が関わっているのかどうかは分からないの。本人にも聞いてみたんだけど、知らないっていうから。」

そう、この件に関してはまだまだ分からないことだらけなのだ。はっきりとしたことは何も言えない。

「でも、みんな変とは思わないですか?」

アマンダが不思議そうに言う。

「そうですよね、そうやって机が増えているとするなら、変だと思って生徒たちも騒ぐんじゃないでしょうか?」

その時仁美の頭の中に絵梨の言葉が思い出された。机は初めからあった。

「生徒たちは…初めからあったって言うんです。やっぱり私の気のせいなんですよ。疲れてるんですよね、きっと。」

「口裏を合わせてるとか。」

と間髪いれずに尚樹が言う。

「まさか、そうやって生徒達を疑うわけにはいきません。」

「まあそうなんですけど、今の時代の高校生って、携帯電話とかああいうのでおかしなことをし始めたり、集団ヒステリーみたいなのも起こりやすくなってるみたいですから。」

と、尚樹はチーズをつまみ、2杯目のビールを飲みながら言う。

「もしそうだとしたら、なおさら慎重にならなきゃいけないんですよ。そこまで大きなことではないと思うんですけどね。」

仁美もビールをグッと飲み干し、2杯目をもらう。

「やっぱり疲れてるんでしょう。病院、行ってみてもいいかもしれないですね。新入生が入って色々と仕事多かったですから。それに今年は1年生の英語担当1人ですからね。大変ですよ。」

と尚樹はビールの3杯目に入るところだ。少し酔ってきているのか喋りが滑らかだ。

 それからは仕事の話から結婚の話しなど本題からは遠ざかっていき、結局9時過ぎまで飲んでいた。3人とも程よく酔い、仁美も少し気が晴れ、近々病院へも行ってみようと決めた。その日は少し酔っていたせいもあってかぐっすりと眠れ、翌朝もスッキリと目覚められ、疲れも少し取れた気がした。その日は頭痛もなく足取りも軽かった。それもそのはず、やはり教室に行くのは億劫だったが、その日は以前と同じように教室に入れた。半分は机が増えること自体慣れていたのかもしれない。しかし、やはりあの光景を目にしてしまった瞬間気持ちは一気に重くなり、今頃二日酔いがやってきたとでも言うのか、急に吐き気のようなものもしてきた。空席が4つ、また机が増えていた。またその光景に落胆しそうになるのを抑え、教卓に着きいつものように拓郎の号令を聞いて出席簿を開いて出席を確認していると、机が増えた理由が分かった。健がいないのだ。休みの連絡なんて入っていないのに、健が来ていなかった為に机は一つ空いていたのだ。健は無断欠席をしていた。理由が分かり仁美はほっとしたのだが、健が無断欠席をしたということに関しては何か引っかかる部分がある。そして、本当にこれでもう終わりなのだろうかと、そんな不安がまだ胸の奥で渦巻いていた。

仁美は空き時間に健の家へ電話してみた。電話は祖母が出て今朝学校へ行く為家は出たのだという。ただ、やはり昨日の喧嘩のことを引きずっていたらしく元気はなかったそうだ。だとしたら健はどこへ行ってしまったというのか。仁美は再び気持ちが重くなっていくのが分かった。もしかしたら健はいなくなってまたクラスの机が増えてしまうのかもしれない。やはり机は増え続けるのだ。ただ、仁美自身も精神的に疲れているのが分かっていた。やはり病院へでも行って少し休みでも貰わなければならないのだろうか。

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