12.勝負

Act.1 この世界


 過去に幼馴染だった3人とその息子、娘の健と沙羅はしばらくの間沈黙を守っていた。周りには不気味な影がゆらゆらと揺れているが健にはそれがまるでこの空間を守っているようにも感じていた。

「おい、健。」

沈黙を破るように隼人が健に声をかけてくる。

「部室からグローブ持ってこい。一つや二つ転がってるだろ。」

「え?………でも…。」

部室と言われてもピロティの方はすでに影が塞いで部室までは行けそうにない。あの影の中に入ってしまえば今度こそ引き摺り込まれてしまう。

「おい、亮一、部室くらいは行かせてくれよ。俺の息子だ、絶対に逃げやしない。」

亮一は黙っていたが、しばらくするとまるで部室までの道を示すように影達がそこだけ避け始めたのだ。

「お、ありがとな、亮一。感謝するぜ。健、取ってこい。」

「あ…うん。」

健は影達の開けたピロティの方へ向かった。

「俺は何もしてない。」

亮一は俯いてそう言った。

「そうか…だが…感謝する。」

健が部室へ行っている間再び沈黙が流れた。

 健は部室の前まで行くとあることに気が付いた。部室に来たのはいいが健は鍵を持っていないので部室へ入ることができないのだ。諦めて戻ろうとしたが、一応確認の為に部室のドアに手をかけ回してみた。すると、部室の鍵は開いていたのだ。そんな偶然などあるのだろうか。健は不思議に思い色々と考えを巡らせているともしかしてと感じることがあった。もしかしたらこの世界自体は夢の中のような世界でこの学校も今この世界にいる6人の共通認識が東第一高等学校であり、その共通認識がこうしてこの学校という場所を具現化させたのだろうと感じた。ということは先ほど健が一瞬見たあの不思議な場所もここにいる誰かの記憶の中なのかもしれない。ここにいる多くの影達ももしかしたらこの世界に迷い込んで出られなくなり、現実世界で忘れ去られてしまった寂しい存在。現に亮一がそうなってしまったのを見ると、そのことは人間にとっての「死」とイコールで結ばれるのではないだろうか。しかし現実世界で誰の記憶からも消えてしまったとなればそれは初めから産まれなかったということになるのかもしれない。人間は「産」と「死」の間に「生」がある。この世界から出られなくなり、現実世界から抹消されてしまった場合はどうなってしまうのであろうか。健は様々なことに考えを巡らせたが明確な答えが出てこない。ただ一つ言えることはここでは自分は孤独になってしまうということだった。

 健は部室のドアを開け中に入ると、中もいつものままだった。健はいつも自分のロッカーにグローブを入れているのできっとそこにあるだろうと自分のロッカーのところへ行き扉に手をかけ、ロッカーを開けたその時だった。中から黒い影達が一気に勢いよく飛び出し一瞬で健を包み込んだ。健は逃げる暇もなく暗闇に包まれ、まるで海の底に落ちていくような感覚覚えていた。

「亮一、ありがとう。これで隼人野球部に戻れるね。これで隼人の居場所、戻ってきたね。よかったね隼人。これでまた投げられるね。」

誰かの声がする。健はゆっくりと目を開くと目の前には魂を抜かれたような表情をした沙羅が立っていた。

「鈴…お前まで。じゃあ俺はどうなるんだよ。」

また他の誰かの声がする。鈴という名前を聞いた時、目の前の少女は沙羅ではなく高校時代の鈴だと分かった。沙羅と似てはいるのだがよく見ると髪型や顔立ちが微妙に違う。

「ありがとう亮一。これで俺の居場所が戻ってきた。お前のお陰だよ。」

今度はその鈴の隣にいる自分によく似た少年。恐らく隼人だろうと思うが、その表情もまた生気を感じられなかった。

「お前ら!」

健は自分の中から声がするのが分かり、それでようやく理解した。これは亮一の記憶の中で健は亮一の目線にいるのだ。

「亮一が先発から外れて良かった。これで私達も幸せ。誰も不幸になんてなってないよ。これでいいんだよ。」

鈴はまるで表情を変えずに淡々と言葉を発している。

「お前が先発から外れて良かった。これで俺は甲子園目指せるんだよ。誰も不幸になんてなってないよ。」

やはり隼人も同じだ。表情一つ変えずに淡々とした口調で言葉を発する。

「分かってるよ。俺はその誰もの中に入ってないんだな。いいんだ。これが答えなんだよ。だから誰も不幸になってない。そうさ。お前らは正しいよ!」

その時健の胸の中に熱い何かが込み上げてくるのが分かった。そして胸が痛くなり、それは怒りでもなく悲しみでもなく憎しみでもなく、なんと説明していいのか分からない感情がこみあげてくる。

「お前は本当にこれでよかったのか。」

隼人は視点も定まらないような表情で言う。

「は?よかったも何も、全部お前のせいじゃないか。今更何言ってんだよ。」

全部お前のせい。健はこの言葉に隼人と亮一の間に何か大きな問題が過去にあったのだと理解した。ということは隼人に何か問題があったということになる。

「なんか引っかかるなぁ。なんでこんなことになっちゃったのかなぁ。」

それまで無表情だった隼人がニヤリとした表情になる。これは完全に隼人側に問題がある。ならばこの事件の大きな原因が隼人にあるということになるのではないか。

「引っかかるだって?隼人…お前それ…本気で言ってんのか。」

表情は分からないが亮一は静かに怒りを爆発させている。

「亮一、俺お前のことが心配だ。」

隼人はそれに対しニヤリと不気味な表情を変えないまま言う。

「ハハ…嘘ばっかりだ…あーあ…ほんとだな…どうしてこんなことになったんだろうな。

いままでは何も問題なかったのにな!」

健はこの3人の間に何が起こったのか推測しようとしていた。さっき隼人はお前が先発か

ら外れて良かったといった。ということはこの2人はどちらも投手で先発争いをしていた

ということになる。そうして亮一は先発から外れ隼人が先発となったのだ。それを隼人は

喜んだということになる。それは友人同士としてあってはならないことなのだと健は感じた。

「俺はお前が心配だ。お前のことが心配なんだ。お前納得してないんだろ。お前が心配だ。お前のことが心配なんだ。ほんとだよ。お前が心配でたまらないんだ。」

それにしても隼人の様子はおかしい。言葉には抑揚がなくまるで機械のようだ。

「私もよ、亮一。あなたのことが心配なの。本当よ。心配なの。」

それは鈴も同じだった。

「もうやめてくれ。こんな茶番はもうお終いだ!言いたいことがあるならはっきり言えよ隼人!お前にとって俺は邪魔な存在だったんだろ?そうだろ!そう俺に直接言えばよかったじゃないか!裕には相談して、なんで俺には何も言えなかったんだ!やっぱり俺はお前の居場所を奪った悪者でしかないんだ。鈴だってそう思ってるんだろ?俺が隼人の居場所を奪った最低な奴だと思ってるんだ!あぁそうさ!俺は最低な奴さ。それでいいだろ!もうお前達の前には現れないからよ!」

その時だった。あの黒い影達が亮一の周りに囲むように湧いてきたのだ。

「見える…俺は誘われてるんだ…そうか…隼人に居場所を返したなら、俺の居場所はそこなんだな…そうか…ハハハハ…あった…俺の居場所があったんだ…そこなら俺を迎え入れてくれるんだ…なぁ…そっちにはどうやっていけばいいんだよ。」

亮一がそう言うと影達は亮一に向かって手招きをしてきた。

「そうか…俺を歓迎してくれるんだな…そこが俺の居場所だ…俺の居場所が見つかったんだ!!」

「ヨカッタネ。リョウイチの居場所が見つかった。」

鈴は言葉は優しく聞こえるがその不気味な微笑みには健も鳥肌が立つようだった。

「ほんとだ。ヨカッタネ。リョウイチの居場所、見つかった。」

隼人と鈴は不気味な笑顔のまま亮一に向かって手を振っている。その時健は何とも言えない怒りがふつふつと湧いてきた。結局悪いのは鈴と隼人ではないか。

「じゃあな。俺は自分の居場所を見つけた。だから俺はあっちに行くんだ!短い付き合いだったな。」

亮一がそう言うと目の前はだんだんと真っ暗になっていった。健はきっとこれは亮一の記憶の中なのだろうと考えていた。






Act.2 黄金バッテリー


 気が付くと健はロッカーの前に倒れていた。健のロッカーは開いたままだった。健はゆっくりと起き上がるとロッカーを覗くとそこにはやはり健のグローブと見慣れないグローブの2つが入っていてそれを取ると健は部室を出た。何とも複雑な気分だった。隼人が全ての原因で反省すべきは隼人の方なのだ。そういう隼人への不信感を抱きながら健は4人の元へと戻っていった。

「遅かったな。」

そう言いながら隼人は肩を慣らすためなのかストレッチをしていて、亮一はじっと俯いて立っていた。鈴と沙羅も不安そうな顔で2人を見ている。

「あ…うん…ごめん。」

健は隼人の顔を見ることができなかった。先程の光景が頭から離れず、父親の隼人をどういう顔をして見ればいいのか分からなかった。やがて隼人は健の持っていたグローブの一つを取った。

「健、ボール。」

隼人はボーっとしていた健に声をかけた。

「え?」

「お前のポケットに入ってるだろ。」

健は自分のブレザーのポケットに入れていた巾着袋を見た。

「そのボール出してくれ。」

健はポケットからボールを取り出すと隼人に渡した。

「亮一。すまないが投球練習をさせてくれ。高校以来投げてないんだ。絶対に鈍っちまってる。」

「好きにしろ…。」

亮一は尚も俯いたまま言う。

「健、お前キャッチャーだろ。俺の球受けてくれ。」

「え?」

そう言うと隼人は健から一定の距離を取りはじめる。

「ちょっと!父さん!」

急なことに健も心の準備ができていなかった。

「なんだ。お前ここでもまた野球部入ったんだろ?俺の球くらい受けれないで高校野球はできねえぞ。」

「隼人、分かってるの?あなたもう四十よ。なのに亮一の見た目は変わってない。実力だって下手したらあの時のままかも……。」

鈴は不安な表情のまま言う。

「黙って見てろ。ほら健、構えろ!」

健はグローブをはめ、構えに入った。隼人もセットポジションに入り集中力を高めているようだった。

「行くぞ。」

隼人はゆっくりとモーションに入り、数十年のブランクを感じさせない滑らかな動きでボールを投げてきた。その瞬間健は焦った。今まで受けてきた誰の球よりもそれは早く、軌道を合わせるのがやっとだった。そうしてボールが健のグローブに入った瞬間だった。周りの風景が一瞬にして回り始めたのだ。

「お前調子悪いだろ?」

亮一の声だ。また亮一の記憶の中に入ったのだろうか?先ほどと同じ目線だが周りは明るく、見覚えのある風景だ。そうだ、これは野球部の練習だ。

「あぁ…少しな。」

目の前には高校時代の隼人がいて先ほどと同じように投球しようとしている。

「今日は少し左下にずれてるから…恋の悩みだろ!」

「おいちょ!」

隼人のボールは大きくずれ、亮一はそれを取りに行ったようだった。

「………図星か…。」

その瞬間だった。健は憎しみのような、怒りのような感情を感じた。その矛先は恐らく隼人だろう。

「なんで分かるんだよ。」

その言葉に亮一が苛立ちを覚えるのも分かった。しかし亮一はその感情を表に出すまいと必死のようだった。

「そうだな……因みに右下が腹痛、上がり過ぎの時は風邪、下がり過ぎの時はテストの点数が悪い時ときた。」

亮一の声は明るいが感情はその真逆だ。

「お前…抜け目ない奴だな…。」

「だからお前の球は暴投しない限り抜けません。何年お前の球受け続けてると思ってんだよ。」

「ほんと、俺とおまえは、バッテリー組んでから長いよな。」

ここで健は不思議に思った。さきほどは先発争いをしていたはずなのに「バッテリーを組んでから長い」とはどういうことなのだろうか。もしかしたら亮一は投手ではなく捕手だったのだろうか。それなら部室で見た記憶は一体。

 その時だった。2人の元へ男性がやって来た。

「おい!お前らも向こうの練習に合流しろ!」

身なりからして当時の野球部顧問らしい。まだ年齢は若く、今の野球部で言えば尚樹くらいの年齢だろうか。それから隼人も亮一も投球練習をやめ、移動しようとした時だった。

「花村!お前はちょっと待て。」

亮一は顧問に止められた。隼人も何事だろうかとこちらを振り返っている。

「時枝は先に合流しとけ。」

「あ…はい。」

隼人は亮一と顧問のことを気にしながらも先に行ってしまった。顧問は隼人が練習に合流するのを確認すると、真剣な面持ちで亮一を見つめ、話し始める。

「花村……お前に話したいことがある…。」

 健は隼人の球の勢いで倒れていた。

「おい健、これくらいの球でへこたれるな!もう一球行くぞ!」

健はまた亮一の記憶に入ってしまっていたのだろうか。

「健!」

隼人がそう言うと健は隼人にボールを返す。

「凄い…プロ野球選手みたい…。」

沙羅は思わず言葉を漏らす。

「2人は世界で一番の黄金バッテリー…。」

鈴も隼人を見つめたままそう呟く。沙羅はその時今まで見たことのないような鈴の表情を見た。この表情は一体何なのだろうと考えていると、更には親子として、女としての直感が働いた。

「母さん…もしかして…。」

「集中しろ。逸らしたら顔面に当たるぞ。」

健と隼人の会話がグラウンドに響いている。

「ほら次はスライダー、行くぞ。」

隼人は再び集中すると健に向かって投げ、ボールがグローブに入る音が響く。

「うわっ……すごい曲がった!」

健はなんとか取った。しかしここまで変化球がきついと本当にプロの球を受けているのではないかと思ってしまう。

「良く取ったわね。隼人のスライダーなんて亮一でも最初は取れなかったのに。」

その様子を恨めしそうに亮一は見ていた。

「会心のボールだったんだけどな。さすがは俺の息子ってとこか。」

その時だった、再び健は別の光景を目の前にしていた。






Act.3 2人の隠し事


「待て、亮一!」

後ろから声をかけてきたのは隼人だった。走って追いかけて来たらしく息を切らしている。

「お前、練習どうしたんだ? 体調が悪いって感じでもないよな。」

しかし今健の見ている視点は隼人の方を見ようとしない。恐らくまた亮一の視点だろう。ずっと黙っている。

「何か、悩んでるんだろ。話せよ。俺に関わることでも、関係ないことでもいい。話してくれ。」

そうしてようやく亮一は隼人の方を見た。そこにはユニフォーム姿の隼人がいた。

「聞くまでもないだろ?」

亮一は隼人を見つめたまま言う。

「何のことだ?」

「もう口先だけの友達は止めろ。本当のことを言え。お前、俺を憎んでるだろ。憎くて憎くて仕方ないんだろ!」

亮一は感情を表に出していた。何にこんなに怒りを感じているのか健には分からなかったが、その感情が健にも押し寄せるようにシンクロしている。しかし怒りの中に僅かながら悲しみも感じられたのだ。

「憎いとか…そんな…」

隼人も困った顔をしている。しかし今の亮一にはそんな表情など分かるはずもない。亮一

は今感情を爆発させ制御できなくなってしまっているのだ。

「俺達は今までずっとバッテリーを組んできたんだ。それなのにこんな肝心なことを俺に言わないなんて……お前はそんなに俺が信用出来ないのかよ!?」

「俺達は友達だ。いや、親友だ。誰のせいでもないのにお前を憎むなんて、あるわけない

じゃないか。だから亮一、俺の話も聞いてくれ。俺はお前を信じてる。俺はお前と一緒に

甲…。」

隼人も必死に説得しようとしているのが分かった。しかし亮一の感情はやはりもう抑えられなかった。

「言うな!言いたいことは分かってる。でも……もう何を言ったって、何が真実だって、もう駄目なんだ。お前と一緒に甲子園行くことも…鈴とお前と、三人でいつまでも仲良くいられることも……そんなのはもう、とっくに終わってたんだよ!」

隼人もそれ以上何を言っていいのか分からないのか何も言えず、しばらくの沈黙が続く。

「お前は隠し事をしていた。俺に、いや、俺と鈴を騙していたんだ。」

沈黙を破ったのは亮一だった。

「隠し事……。」

「俺にもある。言えば終わりになる。だから言わなかった。でも、結局言わなくても終わりになっちまった……もう、駄目なんだよ、何もかも。」

「なんだよそれ。いつ俺がお前を騙したんだ?俺が野球部辞めるって話か?あれは違うんだよ。俺は別に…。」

隼人も必死で分かってもらおうとしているのは分かった。それはまるであの時の誠にも似ていた気がする。こうなってしまった時、どんなに説得されても歯止めが利かなくなってしまうのは健にはよく分かっていたのだ。

「言い訳は聞かねえよ。」

その瞬間だった。我慢の限界が来たのか急に隼人の表情が険しくなり、隼人の感情も爆発したようだった。

「お前……いい加減にしろよ!俺の話も聞かずに勝手なことばっかり言いやがって!ちょっと自分が調子悪いからって、こっちに責任押し付けるんじゃねえよ!今のお前に構ってもしょうがない。自分のやるべきことから逃げて……お前がそんな奴だとは思わなかったよ。」

隼人の表情は怒りで溢れている。

「俺が言いたいのはそんなことじゃない!聞けよ!」

亮一も静まらない怒りのまま言う。

「お前こそ聞く耳持たないじゃないか!偉そうに指図すんなよ!……望み通りお前とは終

わりだ。そこでいつまでも俺のせいにしてろ。俺は、お前を置いて先に行く。あの約束も、

今日限りだ!」

「……勝手にしろ。あんなボール、さっさと捨てちまえよ。もうあっても邪魔になるだけだからな。」

亮一からボールというワードが出てきた時、隼人はふと冷静になり、その顔には泪が浮かんでいる。

「お前、そういうこと言うからこんな風になっちまうんだよ。今までのことは横に置いといて、一回腹割って話そうぜ。」

隼人の声は必死だった。きっと亮一との関係を元に戻したいに違いない。

「意味ねえよ、そんなこと。」

「亮一…。」

隼人は絶望に暮れ、ほとんど泣いてしまっていた。

「言わなくても分かってる。お前だって分かってるんだろ。俺達の関係はいつか崩れるんだ!どっちかが諦めない限り!」

隼人はその言葉の意図に気が付いたようで、じっと握り拳を震わせていた。

「やっぱり、そうなのか。お前も、鈴のこと……」

隼人は口にすべきでない言葉を言ってしまった。この瞬間2人の間に大きな壁ができてしまったのだ。

「……ああ。そうだ。」

それからまた沈黙ができた。しばらくしてその沈黙を静かに破ったのは隼人だった。

「……いつか、こうなる気がしてたよ。だから、もし俺が鈴にこの気持ちを伝える時がきたら、その時は先にお前に話そうと思っていた。」

2人はもう顔も見ていない。

「甲子園に行ったら、か?」

亮一は吐き捨てるように言う。

「……ああ。だから、絶対に行きたかった。お前と一緒に…。」

「黙れ!綺麗事ばかり言いやがって!お前が俺を恨んでることぐらい分かってんだよ!」

「違う。俺はそんな…。」

隼人は決して嘘を言っているわけではなかった。しかし今はなにを言っても亮一には綺麗事にしか聞こえないのだろう。亮一はますます怒りを募らせているだけだった。

「何年お前の球を受けてきたと思ってるんだ!お前の投げるボールを見てりゃ、割り切れてないことぐらいすぐ分かるんだよ!口では俺を励ましながら、腹の中では先発を奪った俺を憎んでる。一人で投げる姿を鈴に見せられないのが憎くて憎くて仕方ない。そうだろ!?隼人。お前卑怯だよ。鈴や俺とあんな約束までしておいて、自分が活躍できなくなったら平気で破るのか?」

亮一は溜まっていたものをすべて吐き出すように言い放った。しかし隼人もその言われようには怒りを覚えてしまっていた。

「手は抜いてねえよ。試合でも本気で投げた。見てただろ?」

健には大まかな想像しかできなかったが恐らくこの2人の間で、野球部で何かあったに違いないと感じた。

「見てたから言ってんだ。お前の本気はあんなもんじゃない。あれが全力か。俺が誰よりも認めていた時枝隼人の投げる球は、あの程度のもんだったのかよ!」

隼人は俯いて黙り込んでしまっている。もうまるで亮一を相手にしないような雰囲気があった。

「隼人!」

「……本気なわけねえだろ。」

その瞬間、隼人をまるで憎しみの塊のような空気が包み込み、それは隼人本人ではないようにも見えた。

「隼人?」

その姿に亮一も何か恐怖を覚えているようだった。

「お前さえいなけりゃ俺は先発のままだったんだ。しかも投げる度に打たれるクソピッチャーじゃねえか。そんなやつの後ろで投げる気になんかなれるかよ。亮一、お前のせいだ。お前のせいでチームは負けた。俺も活躍出来なかった。お前のせいだ。お前のせいだ。」

今度は隼人が溜まっていたもの全てを言い放ったようだった。その言葉には健も驚いた。

「隼人…お前……。」

その様子に亮一は恐怖へと落とされていっているように見えた。

「お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ……!」

隼人はまっすぐ亮一を見てその言葉だけを繰り返している。

「何が俺のせいだ。何もかも人のせいにしやがって、最低な奴だな!」

亮一はついに隼人へ近寄り胸倉を掴み殴りかかろうとしている。

「お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。」

隼人はそれにも動じずに亮一の目をまっすぐ見て無表情でその言葉だけを繰り返している。亮一の目は血走り、まるで2人の仲が良かった頃など想像ができないような光景が広がっていた。しかし。

「お前の……俺のせいだ。」

「……え?」

健はその瞬間に再び暗闇に包まれていた。






Act.4 決着


 健は自分のグローブの中にあのボールが入っているのに気が付いた。

「健、ラストボールだ!書面に構えろ。」

健にはこの2人の間に何があったのか考えてはみるものの手がかりが少な過ぎてすぐには見えてこなかったが、2人の間にはあってはならないズレが生じていたのではないかと感じた。大切なパーツを抜かれたジェンガが脆くも崩れ落ちてしまうように。

 健はボールを隼人に投げ返すと、再び構え、隼人のストレートを受けた。やはり隼人の球は速く、受ける度に健の手にもその衝撃が響いてくる。いつもの投球練習とはわけが違った。あの亮一はこの球を受け続け、その癖まで把握していたというのだから確かに黄金バッテリーと言われても頷けるものだったのだろう。しかしその黄金バッテリーがなぜ崩れてしまったのだろう。なぜ甲子園へは受けなかったのだろう。健には謎ばかりが残っていた。

「ふう……こんなもんか。どうだ亮一。打てるか?」

いつの間にか亮一は隼人の投げる球を見ていた。

「年食ったな、隼人。球速が随分落ちてるぞ。」

亮一の目つきが変わっていた。その目は憎しみに満ちていた目から決着を付けるための闘志に燃える目をしていた。

「だが、長年肩を休ませたせいか、フォームの力みがなくなってる。球のキレは前よりも上がってるな。」

亮一は当たり前のように隼人の気になるところを言っている。恐らくこうやっていつも亮一は隼人をサポートしていたに違いない。その瞬間隼人が小さく笑うのを健は見逃さなかった。

「はあ……さすがに分かってるか。ナメてくれれば助かったんだけどな。」

その表情を亮一から隠すように隼人はそう言う。恐らくこの勝負の決着を付けるためには余計な感情を蘇らせてはならないと思ったのだろう。

「お前相手に手抜くかよ。どんなボールでも、全力で打ち返してやる。」

しかし壊れたジェンガがほんの少しだけ積み上がったようなそんな雰囲気が2人の間に漂っていた。しかしそれを見つめる鈴の目はやはり不安を浮かべていた。

その時、健はそんな2人の姿に過去が重なって見えていた。

「勝負だって?お前と、俺が?」

高校生の隼人は訝しげな表情でそう言う。

「お前が投げるボールを俺が打つ。一球勝負だ。お前が勝ったら、俺は鈴を諦める。俺が勝ったら、鈴には手を出すな。」

亮一も隼人をまっすぐに見てそう言う。

「何言ってんだよ。野球は野球。鈴は鈴だろ。そんな方法で決着つけて何の意味が――」

「勝負しろ隼人。もうお前と話をする気はない。受けないなら、それまでだ。」

亮一の目には今と同じように闘志が燃えていた。

「受けてもそれまでじゃないか。どちらかが鈴から離れるって言うんなら、もう俺達は元の関係には戻れない。それでいいのかよ?」

隼人は少し困惑するような表情を浮かべている。

「隼人。勘違いするな。これは俺達二人の決着をつけるために、勝負するんだ。」

「亮一…準備はいいか?」

隼人はあのボールを握りしめている。

「ちょっと待てよ、バットぐらい準備する時間をくれ。」

「あそこにあるだろ。」

隼人の言う先にはいつも健が準備をしているバット立てがあった。亮一は隼人をチラリと見るとバット立ての方へ行き、そこからバットを一本持ってきた。

「よし準備は整ったな。勝負はこの一球勝負。お前が打つか俺がボールを出せばお前の勝ち。空ぶれば俺の勝ち。お前の方が有利かな。」

そう言うと隼人はニヤリと笑った。

「ごちゃごちゃ言わずに早く投げろ!」

亮一もバットを構えていた。

「まあそう焦るなって。たった一球だけの勝負だ。もうちょっと味わおうぜ。」

鈴はずっと不安げに2人を見つめているが、健には2人がこの勝負を楽しんでいるように見えた。勝ち負けがどうというよりも今22年ぶりに2人が再会し、こうして2人が向かい合っている、それだけのことをこの2人は楽しんでいるのだと感じていた。寧ろ隼人にとってはこの瞬間を終わらせたくないと思っているのではないかと思えるほどだった。

グラウンドに緊張が走り、静寂が訪れる。

「亮一……!」

静寂に溶け込みそうなかすかな声が聞こえる。

「鈴……聞こえたぞ。俺の名前、呼んでくれたな。いつもそうだった。俺が打席に立つ時は、いつもお前の声が聞こえてた。多分俺は、そうやって誰かのために必死になれるお前に惹かれてたんだ……!」

鈴ははっとなって亮一の顔を見る。

「亮一。私は……。」

「聞くのは後でいい。聞くのは……この勝負に勝った後だ!」

「言ってくれるじゃねえか。年は食っても、俺のボールはそんなに軽くねえぞ。」

隼人はやはり楽しそうにしている。

「分かってるさ。お前は完璧なピッチャーだ。俺が言うんだから間違いない。」

亮一の表情にもいつの間にか笑顔が出てきていた。

「その完璧なピッチャーが、何故かお前にだけは嘘みたいに打たれてたんだよな。それでも先発が完投するためには、どんなに苦手なバッターでも抑えなきゃいけない時がある。」

「そういう時のお前は、いつも最高の結果を残してくれたな。キャッチャーやってて、お前ほど期待に応えてくれるピッチャーはいなかった。」

「ああ。そして今がその時だ亮一。」

「お前の思い通りにさせるかよ。ボールが見えなくなるほどかっ飛ばしてやるぜ。」

「ふん。やれるもんなら、やってみな。」

バットを構えながらも亮一はまだ何か言いたげな表情をしていた。

「決着が付く前に……一つ、聞かせろ。その健という子は、お前の子供だよな?」

「俺の子供だ。けど妻とは、もう別れてる。」

亮一はその言葉に何かを悟ったようだったが、それ以上はもう何も聞こうとしなかった。恐らくその答えが聞けただけでも満足だったのだろう。

「そうか……もう一度始める、か。始めるためには、終わらせなきゃな。そのボールが俺達の全てだ!」

その瞬間亮一の表情はとてもすっきりとしていた。隼人ももう一度手元のボールを見て決心の表情を浮かべた。

「ああ。行くぞ、亮一。」

「来い、隼人。」

亮一はゆっくりと振りかぶっていった。健にはその光景がとてもゆっくりと見えた。この瞬間に2人の決着はつく。22年間の大きな穴が今埋まろうとしている。ボールはゆっくりと隼人の手から離れ、真っ直ぐと亮一の方へと飛んでいく。

 まるで映画のワンシーンが終わってしまうように「カンッ」という軽快な音が響く。その瞬間健は今度は黒ではなく白い光の中に包み込まれていった。その光の中に再び高校生の隼人と亮一を見た。

「……俺の、勝ちだな。」

高校生の隼人が寂しげな表情で言う。亮一は落胆してその場に崩れてしまっている。

「別に俺は、鈴から離れろって言うつもりはないからな。俺達が争ったって、鈴の気持ちを無視してたら何にもならないだろ?野球は野球だ。鈴のことは、また別の形で勝負しようぜ。」

亮一は隼人と顔を合わせようとしない。

「……ふざけんな。」

「亮一。」

「ふざけんな!俺は自分で言い出した勝負に負けたんだぞ!お前が消えろって言えば邪魔者が消えるんだ!それを別の形で勝負だと?善人ぶるのもいい加減にしろ!」

亮一は力一杯に拳を地面に叩き付ける。

「だってお前、友達じゃん。」

「っ……!」

亮一はその言葉に反応するもやはり隼人を見ようとしない。

「お前がいなくなったら、鈴だって悲しむ。俺だって、こんな形で鈴と付き合うことになっても嬉しくねえよ。」

隼人はじっと亮一を見ている。その表情はまるで亮一を哀れむようにも見えた。

「止めろ。それ以上言うな。惨めになるだけだ……。」

「だから、負けたとかそういうことで決め…。」

「止めろ!もう終わりだ。終わりなんだ!俺は負けたんだ。何もかもお前に負けちまったんだ!」

隼人も今の亮一には何を言っても無駄だということを悟ったらしく、亮一に背を向けた。

「……また明日な。落ち着いたら、もう一度ゆっくり話そう。」

隼人は亮一から離れていく。亮一にとってその背中はとても淋しく、もうこのまま隼人が亮一の元へ戻って来ないのではないかと思わせていた。

「話すことなんか、もうないだろう……お前らとは一緒にいられない。もうここにはいられない。こんな惨めな思いをしてまでここにいたくない!……誰か、俺を連れて行ってくれ。誰の目も届かない遠い場所へ。あいつらの手の届かない、どこか、どこか遠いところへ!」

「亮一、俺が…連れ出してやるよ。俺とお前と鈴は…いつまでも一緒じゃないか。」

亮一がゆっくりと顔を上げると、そこには隼人がいた。

「もし…あの時お前が戻って来てくれれば…戻って来てくれれば…。」

亮一は泣いていた。今まで我慢していた感情を全て出し切るように泣いた。

「ごめん…悪かった。俺のせいだ…俺のせいなんだ…。この22年間はもう戻らないけど…許してくれ…本当に俺だって後悔してるんだ。」

その声は今の隼人だった。

「隼人…俺も悪かった…俺のことも…許してくれ…。」

「ああ、許すも何も、最初から恨んだりしちゃいない。」

亮一は泣いていた。恐らくこれまでの寂しさと後悔が全て出てきたのだろう。その亮一の泪に飲まれるように健は光の中へと包まれていった。

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