第37話 わたしたちの未来


 山本五十子は一喜一憂しない。

 長門の作戦室がト連送に沸いた、12月のあの日もそうだった。

 そして、今も。


「繰り返します、金剛より入電! 『赤城、敵艦上機及ビ陸上機多数ノ攻撃ヲ受ケ被弾、大火災』!」


 誰もが色を失った大和作戦室で、五十子だけが報告を受ける前と変わらぬ佇まいで将棋盤に向き合っていた。

 桜が3つ並んだ肩はぴくりとも震えず、口元は固く結ばれ、その大きな瞳は盤上の駒だけを見詰めている。


「……何があったんですかあ……どうして金剛がそこに……一航艦司令部の安否は!」


 盤の反対側で茫然としていた寿子は、ようやく途切れ途切れに声を上げた。

 作戦計画では金剛は上陸部隊の支援に割り当てられ、機動部隊に随伴することにはなっていない。


「わかりません。ですが三川中将の金剛が同行しているなら、階級と先任順位から、南雲長官に何かあったときの次席指揮官にあたります。つまり金剛が発信元ということは、最悪の場合、一航艦司令部は既に……」


 暗号長が最後を濁す。

 爆弾が直撃し白い炎に包まれる赤城艦橋のイメージが脳裏に膨れ上がった。


 白い炎は艦もヒトも、紙のように燃やし尽くして――


 五十子は将棋盤から動かない。

 寿子は我慢できずに立ち上がった。


「何で先制攻撃を受けたんですかあ! ミッドウェー沖に敵空母がいるという情報は、ちゃんと一航艦に転電したはずですよね、暗号長!」


「えっ? ……い、いえ、我々はそのような命令は受けておりませんが」


「そんなはずありません!」


「確かに2日前、第六艦隊からミッドウェー北北東で敵空母の呼出符号を傍受したとの通報があったので軍楽隊の方に伝えましたが、その後は何も……」


 寿子は視線を巡らし、部屋の隅に立つ人物の顔を見る。


「貴女の仕業ですね……軍楽長!」


 俯いたまま、切り揃えた前髪を小刻みに震わす暗号電報取次役、岩田軍楽長。

 電報の取次役がその気になれば、連合艦隊司令長官の命令を容易く握り潰せる。暗号長が上がってこなければ、発覚することもなかっただろう。


「……申し訳ありません……私、こんなつもりじゃ……」


 軍楽長の漏らしたか細い声に、寿子は全身が熱くなった。


「じゃあどんなつもりだったんですか! 自分が何やったかわかってるんですかあ!」


 詰め寄って肩を揺さぶる。


「この味方殺し! 嶋野大臣からいくら貰ったんですかあ! いいえ、思い出しましたよ。いつだったか貴女、海軍省から軍楽隊の人員削減を迫られたって私のところに泣きついてきましたよね! 『戦争中に音楽なんて無駄だ』とか言われて困ってるって。その後急に削減しなくて良くなったって言ってましたけど、あの時から嶋野大臣と内通してっ……」


「やめろ、渡辺」


 唐突に腕を掴まれ、岩田軍楽長から引き剥がされる。

 いつの間にか、束が横に立っていた。

 仮面のような無表情。


「宇垣参謀長? 放して下さい!」


「転電は、あたしが岩田に命令して止めさせた。裏切り者は、あたし1人だ」


 軍楽長が目を見開いて何か言おうとするのを、束は一睨みで黙らせる。

 寿子の心に、新たな怒りが芽生えた。


「……参謀長、何でそんな嘘つくんですか」


「嘘じゃねえよ」


 束の声は低く、ひび割れていた。


「艦隊決戦の主力はあくまで戦艦、空母は露払いだ。例えこの戦いで空母を失おうと、主力艦を危険に晒すわけにはいかない。長官の命令通り転電してたら、発信源方位と呼出符号で大和の位置が敵に知られてた」


「そんな理由……参謀長は、それで良いんですか? あの艦には……あの艦にはっ!」


 わかっていた。束は本当は無実だと。あの時、ラッタルでの2人の会話を寿子は聞いていたから。

 束が軍楽長を庇おうとする理由も、察しがつく。嶋野大臣は、恐らく二重に保険をかけたのだ。

 一人目は束。束が思い通りに動かなかった場合に備えて、軍楽長。だから束は、軍楽長の手を汚させたのは自分の責任だと考え、1人で裏切り者になろうとしている。

 それでも寿子は、束に恨みをぶつけるのを止められない。


「そうだ。黒島も源葉も、あたしが殺したようなもんだな」


 他人事のように言った束に、寿子が掴みかかりそうになった時。


「山本長官、これを!」


 先程の報告を聞くや部屋を飛び出していた従兵の小堀一等水兵が、走って戻ってきた。手には封筒と、薄べったい黒い板を持っている。表面がつるっとしたその板に、寿子達は見覚えがあった。


「それって、未来人さんの……」


 寿子は途中で息を呑む。封筒に書かれた「遺書」という文字。束がぎりっと歯を鳴らす。


「……あの馬鹿野郎」


「源葉参謀が、自分にもしものことがあれば長官にお渡しするようにと、大和をお降りになる日の朝に……黙っていて申し訳ありません!」


 平謝りする小堀一等水兵を、白革の手がすっと制した。

 五十子が、将棋盤の前から立ち上がっていた。


「ありがとう。見せて」


 五十子は小堀一等水兵から封筒を受け取り、メモ用紙を取り出して開く。

 寿子は悪いとは思いつつ、後ろから覗き込んでしまう。束はそっぽを向いている。腹が立っていたので、腕を引っ張って共犯者にした。

 五十子は後ろの2人を咎めることもせず、開いた手紙を静かに読んでいる。

 寿子達も、そこに記された文字を目で追った。




『五十子さんへ


 この手紙を読んでいる時、僕はもう生きていないと思います。

 早期講和の夢を一緒にかなえようと約束したのに、果たせなくてごめんなさい。

 僕の世界の歴史では、ミッドウェー海戦は空母4隻が全滅する大敗に終わり、戦争のターニングポイントになりました。このミッドウェー海戦の結果を変えることが、僕にできる唯一のことだと考えました。

 そのために赤城をわざと危険に晒し、敵を引き付ける囮にするつもりです。

 五十子さんの罪を一緒に背負うなんて偉そうなことを言いましたが、結局、僕の方がはるかに罪深いことをしています。

 勿論、赤城が沈まないようあらゆる手立てを講じるつもりですが、最悪の事態に備え、五十子さんに伝えておかなければならないことをこの手紙に書き残しておきます。


 僕の世界の山本連合艦隊司令長官は1943年4月18日、一式陸攻に乗って前線基地の将兵達の慰問に向かう途中、ブーゲンビル島上空で待ち伏せていた敵機の襲撃を受けて亡くなりました。

 敵が待ち伏せできたのは、こちらの暗号電文を全て解読して、山本長官がブーゲンビル島上空に到着する正確な日時を知っていたからです。ちなみに、ミッドウェー海戦でも暗号は解読されていて、敵の機動部隊は予めミッドウェー周辺で待ち伏せていました。

 僕が介入したことで歴史が変わり、以後の出来事の日付や場所は変わる可能性があります。

 覚えておいて欲しいのは、こちらの暗号は敵に解読されて筒抜けだということ、敵が山本長官個人の殺害を狙ってくるということです。


 それから、どうしてミッドウェー海戦の敗北が戦争のターニングポイントになったのか。

 4隻の空母とその艦載機が沈んだことは、確かに手痛い損失です。

 しかしパイロットの多くは脱出して無事でした。

 また、連合艦隊が直ちに劣勢に立たされたわけでもありません。現にその後もいくつかの海戦で連合艦隊は戦術的勝利をおさめ、敵を押し返しています。

 本当に致命的だったのは、早期講和を目指す連合艦隊司令部と、長期不敗態勢を目指す軍令部との政治的パワーバランスが一変したことです。

 ミッドウェー作戦は真珠湾作戦と同様、本来であれば作戦を決める権限を持たない連合艦隊司令部によって立案され、山本長官の強い意向で軍令部の反対を押し切って通った作戦でした。

 それが失敗してしまったことで、山本長官は真珠湾の英雄として更迭こそされなかったものの、以後は軍令部に対する発言力を完全に失ってしまったんです。

 結果、ミッドウェー海戦を境に反攻に転じた敵に対し、連合艦隊は積極的な攻勢作戦をとれなくなり、戦争の主導権を取り戻せないまま泥沼の消耗戦へ突入していきました。そして戦況が悪化すればするほど、「戦争をやめよう」と言い出すことが難しくなっていきました。


 山本長官が敢えて危険な最前線の基地へ慰問に飛んだのは、「もう自分の手で戦争を終わらせられないとわかって絶望したから」という説があるそうです。

 そういう説を、僕は支持しません。山本長官は、前線で戦う将兵達のことを心からねぎらいたかったのだと信じます。

 でも、仮に僕の世界の山本長官の死が、自ら望んでのことだったとしても。


 五十子さんは、死なないで下さい。

 誰に何と言われようと戦後まで生きて、海軍乙女でなくなっても山本五十子という人間として、どうか生き続けて下さい。


 僕自身、死にたいという誘惑に負けてしまった人間です。

 実のところ、僕は五十子さんと最初に出会った時から既に死んでいたんです。だから悲しむ必要はありません。

 修学旅行中のあの日、僕は自由行動で呉を訪れたのではなく、早朝に1人でホテルを抜け出して呉へ行き、例の友達と一緒に行くはずだった大和ミュージアムを見た後、港からフェリーに乗って、沖に出てから海へ飛び込んだんです。

 何の負い目も感じていないクラスの連中も、友達を死に追いやった僕自身も、もう何もかも嫌でした。

 死のうとしたはずなのに、いざ飛び込んでみると泳いでしまって。それもすぐ限界になって。

 終わってしまったはずの僕を、五十子さんが引っ張り上げてくれました。

 「大丈夫だよ」って言ってくれました。

 五十子さんのおかげで、僕はこの世界で生き直すことができたんです。


 短い間でしたが、五十子さん達と過ごした日々は本当に幸せでした。

 寿子さんの紅茶、美味しかったです。

 亀子さんの作戦の話、楽しかったです。

 束さんの焼き鳥、また食べたかったです。

 それから。五十子さんは、やっぱり甘い物は控えなくて良いと思います。

 何にでも砂糖大量にかけて食べるのはさすがにちょっと引くけど。

 でも、甘い物を前にした時の心から笑ったり怒ったりする五十子さんが、僕は好きでした。

 無理して笑わないで、もっと自分の心を大事にして下さい。

 嫌な時は怒って、辛い時は思い切り泣いて、嬉しい時に笑って下さい。


 今までありがとう。どうかお元気で。

 さようなら。


 源葉洋平』




 手紙が折り畳まれる音で、寿子は我に返った。


「岩田軍楽長。これからわたしが言うことを暗号電文で発信するよう、暗号長に伝えて」


 凛とした五十子の声。項垂れていた軍楽長が、呼ばれて困惑を露わにする。


「長官、暗号長なら目の前に。それに、私は……」


「取次は軍楽長の仕事だよ。わたしはその任を解いた覚えは無い」


 僅かに綻びかけた彼女の顔は、直後に五十子が口にした電文の内容に、再び蒼ざめた。


「発:連合艦隊司令長官・山本五十子。宛:ミッドウェー作戦参加全艦艇。大和はこれより急進、敵艦隊を随所に撃滅しつつミッドウェーに突入、同島の敵航空基地を砲撃破壊し、機動部隊を支援する。突入は山本五十子の陣頭指揮によりこれを行う。各員一層の奮励努力に期待する」


「え……?」


「どうしたの。これは命令だよ」


 有無を言わせない五十子の声に圧倒されて、軍楽長が暗号長と共に通信室へ降りようとする。

 だがそこへ、束ねた黒髪が空を斬り、長身の少女が出口で阻んだ。


「待てよ!」


「……束ちゃんは、やっぱり戦艦が大事?」


「そういう問題じゃねえ! なんで長官の居場所まで、わざわざ打つ必要があるんだよ!」


 五十子が持ったままの手紙を睨みながら、束は怒鳴る。

 彼の手紙には、暗号は敵に解読されていると書かれていた。敵が、長官の命を狙うとも。

 束の問いに、五十子は何も答えない。

 沈黙。

 寿子は、そして恐らく束も、五十子が何を意図しているか、同時に理解する。


「長官……」「まさか……」


 だが五十子は、2人がそれを口にするのを遮るように新たな命令を下した。


「宇垣参謀長、渡辺参謀、退艦を命じます。司令部を長門に移し、大和を除いた戦艦部隊を取り纏めて下さい」


「退艦っ? わ、私達にですかあ?」

「大和単艦で突っ込むっていうのか。正気か!」


「大和が最大速力を出せば、他の戦艦は足手まといになるから。この艦は最大27ノット、ううん、公試運転で29・3ノットだよね? 冬の荒れた海でとった記録だから、今はもっと出せるんじゃないかな」


「……いいや違う。あんたは死ぬつもりだ」


 束の吊り上げた片頬が、不恰好に歪んだ。


「だったら、あたしも連れて行け。こんな裏切り者でも一応は参謀長だからな。長官が死んであたしだけ生き残るなんて、真っ平御免だ」


 五十子は無言で、出口で立ち塞がる束に歩み寄る。

 空気が張り詰める中――

 五十子は初めて微笑んで、束の肩に手を置いた。


「束ちゃんは、裏切り者なんかじゃないよ」


 束の顔がこわばった。


「わたし知ってるよ。同盟にも開戦にも反対だった束ちゃんが、どうして途中で賛成したのか、本当の理由」


「……あたしは、裏切り者だ。長官や井上の言ってることが正しいってわかってたのに、国の将来より海軍の目先の利益を選んだ軍人官僚だ」


 五十子の頭のリボンが、大きく左右に振れる。


「ううん、違う。あの時もし反対し続けたら内戦になって、海軍は無くなってたかもしれない。束ちゃんは、わたしたちみんなの大切な居場所を守ろうとしてくれた」


「どう違うってんだ!」


「わたしも、同じだから。国を守るなんて言っても大き過ぎて。海軍が大事。束ちゃん、ヤスちゃん、亀ちゃん、洋平君、汐里ちゃんに峰ちゃん、多恵ちゃん、成実ちゃん、連合艦隊のみんな。お別れなんて、したくないよ」


 そして五十子は、唐突にこんなことを言い出す。


「ねえ束ちゃん。5年後10年後のわたしたちは、どうしてるかな? 洋平君が来たっていう70年後じゃなくて、手を伸ばせば届く、わたしたちの未来だよ」


「あたしたちの、未来……? 考えたこともねえな。こんな戦争始めちまったんだ。みんな死ぬ、あたしも死ぬ。それしか……」


「考えてみて。戦争なんかとっくに終わってて、わたしたちも海軍乙女を引退して。束ちゃんは、作家デビューしてるよね。今からサイン貰っとこうかな、えへへ」


 束が口をあんぐり開ける。

 

「ヤスちゃんは漫画家さん? 亀ちゃんは、あの子は……。うーん……。……高等遊民かな。あ、わたしの夢はちゃんとあるよ! お菓子屋さんになって、甘い物をつくる。ああでも多分ダメ、自分で全部食べちゃって商売にならないや」


 五十子はそこで一旦言葉を区切った。大きな目で束を、部屋の1人1人を順繰りに見詰めて、


「立派な政治家になってる子もいるかもしれない。結婚して、誰かのお嫁さんになってるかもしれない。変わっていく景色を、みんなと見たい。死んでいった子達の分まで。白髪でしわくちゃのおばあちゃんになっても、みんなで生きて。みんなで死ぬことじゃ駄目なんだ。……だからわたしは、死なないよ」


「それなら、死にたくねえなら、何でこんな……」


 束のまなじりが光った。五十子はもう一度微笑む。


「赤城はまだ沈んでない。一航艦の安否もわからない。ならわたしは、みんなが助かる可能性に賭けてみたい。大丈夫! だって大和は『不沈艦』だよ?」


「……五十子先輩」


 束は顔を背け、出口から退いた。

 軍楽長と暗号長が、一礼してエレベーターへ急ぐ。


「……大和は図体の割に小回りが利くが、舵の利き始めが遅い。転舵の指示は前もって出すようにしてくれ。主砲のことは、高柳艦長に訊け」


 束が苦しげに言うのを見守っていた寿子は、ふと、五十子が離れた後の将棋盤に目を落とし、それに気付いた。

 五十子が指した、最後の一手。

 王将が前進している。『と金』を牽制するつもりかもしれないが、意味があるとは思えない。後1マスで、寿子の飛車や角の射程に入る。

 口を開いた寿子は、声の震えを抑えることができなかった。


「長官……前に私『海軍が私の家族』って言いましたよね。あれ、嘘です。連合艦隊司令部が、私の家族なんです。長官のことを、本当の姉のように想ってました」


「ヤスちゃん……ありがとう。わたしがお姉ちゃんか……えへへ、恥ずかしいな」


 頬を赤らめて笑う五十子に、寿子はすがり付いた。

 目から熱いものが溢れ、五十子のことが見えなくなる。


「長官のいらっしゃるところが連合艦隊司令部なんですよお! 司令部を長門に移すなら、長官も一緒に降りて下さい!」


 五十子の手が、カチューシャを、寿子の頭を撫でた。


「……ごめんね。これは、わたしにしかできないことだから」

 

 その言葉で、五十子がこれから何をするつもりなのか、寿子は確信した。

 ああ。この人は、本当に優し過ぎる。

 けれど、五十子の身体はもう……!


「艦長を呼んで。航行と砲撃に必要な最低限の乗員を残して、退艦命令を」


 五十子の手が、寿子の頭から離れた。小堀一等水兵に命じている。

 誰かが、寿子の背中を乱暴に叩く。


「……行くぞ、渡辺」


 束の、ひどく潰れて掠れた声。


「長官は、決断したんだ」

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