第36話 アカギは燃えているか


 高度1500フィートで投弾したクリス・マクラスキーは、海面激突ぎりぎり、高度650フィートで機首を引き起こした。

 降下角60度は、人間の感覚としては垂直と変わらない。落下による加速も加わり、操縦桿を引くタイミングが一瞬でも遅れれば助からない、正に紙一重の戦法だ。

 引き起こしと同時に、マイナスGが強烈なプラスGに変わる。全身の血液が逆流し脳が貧血状態になるため、ブラックアウトも起こり得る。その血も凍るほどの冷徹な意志の力で操縦桿を引き続けながら、クリスは後席の機銃手に問いかけた。


「アカギは燃えているか、アリスティア!」


 あくまで念のための戦果確認だった。投弾の直後、確かな手応えを感じた。今頃は、敵空母から盛大な火柱が噴き上がっているはずだ。


――無駄死にではなかったぞ、リンゼイ。


 爆弾を投下した機体が軽い。ドーントレスと一体化したクリスの心に芽生えた刹那の感傷は、しかし、後席機銃手の強張った声に掻き消された。


「少佐! 敵空母が……」


 アリスティアのただならぬ様子に自ら後方を振り返ったクリスは、その目を疑った。

 炎が上がっていない。

 外した?

 いや、クリス機の投下した500ポンド爆弾は、アカギの中部エレベーターを正確に貫いていた。

 さらに後続の2機も、同じ降下線を辿って近くの飛行甲板にそれぞれ破口を穿っている。

 3発の命中弾、それらが全て不発?

 それも違う。現に甲板に開いた穴からは、微かに白い煙が上がっているのが見える。

 だが、それだけだった。炎上する気配が無い。

 まるで暖炉に火をつけようとしたが、薪が湿っていて着火しないような。

 何故だ。爆弾魚雷や航空燃料を積んだ空母で、3発もの爆弾が飛行甲板を貫いて炸裂したのだ。格納庫内は火の海になるはずだ。どうして何も起こらない!


「ゼロが戻ってきます!」


 アリスティアの悲鳴。視界の隅で、スマートな銀色の翼が陽光を弾いた。

 ゼロファイターが斬り込んでくる。

 投弾間際だったマーガレット・ギャラハー大尉のドーントレスが、機銃弾を蜂の巣状に浴び、粉々に砕け散るのが見えた。

 同じコースで降下する彼女の列機達も、逃げる術は無かった。火線に絡め取られ、腹に抱いた爆弾ごと中空に散華する。

 黒い硝煙、橙色の炎、そして青灰色のドーントレスの破片が、アカギの空を彩った。

 爆撃機隊が、僅か数秒で――


「後方、敵機っ!」


 心臓を、直接掴まれた気がした。

 アリスティアの構えるブローニングM1919重機関銃が7・62ミリ弾をばら撒く音、少し遅れて、より重たい銃撃音。

 それらが耳朶を打つより早く、クリスは右のフットペダルを蹴りつけ、機体を横へ滑らせていた。

 かわした、そう思った瞬間。

 風防ガラスが砕け、衝撃がクリスの身体を貫いた。






「……被害状況を報告」


「3発被弾、飛行甲板損傷」

「中部エレベーター使用不能」

「各分隊の点呼完了、死傷者なし」


 赤城羅針艦橋・ダメージコントロールセンター。

 火災を示す赤いランプが点灯し、ブザーが鳴り出す。

 しかし制御盤に向き合う少女達に、緊張はあっても動揺は無い。


「上部格納甲板中央で、小規模の火災が発生した模様です」


「……ボンベ換装。上部格納甲板中央に、炭酸ガス再注入。それと防火扉、燃料ポンプや揚弾機構のロックが外れていないか確認して。重要防御区画への延焼を阻止」


「了解!」


 黒島亀子の眠そうな指示にダメコン要員がきびきびと応じる光景に、上の防空指揮所から降りてきた一航艦の幹部達は目を白黒させていた。


「炭酸ガス……? ひょっとして柱島を出る前、ラムネ製造装置をあんなに積んだのは」


「あれは本来、ラムネを作るための装置じゃありません」


 草鹿峰の疑問に、洋平は飛行甲板から上る細い白煙を睨んだまま答える。


「消火用の、炭酸ガス発生装置です」


 葦原海軍の場合、普段はそれを乗員が飲むためのラムネ製造に使っている。副産物の方が有名になってしまったに過ぎない。


「……消火用。第二次攻撃隊の発艦も、あなたにとってはそのためだった」


 亀子の呟きには、無言で頷いた。


 赤城を簡単に沈まない艦にする。

 そのために洋平がまず思いついたのは、可燃物の除去だった。

 図上演習では爆弾9発命中で撃沈判定を受けていた赤城だが、史実のミッドウェー海戦では僅か2発命中で大火災を起こし航行不能に陥っている。それどころか、命中した爆弾は1発だけだったという説まである。

 何故ここまで脆弱だったのか。

 それは被弾の際、燃料満タンで魚雷を装着した攻撃隊が発艦準備中で、さらにその周りには取り外されたままの陸用爆弾が散乱していて、これらに誘爆したからだ。

 逆に珊瑚海海戦で空母翔鶴は、爆弾3発が命中しても航行に支障をきたさなかった。既に艦載機が全機発艦した後で、可燃物が少なかったからだ。

 ヴィンランドの空母のような開放型格納庫なら火災が発生した後でも可燃物を海に投棄できるらしいが、赤城の場合は隙間なく密閉されており、火災が起きてからでは遅い。

 故に洋平は、予め空母をからにすることにこだわった。

 兵装転換を許さず第二次攻撃隊の発艦を急がせたのも、敵を叩くという名目とは別に、可燃物を極力減らした状態で敵を迎えたいという理由があった。


 そしてもう一つが、酸素の供給を絶つこと。

 海軍乙女達が日頃から愛飲し、海軍の名物と化している炭酸飲料(ラムネ)に洋平は目を付けた。

 酸素が無ければ、火は燃えない。

 密閉された艦内を、予め二酸化炭素で満たしておくことができれば。

 赤城にも、炭酸ガス発生装置は搭載されていた。だが数が少ないばかりか、本来の用途を忘れられてお洒落なラムネバーと化し、炭酸ガスを艦内に送り届けるホースや放出ノズルも無いために消火設備として役に立たなくなっていた。

 そこで洋平は装置と液化炭酸ガスのボンベを大量に運び入れると共に、ホースとノズルも全区画にくまなく張り巡らせ、ホースは本管が寸断された時のために予備管も走らせた。

 現在、無人となった赤城の格納甲板には炭酸ガスが充満している。

 使えば人間も窒息させてしまうため乗組員がいる状態ではテストできず、ぶっつけ本番でガスがきちんと艦内に行きわたるか自信はなかったが、今のところ一定の成果をあげているようだ。


〈防空指揮所より報告!〉


 伝声管が、見張員の声を届ける。


〈爆弾を投下し終えた敵は何機か取り逃がしましたが、これから投下しようとしていた敵は全て、瑞鶴戦闘機隊によって撃墜されました!〉


 報告を聴いている間にも艦橋の目の前を零戦が通過し、窓ガラスを震わせる。


「了解。今度こそ深追いは禁物だと伝えて下さい」


 洋平が伝声管にそう答えた時だった。

 足元から「ごおっ」という地鳴りのような音が響き、和らぎかけていた羅針艦橋の空気を一変させた。


「上部格納甲板中央、火の勢いが急に強まりました!」


「……炭酸ガスを再注入したのに、どうして」


 亀子が発した疑問には、直後に答えが出された。


「何ですって? バカッ、ちゃんとチェックしときなさいよっ!」


 ダメコン要員の1人が、急に物凄い剣幕で艦内電話を叩き付ける。そのまま振り返ると、


「申し訳ありません、ボンベ室からです! さっき換装した新しいボンベ、炭酸ガスと間違えて、置いてあった酸素ボンベをホースに繋いでしまったそうです!」


 何故、そんなところに酸素ボンベがあるのか。

 洋平の脳裏に、初めて赤城に乗艦し草鹿に案内された時の艦内の光景がうっすら甦る。

 赤城は構造上の問題で窓を開けると煙突の煙が流れ込んでしまい、換気が出来ない。だから草鹿達は、苺だの桃だのフレーバー付きの酸素ボンベを艦内のあちこちに……。


「草鹿さん、あの酸素ボンベは全部降ろしてくれたんですよね」

「え? ……あ、ああ、勿論降ろしたさ、ははっ」

「あれ、でも峰ちゃん、私の好きなデコポン味のボンベは残してくれるって」

「南雲長官、今何と」

「しつこいな占い師! 汐里さん専用のデコポン味以外は全部降ろしたって言ってるんだ! まさか勝手に使ったんじゃないだろうな! あれは限定品なんだぞ!」


 そのまさかだよ。限定品のデコポン味が、今この艦を沈めようとしているんだよ。


「……待って。マニュアルでは、主ボンベ室からガスを送れなくなる事態も想定している。上部格納庫には区画ごとに、予備の炭酸ガスボンベがある。遠隔操作で起動させて!」


 洋平が草鹿達と揉めている間も、独り分厚い冊子をめくっていた亀子がそう命じる。

 だが、返ってきたのはダメコン要員の悲鳴だった。


「遠隔操作できません! 先程の爆撃で回線が切断された模様!」


 洋平は飛行甲板に視線を戻す。

 爆弾が穿った破口からの煙は、今は黒々として野太く立ち上っていた。

 このまま火災が大きくなって格納庫全体に広がった場合、史実通り赤城は沈む。

 赤城は元巡洋戦艦で、下部構造は頑丈だ。

 19基の重油専焼缶、重油庫、発電機、タービンといった艦を動かす機関部は、喫水線下、二重の装甲に守られた堅牢な水雷防御区画の中に納まっている。

 しかし、空母としての部分、脆弱な上部構造物が火災で焼け落ちてきたら、有毒な煙と熱で機関部に人間はいられなくなる。

 史実の赤城も、そうやって航行能力を失ったのだ。


「バックアップの回線を試して」

「駄目です、全回線沈黙!」

「ボンベ室の復旧は」

「取り付けた酸素ボンベを外して酸素を抜くだけで、最低でも後1時間はかかると……」

「遅過ぎる。急がせて!」


 あの亀子が鬼気迫る形相で、矢継ぎ早に指示を出している。

 それでも状況は悪化していく。

 火災報知のブザーは鳴り止まず、ダメコン要員達の声は徐々に悲壮を帯びていき、そんな混乱の最中。


〈90度、敵機、急速接近!〉


 敵機? そんな馬鹿な。

 幹部達と洋平は、一斉に窓へと駆け寄った。煤煙に濁った空に目を凝らし、もう残っていないはずの敵機を探す。

 いた。1機だけ。

 傷だらけのドーントレスが、低空を赤城目掛けて突っ込んでくる。

 発見した零戦隊が急旋回して追いすがり、上から機銃を射掛けている。

 主武装の20ミリ炸裂弾は弾切れなのか、7・7ミリ弾の掃射だ。

 被弾したドーントレスは火を噴いたが、それでも墜ちず、突如急上昇に転じた。


「あのドーントレス、爆装してません!」


 双眼鏡を構えた士官の1人が叫び、遅れて洋平もそれを認めた。

 ここにいるのに爆弾を懸吊していない、つまり、もう投弾を終えた機。

 普通なら、任務を終えて母艦に引き返すだけのはずの――


「わからないな。爆弾の無い爆撃機に、何ができる?」


 草鹿の訝しげな言葉で、洋平はある可能性に思い至る。


「……まさか!」


〈敵機直上、急降下に入るっ!〉


 伝声管から見張員の声が響いたのは、ほとんど同時だった。






 下半身の感覚が無かった。

 ひどく寒い。

 出血とともに、自分の命が流れ出していくのがわかる。


「――佐! 少佐! 目を開けて下さい、クリス・マクラスキー少佐!」


 誰かが自分の官姓名を、懸命に呼んでいる。消えかけた意識を、その声が繋ぎ止めた。

 クリスは目を開ける。

 ドーントレスを動かすために必要なパーツ……操縦桿を握るための両手両腕と、照準を合わせるための両目は、幸いなことに無事だった。

 ああ、神よ。感謝します。


「……アリスティア」


 風防が砕け、乱流に弄られる機内で、身を乗り出して泣いている後席機銃手の名を呼ぶ。


「少佐、安心して下さい軽傷です。すぐにエンタープライズに戻って手当しましょう」


「……アリスティア、お前は嘘が下手だな」


 金属の破片が、内臓をずたずたにしている。

 もう、長くは保ちそうにない。


「……私は部下を見殺しにした、最低の人間だ。リンゼイ達と同じ場所へは、いけそうにない」


「そんなことないです! 少佐は私達の……」


「お前は脱出ベイルアウトしろ。戻ってスプルアンス少将に、私がお詫びを申し上げていたと伝えてくれ。戦術を誤り第6航空群を壊滅させた責任は、全てこの私にあると」


「そんな、少佐――」


「Shake a leg!(早くしろ!)」


 叱咤すると、アリスティアは何度もしゃくり上げた後、


「……少佐。せめて何か、形見になるものを」


 クリスは苦笑して、半ば血に染まったウィングマークをちぎって渡してやった。

 アリスティアが機体から飛び降り、パラシュートが開くのを見届けて、クリスは翼を翻す。

 アカギ。あの魔王の城へ一矢報いるために。

 できるだけ見つからないよう高度を落とし、海面すれすれを這うようにして飛ぶ。前回とは真逆のやり方だ。

 だが流石に今度は、警戒していた直掩隊に気付かれた。

 部下達を屠ったのと同じゼロの群れが、単機となったクリスに襲いかかる。機銃掃射が翼や胴体に無数の弾痕を穿ち、そのうち何発かはクリスの肉体をも貫いた。

 アカギまでの距離、残り約1000ヤード。

 クリスは血塗れた手で操縦桿を引き、ドーントレスを一気に上昇させる。

 急な機動にゼロファイター達が慌てるのを背中で感じながら、クリスは機体を捻って上下逆さにし、操縦席からアカギを「見上げ」た。

 飛行甲板に自分達が穿った3つの穴。

 もうもうと太い黒煙が上がり、その奥に、前回は視認することのできなかった赤い炎が覗いている。


 ――良かった。ちゃんと効いていた。


 ――後は自分が、あの火に注ぐダメ押しの油になるだけだ。

 

 失血で意識が薄れる中、クリスは僅かに顔を綻ばせ、次の瞬間、背面から逆落としに降下した。

 飛行甲板からは、煙が天へと上り続けている。

 

 ――あの煙の根元へ。


 炎が、全てを包み込んだ。






 ドーントレスが赤城に体当たりする一部始終を、洋平は見ていた。

 機体が飛行甲板の破口に突き刺さる寸前、操縦席に座った少女の顔もはっきりと見えた。


 隣では、草鹿峰が茫然として立ち尽くしている。

 「ヴィンランド人は個人主義者で自分の身の安全が第一、だから戦えば鎧袖がいしゅう一触いっしょく」というのが草鹿の持論だった。

 だが違った。

 彼女達もまた、祖国のために死力を尽くして戦う、尊敬すべき海軍乙女だった。


 轟音、爆発。

 抉られた傷口から火柱が上がり、艦を揺るがす。


「上部格納甲板前方、後方に火災拡大!」

「燃料ポンプを伝い延焼しています! このままでは軽質油庫に引火します!」


 洋平は、胸の参謀飾緒を静かに握り締めた。

 ここまでなのか。

 源葉洋平という人間がこの世界でやれることは、本当にもう全部やり尽くしたのか。

 いや。後ひとつだけ、残っている。

 洋平は、壁にかけられた防毒面を手に取った。


「格納庫にある予備のガスボンベ、遠隔操作できないなら手動起動を試すしかない。……僕が行くよ」


 マニュアルを凄い速さでめくっていた亀子が、椅子をひっくり返して立ち上がる。


「気でも狂ったの? 可哀想。炎上中の格納庫に降りるなんて無謀過ぎる。仮に手動起動に成功したとしても、あなたは炭酸ガスで窒息死する。そんな防毒面でどうにかなるだなんて、本当にかわいそ……」

「亀子さん、ありがとう」


 洋平を罵倒していた顔が、くしゃりと歪んだ。彼女も、もうこれしか手段が無いことはとっくに気付いていたのだろう。

 誰かが行かなくてはならない。


「源葉参謀、何故あなたが」

「僕がこの艦で一番適任だからだよ」


 元々、この世界の人間じゃない。戸籍にも載っていない。国に家族もいない。

 それに亀子も気付いていた通り、未来人としての洋平の戦術的利用価値は、ミッドウェー海戦が終われば消滅する。

 ミッドウェー海戦はまだ進行中だが、既に役に立つ知識も策も使い果たした。

 どのみち、もう参謀ではいられない。


 洋平は、自分の胸にもう一度手をやった。

 第二種軍装の肩から胸にかかる、燻し金の参謀飾緒。

 洋平にとってそれはお守りであり、道しるべであり、大切な人との絆だった。

 その飾緒を、洋平は外す。失った重みと共に胸の中が何か空虚になっていく感覚を堪えながら、飾緒を亀子の手にしっかりと握らせた。


「これを、五十子さんに。もし僕が失敗して火災がひどくなったら、ためらわず退艦してくれ」


 亀子は飾緒に目を見開き、そのまま動かなくなる。


「皆さんもです。万一に備え、退艦の準備をして下さい」


「わ、私は嫌ですぅ!」

「ボクは健やかなる時も病める時も富める時も貧しき時も、汐里さんと一緒だ」


 南雲と草鹿に即座に拒否されてしまった。さらに艦長の青木大佐までもが、


「私は残ります。ここまで何の役にも立てていない艦長です、せめて責任だけは私が……」


「沈む艦と運命を共にするのは、ただの自殺です!」 


 洋平は思わず、大きな声を出していた。


「この世界では、貴女達には、そんなことは絶対にして欲しくない! あのドーントレスのパイロットは敵ながら立派でした。でも、それでも。みんなに生きていて欲しい。それが山本五十子長官の、そして僕の願いです」


 感情の赴くままに喋った反動で気恥ずかしくなって、洋平は出口へ向かう。

 扉を開けたところで、後ろから誰かに腕を掴まれた。

 振り返ると肩も掴まれ、強引にその場にしゃがまされる。

 しゃがんだ洋平の目の高さで、寝癖だらけの小柄な先任参謀が、顔を紅潮させぶるぶると震えていた。


「亀子さん? もう時間が……」

「これは、あなたから長官に返して!」


 胸が、重さを取り戻す。見ると、五十子が付けるのに難儀していた参謀飾緒を、僅か数秒間の早業で取り付けられてしまっていた。


「さ、流石は先任参謀だね。でもこれは……」

「源葉洋平、私はあなたが妬ましい。それは私でさえ貰えなかった、山本長官の飾緒。あなたは、山本長官にとって特別な存在」


 特別な存在? それって、まさか……。


「いや、五十子さんにとっては亀子さんの方が僕なんかより遥かに特別な存在だと思うけど。それよりまさかこの世界ではもう、ヴェルタースオリジナルのCMが流れてたりするの?」

「知らない! とにかく私にそれを預けるのは、私に対する侮辱! 私が可哀想! そんなに返したいならこの海戦が終わった後で、あなたが直接山本長官に返して!」


 言っていることが支離滅裂にしか思えなかったが、亀子はそれ以上取り付く島も無い様子で、洋平に背を向けてしまう。

 他の少女に渡そうにも、みんな関わらない方が良いと思ったのか一歩退いてしまった。

 唯一、普段は男である洋平に対し物心両面で距離を置く南雲が、意を決した様子でおずおずと口を開いた。


「あのっ……艦隊と赤城、それに多くの将兵の命をこれまで救って下さったこと、司令長官として感謝に堪えないですぅ。……源葉『参謀』、どうかご無事で」


「……。はい」


 もう参謀飾緒は外せなかった。洋平は敬礼し、羅針艦橋を後にした。

 

 階下の搭乗員待機室から飛行甲板に出た途端、焼けるような熱さが洋平を襲った。

 格納庫からは断続的に爆発音が響き、そのたびに艦が揺れる。

 燃え盛る炎の高さは飛行甲板から数十メートル、黒煙の高さは数百から1キロにまで達しようとしていた。

 さらに下層へと降りる。

 鉄製のラッタルは凄まじい高熱で、歩くと靴の裏が焦げ、手すりは少しでも触れようものならたちまち火傷しそうだった。

 上部格納庫へと続く通路。かつて草鹿と歩いたそこも、変わり果てていた。

 煙が視界の大半を覆う中、金属部分は赤く変色し、天井は熱のために白い建材が溶けて泡をふいている。

 これっていわゆるアスベストなんじゃないかという疑問が頭をよぎるが、持ってきた防毒面はまだ使用できない。

 一口に「防毒面」といってもあらゆる毒を防いでくれる万能のマスクなど無く、今持っているのは火災を想定したもので、フィルターの中には一定の二酸化炭素を化学反応で酸素に変える超酸化カリウムという物質が封入されている。

 それ以外のことに効き目は無いし、そもそも使用可能時間が極めて短いのでおいそれとは使えない。亀子に言われるまでもなく、気休めにしかならないことはわかっている。

 奥へ進めば進むほど、荒れ狂う熱と煤煙は過酷なものになる。

 顔を覆い、鼻の粘膜を突き刺すような煙の臭いに咳き込み、涙も鼻水も出るそばから高熱に乾いていく。

 上部格納庫中央ブロック前まで来たところで洋平は遂に呼吸困難に陥り、やむを得ず防毒面を装着し、使用開始の紐を引っ張った。注意書き通りなら、酸素が供給されるのは今から約5分間。

 水密扉のハンドル部分は、熱で真っ赤になっている。

 用意してきた厚手の作業用手袋をはめ、歯を食いしばって一気に掴んだ。


「……ッッッッッッッッッ!」


 激痛は、想像を絶した。

 隙間なく並べられた鋭利な刃の群れに、上から掌を押し当てていくような。

 痛みで頭の中がぐるぐるする。今すぐ手を放したい。


 けれど……そう、五十子が手に大怪我をした時の痛みは、こんなものじゃなかったはずだ!


 放しかけた手に逆に渾身の力を込めて焼けたハンドルを回し、最後は足で蹴り開けて格納庫中央に突入した。

 内部は、劫火と灼熱地獄だった。

 所属の艦載機は全機発艦したはずなのに、零戦と思しき機体の一部が無残に散らばって燃えている。

 今回、赤城には艦載機とは別に、占領後のミッドウェーに基地航空隊として配備するための零戦が6機、補用機と同じ要領で分解して積み込まれていたのだ。洋平も事前のチェックで見落としていたことだった。

 炎上する残骸を避けながら走り、壁際に設置されている液化炭酸ガスボンベの入ったボックスに辿り着く。

 約3分経過。

 ここから先は、酸素供給の残り時間との戦いだ。


 直流電源装置、蓄電池、操作圧力開閉器? これじゃなくて……遠隔復旧弁、コックを手前に引くとダンパは元に復旧します……ダンパってなんだよ、ああもう、じゃなくて……あった、消火設備手動起動装置!


 起動装置使用法。

 赤い起動容器箱の上ぶたを開き、安全クリップを引き抜き、押ボタンを強く押して下さい。


 どれだけ時間が無かろうと、焦るわけにはいかなかった。

 この赤城の命運が、洋平の手にかかっている。

 逃げ場の無い熱さ。防毒面の中で噴き出す汗が目に入り、火傷をした手はじくじくと痛み続けるが、一切を無視して操作に集中した。

 だから最後にボタンを押して、正常にランプが点灯し退避を促す警報が鳴り始めた時に、一瞬放心してしまったのは仕方が無かったのかもしれない。

 直後、壁の上を這うホースとノズルから、二酸化炭素の放出が始まった。

 洋平は我に返り、入ってきた扉に向けて駆け出そうとする。

 だが少ししか走らないうちに、息苦しさと胸の痛み、それに頭痛が襲った。

 思わずその場に膝をついてから、洋平は異変の原因を悟る。


 ――そうか。5分は、とっくに過ぎていたんだ。


 ――でも、これでみんな助かる。


 消える前の断末魔か、どこかで一際大きな爆発音が響いた。振動で、格納庫全体が軋む。

 もはや暑苦しいだけのマスクをむしり取り、上を仰いだ洋平の視界いっぱいに。

 火の粉と共に、巨大な鉄骨が落ちてきた。






 その知らせがもたらされた時、連合艦隊旗艦・大和は長門、陸奥をはじめ主力の戦艦群を従え、ミッドウェー諸島北北西約240浬まで進出していた。

 寿子は作戦室で、五十子の将棋の相手をしていた。

 柱島を出発する時に倒れた五十子の容態は、大和が日付変更線を越える頃には普通に起きていられる程度まで回復していたが、ラ・メール症状の再発を恐れた寿子は気密の施された艦橋から五十子が極力出ないで済むよう、寝具や当座の生活に必要な物を作戦室に運び込ませた。

 表向きには、「長官は戦闘が始まればいつでも第一艦橋に上がって指揮を執れるよう作戦室で寝起きすることにした」と、もっともらしい言い訳をした。


 五十子自身は、普段通り明るい笑顔を絶やさず訪れる部下達に冗談を言ったりするものの、どこか顔色が優れず、寿子が毎日相手をしている将棋にも、それが表れているように思えた。

 2人の対局は、大抵は五十子が4回くらい速攻で勝ち続けて寿子が音を上げた辺りで終わりになる。

 しかし今、五十子の陣地は寿子軍による侵入を許していた。

 突入した寿子の歩は次々と『と金』に成り、五十子の王将を守る駒を徐々に減らして包囲網を狭めていく。


 朝食を運んできた従兵の小堀一等水兵が、寿子優勢の将棋盤を見てお盆を落としそうになり、その後ろから軍令部発の定時連絡を持って訪れた岩田軍楽長も、興味が無いふりを装いつつ視線は将棋に釘付けになっている。

 参謀長の宇垣束は少し前から入室していて、長い会議机の2人が将棋を指しているのとは反対側の隅でひっそりと、本人はばれていないと思っている小説風日記を書いていた。


 丸窓からは、同航する戦艦日向、伊勢の檣楼しょうろうが朝靄に霞んで見える。

 予定通りなら先行した第一航空艦隊によるミッドウェー空襲が既に始まっているはずだったが、一航艦は無線封止下にあるためそれを確かめる術は無かった。


「長官、そろそろ朝ご飯にしませんかあ? 将棋は、そのお、食べ終わったら気分を変えて、また最初からやり直すってことで……」


 自らが劣勢の盤に目を落としたまま黙っている五十子に、寿子がそう遠慮がちに声をかけた時。


「失礼します!」


 扉が開き、息せき切って駆け込んできたのは、司令部付の暗号長だった。

 彼女の仕事場である暗号室はここより6、7階層は下にあり、圧搾空気で書類を送る空気伝送管があるので直接報告に上がってくることは普通なら無い。また、取次役も軍楽隊員と決まっていた。


「暗号長、何か――」


「金剛の第三戦隊司令官、三川中将より入電です! 『赤城、敵艦上機及ビ陸上機多数ノ攻撃ヲ受ケ被弾、大火災』!」


 寿子は口を開いたまま、言葉を失った。

 束が椅子から立ち上がった。蒼白な表情で、一声も発しない。

 引き攣った沈黙が、作戦室を支配する。


「……そっか。赤城、やられちゃったか」


 パチリ。

 五十子が将棋を指す音だけが、硬く響いた。

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