第8話 この作戦を実現させて、今度こそ戦争を終わらせよう


 黒島くろしまかめの部屋は、思いのほかあっさり見つかった。

 その個室の前だけ、お香のようなにおいが漂っていたのだ。

 気になって立ち止まった洋平は、ノブに「瞑想中! 亀子」と書かれたプレートがかかっているのに気付いた。


「瞑想中……?」


 何度かノックしてみるが、返事は無い。もしかしてこのプレート、Don't disturbと言いたいのだろうか。

 扉の前に御膳を置いて引き返すことも考えたが、それだと恐らく五十子の思いに反する。逡巡の後、洋平は中に入ることにした。

 扉を開けた瞬間、強烈なアロマテラピーで嗅覚が麻痺しそうになる。

 電気が消されて舷窓も閉められ、明かりといえるのは一本の蝋燭の炎だけ。それでも次第に目が慣れてくると、足の踏み場がほとんどない室内の惨状が見えてきた。

 食べかけのお菓子や脱ぎっぱなしの軍服と一緒に、書類や海図が床一面に散らばっている。ぶつからないよう注意しながら乱雑に積み上げられた書類に目を落とすと、「軍機」の朱印が押してあった。これでは、束が怒るのも無理はない。

 部屋の主は、五十子の見立て通り起きていた。幸いもう全裸ではなくパジャマ姿だ。多分、五十子と小堀一等水兵が着せてあげたんだろう。


「勝手に入ってごめん。五十子さんに言われて、夕食を運んできた」


 洋平が声をかけても、亀子は反応しない。お香がもうもうと焚かれ機密書類が散乱する部屋の真ん中で、ちゃぶ台に向かって一心不乱に筆を動かしている。

 邪魔にならないようちゃぶ台の端に御膳を置きながら、洋平は念のためもう一度声をかけた。


「長官室で、インド洋作戦の戦果報告をやってるよ。亀子さんは聞かなくていいの?」


 数秒の後、今度は応えがあった。


「……雑音を聞きたくない」


 一瞬、洋平は自分のことを言われているのかと思い、慌てて部屋を出ようとした。


「……将棋は一手でも無駄に指した方が負ける。敵の王将そっちのけで他の駒を取って喜ぶのは、幼い子どもの指す将棋。……山本長官から、そう教わった」


 亀子の告げた二の句に、洋平は動きを止めた。何故今、将棋の話を?


「……王将は、ハワイのヴィンランド太平洋艦隊。軍令部の人達は優先順位が理解できない。頭が幼児レベル、可哀想。そんな軍令部の立てた目標をやらされる、山本長官が一番可哀想」


 相変わらずの聞き取り辛いぶつ切り口調ではあったが、インド洋作戦に対する彼女の感想を語っていたのだと、ようやく理解する。

 さて、親睦を深められたかは別として、先任参謀の部屋に食事を届け会話をするという五十子からのミッションは達成できたわけだが、これからどうするか。

 こんな有様でも一応女の子の部屋だから長居するのは悪い気がするが、かといって人払いされている手前、今すぐ長官室に戻るというわけにもいかない。一人で艦内をうろうろして、洋平の存在を知らない乗組員から不審者扱いされるのも面倒だ。


「……そこに立ってられると、危ないから」


 筆を持つ手が止まっている。今度こそ邪魔だから出て行けと言われているのだと解釈し、洋平は扉に向かおうとして、


「……書類を動かさなければ、座っても良い。動かされると、何がどこにあるかわからなくなる」


 振り返ると、亀子は毛先を硯の墨汁で濡らし、再び筆を動かしていた。さっきのは、ただ筆が乾いただけだったらしい。

 亀子の左手が、下の座布団をつつく。大きな座布団はよく見るとウミガメをかたどったクッションで、小柄な亀子のお尻をのせてもなお左側が半分以上余っていた。


「その亀のぬいぐるみに座って良いってこと?」

「……誕生日に、山本長官がくれた。ふかふか。座ると作戦が捗る」

「恐れ多くて座れないよっ!」


 仕方なく、機密書類の山に気をつけながら亀子の右側の床に体育座りした。かなり窮屈だったが、これでやっと腰を落ち着けられる。


「……胡座」

「えっ何?」

「胡座、かかないの」


 顔をこちらに向けることもせず小声でぼそっと言うものだから、こちらへの質問なのか独り言なのかがわかり辛い。


「ああ、胡坐あぐら。かかないんじゃなくて、かけないんだよ。僕の家は床が全部フローリングでさ、畳の部屋が無かったから胡座かく機会が無くて。あれって小さい頃にやっとかないと関節が硬くなって無理なんだって。現代人には珍しくないよ、最近はお座敷の店も掘り炬燵が無いと若者が入らないっていうし……あ、ごめん、未来の話で」


 元いた世界のどうでもいいことまでぺらぺら喋ってしまったのは、暗くて狭い空間に二人きりでいる緊張の裏返しだったのかもしれない。

 おまけに距離が近くて、ぬいぐるみを避けて座ったにも関わらず亀子の頭が目の前にある。彼女の寝癖はこれまで見た中で最も立体的な状態だった。風呂に入った後、髪を乾かさずに寝たせいだろう。


「海を泳げるのに、ヒトより退化した部分もある……意外」

「ヒトより、って、僕のことまだ海底人とか思ってないよね」

「帰りたくないの? 長い深海の生活で身体が退化して、胡坐のかけなくなった種族の棲む国へ」

「どうしてそこだけ退化するんだよ! あのさあ、胡坐がかけないのは別に退化とかじゃなく生活様式が西洋風になったからで、僕と同世代でもまだ胡坐かける人はいるよ! 帰りたくないかって、そりゃ勿論、帰りたいに決まって……」


 あれ? 帰りたいに決まっている。そう最後まで言わずに途中で口を閉ざしてしまった自分に、洋平は戸惑った。

 さっきは帰れるかどうかを考えていたが、それ以前に自分は、元の世界に帰りたいんだろうか。思えばこの世界で目覚めてから、あり得ない超常現象にパニックになることも、元の世界に帰れないかもしれない恐怖で泣き喚くこともなかった。

 そんなことよりも、知的好奇心を満たすことにずっと夢中だった。


「……タイムスリップ物でさ、たまに元の世界に帰りたがる描写が一切無い登場人物いるよね。最近読んだ小説で、主人公は目が覚めたら昔の戦場にタイムスリップしてるんだけど、難しいことは一切考えずにすっごく軽いノリで戦いに参加してて。そういうの読むたびに、不自然だろって突っ込んでたんだよ。元の世界に家族や友人だっているはずだし、ちょっとくらい悩むのが自然なんじゃないのって。でもこうして実際に同じ目に遭うと、意外とそうはならないもんだね」


 亀子は無言で筆を走らせている。聞いているか怪しかったが、洋平は半ば独り言で続けた。


「僕は元の世界で、海戦シミュレーションゲームをやり込んでいて、海軍や艦艇が大好きでさ。この場所にいると、見聞きすること全てが面白くて。だから今はまだ帰りたくないのかもしれない」


 つまり、自分はオタクというより、一種の中毒者だったということか。それで悲しくならないのか。ゲームのやり過ぎ、架空戦記の読み過ぎで、タイムスリップやら転生やらに驚く正常な感覚が麻痺してしまっているのか。


「……小説といえば。私はヴェルヌの『海底二万里』が好き。知ってる?」


 唐突に亀子がそう訊ねてきた。洋平の話を一応聞いていてくれたようだ。


「知ってるよ、子どもの頃にあれの映画版を観させられたな。ノーチラス号が巨大なタコに襲われるシーンが怖くて泣いたなあ」

「……映画版?」

「あ、ごめん今はまだ無いのか。原作もちゃんと読んだよ」


 しかし海底人の次は『海底二万里』か。趣味がブレずに海底に固定されている。


「読んだことがあるなら、話が早い。ノーチラス号に乗艦してからの、主人公の感情の移り変わりを思い出して」


 亀子の謎の要求に、首をひねりながらも回想を試みる。読んだといっても小学校の課題図書なのでうろ覚えだが。

 確か、主人公達は国籍不明の潜水艦ノーチラス号の捕虜になって、ネモ船長から死ぬまで外界には戻れないと言われたが、主人公は序盤からストックホルム症候群全開でネモ船長と仲良くなり、職業が海洋生物学者ということもあってノーチラス号の海底旅行を素直に楽しんでいた。しかし、時が経つにつれて艦を降りたいと思うようになり……ああ、そうか。


「わかった。僕も『海底二万里』の主人公と同じで、今は目先の興味で頭がいっぱいだけど、時間が経つとホームシックになるって言いたいの?」


 ホームシックを説明したいなら、SF小説を持ち出すのはいささか回りくどいんじゃないだろうか。

 亀子は首を振って洋平の頭を再度、鋼鉄の潜水艦の物語に引き戻す。


「ホームシックだけじゃない。『海底二万里』の主人公はネモ船長のしていることに耐えられなくなって、艦を降りたくなった。ネモ船長がノーチラス号を使ってやっていたのは、列強の艦船に対する無制限潜水艦作戦。まだ潜水艦の無い時代に、無抵抗の艦船を一方的に沈める大量殺戮行為」


 そういえばそんなシリアスな設定もあったな。読んだのが昔だからすっかり忘れていた。でもそのことと、今の状況とどう関係が……


「山本長官は、自分がネモ船長のようにあなたから嫌われると思っている様子だった」


 亀子はそれまでと全く変わらない語調で、淡々とそう言った。


「無論この比較は不適切。私達は皆、国の命令に従い、国を守るため戦う正規の軍人。一方ネモ船長は、いわばテロリスト。戦いの質が異なる。それでも山本長官は、『洋平君は、わたしのことを許さないと思う』と」


 洋平は思わず立ち上がった。ちゃぶ台の周りの書類が少し崩れる。


「そんな……僕は、五十子さんを嫌いになったりしないよ!」


 洋平君を、元の世界に帰してあげたい。そう言ってくれた五十子。

 だが、艦内を歩きながら、彼女はこうも言っていた。「わたしと二人きりとか、嫌だよね?」と。

 あの時自分は愚かにも、この人は偉いのに謙虚だな、くらいにしか受け取らなかった。もしあの言葉にそんな理由があったなら。五十子がどんな思いで洋平に接していたか、想像するだけで辛い。そんなの、悲し過ぎる。


「どこへ行く気? 長官室から人払いされて、ここへ来たのに」


 衝動的に扉に向かおうとする洋平の背中に、亀子の冷ややかな声が突き刺さった。どうして彼女は、洋平が話していないことまでわかるのか。


「……できた。これで完成」


 振り返ると亀子は、筆を置いたところだった。洋平が崩した書類の山をもそもそと直し、ゆらりと立ち上がる。

 襟がはだけて、全く日焼けしていない白い肌がのぞく。

 彼女がパジャマの下に何も着ていないことに、今更ながら気付いた。


「源葉洋平。あなたは今すぐ元の世界に戻りたいとは思っていない。理由はこの世界が面白いから、だけじゃない。あなたは、山本長官の力になりたいと思っている。山本長官があなたを戦争から遠ざけていることも、不満に思っている」

「え……」


 自分の中でもやもやしていた感情を他人に言い当てられるのは、不思議な気分だった。


「私に協力して。そうすれば、あなたの望みもかなう」


 暗い室内で、蝋燭の炎を反射して亀子の目が妖しく光る。

 洋平はその目に、ぞくりとする何かを感じた。


「か、解剖ならお断りだよ?」


 亀子はにこりともせずに、無言でちゃぶ台を指差す。

 そこには、さっきまで亀子が熱心に執筆していた原稿が紐で綴じられ、一冊のファイルにまとめられていた。赤い表紙はめくってあり、1ページ目が読めるようになっている。洋平はそこに目を凝らす。


「……ミッドウェー作戦ニ於ケル各部隊ノ行動要領。海軍航空部隊ハ上陸数日前ヨリ、ミッドウェー諸島ヲ攻撃制圧ス。海軍ハ有力ナル部隊ヲ以テ攻略作戦ヲ支援援護スルト共ニ、反撃ノ為出撃シ来ルコトアルベキ敵艦隊ヲ捕捉撃滅ス。兵力配備ハ別紙一ノ通リ……これって、まさか!」


 表紙を手にとって、表に戻してみる。

 『ミッドウェー作戦計画書 連合艦隊司令部』。

 血で染めたように赤い表紙に、亀子の筆ではっきりとそう記されていた。

 セイロン沖海戦が史実通りに起こった時点で、当然に予測できていたことだ。

 それでも洋平は愕然として、凍りついたようにしばらく動けなかった。

 ああ。こんなにも早く、ここまで来てしまうのか。


「これが私の考えた、第二段作戦」

「第二段作戦……?」

「そう。第一段作戦の目標だった南方資源地帯の確保は概ね完了した。開戦前に陸海軍で打ち合わせて決められたのはここまで。ここから先は白紙だから」


 亀子は、洋平の背後の壁に貼られた世界地図を指差した。


「軍令部は、今後ヴィンランドが豪州ごうしゅうを拠点に島伝いで北上、葦原あしはらに攻め上ってくると思い込んでいる。それを前提に戦力を南方に集中させ、ヴィンランドと豪州の海上交通を遮断、併せて南方資源地帯の支配を盤石にして、長期不敗体制を確立したいと言っている。『自分達が南方に注力したいから、敵も南方から攻めてきて欲しい。きっと攻めてきてくれるはず』軍令部はそういう自己本位な人達の集まり。可哀想。ヴィンランドは、そんな迂遠なことはしない。遠い南方に私達が主力を送っている間に、遮るものが無い中部太平洋を真っ直ぐ西進して、手薄の本土を直接攻撃してくる」


 亀子は太平洋のハワイに置いた人差し指をぐいっと左の葦原に動かした。洋平は小さく息を呑む。


「そもそも、ヴィンランドの国力は葦原の十倍。戦いが長期化するほど、資源や工業生産力の差が出る。それを相手に『長期不敗体制』とか言って持久戦を考えている軍令部は、本当に頭が可哀想」


 亀子は、人差し指を再びハワイに突き立てる。


「短期決戦、早期講和。それが山本長官の願い。これをかなえるには、ハワイ攻略しかない。ハワイはヴィンランド海軍の本拠地。ヴィンランド中から海軍乙女の適性のある少女が集められている。ここを陥落させて彼女達を捕虜にすれば、ヴィンランドは海上における継戦能力を失って講和に応じるしかなくなる。この戦争を、終わりにできる」


 洋平が知っている「提督たちの決断」の攻略セオリーと、亀子の語った戦略はほとんど同じだった。

 違いがあるとすれば、ゲームのシナリオはハワイを落とした後も全世界を攻略するまでクリアしたことにはならないが、彼女達は戦争をできる限り早期に終わらせることを目標にしている。


「ハワイ攻略の妨げになるのが、真珠湾攻撃で討ち漏らした空母。そこで、まず空母をおびき出して撃滅する。そのために罠を仕掛ける。……ここ、ミッドウェーに」


 ハワイ・オアフ島の北西約1000かいりに位置する、ゴマ粒のような島。

 地図上でそこだけ、鉛筆で矢印や数字が何度も書き込まれた跡があった。

 彼女にしては珍しく長く話して疲れたのか、そこまで言って亀子は黙る。

 洋平は、作戦計画書を見つめて硬直していた。この艦で幾度となく洋平を襲った悪寒の正体が、今、洋平の背後でむっくりと立ち上がる気配がした。

 亀子の情勢認識は正しい。戦略も、決して間違っていない。彼女はただの引きこもり女子ではなく、優れた頭脳の持ち主だ。五十子が一目置くだけのことはある。

 けれど、洋平は知っている。この戦いに恐らく、彼女達は勝てない。そして敗れた先には、過酷で悲惨な運命が待ち受けている。


「……それで、協力って僕は一体何をすればいいの」

「私と二人で、帝都に行く。そこで、あなたが未来から来た人間であることを海軍中央に喧伝する」


 ようやく海底人扱いを止める気になってくれたらしい。しかし、そんなことをして何の意味があるのだろう。その疑問に答えるように、亀子は言葉を継いだ。


「私の作戦は完璧。絶対に成功させる自信がある。けれど、作戦の決定権は軍令部にあって、私達の意見具申は却下されてばかり。この計画を持っていってもどうせ、『連合艦隊司令部は実戦指揮だけしていればいい。軍令部の専権事項に口を出すな』と言われるのが目に見えている。このままでは軍令部の立てた目標に従わされ、やる意味の無い美豪分断作戦をやらされる」


 亀子が自分に何をさせようとしているか、だんだんと見えてくる。


「ミッドウェー作戦を軍令部に認めさせるために、あなたの存在を利用させてもらう。未来から来たあなたが、必ず成功すると保証してくれれば、軍令部もこれまでのようには却下できない」


 何という皮肉だろう。失敗すると知っている作戦に、お墨付きをしろというのか。


「えーっと……あのさ、僕が未来から来たってことを、軍令部の人達が素直に信じてくれるとは思えないんだけど、それは」

「彼女達の前で、いくつか未来を予言してくれればいい。短期間で証明できて、なおかつ未来人でなければ知り得ないことを」

「いや、無理だよ! 僕は海戦にちょっと詳しいだけで、歴史博士じゃないんだから。4月のセイロン沖海戦はもう終わっちゃったから、5月の珊瑚海さんごかい海戦までの間は知ってることは特に何も……ていうかこの話、五十子さんは了承してくれるの?」


 次に亀子が平然と口にしたことに、洋平は耳を疑った。


「山本長官には内緒で、あなたを大和から降ろす。長官の筆跡を真似た命令書も用意してある。それで飛行艇を用意して、密かに横浜航空隊まで飛んで、帝都に入る」

「えっ……それって、五十子さんを裏切ることじゃ……」


 洋平の言葉を遮るように、子どもっぽいパジャマ姿の亀子が一歩踏み出してきた。狭くて暗い空間で、二人の身体が密着する。頭がくらくらするのは昼間に摂り過ぎた砂糖のせいだろうか、室内に充満したお香のせいだろうか。


「問題ない。作戦計画が無事に通れば、長官は喜んでくれる。それがあなたの望み、私の望み」


 亀子に押されるまま、洋平が壁に倒れかけたその時だった。


「そこまでですよお、黒島参謀!」


 ばあんと扉が開け放たれ、床の書類が舞い上がった。流れ込んできた外気がお香を薄めてくれる。


「話はばっちり聞かせてもらいましたよお。未来人さんの帰りが遅いと思ったら……抜け駆けは許しません!」


 明るい黄色カチューシャに栗色の髪、怒っていてもふわふわした声。寿子だった。

 その後ろでは、時代劇に出てくる浪人の長楊枝みたいに竹串をくわえた束が腕組みをしていて、さらに後ろには五十子が立っていた。俯いていて、表情は見えない。


「長官……! その、今のは、その」


 珍しく動揺して後退る亀子に、寿子がたたみかける。


「海底人だのネッシーだの言ってたのは、未来人さんの価値に興味が無いふりをして長官を安心させるためのフェイクですねえ。長官は黒島参謀に甘いからごまかせても、私の目はごまかせませんよお!」


 亀子には、弁解する余裕も無いようだった。寿子や束より、五十子に聞かれていたことがよほどこたえた様子だ。


「危ないところでしたねえ、未来人さん。知ってましたあ? 竜宮城のおとぎ話の教訓は、漁師は怪しいカメさんについて行くべきではなかったということなんですよお」

「いや、そんな人さらい注意みたいな解釈は初めて聞くけど」

「大和の艦内を歩かせるのでさえ危なっかしい黒島参謀と二人きりで帝都に行ったりしたら、途中で黒島参謀は寝落ちして未来人さんは迷子、挙げ句の果てに怖~い憲兵隊や特高警察に捕まって拷問されていたかもしれないってことですよお! おかにはそういうリスクがあるんです。ですから私は、この大和で未来人さんを参謀にして作戦を手伝ってもらおうって言ってるんですよお」


 寿子の発言に驚いたのは洋平だけではなかった。亀子は目を見開きついで表情全体を険しくした。


「……渡辺参謀、私の作戦立案に不足があるとでも? 黒島亀子の作戦は、いつだって完璧。未来の情報は必要無い。欲しいのは、未来人という存在がもたらす政治的な効果!」

「そうやって外からの情報を受け付けずに引きこもって一人で作戦を立ててると、いつか足元をすくわれますよお」


 二人の間に、割って入ったのは束だった。


「ややこしい話はさておきだな。黒島、てめえ命令書を偽造するとか言ってたよな。海軍刑法第32条違反だぞ。大体、書類の片付け一つ満足にできねえ分際で書類を偽造するなんざ、とんだお笑いなんだよ。なんだこの汚部屋は! 掃除しろ掃除!」

「参謀長、怒るポイントずれてますよお」


 黙って見守っていた五十子が、こほんと咳払いをする。


「……ねえ、みんな。ちょっと洋平君と二人きりにさせてくれないかな」


 寿子がまた何か言いたそうな顔になったが、束がそれを手で制し、五十子に向かって頷く。


「ありがとう。……行こう、洋平君」


 五十子に手招きされて、洋平は部屋を出る。亀子が今にも泣き出しそうな目で立ち尽くしていたが、洋平にはかける言葉が見つからなかった。


「長官」


 そのまま通路を歩き出そうとした五十子を、低い声が呼び止めた。束だった。


「そいつをどうするか、そろそろ決断してくれ。この馬鹿二人がなんでここまで思い詰めてるか、わかってるだろ」

「……うん」


 五十子は振り返って、束を見て、寿子と、そして亀子を見た。


「ごめんね、みんな。洋平君の気持ちを確かめたいの。後少しだけ、時間をちょうだい」


 最後に亀子に向けて微笑んだ。いつも通りの暖かい笑顔だ。亀子が膝をついて震える両手で顔を覆うのを隠すように、束と寿子が前に立つ。


「ほら、整理整頓始めっぞ。今夜は人間が住めるレベルになるまで寝かせねえからな!」

「あー! この書類、前になくしたと思ってたウェーク島空襲の報告書! こっちはニューギニア沖海戦で、こっちはジャワの戦闘詳報! ぜーんぶ黒島参謀の部屋にあったんですねえ! もお、何も言わずに持ち出すなんてひどいですよお!」


 扉が閉まっても、参謀達の騒ぐ声が響いてきた。


「……ふふっ、束ちゃんってね、あんな風に昔から後輩の面倒見が良いんだよ」


 お互いの声が届かない距離まできてから、五十子がこらえきれなくなったように笑い出した。

 ひとしきり笑って、目尻の涙を拭う。


たばねって、ぴったりの名前だと思わない? あの子が参謀長としてみんなをまとめてくれているから、わたしは安心できるんだ」


 洋平は少し驚いた。噂として聞いていた確執を感じさせない、素直な感謝の言葉だった。

 艦内通路では、夜間の灯火管制のために当番の水兵が各部屋の舷窓を閉じるよう呼びかけて回っている。五十子は水兵に笑顔で労をねぎらってから、洋平を最上甲板に誘った。

 ラッタルを昇ると、ざざーん、ざざーんと打ち寄せる波の音が聞こえてくる。

 夜の海は真っ黒だ。

 周囲の島々には人家もあるはずだったが、戦時中だからか、明かりは全く見えない。


「見て、洋平君」


 暗い中で、前に立つ五十子が上を指差す気配がした。

 見上げた夜空には、無数の星々が散りばめられていた。

 東の方には、月が出ている。左半分だけが明るい下弦の月だ。

 星がこれだけ綺麗に見えるのは月が半分だけというのもあるだろうが、それ以上に、下界の灯火管制の賜物だろう。

 洋平が元の世界では見たことのない、満天の星空だった。


「あれがデネブ、アルタイル、ベガ」

「えっ、洋平君凄い! どれが?」

「……いや、知らない。ちょっと言ってみたかっただけ」


 星空に見惚れている洋平に、五十子は近付いてきて頭を下げた。


「今日はごめんね、洋平君。わたしがしっかりしてないせいで。……亀ちゃんもヤスちゃんも、とても純粋で良い子だよ。勿論、束ちゃんも」


 出会ってからの二日間で、彼女は何度洋平に謝っただろう。どうして、そんなに謝るのだろう。


「五十子さん、さっきの話。僕が作戦を手伝うっていう……」


 手伝わせて欲しい、そう言いたかった。

 この短い時間で、五十子が愛情を注ぐ艦と海軍乙女達に、洋平もいつしか強い愛着を感じていた。


「確かに魅力だよ、洋平君の情報は。わたしたち軍人にとってはね」


 言葉の途中で五十子にそう告げられ、洋平ははっとする。

 やはりセイロン沖海戦の結果報告は、洋平の予言通りだったのだ。

 何故なのだろう。彼女達は洋平の知る元の世界の海軍とこんなにも違うのに、その行き先は不条理にも、洋平が知る史実に向かって収束しようとしている。

 その運命を覆せるとしたら自分だ。

 だが、洋平が再び口を開くより先に、五十子は言葉を継いだ。


「けどね、よく考えて。もしわたしたちに協力したら、君はもう未来からのお客さんじゃいられなくなる。この戦争に、わたしたちと一緒に責任を負うことになっちゃうんだよ?」


 そこまで言って、五十子は少しの間沈黙し、首を横に振った。


「……ううん、『わたしたち』じゃない。この戦争を始めたのは、わたしなの」


 暗闇の中で、次第に目が慣れてくる。

 浮かび上がってきた五十子の表情は、普段、彼女が部下達に向ける生気溌剌としたそれとは違って見えた。

 笑顔はどこかやつれていて、いたずらっぽく輝いていた目は、今は星明かりさえ映していない。


「大勢の命を奪ったよ、敵も味方も。全部、わたしのせい。……洋平君のいた世界の山本って人は、どんな風に言われてた? きっと、みんなから恨まれてたんじゃないかな」


 洋平はぎりっと歯を軋ませた。

 そうだったのか。五十子なら、そういう風に考えてもおかしくはない。

 洋平の僅かな持ち物から、洋平の世界についてあれだけの洞察をしてみせた五十子なら、想像することは容易かっただろう。

 国のために戦った行為が、過ちとして子孫に糾弾される未来を。


「ごめん、今のなし。良くないね、こういう質問。洋平君が別の世界の未来から来たって言うから、覚悟はしていたつもりだったのにね。わたし、ダメな子だ」

「……僕は、山本五十六を尊敬しているよ」


 彼女の言葉は、口を挟むにはひどく重かったけれど、洋平は言わずにはいられなかった。


「山本五十六は、誰よりも開戦に反対だった。最後まで必死で抵抗して、けれど国が決めたことは、一軍人に過ぎない彼にはどうしようもなくて。個人の意見とは正反対のことを、自らの手で始めるよう強いられた。それでも早期講和に一縷の望みを託して、あの真珠湾奇襲をやったんだ」


 五十子だって、同じだったはずだ。今までの彼女を見ていれば、疑いの余地は無い。


「真珠湾は失敗だったかもしれない。空母はいなかった。宣戦布告が間に合わずに、奇襲は敵のプロパガンダに利用された。でもそんなのは全部、結果論に過ぎない。大切なのはどうすべきだったかじゃなくて。五十六が、いや五十子さんがどうしたかったか。そして今、どうしたいかなんだよ?」

「わたしが、どうしたいか……」


 呟いたきり、五十子は黙ってしまう。洋平は今度こそはっきりと、自分の気持ちを声に出した。


「僕は、連合艦隊の艦が好きだ。提督達が好きだ。だから、好きな艦にもう沈んで欲しくないし、五十子さん達にも死んで欲しくない。そのために、この世界で僕にできることをさせて欲しい」

「……まるで、わたしたちが負けて死ぬような言い方をするんだね」

「五十子さんは、勝てると思っていない。違う?」

「あはは……未来から来た人には、敵わないな」


 五十子はくしゃくしゃっと頭をかく。リボンの髪飾りが揺れるのを、洋平は黙って見守った。

 数秒の後、五十子は再び星空を見上げる。


「……70年後かあ。わたしは90歳近いおばあちゃんだね。見られるかなあ」


 その未来は、洋平の知っている世界とは当然違うし、その言葉は、洋平を安心させるための嘘かもしれなかったけど。

 それでも、長いあいだ罪の意識を背負い恐らくは死を覚悟してきた彼女が口にしてくれた、希望の言葉が嬉しくて。


「食べ物に砂糖かけるのをほどほどにすれば、普通に見られるんじゃないかな?」


 湿っぽくなった空気を払う、洋平なりの冗談のつもりだった。




 翌朝。

 長官公室の食卓では、給仕の従兵達を驚かせる二つの珍事が起きた。

 一つは、昼夜逆転しているはずの先任参謀、黒島亀子が朝食の席についていたこと。


「しゅぴー……しゅぴー……」


 といっても、突っ伏してテーブルクロスによだれの染みを広げていたが。


「寝るな黒島、営巣入りにすっぞ!」


 束が耳元で怒鳴ると、一応は目蓋を開ける。


「むにゃ……二式大艇の燃料補給……フレンチフリゲート……しゅぴー」


 完全に白目なんですが。後、頭の中の作戦計画がだだ漏れなんですが。


「驚きましたねえ。明日あたり、ルーシ連邦が中立を破って攻めてくるんじゃないですかあ?」


 寿子がそう言ってからかう。恐らく「明日は雪が降る」的なニュアンスだと思われるが、史実を知っているとあまり笑えない。


「ふん。未遂とはいえ、海軍刑法違反の現場を押さえたからな。しばらくはこれをネタに脅して、こいつの生活態度を根本から修正してやる」


 勝ち誇る束。


「あはは……でも、みんな揃ってご飯食べるの久しぶりだね」


 五十子は3人の参謀達を微笑んで眺めている。

 従兵達が朝食の御膳を運んできた。ご飯、味噌汁、漬物、海苔、目玉焼き。それに調味料。小堀一等水兵はごく自然な所作で、連合艦隊司令長官の前に砂糖の壺を置いた。もはや習慣と化していたのだろう。二つ目の珍事は、この直後に起きた。


「さあ、食べよっか。頂きます!」

「あ、あれ……ちょ、長官、目玉焼きに砂糖かけないんですかあ?」


 元気よく頂きますをして目玉焼きにそのままかぶりついた山本五十子に、寿子が震え声で訊ねた。

 背後に控える従兵達も、一様に驚愕の眼差しを注いでいる。


「もぐもぐ……え、目玉焼きにお砂糖? 何それ怖い」


 カシャン。小堀一等水兵が、トレーを床に落とした。亀子が起きてきた時にはまだ平静でいられた従兵達がざわざわし始める。


「いや……あの、長官、もしかして昨日、私と参謀長が水饅頭を嫌がったの気にしてます? 悪かったですから、そんな無理なさらないで下さいよお! 目玉焼きに砂糖をかけて食べるのは、普通の人でもやることですし!」


 錯乱状態の寿子が、さらりと五十子を普通の人じゃない認定している。目玉焼きに習慣で醤油をかけようとしていた洋平は、罪悪感を覚えて自分も何もかけずに食べることにした。


「みんな、そのまま聞いて」


 寿子や従兵達の反応を気にせず平然と目玉焼きを平らげた五十子は、ぽんぽん、と手を叩いた。元より、全員の視線が五十子に集まっている。

 それから五十子が宣言したことは、帝政葦原海軍史上、前例の無い出来事として、その前の二つの珍事をはるかに凌駕していた。


「本日付で、源葉洋平君を海軍かいぐん中佐ちゅうさ相当そうとう、連合艦隊司令部特務とくむ参謀さんぼうあつかいにしたいと思います。洋平君、みんなに挨拶っ!」

「よ、よろしくお願いします! って、中佐? 特務参謀? ……僕が?」


 勢いで起立・敬礼してしまったが、自分の身に何が起きたのか理解が追いつかなかった。代わりに寿子が飛び上がって歓声を上げる。


「やったあ! 良かったですねえ未来人さん、私とお揃いの階級ですよお、『少佐のらしろ』もびっくりの特進ですよお!」


 固まったままの洋平の手をとって、ぶんぶん上下に振り回す。


「……。……あれ、でもこれって、制度的にOKなんでしょうかあ? ……そもそも人事って、山本長官の権限で決められるんでしたっけえ……」


 レシプロエンジンのピストンみたいだった寿子の手の振りが、次第に速度を落としていく。連合艦隊司令部の参謀なんだから、長官の一存で決められそうなものだが。


「……自分で提案しといて、ノープランだったんだねヤスちゃん」


 五十子はじとっとした目で寿子を見てから、洋平に説明してくれた。


「前にも言った通り、葦原海軍はお役所なの。だから今は中佐相当・・で、参謀扱い・・。士官の人事管理は海軍省人事局の管轄なので、これは正式な任官までの暫定措置とします。ヤスちゃん、人事局との折衝は任せたからね」

「うう、任されましたあ。これってある意味、犬を将校にするより手続き大変なんじゃあ……とほほ」


 青菜に塩状態になった寿子の背中を、束が乱暴にどやしつける。


「てめえが言いだしっぺだろうが! しかし良かったな渡辺。司令部ここには上官しかいねえし、かといって部下がくると肩肘張って疲れるから、気安く喋れる同階級の奴が欲しいってこぼしてただろ」

「そ、そうでしたあ! 長官ありがとうございます!」


 既に十分気安く喋っていると思うのだが……。


「束ちゃんはどう思う?」


 五十子に訊ねられ、束はふうっと息を吐いて目を閉じる。


「ま、未来がどうとかいう与太話を信じたわけじゃねえが、長官が決めたことなら文句は言えねえな。よろしくな。変態覗き魔ジゴロ宇宙人改め、源葉参謀」


 洋平としては、参謀にしてもらえて本当に良かったと思えた瞬間であった。

 五十子は最後に、さっきからずっと黙っている亀子に目を向けた。


「亀ちゃん、起きてる?」

「……しゅぴー」


 昨日のことを引きずっているのかと思ったら、単純に寝落ちしていた。

 よだれでテーブルクロスに世界地図が描かれようとしている。


「亀ちゃんの書いたミッドウェー作戦計画書、読ませてもらったよ。凄く良くできてるね」

「しゅぴっ!」


 先任参謀は即座に跳ね起きた。五十子の褒め言葉に反応するセンサーでもついているのか。目を覚ました亀子に、五十子は微笑みかける。

 再び口を開いた時、その声は司令長官に相応しい凛としたものだった。


「亀ちゃんの計画、みんなにも後で読んでもらうけど、この作戦は残存するヴィンランド太平洋艦隊、特に真珠湾攻撃で沈めることのできなかった空母群を一挙に撃滅し、海軍本拠地ハワイ攻略への障害を取り除くことを目的とした、わたしたちが過去経験したことのない大きな規模の作戦だよ」


 食卓の空気が引き締まる。命じられたわけでもないのに従兵達が退室して扉を閉め、残された参謀達はそれぞれ姿勢を正す。

 洋平も背筋を伸ばし、五十子が次に発する言葉を待った。

 昨夜、洋平は自分の気持ちを口にして、それはかなえられた。

 だが、五十子がどうしたいのか、まだちゃんとした返事を聞けていない。

 今度は彼女が答える番だ。


「正直、今の中央を説得するのはかなり難しいと思う。それでも、わたしは何としてもこの作戦を実現させたい。ぶりと講和するために」


 五十子は、洋平の視線を受け止めて頷いてみせる。


「早期講和。これは真珠湾攻撃の前から変わらない、わたしの信念だよ。今は講和なんて、世の中のほとんどの人は想像もできないかもしれない。だけど、例えそれがどんなに小さな可能性でも……わたしはやっぱり諦めたくない。頑張れば、本物の希望に変えられるって信じたいんだ」


 洋平は、無言で頷き返す。

 五十子の答え、確かに受け取った。


「束ちゃん、亀ちゃん、ヤスちゃん、それに洋平君。みんなの力を貸して欲しいの」


 五十子は、一人一人の顔を真剣な眼差しで見回した。


「この作戦を実現させて、今度こそ戦争を終わらせよう」

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