闇を駆ける

白井鴉

第1話

 俺が彼女に出逢ったのは、デンバーから東へ百二十マイルほど離れた田舎町でのことだった。

 グラマラスな風貌をもつ旧型のコルベットで、夜毎フリーウェイを疾走するのが好きな俺が、なぜそんな田舎町へむかったのか……それは、ある噂を聞いたからだ。


「デンバーの東には、“最速の男”がいるそうだぜ」


 人いきれのする場末の酒場で、走り屋仲間がいった台詞。


「なんだそりゃ」俺は、少々ろれつのあやしくなった舌で、不服を表明した。「“最速の男”だとぉ? ふざけるなっ。そんなこと、誰が決めやがった」

「デンバーから来た奴がいってたんだよ。州道を二百マイルで走る奴がいるってな」

「二百?」


 酔いが少し醒めた。時速二百マイルといえば、インディ・カー並みのスピードだ。

 マジな話なら。


「噂だろ」椅子の背に身をあずけなおす。かすかにきしむ音がした。「でなきゃ、きっと桁をひとつ間違えてるんだろうぜ。ばかばかしい」

「そうかな。でもそいつ、実際に追っかけたそうだぜ」

「……で?」


 俺は半眼で仲間の顔をみすえた。くだらん話を、やけにひきのばそうとしやがる。こいつがこんないい方をするのは、俺を乗せたがっているときだ。


「それで、どうなった?」

「頭を抑えたつもりがあっさり抜かれて、十五秒もたたないうちに視界から消えちまったそうだ。とにかく凄いスピードで、これまでにもおおぜい挑戦したんだが、勝った奴は一人もいないんだと」


 ていねいに手ぶりまで交えて、仲間は解説した。聞いた話のわりには、まるで自分が見てきたみたいに言いやがる。


「それも、深夜になるとどこからともなく現われて、またどこかへ消えていくんだそうだ。みんな“最速の男”って呼ぶだけで、正体は誰も知らないらしい」

「やけに関心がありそうだな」俺はテーブルに肘をついて、仲間の顔をじろりとにらんだ。「ならいっそ、おまえが挑戦してみたらどうなんだ、ロブ?」

「俺が?」


 ロバートは、生まれて初めて全裸の男をみた修道女みたいに目を丸くして、ぶるるいと首をふった。頬の肉がたぷたぷ揺れる。俺は顔をしかめた。


「冗談じゃねえ、二百マイルだぜ。追いつけるわけねえや」

「おまえ、そんな与太話を信じるのか?」

「言ってたのはカタイ奴だよ。ありゃあマジだった、嘘とは思えねえな……第一、俺にはそこまでぶっ飛ぶ度胸はないね。勝てる見込みのない競りなんてごめんだ」


 ロバートは大仰に肩をすくめてみせた。率直なのは結構だが、だったらなぜ俺にその話を聞かせた? おまえにない「度胸」とやらを、この俺に肩代わりさせたいのか?


「くだらねえな」


 俺は話を打ち切るつもりで吐き捨てた。ロバートの口車に乗るつもりはなかったし、実際、ほとんど興味がわかなかったのだ。ただの噂のために、わざわざこのサンフランシスコからデンバーまで延々一千マイルも車を走らせるつもりなどないし、だいたい州道で二百マイルなんて、真に受けるほうがどうかしている。


 この話はここでケリがついたはずだった。少なくとも、俺にとっては。


 だが、翌週、全米中継で行なわれたフロリダ州デイトナでのレース。カウチに身を沈めながら、サーキットへ集結したレーシングマシンの映像に見惚れるうち、俺はふと、酒場での話を思いだしてしまった。

 あるいは、思いだすべきではなかったのかもしれないが。

 結局、翌朝アパートをでた俺は、コルベットを駆ってデンバーへむかった。


 そして、彼女と出逢ったのだ。



    ☆



 都市生活者の目から見れば、ほとんど何もない処だった。町の中心を少し離れてしまえば、すぐに荒地か、地平線まで見渡すかぎりの農場だ。


 どうやら使えそうだとあたりをつけられたのは、むしろ雑貨屋と呼ぶにふさわしい自称コンビニエンスストアと、地元の連中のためのドライブインを兼ねたガススタンド、それに西部開拓時代からそのまま取り残されたかのようなおんぼろ宿。念を押すが、モーテルなんてしゃれたものではない。フロントにはでっぷりと太った男がカウボーイハットをかぶって座っているような処だ。そんなわずかばかりの文明の所産が、カンザスシティからデンバーへ通じる州道ぞいに点在していた。


 噂によれば、例の“最速の男”は州道のこの町あたりに出没するらしい。なるほど、道幅はけっして広くはないが、たしかにここは完全な直線路が四十マイル以上もつづいている。スピードは上がりそうだ。


 アパートをでて三日目の昼すぎ。徐々に多くなるカントリーウエスタンの周波数ラジオチャンネルに悩まされながら目的の町へたどりついた俺は、とりあえず宿をとると、そのままコルベットを駆ってドライブインへ行った。その日はモーテルを朝早く出発したので何も食べていなかったし、コルベットのガスも入れておく必要があった。


 いつものフリーウェイとは違って、外の景色は遠くに張りつき、どれだけ走っても俺から離れようとはしない――フロントガラスを抜ける熱い陽射し、天に広がるくすみのない蒼穹。数百マイル彼方の山脈には、薄く雲がたなびいている。


 俺は舌打ちした。なんて退屈な眺めだろう。路上でたまにでくわすのは、あちこちに泥のこびりついたのろいトラクターか、むやみに大きい立看板くらいなものだ。こんな処で暮らす奴らはどういう感覚をしてるんだ。都会派の俺とは、とうてい合いそうもない。


 十分ばかり車を走らせると、ようやくドライブインが見えてきた。スピードを落としてステアを切り、敷地へと乗り入れる。

 邪魔にならないあたりに数台の車が止まっていた。まるきり閑古鳥が鳴いているというわけでもなさそうだ。


「?」


 縁の錆びた旧い給油機の前にコルベットを入れようとして、俺は気づいた。

 敷地のいちばん端に止められた一台の車――クリムゾンに染められた流麗なフォルム。より速く走るために生まれてきたものだけが持つ、他のものを寄せつけない強い存在感。俺のコルベットと違って洗練された、だが蔵しているものはまったく同質の、一台のマシンに。


「新型のダッツンズィーじゃねえか」


 俺は目を丸くした。まさかこんなド田舎で、これほど上等のスポーツカーにお目にかかろうとは! Zは日本車という点が少し気に入らないが、性能的にはコルベットに引けをとらない。個人的に、競ってみたいマシンのひとつだった。


(ダッツンで長距離ツーリングか……?)


 うらやましい身分だ、と――傍から見れば、俺自身もそんな身分だったが――思いかけたものの、ナンバープレートを確認してそうではないと気づいた。コロラドと書いてある。こいつは地元の車だ。

 では、こいつを乗りまわしているのはどんな奴だろう? ガスを入れるのは後まわしにして、隣へコルベットをすべりこませた俺は、まだ真新しいZのボディに視線を注いだ。金にあかせて手に入れただけか、それとも俺と同じく走ることが好きな奴なのか。


「こいつと競りあえれば、ここまで来た甲斐はあるがな」


 ふと、本音を口にする。与太話につられて来てみたはいいが、こんな何もない処でどう過ごしたものやら――と思いはじめていただけに、このZの存在は、意外な期待感を俺に抱かせたのだ。

 コルベットを降りて、ドライブインの建物に入った。小さな店内には、数人の客があるばかりだった。ざっとなかを見渡したところ、あのZに乗っていそうな奴はいない。


 いや。


 窓辺にひとりいた。たったひとり。革のジャンパーに身を固めた、ブロンドの髪をした美しい女性が。






 初めて彼女を目にしたときの衝撃を、どう表現したらいいか、俺はいまだにわからない。


 きっとそれは、自分が誰に出逢うべきだったのかを理解した瞬間だった。俺はあんぐりと口を開け、それでいて息をすることさえ忘れた。視界から他の一切のものが意味を失い、どこか遠くへと流れ去り、消え失せていく。


 そして彼女の存在だけが、俺の心を満たしていく。


 この出逢いは偶然だろうか? いいや違う、そんなはずがない――身体は震え、胸はがんがん鳴っていた。

 彼女――コーヒーカップを片手に、窓辺へ寄りかかるようにして外を見ている彼女!――なんて美しい鼻梁。しなやかな柳眉、柔らかそうな唇! だが、容貌が整っているというだけなら、そんな女は世間にいくらでもいる。気取った女、はすっぱな女、勝気な女、頼りたがる女――


 彼女は、そうした女たちとは、どこか違っていた。

 どう違うと問われても、うまく説明などできはしない。ただ彼女のなかに、何かに必死で耐えるかぼそい、けれど容易に折れない芯の強さのようなものを、俺は垣間見たような気がしたのだ。


 それが、俺の心をはげしく揺さぶった。


 スツールに腰かけた他の客が、入り口で立ち惚けている俺を不審気に見つめているようだった……どうでもよかったが。きっとこのとき、俺はあほうのような顔をしていたろう。彼女はそれほどまでに新鮮で、印象深く、すばらしく見えたのだ。まるで女神のように。


「この店の空気は、そんなにうまいかね?」


 そんな声が、俺を現実に引き戻した。カウンターの内側で、髪のずいぶん薄くなったドライブインのマスターがうさん臭げに俺を見ていた。


「空気を吸いたいだけなら、外にいくらでも新鮮なのがあるぞ」

「あ、ああ……いや、飯が食いたいんだ。なにか、適当でいい」


 マスターがむっつりとベーコンエッグらしきものを作る間にも、俺はそわそわしながら彼女のほうを見ていた。このちっぽけなドライブインのなかで、彼女だけが陽の光を浴びて場違いなまでに輝いている。彼女が今にも出ていってしまいそうで、料理の出てくる数分間が無限の責め苦に感じられた。

 それでも、ようやくでてきたトレイを持って、俺は彼女のテーブルへ歩いていった。


「ここ、座ってもいいかな?」


 なんてことだ! 俺の声は震えてるじゃないか! まるで、初デートを申しこむ中学生ジュニア・ハイの少年みたいに。


「かまわないわ」


 彼女の返事はそっけなかった。俺になんの関心もない様子だった。しかし、かまうものか。とりあえずチャンスは与えられたのだ。

 俺は彼女の正面にすわった。


「コルベット、調子よさそうね」意外なことに、先に口を開いたのは彼女だった。「いい音してたわ。可愛がっているんでしょう?」

「ああ、もちろん」


 応えながら、背筋の震える思いがした。彼女は走り屋だ、俺と同じに。でなければ、音を聞いただけでエンジンの調子までわかるものか。


「あのZ、君のだろう? いい車に乗ってるんだね。……おっと、誤解しないでくれ。別に車のことで声をかけたわけじゃないんだ。その……」

「あなたも“最速の男”目当て?」


 彼女の声にかすかな陰りがあることに、このとき、愚かな俺は気づかなかった。


「え? ああ。……ははあ、君も噂を聞いたのか」


 ようやく得心のいった気がした。なるほど、ずいぶん場違いなマシンだと思ったら、目的が同じだったのか。


「俺はサンフランシスコフリスコから来たんだ。友達に聞いてさ……といっても、実をいうとほとんど信じちゃいないけどね。時速二百マイルなんて無理だよ。まあ、たしかにこのあたりは真っ平らでいい道だけど、サーキットのテスト走行じゃないんだし、実際に公道を走るとなれば……量産車じゃ、到底そんなスピードはだせやしないさ」

「そうね……無理かもしれない」


 彼女は静かに応え、視線を窓外へ戻した。

 その瞳の奥で揺らめく碧色の光を、俺はどう受けとめればよかったろうか――とても悲しそうで、切なそうで。何かにすがりつくような、碧色の光。


「でも、わたしは……追いつきたいわ。なんとしても……」


 彼女はそっと立ち上がった。


「ごめんなさい、わたしもう行かなきゃ」

「え?」


 俺は呆気にとられた。未練の気振りも見せず歩きだす彼女に、あわてて腰を浮かす。


「いや……ちょ、ちょっと待ってくれ! 何か悪いことでもいったかい? ねえ――」


 呼びとめようとして絶句した。まだ彼女の名前さえ聞いていないのだ! 知りあったばかりなのに、こんなにあっさりと別れるなんて! 俺が誰なのかも、彼女には伝えていないじゃないか!

 店をでた彼女を追ってドアを開けようとしたとき、俺は後ろから呼びとめられた。


「やめときなよ、お客さん」


 ふりむくと、さっきのマスターが皿を拭きながらこっちを見ていた。


「なんだって?」

「あの娘に近づくとろくなことにならんよ。ちょっかいはださんほうがいい」マスターはかぶりを振った。「あの娘は、死神に取り憑かれとるんだ。……もう半年も前から、ああなんだ。悪いことはいわん。どこから来たのかしらんが、さっさと故郷に帰ったほうがいい」






「よくここがわかったわね」


 シンシア――ドライブインのマスターからむりやり聞きだした、俺の女神の名前だ――が、あきれたようにいった。

 納屋を改造した家……のようなもの。それが、彼女の半年前からの住みかだった。


 初めて見たとき、俺は茫然とした。控えめにいっても、廃屋と大差がない。しかも半分はガレージだ。Zの整備用機材、燃料缶の類が、壁の棚に雑然と並べてある。

 残りの半分はキッチンだった。それと、近くの給水塔から無理にしつらえた水廻り。ちょうど真ん中にある梯子を伝って、屋根裏へ上がれるようになっている。そこが寝室なのだそうだ。

 表ではディーゼル発電機が唸り、そこから電力を照明に回していた。


(こんなところで暮らしてるのか……)


 出逢ったときの印象があまりに鮮烈だったせいか、俺はどうにも違和感を拭いきれなかった。これほど美しい女性が、なんでこんな掘っ立て小屋で暮らしてるんだ? あまりに不釣り合いすぎる。


「あそこのマスターに聞いたんだ。もう少し、君と話がしたくて」驚きを押し隠しながら、俺はいった。「いきなり押しかけてすまない。お邪魔してもいいかな」

「どうぞ。勝手に入って。なんのお構いもできないけど……」


 シンシアはそういうと、奥へ戻っていった。格納してあるZのボンネットをあけ、エンジンを点検しはじめる。慣れた手つきだった。


「エレメントを交換するところなの。ちょっと待ってて」油のにじんだ手袋をはめて、彼女はいった。「好きにすわって。椅子はそのへんにあるから」

「いや、かまわないよ。気にしないでくれ。手伝おうか?」


 彼女は首をふった。


「いいわ。これくらい、自分でできるから」


 冷たい声ではなかったが、歓迎しているふうでもなかった。周りのことにあまり関心を持っていないのかも知れない。あの、マスターのいうとおりに。

 俺はぎこちなく立ち惚けていたが、やがて腹を決めて、シンシアの傍へと歩いていった。手持ち無沙汰だったこともあるし、少しでも彼女の近くにいたかった、というのもある。


「ねえ、君は“最速の男”を見たことがあるのかい」

「さあ、どういえばいいのかしら……」横顔には、消え果てぬ想いが感じられた――マスターのいうとおりに。「そう呼ばれるようになってからは、まだ見たことがないわ。……それまでは、いつもわたしの傍にいてくれたのに……」


 それきり、口をつぐむ。

 俺は彼女の手元に視線を落とした。

 それから、思いきって言葉をついだ。


「……恋人、だったって?」


 彼女の身体が震えた。あわててこちらへふりむく。


「誰に聞いたの?」

「いや……」

「マスター?」

「このあたりじゃ、誰でも知ってることだって聞いたんだ」


 俺は弁解した。たしかにマスターから聞いたことだ。聞いてから、ずっと気になっていたこと。しかし、シンシアにとっては禁句だったらしい。彼女は尖った瞳で、俺を見つめていた。






『――シンシアの恋人も、あんたみたいな走り屋でね。たしかヘイワードとかいったな……あの娘をつれてデンバーからやってきては、よくこのあたりで車を飛ばしていたよ』


 マスターは皿を拭きながら渋い顔をしてみせた。


『わしは感心せんがね、あんたたちみたいな人は。しかし、シンシアはね。あの娘だけは違った。ときどきここへ食事しにきたあの娘は、よく笑う、やさしい、いい娘だったよ。綺麗だしね、あんたがあの娘を見たとたんイカレちまったように。


 だが、半年くらい前だったかな。……この近くで、恋人の車が事故を起こしてね。なんでも、百五十マイルはだしていたって話で……スピードがスピードなだけに、即死だったよ。

 あの娘、気の狂ったように泣き叫んでね。遺体が救急車で運ばれるときも、取りすがって、救急隊員に渡すまいとしたくらいだ。大の男が三人がかりで、ようやっと引き離したもんだ。


 それからしばらくしてかな……ときどき真夜中に、恐ろしく速い車が暴走するようになったのは。


 いったい誰なのか、そんなことはわしはしらんがね。そいつが現われてからしばらくは、挑戦するとか抜かしては、ほうぼうからスピード狂が集まったもんだ。いまでもたまに来るんだよ、あんたみたいに。まったく、世の中には命知らずが多いもんだ。事故を起こしたとき、後始末するのはこのあたりに住んどるわしらなのに。


 ただ、あの娘は……その車が、自分の恋人だと思いこんじまったんだな。

 きっと、恋人が死んで散々泣いたあの日に、ちょっとが、おかしくなっちまったんだな』


 マスターは、自分の頭を指でたたいた。


『あんたも、あの“最速の男”とやらに挑戦するつもりなのかしらんがね、終わったらとっとと帰ることだ。あの娘は誰も見ないよ。誰も相手にしない。あの速そうな日本車も、どこで手に入れたのかしらんが……あれで“恋人”に追いつこうとでもいうのかね。馬鹿げたことだ……。

 とにかく、まともには相手にせんことだね――』






「マスターの言いそうなことは、だいたい見当がつくわ」シンシアはふと目をそらし、寂しげに首をふった。「あなたも信じないでしょう? あれが、わたしの恋人だなんて」

「俺には、正直よくわからないな。くわしい事情は知らないし。……君は信じてるのか? “最速の男”が、君の死んだ恋人だと」

「信じてるわ」彼女は即座に応えた。「だって、同じ音だもの。闇のなかで聞いた、あの車のエンジン音が。あれはヘイワードの乗っていたトランザムよ、間違いないわ。わたしが聞き違えるはずがないでしょう。わたしはずっとあの人といっしょにいたんだもの」

「でも、ヘイワードは死んだんだぞ」俺の口調は、我知らず強くなっていた。「死んだ男がどうして車で州道を走れるんだ。きっと思い違いさ。そりゃ、君の恋人が死んだことには心から同情するよ。俺と同じ走り屋だったんだ、俺にとっても他人事じゃない。

 でも、そいつは死んだんだよ。残酷かもしれないが、死んだ奴は還ってこない。どんなに願っても」

「帰って……」

「シンシア、おちついてよく――」

「帰って! いますぐ!」


 シンシアは燃えるような瞳で俺をにらみつけていた。手のひらでやにわに俺の胸を突き、小屋の外へ押しだしていく。


「あなたも他の人と同じね。わたしのことをおかしいと思っているんでしょう。勝手にすればいいわ、何とでもいえばいいわ! でもわたしにはわかってる。あれはヘイワードよ! ヘイワードのトランザムよ!」


 シンシアは俺を外へ押しだすと、一気に扉をしめた。俺は戸板を叩いたが、なかから閂を掛けたらしく、びくともしなかった。


「シンシア、俺はまた来るぞ」

「もう来ないで!」なかから声が返った。

「いいや、絶対に来る。君は間違ってる。無理もないとは思うけど、でも、間違ってるんだ!」


 俺は最後にそれだけいい残して、表に止めてあるコルベットへ戻っていった。

 彼女を怒らせてしまったのは、失策だったかも知れない。……だが、他にどういえばよかったんだ? ヘイワードは、死んだんだ。死んだ人間が車を操れるわけがないじゃないか。そんなこと、信じこむほうがどうかしている。


 たしかに、恋人を失って、シンシアはどんなにか悲嘆にくれたことだろう。きっと身を引き裂かれるようなつらさを味わったに違いない。他人にはけっして想像もつかないような、空虚さと悲しみ……彼女の身の上にそんな不幸が降りかかったと考えるだけで、俺の心までやるせなく、悲しみに満ちてくる。


 だが、死んだ人間は二度と還らない。いくら想っても、どうしようもないのだ。忘れる以外に、どうやってけりをつければいい?


(正体を暴いてやる)


 コルベットのコクピットに身を滑りこませながら、突如わきあがった激しい感情に、身体が熱くなった。


(“最速の男”の正体を暴いてやる。かならず、俺が抜いてやるぞ。奴の伝説を俺が消してやる。かならず!)


 彼女を悲しみの淵から救うにはそれしかない、と俺はこのとき確信した。

 真実を明らかにして、過去を忘れさせるしか。そうして死んだ恋人への想いを断ち切らせるしか。それしか方法はない。


 イグニッションキーを回し、エンジンに火を入れる。俺は州道にでて走りだした。

 窓外の乾いた景色をやり過ごしていると、熱い想いは、いつしか使命感に変わっていた。


 俺は断じて負けられない。彼女の心を癒すために。彼女を立ち直らせるために、絶対に勝ってみせる。

 心のなかで何度もくりかえした言葉。


 俺は、彼女を救う騎士ナイトになるのだ。






 翌日から、俺の日参がはじまった。

 初めのうちは、すっかり嫌われてしまったようで、外で洗顔しているシンシアに話しかけても、ろくに返事もかえってこなかった。冷たい声音で突きとばすように応えて、こちらを見ることもしなかった。正直、つらい思いがしたものだ。


 だが、四日、五日と重ねるうち、彼女も根負けしたようで、俺が訪ねても文句をいわなくなった。そしてだんだん、気を許してくれるようになっていった。


 日中はたいてい彼女のところへ行っていたから、自然俺たちはいっしょに行動することが多くなった。あの“コンビニエンスストア”へ買いだしにいくときや、エンジンの調整を終えたマシンを走らせるとき、俺はいつも彼女の後ろを走った。


 この頃になっても、俺は彼女に「愛している」とはいえないでいた。その言葉を口にしたとたんにいまの関係を拒否されることが怖かったし、“最速の男”の正体を暴かないかぎり、彼女が俺の愛を受け入れてくれるとは思えなかったからだ。


 それに、彼女の顔を見ているだけで、俺は充分幸せだった。いちど、彼女をコルベットの助手席ナビシートに乗せて、あのドライブインへ昼食を食べにいったことがある。入る際、彼女のためにドアを押さえる俺をみて、マスターは軽くかぶりをふったようだった。


 だが、だからどうだというのか? 彼女はこの日、初めて自分のZにではなく、俺のコルベットに乗ってくれたのだ。ステアを握る俺のとなりに腰をおろし、心地よい声で俺の耳朶をうち、彼女の香りでキャビンを満たしてくれたのだ。あのとき、俺はたしかに彼女の騎士だった。彼女を守り、救わんとする男だった。これほどすばらしいことが他にあるだろうか?


 しかしそんな高揚感も、陽のでている間だけのことだ。夜も更け、日付が変わる時分になると、俺たちは互いに己れのマシンを駆って猟犬のように獲物を待つ。“最速の男”を。いつ現われるか知れないレースの相手を。ときにはいっしょに、あるいは別々に州道を流しながら、俺と彼女はひたすら待ちつづけるのだ。


 夜の闇のなか、前後に気を配りながらコルベットを走らせていると、いつも複雑な思いにとらわれた。シンシアとは、いつまでこんな状態でいるのだろう。彼女の心からヘイワードを追いだすために、一刻も早く“最速の男”と決着をつけたかった。……だが、この田舎町で、彼女とただふたり、行動を伴にできる幸せも失いたくないのだ。


 ある日、俺はデンバーまで走り、携帯電話を一台仕入れてきた。外の世界に関心を持たないシンシアは、携帯電話すら持っていなかったのだ。

 プレゼントというには無粋な代物だったが、受け取ったシンシアは、ただ不思議そうな顔をした。


「どうしたの、これ?」

「今日、新しいのを契約してきたんだ」俺はおどけるようにウインクしてみせた。「夜、別々に走ってるときに、どっちが“最速の男”を見つけてもいいようにね。こいつで連絡を取りあえば、離れていてもすぐに飛んでこれるだろう?」


 シンシアははっとしたようだった。携帯を見つめるうちに頬がみるみる紅潮し、喜びの表情が顔一杯にひろがっていく。

 俺は、それをうっとりと見つめた――美しかった。ほんとうに。


「そう……そうね。車が二台あれば、そういうこともできるんだわ。

 ……ありがとう。あなたって、いい人ね」


 うれしそうに俺を見上げ、瞳を輝かせて、シンシアは微笑んだ。

 その笑みが無心の信頼を告げているようで、俺はどれほど勇気づけられたことだろう。






 そんな中途半端な、しかし夢のような日々が終わりを告げたのは、それから三日後のことだ。


 その日の未明、俺はいつものように州道を流していた。あの田舎町から、シンシアは東へ、俺は西へ。彼女が携帯電話を持ってからは、別々に車を走らせるのが普通になっていた。


 時速百マイルの高速空間。対向車もなく、まるで世界の終焉した闇のなかに、ぽつんと独り、忘れ去られたような夜。俺はコルベットのコクピットに座りながら、これからのことを考えていた。

 いつかは、こんな生活も終わるだろう。“最速の男”を俺が抜きさり、正体を暴いて、シンシアに真実を悟らせることで。


(そのあと、シンシアを俺のアパートへつれていこう)


 この数日、ずっとあたためていた考えだ。


(彼女が心の傷を埋めるまでには、まだ時間がかかるかもしれない。でも、俺は彼女を愛してるんだ。きっと、俺のことで彼女の心をいっぱいにしてみせる。そうしたら)


 俺は、なじみの酒場からそう遠くない場所にある宝石店を思い浮かべた。


(そうしたら、彼女に――)


 そのとき、バックミラーが後ろから来る光を捉えた。

 夢想を断ち切られた俺は、一瞬ミラーへ目をやった。

 とたんにミラーの光が消え失せた。と同時に、一台の車が凄い速さで俺のコルベットを抜き去った。


 抜かれる瞬間、俺はその車をたしかに見た――純白に塗り染められた車体、ファイヤーバード・トランザム。


「奴か!」


 反射的にギアを一速落とした。時速百マイルで走るコルベットを一瞬で抜き去る。そんなことができるのは、“最速の男”以外にはない。


(やっと会えたな! 勝負だ!)


 俺はアクセルを踏みこんだ。コルベットのV型8気筒、5・7リッターエンジンが威勢よく吠え、急激な加速Gが俺の身体を包みこむ。とたんに背筋を這い昇る、緊張感の心地よさ! のぞむ獲物にやっとめぐりあえた、沸き立つような興奮感! 俺が走り屋をやる理由、この感覚のためにすべてを投げだしてもいいと思える瞬間だ。瞳が野獣のようにぎらついてくるのが自分でもわかる。追いかける獲物を見いだしたとき、俺のなかで何かのスイッチが切り替わるのだ。


 俺はエンジンのパワーバンドをけっして外さず、ひたすら“最速の男”の尾灯を追った。絶対に逃がさない。俺のために、シンシアのために。

 ステアを操りながら携帯を取りだし、短縮ボタンを押す。シンシアはすぐに出た。


「奴だ! すぐに引き返せ、でないと俺ひとりで食っちまうぞ!」

『すぐにいくわ、このまま切らないで!』

「了解、急げよ!」


 俺は携帯を持ったまま、前方に流れる赤い光をにらんだ。かならず捕まえてやる。そうとも、このコルベットならシンシアが来る前にカタをつけられるさ。むしろそのほうが、彼女もおちついて真実を受け入れられるだろう。そうしたら、俺は彼女をつれてサンフランシスコに帰るんだ。


 速度計の針がまわり、切り裂く風の音は轟音に変わっていく。相手との距離が、徐々にではあるが詰まっていく。まもなく照らしだした前方に、俺は奴のマシンのテールを捉えた。


(間違いない。あの形はトランザムだ)


 歯をむきだして笑った。なるほど、エンジン音が同じはずだ。なにしろ同じ車種なのだから。だが、これでわかった。奴は偶然シンシアの求める“トランザム”に乗っているにすぎない。幽霊でもなんでもない、俺と同じ、ただの生身の走り屋なのだ。


(これでシンシアの目もさめる!)


 コルベットのなかで、俺は快哉を叫んだ。

 こちらに気づいたのか、“最速の男”はさらに加速したようだった。俺も負けじとエンジンの回転を上げる。ちらりとコンソールに目を走らせた。時速百七十マイル。ノーマルのコルベットの最高速度を十マイル以上上回っている。だが俺のコルベットにはまだ余力があった。


 ポンティアック社製ファイヤーバード・トランザムに搭載されているパワーユニットは、俺のコルベットと同じV8、5・7リッターエンジンだ。トルクも馬力数もほとんど変わらない。どの程度いじってあるのか知らないが、俺もこいつのエンジンや足まわりには金をかけてあるんだ。基本性能が同じなら、絶対に負けない自信がある。


「逃がさん。貴様を止めて、シンシアをつれ帰るんだ!」


 路面は凄まじい勢いで後方へ吹き飛んでいく。いまやトランザムのテールは目前に迫り、俺は勝利を確信した。ぴたりと相手の後ろにつけ、焦燥感をあおりにかかる。


 そのときになって、俺はようやく自分の誤りに気づいた。






 そうとわかったとき、数瞬頭が空白になった。

 目の前を走るトランザムは、けっしてボディカラーが白いのではない。

 ボディ全体に、


 相手がオーバーヒート寸前なのでは、と俺は一瞬想像した。エンジン部からあがる白煙が風の奔流で撹拌され、車体を覆っているのでは、と。


 だが、そんな期待をこめた想像はすぐに打ち砕かれた。その白い霧は、風に流されてはいなかった。これほどのスピードで走っているのに、真後ろについた俺のほうへはかけらも飛んでこなかった。車体のラインは霧のためにぼやけ、はっきり見えない。少し離れればトランザムであることはわかるのだが、近づくと、細かな部分はまるで水につけた水彩画のようににじんで、はっきりしないのだ。


 つづいて呑みこんだ事実に、俺は絶句した。

 トランザムを包む白い霧は、淡く発光していた。ボディ全体が光をまとったように妖しく鈍く照り映え、輪郭が過ぎ去る闇のなかへ溶けこんでいる。


 それは断じて、コルベットの放つヘッドライトの乱反射ではなかった。


(なんだ、これは!)


 俺は何度か目を強くつむった。すばやくあけてみる。

 だが、そのは消えなかった。それだけは間違いのない、甲高いエキゾースト・ノートを響かせながら、そいつはどうしてもただの幻影であることを拒否しつづけた。


(なんだ……!)


 ゴオッ!!


 ふいに、脇を追い越していくエンジン音が聞こえた。視線を転ずる。闇を裂くクリムゾンレッドの車体が見えた。シンシアのZだ。

 一瞬我が目を疑った。なぜこんなに早く追いつけたんだ? だが、Zの出現で俺は現実に引き戻されていた。自分が携帯を持ったままであるのを思いだし、あわてて耳に当ててみる。回線はまだつながっていた。


「シンシア、聞こえるか!」俺は携帯に叫んだ。「こいつはただの車じゃない! 下がったほうがいい!」


 返事はなかった。


「おい、聞いてるんだろう!? アクセルを戻せ! やばいぞ!」


 ちらとコンソールに目を走らせる。スピードは百八十マイルを越えていた。俺が初めて経験する速度領域だ。

 そのとき、携帯から彼女の声が聞こえてきた。


『……ああ……』


 ひどく遠い声。シンシアは携帯を放りだしているのだ。俺は舌打ちした。


「シンシア、携帯を取れ!」俺は大声で叫んだ。「聞こえるか! 携帯を取れ!」


 だが、シンシアはまるで反応しない。あいかわらず遠い声だ。

 どうもおかしい、と俺は気づいた。シンシアの声音がいつもと違っている。最近はよく聞かせてくれるようになっていた、やさしげな、柔らかな声ではない。ひきつれたような、哀しげな、それでいて歓びに包まれているような、奇妙な声。

 俺にはすぐにわかった。

 彼女は、泣いているのだ。

 いったいどうして?


『ヘイワード……ヘイワード、ヘイワード! ああ……やっぱり、あなたなのね。そうよ、わたし信じてたわ。誰がなんといおうと、きっとあなただって信じてたわ。……逢いたかった。あなたに、どんなにか逢いたかったの……!』


 皮膚があわだつような感覚をおぼえた。ヘイワード? 死んだ男の名前じゃないか! なぜこんなときにその名を口にするんだ? まるで――

 俺は否定した。そんなことがあるはずがない――あるはずが。シンシアは、この得体の知れない車を、本気でそう信じているのか?


「シンシア、何をいってる!? スピードを落とせ! そいつは危険だ、いったん離れたほうがいい!」


 速度計の針はじりじりと回っていった。百九十マイル。

 そんな馬鹿な! 俺は悲鳴を上げそうになった。いくらチューンしたといっても、こいつは量産車なんだぞ! どういう改造を施したかは、この俺がいちばんよく知っている。ギア比と減速比が噛み合わない、こんなに出せるはずがないのに!


 恐慌をきたしつつ視線を前方に戻して、俺は愕然とした。

 これだけのスピードをだしてなお、俺はふたりに引き離されはじめたのだ。


『ええ、そうよ。ずっと待っていたの。……でも、よかった……こうして、あなたにまた逢えたんだもの……』

(なにっ!?)


 携帯から漏れた言葉に、意識が釘づけになった。いまのシンシアの言葉はなんだ? 俺の呼びかけに応じたにしては、あきらかに辻褄があっていない。そして、Zには誰も乗っていないはずなのだ、シンシア以外は。

 じゃあ、彼女はいったい誰としゃべっているんだ!?


「シンシア、どうした! しっかりしろ!」俺は怒鳴った。携帯を握る手が冷汗で濡れていた。

『本当に?……うれしい! ああ、あなたを感じるわ……もっと強く抱いて、もっと強く……』


 トランザムとZはランデブーしたまま徐々に遠くなり、俺は独り取り残されていった。速度計の針は百九十五マイルを指していたが、俺はどうしても彼らに追いつけなかった。とうにレッドゾーンを振りきった回転計の針が微細に振動する。エンジンが悲鳴をあげているのだ。


「シンシア、目をさませ! スピードを落とすんだ、早く!」


 !!――たどりつけない絶望感に黒く染まりながら、俺はそれでもエンジンの回転を落とせなかった。あきらかに性能の限界を超え、どんどん俺から離れていくZを視界におさめながら、それでも俺は必死で彼女の姿を追った。

 そして聞こえたのだ。携帯から、彼女の、最後の言葉が。


『ヘイワード、愛してるわ。……わたしも……わたしも、つれていって……!』


 そのとき、俺は絶叫した。

 何を叫んだのか、よく覚えていない。いくら思い返しても、記憶がはっきりしない。ただ、俺は叫んだのだ。なぜか? 恐怖からだ。とほうもない恐怖からだ。俺のひどく大切なものが目の前で奪われていく。それはきっと還らない。きっと戻ってこない。失われるのだ。完全に、永久に。俺にはそれがわかっていた。確信していた。だから俺は絶叫したのだ。


 だが、その叫びは届いたろうか? どこに? 誰に? 届いたろうか?

 聞こえたろうか?


 つぎの瞬間、目の前が真っ白になった。

 ボンネットが跳ね飛び、フロントガラスが弾け飛んだ。何かがコクピットに激烈な勢いで吹きこんでくる。炎だった。


 視界は混濁し、振動は身体をばらばらにしてしまうかのようだった。タイヤが悲鳴をあげ、とたんに俺は重力を感じなくなった。路面が猛スピードで宙を舞い、コルベットの車体を巻き上げる。火花が散り、火炎が世界を焼き焦がし、俺の五感を粉砕した。走るためのすべてが終わる瞬間。人の想いの瓦解する激震。


 限界までチューンした年老いたエンジンが、回転に耐えきれず爆発したのだと気づいたのは、気を失う寸前のことだ――。高速走行中に一挙にバランスを崩したコルベットは、木の葉のように路面を舞い、叩きつけられ、粉々に飛び散っていった……。



    ☆



 いま、俺は遠く直線のつづく、あの州道のかたわらに立っている。


 あれからもう一ヵ月が過ぎた。奇跡的に生還した俺は、担ぎこまれた町の病院を退院していた。完治というにはほど遠いし、医者は俺をまだベッドにしばりつけていようとしたが、消毒薬くさい病室にいつまでもこもっているのは趣味じゃなかった。

 それに、警察の事情聴取と現場検証もとうに終わっている。むりやり退院したところで、誰も困りはしないだろう。


 あの夜、俺とともに命の尽きるまで走りつづけてくれたコルベットは、いまはこの州道の先で静かに朽ちている。原形も留めぬほどぐしゃぐしゃになり、炎に焼かれた骸をさらして。


 すでに撤去されていたが、そこから数マイル先に、シンシアの乗っていたZがあった。やはりスピードに耐えきれず事故を起こし、大破したマシンが。

 もっとも、俺のコルベットと違い、マシンそのものはひどい状態だったにもかかわらず、なぜかコクピットだけは不思議なほど無傷だったそうだ。……そして、州警察の必死の捜索にもかかわらず、シンシアの遺体はとうとう発見されなかった。


 シンシアは幸運にも死をまぬかれ、自分でマシンを降りたが、警察に捕まるのを恐れてどこかへ逃亡したのだろう――人は、そんなふうに噂しあった。

 ただそれにしては、シートのハーネスが――まるで、座ったままふいに体だけが消え去ったかのように――固定されたままになっていたのが、人々に奇妙な印象を与えたが。


 あの夜、エンジンの爆裂する最後に見た情景を、俺はいまでも鮮明に思いだせる。ついに追いつけなかった彼女の後ろ姿、奪い去っていった“最速の男”。あれは本当に亡霊か、それともただの幻だったのか。


 あのとき、もし追いついていたら。“最速の男”を越えていたら。果たして、シンシアを止めることはできたのか? 行かせないことができたか?


 あるいは、彼女の薄い肩を抱き締めて、「愛している」と告げていたら……彼女は、“最速の男”を追うことをやめていただろうか?






 日は傾きつつあった。薄紅色に照らされたアスファルトの上には、もはや俺のコルベットの雄姿も、シンシアのZのエキゾースト・ノートも亡い。

 町の中心までは五マイル。徒歩でも、完全に日が暮れるまでには戻れる距離だ。ろくに見てはいなかったが、探せば長距離バスの乗り場くらいはあるだろう。


「俺はサンフランシスコへ帰るんだ」


 誰にいうともなく、ひとりつぶやいた。俺は帰るんだ。俺の故郷へ。シンシアがついに顧みることのなかった、未来ある生者の街へ。

 風が、砂の浮いたアスファルトの上を吹き抜けていく。

 熱いものが、あとからあとから頬を濡れつたって、俺は無力な子供のように、風を浴びながら立ち尽くしていた。



                         『闇を駆ける』 〈終〉

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闇を駆ける 白井鴉 @shiroikaras

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