7-2

 翌朝となっても香世子さんは戻ってきていなかった。親しくなって一年、二日間ほど不在にしたことはあったけれど、三日間も家を空けるのは珍しかった。

 香世子さんがおらずとも受験生の時は刻一刻と刻まれる。今週は、木、金が学年末テスト当日で、テスト週間となる。授業は午前中まで、給食も無い。自宅にいると香世子さんが帰ってきたかどうか気になって勉強が手につかないため、授業が終わるとお昼持参で図書室に入り浸っていた。けれど、そこに邪魔が入る。大日向有加だ。

 大日向有加もやはりお弁当持参で図書室に来ていた。ただし、先日のように馴れ馴れしく話しかけてはこず、私が陣取った席から一番遠く離れた対角線上に座り、黙々と勉強するのみ。その様子からは、香世子さんと何かやりとりをしたかどうかはうかがえない。どういうつもりなのか知らないが、大日向香世子の姿は、不愉快で目障りだった。かと言って、こちらから退散するも癪で、半ば意地になりながら、図書室に居座る。昼食を摂る時ですら、各々無言で。

 彼女の茶髪が動くたびに何か言ってくるのではないかと身構え、身動きしなければしないで、よほど勉強に集中しているのかと気が焦る。

 陽が暮れ始める五時過ぎ、大日向有加がさよならの挨拶もないまま席を立った。その十分後。彼女が完全に学校を出た頃合いを見計らって、私は一秒でも早くと、乱暴に勉強道具を片付け、家路を急いだ。

 そうして、息せき切って戻ったにもかかわらず、高台の邸は暗く、赤い車が納められるはずの駐車場もぽっかり空いたままだった。


 火曜日になっても香世子さんは帰ってこない。

 授業を受け、図書室で午後を過ごし、大日向有加が対角線上に座り、昨日を鏡に映したようなそっくり同じ一日を過ごす。帰宅すれば、これもまた同様に香世子さんは戻っていなかった。

 私は途方に暮れて、自宅の敷地内に無造作に置かれたブロックに座り込んだ。スカートの裾が地面にすれて汚してしまうが、どうでも良かった。

 香世子さんはどこに行ってしまったのだろう。仕事が忙しい? 事故に遭った? 私との約束なんか忘れてしまったの?

 山の端の柿色から中天の藍色へとグラデーションに染まった空に星が浮かび始める。グリム童話の『星の銀貨』という物語を思い出す。貧しい少女が、自分の境遇にも関わらず人々に施し、最後には少女の上に星が銀貨となって降ってくるというス.トーリー。美しい話ではあるけれど、自分が切羽詰まっている時に、とても真似できるものではない。

 敷地は塀に囲まれており、風は直接吹き付けてはこないが、冷気が足元から這い上がってくる。震える身体を学校指定の黒いコートの上から両手を回して抑えつけた。

「美雪、何しているの?」

 唐突に声を掛けられ、私は小さく飛び上がった。

 薄青の闇に目を凝らすと、敷地の前の道路から、回覧板を持った母が入ってくる。

 制服のまま座り込んでいる理由をどう説明しようか――見え透いてはいるけれど、一応の建前は必要だ。考えを巡らせ、口を開くその前に。

「いくら待ってても、初瀬さんなら帰ってこないわよ」

 一瞬、香世子さんを待ち続ける私への意地悪かと思った。反論しようとし、しかし、母のそこらに落ちている枯れ葉やらゴミやらを拾う何の気もない仕草に、毒気を抜かされる。

 固まったままのの娘に母は続けた。今日の夕飯のメニューを答えるのと同じ口調で。

「三回忌で明日の夜まで留守にするそうよ」

「三回忌って、誰の?」

「ご両親のよ。あんた、知らなかったの?」

 その声音には、かすかな失望と、苛立ちと、非難が混じっていた。かすかではあるけれど、明確なそれ。

 三回忌。小学五年生の時、父方の曾祖母が亡くなっていたので一応、三回忌がどういったものかは知っていた。でも、だとしたら、香世子さんのご両親はわずか二年前に亡くなっていたということになる。呆然としている私に、母は大きく溜息をつき、

「覚えていないの? 初瀬さんは数年前までご両親と一緒に暮らしていたのよ。お二人とも病気で亡くなったけど」

「うそ、だって、そんなの教えてもらってない」

「わざわざ言いやしないわよ、そんなこと」

 弁解と、どうして教えてくれなかったのかという恨みを込めた言葉を、母の正論が貫く。

「ゴミ捨てもしない、回覧板も持っていかない、使ったお弁当箱も出さない娘に教えたところで、ご近所さんにお悔やみの一つも言えないでしょうが」

「そんなの、」

 今言わなくても良いじゃない。喉元まで出掛かった言葉を滲んだ涙と共にかろうじて飲み込む。母はどこまでも辛辣で、だからこそ正しかった。

「お父様のご実家がK県で、菩提寺もそちらなのよ。……親戚も向こうにいるから、大変ね」

 新聞受けから夕刊を取り出しながらの呟きは、こちらに教えるというよりも、純粋に香世子さんの苦労をしのんでいるようだった。

 新聞を片手に、母は藍色の空と同化しつつある高台の白い邸を仰ぎ見る。背筋を伸ばした母は、まだわずかに私よりも身長が高い。黙ったままの横顔は、どこか見知らぬ他人に見えて。

 瞬間、気付く。今、多分、母の視界のどこにも娘である私はいない。母の見ている世界のどこにも。

 香世子さんは数日留守にするため、隣家の主婦である母に一言告げて出掛けたのだろう。それは特別な感情が入る余地のない、ごく普通の近所付き合いだ。そう、思う。そう、納得できるのに。私は愕然として母の横顔を見つめ続けた。

 と、母が取り出した夕刊の間に、白い封筒がちらりと覗く。私は慌てて駆け寄り、封筒を奪い取った。無理矢理引っ張ったせいで一緒に持っていた回覧板が母の手から抜け落ちる。

「何するの、美雪」

「勝手にとらないでよ!」

 母の叱責に、逆に声を荒げる。確かに茉莉から私宛の手紙ではあったが、それが難癖だとはわかっていた。わかっていて止められなかった。

 母に友人との私的なやりとりに介入されることは我慢ならないのだ。数年前までの過干渉が、私の中で尾を引いている。今となっては母が手紙の封を開けるとは考えにくいが、どうしても警戒してしまうのだ。

 腰を屈めて回覧板を拾い上げながら母は言う。

「もう、やめなさいよ」

「何を」

「あの家に関わるのはやめなさい。あんたなんかが本気で相手にされるわけないでしょう」

 一瞬、言葉を失う。母に何を言われたのか理解できなかったのだ。

 あんたなんかが。自分ならば相手にされるとでも言いたいのか。声のニュアンスに嘲りや優越は滲んでいなかったが、言葉通りに受け取ればそういう意味になる。

 明るい場所でなら、私の顔色が青褪めたのがよく見えただろう。幸いというべきか、夜の帳は完全に下りつつあった。

 私は無言のまま、母の横をすり抜けて自宅へと駆け込んだ。その際、鞄が母に当たり、またも回覧板が落ちるが、拾いも振り向きもしない。はたから見れば、この態度が世間一般的に、思春期における親への反発と呼ばれるものだとは知っている。けれど、それとはまた別の複雑な感情が、私の中に芽生え始めていた。


 生まれて初めての家出が敷地内なんて、まったくお笑い草だ。それでも私が行く当ては、白い邸を除けば、祖父母の母屋しかなかった。

「美雪ー、夕飯だよ」

 自宅に駆け込んだ後、私は手早く着替えを用意し、学生服のまま母屋に飛び込み、今晩泊めてほしいと頼んだ。

 最も、私が母屋に泊まることは珍しくもなんともなく、小学生の頃は毎月あったことだ。だから、今私が家出しているとは私以外の誰も気付いてはいない。むなしいことに。

 食欲はなく、祖父母と顔を合わせるのも億劫だったが、居候の身だ。私は自室代わりの六畳間から居間へと移動した。

「あんた、もっと食べんと。受験まで体力が保たんよ」

 祖母は返答を待たずにどさどさと取り皿におかずを盛る。

 孫娘を迎えた祖父母の食卓の話題は、もちろん、孫娘の昔話だった。お年寄りの傾向なのだろうか、彼らは未来よりも過去の話を好む。何歳までおねしょをしたとか、おもちゃ屋で駄々をこねたとか、どこぞで迷子になっとか。

「美雪はすーぐあっち行ったり、こっち行ったり。少しでも目を離すとどっか行ってまう」

「直美に用事がある時は美雪を預かったけど、ちょくちょく家を抜け出して行方不明になっとったなあ。そんたびに、ばあさんは直美に怒られとったわ」

「チョークをくすねて、道やら壁やらいっぱいに落書きしたときは、家族総出で掃除してご近所に平謝りして。あん時から、私ゃ腰の具合が悪くなったんだわ」

「よく知らん子とも遊んどったなあ。庭で一緒にままごとしてるからてっきり友達かと思えば、名前も家も知らん子だと。その子も帰り道がわからないと言って、結局、交番まで連れて行って」

「そういえば、あんた、昔はよく家に友だちを連れてきとったけど、最近は全然だね。友達おらんの? はやりの『いじめ』かね?」

 祖母はいっそ清々しいほどデリカシーのない質問を投げかけてくる。こういうところが母に『おばあちゃんは、いい加減な人なんだから』と言われる所以なのかもしれない。

 小さな頃、たしかによくうちに友達を連れてきていた。茉莉はもちろん、よく知らない子まで。一人っ子のためか、家族が友達の来訪を歓待してくれたおかげでもある。

 ――友達。私は、食卓についてから初めて声を出した。

「かよ……初瀬さんとお母さんが子どもの頃、仲良かったって、本当?」

 祖父母は顔を見合わせ少し考えた後、

「まあ、そうだねえ。毎日、一緒に遊びに出掛けとったよ。というか、ほかに友達がおらんかったんじゃないかね」

「お母さん、そういう子だったんだ」

 意外な事実に私は箸を止める。だが祖母は大きく手を振り、

「違う違う、直美にはたくさん友達がおったよ。どっちかいうと子どもらの中心で、反対に初瀬さんは大人しい子で」

「まあ、引っ越してきたばかりだったからなあ。一年も経たんとまた引っ越してまったし」

「……なんで?」

 自分の知らなかった事実が立て続けに飛び出してくる。『なんで』というのは、どの事柄に対してもだったが、祖父母は勝手に解釈したようだった。

「ご両親はずっとあすこに住んどったけどねえ。母親は後妻で血が繋がっとらんかったから折り合いが悪かったのかもしれんねえ」

「でも、初瀬の娘さんは十年前に戻ってからずっと義理の母親を看とったんだろ。母親を看取った思ったら、次は親父さんが癌になって」

「香世子さんが看病していたの?」

 祖母は、当然というように頷き、

「一人娘だからねえ。頼る親戚も近くにはおらんかったようだし」

「だって、仕事は?」

「そりゃ、仕事もしとっただろうね」

 祖母はばりばりと沢庵を噛みながら言う。

 仕事をしながら看病。香世子さんが。それはものすごく大変なことなのではないだろうか。

 けれど祖父母は、ごく普通のこととして受け止めているようだった。我が家に置き換えてみたらそれは大事で、祖父母が順番に倒れたとしたら、家はまったく回らなくなるだろうと簡単に予想がつく。けれど、香世子さんにとっては、かつてそれが普通のことで、周囲もそう受け止めている。――いや、だけど、母は。母の、藍色に染まった、あの横顔は。

 ……忘れてしまったことだけじゃない。知らなかったこと、知ろうともしなかったこと。そんなものだらけ。香世子さんも、母も、自分のことすらきっと。十四歳の中学生でしかない我が身に、私は愕然とする。

 孫の宿泊で普段の二倍以上の量と品数になったであろう夕飯を大量に残し、私は六畳部屋に引き上げた。


 学年末テストを明日に控えた水曜。朝、登校する時分には、やはり香世子さんが帰ってきている様子はなかった。母の言葉を信じるならば、今夜、香世子さんは戻ってくる。

 授業が終わり、自宅に帰って待とうかとも考えたけれど、落ち着かないだけなので図書室で夕方まで勉強することにした。けれど、どこにいたって何をしていたって、結局考えるのは香世子さんのことで、勉強に集中できず、英語と数学のプリントではケアレスミスが続き、ひどい点数を叩き出してしまった。

 今日も会えなかったら。約束なんか忘れていたら。私のことなんか、もうどうでも良かったら――。自分は香世子さんとの『宝物のこうかんこ』をすっかり忘れてしまっているくせに、相手には求める。後にして思えば、その矛盾にすら気付かないほど、私は不安だったのだと思う。

 だから。普段なら、絶対にしないことをした。

 相変わらず対角線上に陣取っている大日向有加。お手洗いだろう、小さなポーチを持って席を立った時、私は彼女の席にさりげなく歩み寄った。彼女の席ではなく、その先の書架に用があるのだというふうに。そして、ほんの数秒、横目で広げられたプリントやノートをのぞき込み――見なければ良かったと、心底後悔した。


 午後五時五分。大日向有加が勉強用具を片付けて図書室を退出した。忍耐力を総動員して十分。私はすっくと立ち上がって、図書室を飛び出し、そのまま真っ直ぐ自宅前を素通りして高台の邸へ向った。遠目から明かりが灯っていることがわかると、心臓が破けそうになるのも構わず、高台への坂道を駆け上がる。駐車場には赤い車も戻ってきており、香世子さんの帰宅を示していた。

 母は夜と言っていたが、予定よりも早く戻ってこられたのだろう。私は後先考えずに、高台の邸のインターホンを押した。

「あら、美雪ちゃん。今晩は」

 ほぼ五日ぶりに会う香世子さんは、顔色は青白く、心なしか少し痩せたように思えた。口調こそは柔らかいが、疲れが滲んでいる。わずかに皺が寄ったグレイのパンツスーツを着ていて、香世子さん自身も帰宅したばかりなのだと気付き、約束もなしに来てしまったことを後悔した。

「あ、の、」

 言いたいことも、訊きたいことも、謝らねばならないことも、たくさんあった。本当にたくさん。どうしたの、美雪ちゃん? 香世子さんの声音が、うつむき黙り込んだ私の頭上をかすめて。

「……三回忌、お疲れさまでした」

 ようやく振り絞った言葉と共に、できうる限り丁寧に指先を伸ばし、腰を九十度に折った。

 すこしの間、玄関を静寂が支配する。不適切というか、失礼だったかもしれない。本来のお悔やみはもう二年も前に伝えてなくてはいけなくて、でもそれに代わる言葉を私は知らなくて、今はこれが精一杯で。たっぷり十秒以上経って、おそるおそる顔を上げると。

「いやあね、そんな、気を遣ってくれちゃって、」

 そこには目の縁をほんのりと赤く染め、泣き笑いをした大人の女性がいた。きっと多分、大人が普段は隠している、そんな表情を浮かべた。

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