第五話「魔法使い」

 アルは裸形らぎょうに相応しい獣の咆哮じみた叫び声を上げながら、丘を駆け下り、転がり落ち、半ば四つん這いになりながら走った。


 タンムースの村の柵が、炎に包まれた家並みが、ぐんぐん近付いてくる。そして、村から逃れるべく、血色のなめくじみたいに這いずる人影が。


「ア、アル……? ぶ、無事だった……のか……」


 アルを見上げ、そうあえいだのは、ベイマンだった。血色がよかったその顔は、今や青ざめている。大量の失血のためだ。両足はずたずたに裂けているばかりか、ところどころ千切れており、食べかけの骨付き肉みたいなものすごい有様だった。


「ベ、ベイマン、さん……し、しっかり! しっかりしてください!」


 アルはベイマンのそばにひざまずいたが、できることはなにもなかった。ただ、彼の手を取り、声をかけることくらいしか。


「に、逃げろ……きみだけでも……」


 ベイマンは、アルの手を握り返し――逆の手で、彼の露出した白い肩を掴んだ。その手には、振り絞られた死力とでも形容すべき力がこもっている一方、もう熱は感じられなかった。

 アルは白い目をきつく瞑った。それから、言った。


「……ありがとうございます。いえ……ありがとうございました。ぼくを、仲間として迎えてくれて……心配してくれて」


 そして、続けた。


「でも、ぼくはナーシアを助けなきゃ……」


 ベイマンのまぶたが、抗いがたいなんらかの反射によって、いっぱいに開いた。その目玉が、黒目が見えなくなるほどにぎょろついて、村のほうを確かめようとした。


「ナーシア……ナーシア、が……………………」


 それが、ベイマンの最期の言動だった。アルは目を伏せ、彼のまぶたをそっと閉じた。


「……すみません。あとでまた、必ず来ますから……」


 アルは死体に謝ると立ち上がり、皮肉にも火事によって未だかつてないほどに明るく見える村へと入った。


 タンムースの村は奇妙にも静まり返っていた。聞こえる音といえば、炎が舌鼓したづつみを打っているか、拍手でもしているかのような、パチパチという音や、なにかが焼け落ちて崩壊する音と、アルの息遣いと足音だけだ。争うような音も、悲鳴も聞こえない。


「ナーシア!」


 アルは、救うべき人の名を呼びながら、赤い村を彷徨った。行く先々で、村人だったものが――つい数時間前に、ともに笑顔で食卓を囲んだ人々だったものが、落ちたトマトみたいに潰れていた。アルは罪深さを覚えながらも、その中にナーシアを思わせるしるしのないことを願った。


「う……」


 彼の耳が、一つのうめき声を聞きつける。アルは、急いで駆けつけた。すると、広場のほうからアルのほうへと這い寄ってくる人影が見えた。


「た、助けて……助けてくれ!」


 見慣れない男だった。男はアルに気が付くと、上半身を起こし、すがるように手を伸ばした。


「え?」


 アルは呆けたような声をあげた。眼下の男がまとっている外套の胸部に、五芒星の刺繍ししゅうが見えたからだ。流星騎士の……


「アルさん!」


 広場のほうから、声が聞こえた。アルが探し求めていた声が。いつか聞いたような響きの。


「生きていたんですね……!」


 ナーシアだった。


 しかし、アルは我が目を疑った。なぜなら、溢れる喜びを隠さず、涙まじりの笑顔でそう言いながら駆けよってくるナーシアは――一糸まとわぬ裸身に、点描てんびょうめいた赤い刺青いれずみを入れていたからだ。


 アルが見間違いかと思って、まばたきを繰り返すたびに、ナーシアの姿は大きくなっていった。速いのだ。


 アルの目の前で、流星騎士が悲鳴をあげる。ナーシアを見て。


 その悲鳴は、すぐに途絶えた。ナーシアが、すらっとした柔らかそうな足で流星騎士の頭を踏み、地面に落ちている木の小枝を踏み折るような容易さで、彼の太い首の骨を折ったからだ。アルの目の前で。


「アルさん……よかった。生きていて……」


 ナーシアがアルに微笑み、その瑞々しくなめらかな両手を、アルの頬に添える。愛しげに。流星騎士の死体を足蹴にしたまま。


「私の手で殺すことができて……」


 赤い刺青と見えたのは、返り血だった。


「え?」


 アルが、半笑いで間の抜けた声をあげた時、彼の白い頬に赤がしぶいた。アルは自分の体を見おろした。なにも変化はない。アルはナーシアを見た。彼女の控えめな乳房のあいだから、真っ赤な矢尻が飛び出していた。ナーシアが前のめりに……


「え……ナーシア?」

「逃げろ!」


 絶叫が、夢現ゆめうつつにあるアルの体を打った。アルは弾かれたように、ナーシアの肩越しに絶叫の主を見た。足の負傷のため、焼け落ちた家の壁に身を預け、クロスボウへ新たな矢を装填する、フォッツ――今や、その狐目は見開かれている――を。


「逃げるんだ、アル! そいつはナーシアじゃない! そいつは」


 フォッツは、最後まで言い終えることができなかった。彼の足元から凄まじい速度で生えた杭に、股間から脳天までをモズのはやにえめいて串刺しにされ、口を開閉させることができなくなったからだ。永遠に。


「痛いじゃないですか……」


 ナーシアは立っていた。矢に、背を貫かれているのに。胸から、細い滝のように血を流しているのに。


「それに、私はナーシアですよ。ね? アルさん……んっ」


 ナーシアはアルに微笑みかけると、矢を抜こうと裸身をくねらせながら、右手を右肩の上下から背中に回したり、左手を左肩の上下から背中に回したりした。

 血でまだらに彩られたナーシアの裸身がうごめくさまは、不気味に官能的で……アルは目眩めくるめき、膝から崩れ落ちた。


「届きませんね……アルさん、抜いてくれませんか? ……なんて、その様子じゃ、無理そうですね」


 ナーシアは嘲笑あざわらうと、谷間とも呼べぬ胸のあいだから生えた矢尻を掴んで、背から刺さった矢を、胸から引き抜いた。あたたかな鮮血が噴き出し、アルの顔に降りかかったが、それは束の間のことだった。

 アルは見た。ナーシアの胸に開いた穴が――その淵が、無数のミミズのように蠢いて、絡まりあい、繋がって、穴を塞いでゆくさまを。


「ふう……痛かっ」


 ナーシアが、ほっとしたように胸を撫でおろした時、影が落ちた。見上げたナーシアを迎えたのは、騎士剣だった。

 ナーシアを見上げていたアルは、その悪夢じみた一部始終を目にすることになった。


 グランディエが屋根から飛び下りざま、騎士剣を振り下ろし、ナーシアの額を割り、鎖骨まで斬り下げたのだった。グランディエは着地に失敗し、地面を転がった。それもそのはずで、彼もまた、両足に獣に噛みつかれたかのような傷を負っていた。


「や、やったぞ! とったり! そうとも! 下賤げせんな封印騎士にできて、流星騎士の私にできないはずがないのだ! やったー!」


 グランディエは転がったまま、咳き込みながら、狂気のように凱歌の叫びをあげた。

 しかし、アルにはその叫びは空虚に響いた。なぜなら、ナーシアは――顔を両断され、途中まで裂いた干し肉のようになりながらも――立っていたからだ。そしてグランディエに振り向くと、左右に分かれた口の端を嘲罵ちょうばに歪めた。


「もはや流星騎士ではない、とか言ってませんでしたっけ? 魔法使いさん……」

「……そ、そんな……ば、バカな……」


 グランディエの騎士剣が地に落ちる音がした。


「本当、バカですよね……あなたは、最後に殺してあげようと思っていたのに。私をかたって、カブラッカの人たちを殺したお礼に……」


 あまつさえ、ナーシアは柘榴ざくろのように割れた顔もそのままに、グランディエへと歩きはじめたのだ。

 否、そのままではなかった。ナーシアの顔の断面の左右から、無数の細い肉が芽生え、伸び、手を繋ぐように……


「ば、化け物め……」

「それが最期の台詞ですか?」


 ナーシアはグランディエの前で立ち止まると、手の甲で顔を拭いながら、気怠けだるげに言った。その顔は元通りになっていたが、アルが見たことのない、想像さえもできなかったような表情をたたえていた。


「に、逃げられんぞ。ふ、封印騎士団が、必ずや、きさまを……」

「そういえば、そんなこと言ってましたね。急がなくっちゃ……」


 怯えきって蒼白なグランディエの顔に、抜け目のない表情が戻った。


「そ、そうであろう、そうであろう。急いで、逃げねばなるまい? だが、私を見逃してくれれば、きさまを容疑者から外すよう取り計らって……」

「急いでみんなを殺さなくっちゃ」

「は?」


 グランディエの体が、地中から現れた――現れたように見えた――鉄の箱の中に収まった。女性を戯画的に模したその箱には、扉が付いている。扉の内側には、無数の針が生えている。その扉が、轟音を立てて閉まった。くぐもった断末魔が漏れ、箱が揺れた。

 ナーシアは、耳の裏に手を添えて、浸るように目を閉じていた。やがて、箱の揺れが収まり、なにも聞こえなくなると、


「最期まで小賢こざかしい人でしたね……やり甲斐がありました」


 と、手向たむけに侮辱の言葉を吐いてから、アルのほうへ歩いてきた。鉄の箱が消え、蜂の巣になったグランディエの死体が転がった。


「きみは……きみは……?」


 アルは、膝をついたまま、うわ言のように繰り返した。目の前の少女に、否定してほしかった。ナーシアではないと。

 だが、少女は優しく、しかし無慈悲に名乗った。


「私はナーシアですよ、アルさん。また、忘れちゃったんですか? じゃあ、覚えなおしてくださいね。私はナーシアですよ……魔法使いのナーシアです」


 魔法使い。


「……う……嘘だ……」


 そう呟きながらも、アルの頭の中では、彼の数少ない記憶――それだけに、細部に至るまで明確な記憶――が、ナーシアの言葉に嘘はないと騒ぎ立てていた。ナーシアの「嘘じゃないですよ」という笑んだ声も遠い……


 誰が盗賊たちを殺したのか? あの場所に盗賊たちがいることを知っていたのは……

 グランディエの凶刃からアルを救ってくれた時、ナーシアは明かりを持っていなかった。あの暗闇の中、どうやってアルを見いだしたのか? 流星騎士は、手元にある文書を読むことにも苦労していたし、村人たちも、声を頼りに近付いてきたというのに……

 ナーシアがテオンに物々交換に行った日、月の昇りはじめる頃、テオンは魔法使いによって滅ぼされた。アルがナーシアと会ったのも、同じくらいの刻限だったが――魔法使いは馬の足を持つのではなかったか? テオンを滅ぼし、月が昇りきる前にタンムースに戻ってくることも……

 アルが魔獣の背に乗っていた時、魔獣は急に足を止めた。なぜ、足を止めたのか? 突き刺さった矢のためではない。魔獣は臀部を射られても、微動だにしなかったではないか。あの時、魔獣の前にはナーシアがいた。魔獣はナーシアを――魔法使いを目の前にして、止まったのではないか? 獣の本能で……

 カブラッカの村へ向かって駆けるナーシアを追いかけた時、アルは彼女が止まるまで、追いつくことができなかった。アルは村人を置き去りにするほどに、足が速かったのに……

 そして、ナーシアは「アルは魔法使いではない」と断言した……その意味を?


「なんで……」


 アルは、ナーシアを見上げてあえいだ。


「なんで? 服のことですか? 返り血がついたら嫌だから、脱いだだけですよ……安心してください。乱暴はされてませんから……っていうか、アルさん、どうして裸なんですか?」

「それとも、なんでカブラッカの村で流星騎士たちを殺さなかったのか、ですか? だって、歩くより、彼らの馬に乗せてもらったほうが楽に帰れるじゃないですか。私、馬、乗れないんですよね」

「違いますか? じゃあ、なんで盗賊たちに追われていた時、彼らを殺さなかったのか、ですか? 森の奥で、服を脱がしてもらってから――ちょっと、楽しんでから――殺そうと思ってたんですよね。誰かに見られたら困りますし、服に返り血がついたら嫌ですから……」

「違う!」


 アルは叫んだ。ナーシアはきょとんとしている。アルは尚も叫んだ。喉の奥から、血の味がした。


「なんで……なんで、みんなを……! ぼくのことも、みんなのことも、守ってくれたじゃないか! 誰かが殺されるのも、死んでしまうのも、嫌だって……! 大切なものを、失くしたって!」


 ナーシアはおかしそうに笑った。


「嫌ですよ?」

「じゃ、じゃあ……!」


 アルはこの期に及んで、我ながら愚かしいと思いながらも、一縷いちるの希望を持った。ナーシアには、なにかやむを得ない事情があるに違いない、と。果たして、事情はあった。


「私が殺す前に死なれるのは」

「…………は?」


 ナーシアはアルを凝視ぎょうししながら、くすくす笑った。自分がなにか言うたびに変化するアルの表情が、おかしくてたまらないといった様子だ。そして、言った。


「だって、私が殺したい相手かもしれませんから……アルさん、あなたもね……」


 肉食獣のあぎとが閉じるような音がした。アルの下から。


 アルが不思議そうに見おろすと、彼の腰から下が、不吉な褐色の染みだらけの、穢らわしい巨大なトラバサミに挟まれていた。ぞろりと並んだ牙めいた鉄が白い肌を破り、真っ赤な肉に食い込んでいた。


「ああああ……!?」


 血と痛みがほとばしった。アルはイモムシみたいに身をよじりながら、たまぎる声をあげたが、それが痛みによるものか、それとも、ナーシアの所業によるものかは、自分でもわからなかった。


「大切なものも失くしました」


 ナーシアの声が降る。


「アルさんと同じですよ……」


 次の瞬間、アルの涙ににじむ視界いっぱいに、長い睫毛まつげ黒瞳こくどうかげらせる、物憂げなナーシアの顔があった。ナーシアがしゃがみ、アルの顔を両手で掴んで、引き寄せたのだ。いつかのように――ものすごい力だった。


「お、同じ……?」

「私、憶えてないんですよね。誰を殺したいと願って、魔法使いになったのか……どうして、殺したいと願ったのか。せっかく魔法使いになって、誰でも殺せるようになったのに。酷いですよね?」


 ナーシアは小首を傾げながら、甘えるような声を出した。

 あの夜に、ナーシアが口にした「同じだから」という言葉は、記憶がないという意味だったのだ。アルは、今はじめて気が付いた。もっとも、あの夜に気が付いていたとして、なんになろう……


 それにしても、なんと酷い話だろう。ナーシアは自他をあざけって言ったのだろうが、アルは、本当に酷い話だと思った。魔法使いという化け物になってまで、殺したい相手がいたというのに、その相手も動機も憶えていないとは……すると、ナーシアは自暴自棄になっているだけなのだろうか? 狂いかけているだけなのでは?


 アルは息も絶え絶えに訴えた。


「そ、それなら……だ、誰を殺していいかも、どうして殺したいかも、憶えていないのなら……も、もう、全部忘れようよ。魔法使いであることも。一緒に逃げよう。逃げて、どこかで静かに……」


 ナーシアは笑顔になった。


「だから、みんな殺すことにしたんです」

「……は?」

「みんな殺せば、その中に、私が殺したかった人もいるはずでしょう?」


 アルの視界の端で、宿屋が焼け落ちて、ばらばらになり、ただの瓦礫の山になった。ナーシアと手を繋ぎながら眠った部屋が。アルは、ナーシアとの思い出が壊れたような気がした。いや、アルの知るナーシアという少女が。


「アルさんって、本当にいい人ですよね? 私を助けてくれましたし、怒らないし、優しいし……私が震えていると、安心させようとしてくれましたよね――あれ、笑いをこらえていただけだったんですけど――誘っても、私を犯さなかったし……勇気もあるし……純粋ですし。記憶を失う前も、いい人だったんでしょうか?」


 ナーシアは、アルの頬を愛撫あいぶしながら言った。家畜でも撫でるように。


 違うんだ。もしぼくがいい人なら、それはきみのおかげなんだ。ぼくは、きみのおかげで「ぼく」になったんだ……


 アルの思いは、声にはならなかった。泣きわめく子供みたいに、息が詰まってしまっていた。

 ナーシアが立ち上がる。すると、アルの両足に食い込んでいた化け物じみたトラバサミがひとりでに開き、地中に溶けるように消えた。


「ちょっと待っていてくださいね、アルさん。あなたとは、もう少しお話をしたいから……あなたの嫌なところ、見つけたいから。どうせ殺すなら、理由っていうか、殺し甲斐があったほうが楽しいと思うんです――下品なところが嫌だ、とか。ね? リンド」

「ひっ……!」


 ナーシアが振り返った先――瓦礫の陰で、悲鳴があがった。リンドの声だった。

 ナーシアが、やっぱり、とでもジェスチャーするように胸の前で手を組むと、地表より、水平にされた鉄のおうぎのごとき物体が浮かび上がってきた。それは、手押し車の荷台にたくさんの銃身を放射状に並べた兵器で、想像上の怪物じみた怒号とともにたくさんの銃弾を吐き出すと、それで以って瓦礫を吹き飛ばした。そして、大地に吸い込まれるように消えた。


 粉塵ふんじんが晴れると、その向こうには、ベイマンや、フォッツや、アルと同じように、両足を傷つけられ、尻餅をついたリンドがいた。その鼻の先からは、朝露みたいに、絶えず冷や汗と脂汗の混合物が流れ落ちている。


「時々、私のこと、いやらしい目で見てたよね? お姉ちゃんを犯したかったの?」


 ナーシアが歩いていく。リンドが首を振りながら、後ろへいざる。


「願いを叶えてあげようか? 魔法使いみたいに……お姉ちゃん、魔法使いだから。ふふ」


 アルから遠ざかっていく。リンドに近付いていく。


「犯したあと、その粗末なものをじ切って殺してあげる。きっと、気持ちいいと思うの。みんな、気持ちよさそうな死に顔だったから……」


 アルは、目玉を抉り出し、鼓膜を貫きたいと思った。ナーシアの――魔法使いの一挙手一投足が、一言一句が、呪いの儀式めいて「ナーシア」を、思い出をけがしていくように思われた。どうせ、殺されるんだ。死の瞬間まで、目を閉ざし、耳を塞ぎ、思い出にふけったっていいじゃあないか……そうとすら思われた。

 だからアルは、自分の脇腹に手を伸ばし……


「たっ、たたっ、助けて! 助けて、アルの兄ちゃん!」


 リンドが、狂気のように叫んだ。ナーシアが、細い裸身を弓なりにして笑った。


 その時、ナーシアのうなじから頬を、一条の黒い風が撫でた。風は、彼女の珠のような頬に、朱の線を残して落ちた。


 音が絶える。


「……矢?」


 ナーシアが、目をぱちくりさせながら、落ちたものを見おろす。それは、半ば焼け焦げた矢だった。ナーシアは指先で頬に触れた。ぬるりとした、馴染み深い感触。指先をひるがえす。赤い。しめやかに振り向けば……


「アルさん?」


 その先に、アルが立っていた。しくも、魔獣を引きつけた時のナーシア同様、なにかを投げ終えたような体勢で。当然、矢を投げたのだ。自分の脇腹に突き刺さっていた矢を。自分の目玉を抉り、鼓膜を貫くために抜いた矢を。


「……やめるんだ……」

「は?」

「やめるんだ」


 アルは二度言った。


「きみに……きみに教わったことを、穢しはしない」

「は?」


 目の前に魔法使いがいる。恩人の一人を殺そうとしている。その現実から逃げて、思い出と座して死を待つのか?

 否。それこそ、思い出を穢すことに他ならぬ! 思い出がつちかったアルという人格の侮辱に他ならぬ!

 今こそ、良心と勇気を見せるべき時だ。ナーシアが気付かせてくれた、記憶を失って尚残れる良心と、ナーシアが身を挺して教えてくれた勇気を!


 アルには、もはや恐怖はなかった。目の前の魔法使いに対し、なにができるかはわからないが、なにもしないのは嫌だった。


 やがて、魔法使いは苦笑した。


「狂ったんですか? その格好にはお似合い……」


 魔法使いの表情が凍りついた。


 だが、動きは素早かった。アルがいぶかに、魔法使いは胸の前で期待するように手を組んだ。またたく間に、地面からイーゼルのようなものに乗った巨大なクロスボウ――バリスタが生え、アル目掛けて、尖った丸太のごとき極太の矢を吐き出した。

 アルに、避ける暇などなかった。矢はアルの腹を貫きながら、彼を吹っ飛ばした。アルはボールみたいにてんてんと転がってから、仰向けに倒れた状態で止まった。


 もうやられたのか? なんたる呆気なさ……でも……


 アルはなにか喋ろうとした。水気をはらんだ音が漏れた。それでいいと思った。魔法使いは、もう少しアルと話をしたい、と言っていた。息があることが分かれば、近付いてくるかもしれない。そのあいだに、リンドは逃げおおせるかもしれない……


 果たして、霞む視界の中に、駆け寄ってくる魔法使いが見えた。魔法使いはアルを見おろすと、感極まったように叫んだ。


「……やっぱり! はじめて会った!」


 アルがその言葉の意味を解釈しようとする前に、魔法使いは言った。


「あなたも、魔法使いだったんですね!」

「…………は?」


 ぼくが魔法使い? こいつは、なにを言っているんだ? 魔法使いは狂っている、というのは本当だったのか……


 アルがこんなことを考えているあいだに、魔法使いは彼の前で、裸身をエビみたいに折り曲げ、腹を抱えて笑っていた。


「もっと早く気が付きましょうよ! 私も、アルさんも! おかしいとは思ってたんですよ、森じゃ息はなかったし、カブラッカでも、急所を射たれたはずなのに……さっきだって、急に立ち上がるし!」


 ついには、魔法使いはしゃがみこみ、笑いすぎのあまり涙さえ浮かべながら、倒れたままのアルの肩を叩いたり、揺さぶったりしはじめた。


「なにを、バカな……ぼくは、魔法使いなんかじゃ……ぼくは、人間……」


 アルはうめいた。今度は声が出た。アルが、その事実が意味することに気が付きそうになった時、


「まだ、そんなことを言ってるんですか! 見なさい!」


 魔法使いが彼の白い前髪を乱暴に掴み、無理矢理上半身を起こさせた。その時、アルは、見た。


「う……」


 白い腹に開いた赤い風穴のふちというふちから、イソギンチャクみたいに赤黒い肉の触手が伸び、意思を有するよう蠢いては、破けた服を縫い合わせるかのごとく、傷を塞ごうと……


「うわあああああああああああ!?」

「あはははは! ほら! こんな人間、いるわけないでしょう! アルさん! 思い出しましたか? あなたは魔法使いなんですよ……私と同じ! 運命ですかね? あはははははははははははは!」

「う、うぉえっ……!」

「やだ、汚い! あはははは!」


 魔法使いはアルを放り投げた。アルは涙と吐瀉物としゃぶつからなる放物線を宙に描きながら飛び、地面に叩きつけられたが、彼はそのあいだも、腹の肉が蠢いていることを実感したし、墜落後は、手の擦り傷が、白く塗装されるように治っていくのを目の当たりにした。


 どこかでまた、なにかが崩れ落ちる音がしたような気がした。アルがえづきながら見上げれば、もはやそこに村の痕跡はなかった。ただ、焼け野原があった。


 くれないに染まった、遠く炎の海じみた丘陵きゅうりょうを背負い、魔法使いが歩いてくる。


「アルさん、あなたも見たんでしょう? 夢を!」

「夢に出てきたんでしょう!? 神様が!」

「願いを叶えてやる、って! 魔法使いにしてやる、って! 大切なものと引き換えに、って! あのクソ野郎!」

「……どうして黙っているんですか? ねえ、アルさん……さすがに、思い出したでしょう?」


 アルは――強姦に遭った生娘みたいに、座り込んだまま、震えながら首を振った。

 なにも思い出せていないのだ。

 自分が魔法使いであることは思い知らされた。

 だが、記憶は戻ってはこなかった。


 魔法使いは油断のない距離で立ち止まると、肩を竦めて首を振った。それから、ジェスチャーとは裏腹に、年相応にわくわくした様子で言った。


「まったく、手のかかる人ですね! それじゃあ、魔法、使ってみてくださいよ。魔法! 魔法使いなんだから使えるでしょう? そうすれば、今度こそ思い出すんじゃないですか?」


 暗闇じみたアルの思考に、稲妻めいた閃きが走った。


 そうだ、ぼくは魔法使いなんだ。ナーシアと同じ魔法使いなんだ。

 魔法だ。魔法を使うんだ! 魔法を使って、みんなの仇を取るんだ! リンドを助けるんだ!

 魔法使いめ、笑っていられるのも今のうちだぞ……今こそ、報いを受けるべき時だ!


 アルは立ち上がった。

 アルは右手をかざした。

 アルは左手も翳した。

 アルは、祈りめいて手を組んだ――魔法使いと同じように。


 魔法使いは油断ならない獣のように、あたりを見回した。

 なにも起こってはいなかった。


「……ちょっと、アルさん? なにをやってるんですか? さっさと魔法、使ってくださいよ。時間稼ぎのつもりですか? なんなら、先にリンドを殺してきましょうか?」

「……ない」

「なに? なんですか? 聞こえなーい」


 魔法使いが、耳の裏に手を添わせたり、耳たぶを引っ張ってみせたりしながら、猫撫で声で問いただす。アルは恥辱と絶望に耐えかねて、組んだ手を地に叩きつけざま、叫んだ。


「わからないんだ! 憶えてないんだよ! 魔法も! 魔法の使い方も……!」


 自分が魔法使いであることは思い知らされた。

 だが、記憶は戻ってこなかった。魔法の使い方は愚か、魔法そのものについてさえ……


 魔法使いは、黒瞳をぱちくりさせた。そして、わななきながら薄桃の唇に手を当てて……


「……ぷっ! あはははははははははははは! あはははは! あーっはっはっはっはっはっはっはっはっ……!」


 哄笑こうしょうしはじめた。ひきつけを起こしたかのように、せわしなく、背を反らしたり、イモムシみたいに丸めたりしながら。魔法使いは、その乱痴気ぶりに戦慄するアルを指差すと、


「な、なんて……なんて哀れなの!? アルさん、あなたの大切なものって……あなた、すべての記憶と引き換えに魔法使いになったんですね!? なにも思い出せないはずだわ!」

「アルさん、あなたももう、わかってるんじゃないですか? 記憶は絶対に戻らない、って!」

「それにしても、本当に哀れ! 魔法使いになった意味、ないじゃないですか! なり損ですよ! あはははははははは!」


 記憶は絶対に戻らない。

 その言葉が、アルの頭の中を蚊柱のように飛びかった。アルはその言葉を否定したかった。しかし、不思議と、事実として受け入れられるような心地がするのだ。なんの根拠もないのに……

 アルはふたたび、膝をついた。


「ふふふ……かわいそ」


 魔法使いは、まなじりに浮かんだ滴を細い指の背で拭き取りながら、かろうじて口にすると、


「でも、ちょっと、だるくなってきましたね」


 と、息をつきながら言い、身を翻した。


「アルさんは、そこでめそめそしていてください。リンドを殺してきますから……そのあとで、しつけてあげますね」

「躾け……?」


 ぼんやりと問うアルに、魔法使いは振り向いて、


「はい。だって、アルさん、殺せないじゃないですか。だから、私のペットにしてあげます――気持ちいいことも、してあげますよ。寂しかったから、ちょうどよかった! 一緒に世界中の人たちを殺して回りましょうね」


 と、嬉しそうに笑った。そして、リンドを殺しに行こうとした。


「……嫌だ」

「えっ?」


 魔法使いはもう一度振り返った。その拒絶に、沸騰した鍋の蓋の揺れるような響きを感じて。

 アルが立ち上がっていた。両足の傷は言うに及ばず、腹に開いた大穴も塞がっている。その両手は、今にも泣き出しそうな子供のように硬く握りしめられている。魔法使いはそれらを細めた目で見ながら、言った。


「今、なんて?」

「嫌だ、って言ったんだ……当たり前だろ……」


 魔法使いがアルに完全に向き直る。赤黒い三つ編みが揺れる。


「へえ……嫌だったら、どうするんです? 逃げるんですか?」

「きみを止める」


 アルの白い瞳に炎が宿ったように見えたのは、幻覚ではない。未だ消えやらぬ、村を焦がす炎が映ったまでのことだ。なにが変わったわけでもない――魔法使いはそう思うだに、片腹痛さに耐えかねて、


「なに、調子に乗ってるんですか? 魔法の使えない魔法使いが……殺せなくたって、やりようはいくらでもあるんですよ?」


 と冷笑すると、汁気たっぷりの果実みたいな舌で、ぺろりと口の端をぬぐった。魔法使いの口の中に、鉄臭い味が広がった。


「……?」


 魔法使いは指先で頬に触れた。ぬるりとした、馴染み深い感触。指先を翻す。赤い。未だ。


「どうして……」


 治っていない?


 魔法使いの黒い瞳と、アルの白い瞳が合った。

 次の瞬間、魔法使いは願うように手を組んでいた。アルは駆け出していた。

 魔法使いの前に、扇状に何台もの攻城用投石機が召喚される。いずれの投石機も、スプーンめいたてこの一端に巨岩を乗せている。そしてどれも、ひとりでに巨岩を発射した。アル目掛け、低い軌道で。


 アルは、一つ目の投石を斜め前方に飛んでかわす。かわされた巨岩が地を砕き、転がる。

 飛んだ先にも巨岩が落ちてくる。アルはあえて着地に失敗し、ごろごろと転がってかわす。かわされた巨岩が地を砕き、バウンドする。

 転がった先にも巨岩が落ちてくる。アルは片膝立つや、バックステップしてかわす。かわされた巨岩が地を砕き、埋まる。

 バックステップした先にも巨岩が落ちてくる。アルはあえて後ろに倒れ、そのままバク転してかわす。かわされた巨岩が地を砕き、横倒しになる。

 バク転した先にも……


「どこへ行くんですか!? アルさん! 私を止めるんじゃなかったんですか!? あはははは!」


 そのあいだにも、魔法使いは次々と新たな投石機を召喚しては、雨霰のごとく巨岩を投じさせている。


 そして、ついにその時は訪れた。後転で投石を回避したアルの背に、触れるものがあったのだ。それはアルが数瞬前に回避した巨岩だった。見回せば、アルはこれまでにかわした巨岩からなる壁に、全周を囲まれていた。見上げれば、影が落ちる。消え損ねた流れ星の群れのような、無数の巨岩の影が。


 アルはひび割れ、でこぼこにされた大地に身を投げ出したが、遅かった。魔法使いは、闇を物ともしない魔法使いの目で、囲いのあわいから見た。巨岩の一つが、アルの白い足を押し潰し、赤く彩るのを。

 そのあとのことは、彼女にも見えなかった。巨岩が次々と降り注ぎ、積み重なって、山のようになったからだ。


 すべての投石機が、亀裂の淵に潜るように消失する頃、魔法使いは組んでいた手を解いた。そして墓標か、あるいは太古の昔に作られた環状列石めいた巨岩の山を眺め――その隙間から、助けを求めるかのように生えた、変な方向に折れ曲がった足を見ると、呟いた。


「さようなら、アルさん……なんて、死んじゃいませんよね、魔法使いなんだから。でも、動けないでしょう? 安心してください、リンドを殺したら、掘り出してあげますから……頭だけ。それから、言うことを聞くようになるまで、調教してあげます。楽しみにしててくださ――」


 その時、魔法使いの足元の土が、盛り上がる間もなくぜた。反射的に見おろした魔法使いの黒瞳に映ったのは、血と泥に塗れた手だった。爪という爪がはがれ、血の滲んだ五指が魔法使いの細い足首を掴み……


「――――――!?」


 カエルのように握り潰した。魔法使いは片足の支えを失い、転んだ。裸身に擦り傷が生まれたが、その衝撃や痛みを以ってしても、魔法使いは声をあげることができなかった――驚愕のあまり。


 地面から生えた手は、枝ごと絞りきった赤葡萄みたいな有様になった魔法使いの足首から手を離すと、震えながら、五指を地に鉤爪のように突き立て――未だ地中にある腕から先を、地上へと引き上げ始めた。

 魔法使いは、擦り傷が再生をはじめたことを告げる泡立つような音を聞く傍ら、血の滴る音がするばかりの足首を見て――それから、肩口まで露わになった、地中に潜んでいた者を見て、愕然とした声を漏らした。


「……ア、アル……さん……? どうして……」


 埋葬直後に墓地から蘇ったかのような姿のアルが、魔法使いの目の前を這っていた。下半身は、ちぎれてなくなっていたから――もっとも、それも今だけのことであるようだった。血肉からなる忌まわしき樹木が根を伸ばすかのように、アルの下半身の断面からは、新たな下半身を形成するための肉の繊維が伸びはじめていた。


「魔法使いだからだろうさ……」


 アルは自嘲気味に言った。盗賊たちと遭った時の、魔獣を殺した時の己の身のこなしを思い出しながら。そういうことだったのだ。


 彼は今しがた、投石で下半身を潰されるや、トカゲの尻尾きりのようにこれをちぎって捨てた。そして、投石が地面に走らせた無数のひびを素手で広げ、地に潜って生き埋めの運命を逃れると、モグラめいて掘り進み、魔法使いを地中から急襲したのだった。

 まさに、鷹の目を持ち、蝙蝠こうもりの耳を持ち、犬の鼻を持ち、熊の腕を持ち、馬の足を持つ化け物――魔法使いの体のなせる業……


 アルは魔法使いの頬と足首を――未だ、治る兆しのない傷痕を見てから、自分の血塗れの手を見た。手は、震えていた。


「これが、ぼくの魔法か……」


 アルは今や、自分の魔法をはっきりと自覚していた――「魔法使いを殺す魔法」を。


 アルは立ち上がり――両足は、すでに生えていた――目の前の魔法使いを見おろした。魔法使いは……


「あ、ああっ……す、凄い……っ……」


 魔法使いは、痛みに歪んだ顔に、しかし謎めいた喜色を宿していた。そして、あえぎながら言いつのりはじめた。


「凄いわ! 魔法使いを殺せるなんて! アルさん、私と手を組みましょう? 私、困っていたんです。もし、私が殺したい相手が魔法使いだったら、どうしようって……でも、アルさんがいれば、魔法使いだって殺せるわ!」

「アルさんも、魔法使いを殺したいから、魔法使いになったんでしょう? 殺したい魔法使いの記憶を奪われたんでしょう? ううん、そうに違いないわ! ああ、私たち、こんなところまで同じだなんて! 運命だわ!」

「ね? アルさん……露払いは、私がするから。アルさんは、魔法使いを殺すだけでいいから。アルさん一人じゃ、魔法使いに手下の人間がいたら、大変でしょう? 封印騎士団からだって、逃げられやしないわ。でも、私がいれば大丈夫……助け合って、奪われた願いを叶えましょう? 二人で、人間と魔法使いを皆殺しにするの……この世に二人きりになったら、私を殺したっていいから……ね?」


 アルは――もはや、駄々っ子めいて首を振ることしかできなかった。だが、魔法使いが、


「……なぜ?」


 と心底不思議そうに、童子のように尋ねるものだから、ついには震える声で言った。


「きみは……きみは、なんて哀れなんだ。どうして、わからないんだ? たった一日だったけれど、村のみんなは、ぼくにとてもよくしてくれて……そのみんなを殺されて、ぼくがどんな思いでいるか。そんな思いを、どうして他の人にさせられる? 魔法使いになったからじゃない……きみは、魔法使いになってから、大切なものを失くしてしまったんだ。殺したい人間の記憶なんかより、ずっと大切な……」


 魔法使いは――怪訝な顔をした。


 アルは俯くと、背中に突き刺さったままの、半ばで折れた矢を引き抜いた。魔法使いは後ろにいざった。


「な……なんの真似? わ、私は……私は、ナーシアですよ? あなたに助けられ、あなたを助けた、ナーシアです……その私を、殺すつもりですか?」


 アルは、無言で一歩詰め寄った。魔法使いの顔が、未だそこらでくすぶる火に照らされて尚、青ざめる。そして魔法使いは、いつかのように震えはじめると、さらに後ろにいざった。


「や、やめて……殺さないで。嫌……死にたくない……」


 アルは止まった。続きをうながすかのように。ナーシアは黒瞳いっぱいに涙を浮かべ、形のよい唇を震わせながら、懇願した。そして、続きを口にした。


「死んだら、もう誰も、殺せなくなっちゃう……」


 アルは――息を吐くと、さらに一歩、詰め寄った。魔法使いは童女のように泣きながら、アルを見上げる。


「お願い、アルさん……やめて」


 そして、ナーシアは流れる涙もそのままに微笑み、


「私の体、好きにしてもいいですから……」


 淫靡いんびに股を開いた。


「……じゃあ、早速、好きにさせてもらうよ」


 アルは虚無的にそう答えると、ぱっと顔を明るくさせた魔法使いの胸に、焼け焦げた矢を深々と突き立てた。



 それから、どれくらいの時間が経ったことだろう。夜は明けつつあったが、いつからか、しめやかに降りはじめた雨のため、地は未だ薄暗かった。

 アルは膝をつき、目の前のぬかるみを呆然と見おろしていた。雨に打たれ、せせら笑うように揺れる、黒ずんだ矢を。


 アルは、ナーシアの亡骸を手厚く葬りたいと思っていた。

 しかし、彼女の体は物言わぬ肉となるや、ぐずぐずに溶けて悪臭放つか黒い液体と化し、抱き起こそうとしたアルの白い手のあいだを抜け、地に染み込んでしまったのだった。骨も残らなかった。アルの手に付着した液体も、アルが見おろす頃には気化していて、痕も臭いも失せていた。


 すべて、悪い夢だったのか? ――アルはそのように思うたび、消えない矢と、消えたままのタンムースの村に、すべては現実だと打ちのめされた。


 水たまりに、自分の裸身が映る。白い髪、白い肌、白い瞳――矢傷や火傷や擦り傷を負ったはずの肌は、無のごとく漂白されていた。


 音がした。


 アルは病人みたいに、ゆっくりとそちらを見た。崩れた瓦礫の向こうから、リンドが覗いていた。


「リ、ン、ド……」


 数年ぶりに口を利いたかのような、かすれた声が漏れた。


「生きていて、くれたんだね……」


 アルは立ち上がろうとしたが、足が痺れてしまっていたため、泥濘でいねいに無様に転がることになった。泥水が弾ける音がした。


「うっ……ははは、情けない……。……?」


 顔を上げたアルは、違和感を覚えた。心なしか、リンドがさっきより遠くに見えるような気がしたのだ。しかし、気のせいだろうと思い、立ち上がると、彼のほうへと歩きながら、努めて優しく、労るように――できていたかどうかは、別として――話しかけた。


「行こう、リンド……近くの村まで……きみの足の怪我を、手当てしなくっちゃあ……」

「ひっ……」


 気のせいではなかった。リンドは、尻餅をついたまま、アルから離れるように後ずさった。


「リンド……?」

「く、来るな!」

「え?」


 アルは足を止めた。


「来るな、化け物……魔法使い!」


 その悲鳴は、アルの思考をも止めた。アルは目眩めまいを覚えた。世界が回転し、明滅した。明るさがアルを白く嘲った。



 気が付くと、穢らわしい水をたらふく吸った、綿の怪物のような雨雲が見えた。どうやら、アルは仰向けに倒れているようだった。身を起こす。


 リンドの姿は、もう見えなかった。ただ、泥濘になにかが這ったような跡があった。アルから遠ざかるように。どこまでも。


 アルは、舌を噛み切ってみた。


 一度では舌が傷付いただけだったので、錆びた鋸を扱うように、何度もがちがちと歯を噛み合わせたり、左右に擦り合わせたりして、舌を切断した。びちゃっ、と舌の切れ端が泥に落ちたと見るや、口から赤い血が滝のごとく流れ落ち、泥水と色彩を巡るせめぎ合いをはじめた。


 だが、それも束の間のことだった。


 気が付けば出血は止まっていて、口の中には、別の生き物じみてうねうねと蠢く、新たな舌が生えていた。

 アルは無感情に笑った。そして、幽霊めいて緩慢に立ち上がると、なにかが這ったような跡の反対方向へと歩き出した。


 陰鬱にそぼ降る雨の中、アルは裸のまま、あてどなく丘陵を歩く。とぼとぼと下を向いて歩きながら、ぼんやりと取りとめなく思いを巡らせる。


 どうやら、自分を殺すことはできないらしい。ぼくだって、魔法使いなのにな。つくづく、ふざけた話だ。ナーシアは「なり損」と嘲ったけれど、そのとおりだ……ぼくも、彼女も。


 これからどうする。


 ぼくは魔法使いだ。もう、人間とともに暮らすことはできないだろう。


 失われた記憶を探し求めるか? 無駄な努力かもしれない。魔法と引き換えに奪われたのだから。努力で記憶が戻るのなら、ナーシアもああはならなかったんじゃあないか?


 今ならわかる気がする。どうして、ぼくが真っ白なのか。どうして、盗賊に「一度見たら、忘れたくても忘れられねえツラをしていやがるぜ」と言われたのか。どうして、裸だったのか。


 きっと、魔法使いになる前の「ぼく」の面影は、白く塗り替えられてしまったんだ。髪も、目も、ほくろも、痣も……顔の形さえも。

 一度見たら、忘れられない顔――それでも、ぼくの顔を憶えている人はいないような気がする。きっと、誰も今の顔を、一度として見たことはないだろうから……

 服を身につけていなかったのも、服から素性を追えないようにするためだろう。周到なことだ。でも、胃の中まで空っぽにしたのはやりすぎじゃないか?


 魔法使いになる前の「ぼく」を知っている人は――いると思いたいけれど……「ぼく」を教えてほしいけれど! 「ぼく」がどんな人間で……どうして、魔法使いなんかになりたいと願ったのか、教えてほしいけれど……! ――いたとしても、「ぼく」だと気付いてくれないような気がする……


 ……じゃあ、魔法使いを殺して回るか? ナーシアのように? ……そんな真似は、まっぴらごめんだ! 魔法使いにだって、幸せに暮らしている人はいるはずだ……


 アルは、不意に立ち止まった。それまで、自然と視界に入っては出ていった水たまりには、彼の沈思黙考を大勢で嘲笑うかのように、無数の波紋が浮かんでは消えていっていたのだが、それが途絶えたからだ。

 アルは顔を上げた。雨は止んでいたが、アルは他の事実に気を取られていた。そこは、つい昨日、ナーシアと談笑しながら歩いた場所だった。


「ナーシア……」


 アルは顔を覆った。嫌でも思い出されてしまうのは、そもそも有する記憶が少ないからか? それとも……


『だって、これから毎日、一緒なんですよ? その調子じゃ、なんでも思い出になっちゃいますよ』

『幸せな毎日が待っているってこと!』


よみがえたえなる調べ……


「これから……」


 アルは呟きながら、両手を下ろした。見晴るかされる丘陵地帯の彼方に、分厚い雲間を縫って差す暁の光が、きざはしめいて連なっていた。遠く、遥かな地平へ誘うように。


「幸せ……」


 アルは振り返った。足跡は雨で消えていた。


「……魔法使いにだって……」


 アルは歩きはじめた。光に引き寄せられる蛾のようにふらふらと、しかし前を向いて。


「幸せに暮らしている人は、いるはずだ……きっと……」


 足取りはたしかに。行くあてはなけれども。時間はいくらでもある。


「ぼくも、幸せになってやる……幸せになるんだ……これから……」


 哀れなる魔法使いの定めに抗うべく。

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まままま 不二本キヨナリ @MASTER_KIYON

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