終章 海羊の海

「水菜ちゃーん。飯ー。」

「はーい。今、行きまーす。」

 水菜は川原に呼ばれると、手にしていたバケツを傍らに置いて、長靴のままばたばたと駆け出した。

 結局、水菜の国は戦争に負けた。水菜が敵の本国に送られる間もなく戦争は終わり、モゼドラクのクルー達と別れの握手を交わして帰国したのだ。

 捕虜が自分を捉えた艦の人間と握手して別れるなど奇妙な話だったが、水菜は重爆雷の爆発の後、どさくさに紛れたまま艦内をうろうろするようになり、クルー達と仲良くなっていた。小柄な異国の娘を、クルー達は妹みたいに可愛がった。

 重爆雷はその後、新兵器として実戦使用されることはなく、これは恐らく二弾、三弾を生産する余裕がなかったのだろうが、敵の圧倒的物量の前に、全面降伏を余儀なくされた。莫大な賠償金と多くの死者を出したこの戦争の終結に、国民は台風が過ぎ去った後のごとく、ひとつの辛苦の終わりと、雲一つない青空のような、あらたな時代の始まりをその肌で感じていた。

 鯨類の軍事利用を目的とした研究組織は解体され、確立された鯨、イルカとのコミュニケーション技術の多くは、敵国の研究機関に吸収された。しばらく閉鎖されていた設備その他はやがて、大学の海洋研究所として供され、水菜や川原、そして腰水までもが、研究所に戻っていた。

 鯨用のプールの間を走っていると、水菜は研究所のゲートのところに、小さな人影が立っているのに気づいた。漁師みたいな守衛のおじさんに、ちょうどゲートを通されているところだ。

 白いワンピースに麦わら帽子という出で立ちをした若い女の子なんて、ここでは見慣れないものだから、水菜が立ち止まって見ていると、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。足が不自由みたいで、片足を少し引きずるような歩き方をしている。

「あの・・。」

 そう言って水菜に話しかけるその顔の笑みは、まぶしいくらいに明るかった。

「腰水はどこにおりますでしょうか。」

「腰水? 腰水さんなら、下にいると思いますけど・・。」

 腰水の身内だろうか。一瞬、奥さんかと思ったが、腰水は独身だ。水菜は、はっ、と思い当たった。

「もしかして、腰水さんの妹さん・・?」

「はい。腰水佐奈(こしみずさな)と申します。」

 そう言って、佐奈はぺこりとお辞儀をした。家族の話などほとんどしない腰水の身内が、今、目の前にいるのが水菜には不思議だった。何より、腰水の妹は事故で歩けなくなったんじゃ・・。

 水菜は礼に失することも忘れて、思わず佐奈の足を見つめてしまった。

「あの・・、垂木さん、でいらっしゃいますか?」

「え? あ、そうですけど、なんで私の名前を・・。」

「兄からよく話を聞いていたものですから。」

「そうでしたか。や、やっぱり、悪口的なことですかね。」

「いいえ。いっつも学ぶところがある、感心するって、申してしますよ。」

「か、感心・・?」

 陰で褒めるくらいなら、たまには面と向かって褒めて欲しいと思った水菜だが、正面きって腰水に褒められるのも、それはそれで不気味かと思い直した。

 水菜は気を取り直すと、佐奈に言った。

「あ、それで、今日はどうされたんですか。」

「ええ。兄がお弁当忘れたから、届けに来たんです。」

「ああ。じゃあ、お兄さんのところまで案内しましょうか。」

「あ、いえ。お手間をかけさせるわけには・・。」

「いいんですよ。こっちです。」

 水菜はそう言って、佐奈を無理矢理案内し始める。ここで弁当を受け取って腰水に渡してしまえばそれで済む話だが、腰水が妹の前でどんな態度を取るものなのか、好奇心が勝ったのだ。

 あの鉄面皮(てつめんぴ)がどう変わるのか、きしし、と内心ほくそ笑みながら、ふと、水菜は自分が早く歩きすぎていることに気がついた。案内すると言いながら、ゆっくりと歩く佐奈を後ろに置いて来てしまったのだ。

 水菜は慌てて戻った。

「ごめんなさい、ちょっと考え事してて。」

「いえ。足、悪いものですから。ご迷惑おかけします。」

「ご迷惑なんて、そんな! そんなことないですよ。」

 言いながら、水菜は再び、佐奈の足を見てしまう。

「戦中の事故で一時期歩けなくなったものですから・・・。」

 少し恥じ入るような声で言う佐奈を前に、水菜は急に申し訳ない気持ちになった。

「あの・・。じろじろ見てしまってすいません。」

「いいんです。これでも、だいぶ良くなったんですよ。まだ、臨床試験の段階なんですけれど、人工筋繊維の移植をしたんです。なんでも、鯨の筋肉をモデルに作られたのだとか。」

「そうでしたか・・。」

 歩くことのできなかった佐奈が、こうして歩いている。筋繊維の開発の端緒となった研究が、腰水の手によるものなのは、明らかだ。腰水は家族や自分の話をほとんどしないわけだが、妹の足が回復したとか、そういう嬉しい出来事くらい、話してもよさそうなものなのに、と水菜は思う。

 そういう話を同僚にするという発想自体が、あの人には欠けてるわけよね、結局。

 二人が腰水の研究室前まで来ると、水菜は開け放しのドアをノックしながら言った。

「腰水さん。妹さん、来られましたよ。」

 いつもは、聞いているんだか、いないんだか分からない反応しかしない腰水だが、水菜の驚いたことに、今日は今のひとことで後ろを振り向いた。

「佐奈。何しにきた。」

 腰水の驚いた顔というのを、水菜はこのとき初めて目の当たりにした。それなりに長い付き合いとなっていた腰水だが、およそ、驚くという感情的起伏とは無縁だと思っていたものだから、水菜の驚愕もひとしおだ。

「お兄ちゃん。お弁当、忘れたでしょ。持って来ちゃった。」

 そう言って差し出す佐奈のかわいらしさに見蕩れてから、驚いている腰水の横顔を見たり、加えて、腰水が妹からお兄ちゃんと呼ばれている事実に吹き出しそうになったりと、水菜は忙しい。

「腰水さん、妹さんにお兄ちゃんて呼ばれてるんですね。」

 笑いをこらえながら水菜が言うと、照れ隠しをするには怒るしかない、そう考えた腰水のものすごい睨みを受けた。

「・・・悪いか。」

「いえ、別に悪いとは言っていませんけど。」

 お兄ちゃん、と小声で水菜は付け加え、ぶふっ、と吹き出した。

 だめだ。妹の前にいる腰水の普段とのギャップに、水菜は笑いをこらえきれなかった。

「垂木さんに、ここまで案内してもらったのよ。」

 佐奈がにこにこしながら、不機嫌な仏頂面をしている腰水に言った。

「・・そうか。佐奈、垂木に何か言ったか?」

「何かって? お兄ちゃんが家で垂木さんのこと、感心してるって話はしたけれど・・。」

「もういい、佐奈。送って行くから、もう帰れ。」

「送るって、お仕事中でしょ。お兄ちゃんまで一緒に帰ったら、わざわざお弁当、届けた意味がないわ。」

 佐奈が口をとがらせて言うのに合わせ、水菜もここぞとばかりに同調する。

「そうですよぉ、腰水さん。佐奈ちゃんもせっかく来てくれたんだし、みんなでご飯食べましょうよ。あ、私、川原さん待たせてるんだった。ちょっと、川原さんも呼んできますよ。待っててください。ね、佐奈ちゃん。」

「はい。」

 にっこりほほえむ佐奈と、水菜を止めかける腰水を残して部屋を飛び出る。腰水の妹が来ていると知ったら、川原も飛んでやって来るだろう。こんなおもしろイベント、そうそうあるものではない。

「妹さんが!」

 川原は水菜の予想通りの反応を示して、用意していたご飯に大急ぎで一人前を追加すると、大きなお盆に載せて、腰水の研究室に走る。よくもまあこぼさないものだと、水菜が驚くほどの安定性と速さでもって、川原は食事を運んだ。

「あ、川原さん。こんにちは。」

 ぺこりと頭を下げる佐奈に、川原は満面の笑みを浮かべた。

「佐奈ちゃん。前に会ったの随分前だけど、覚えててくれたのね。」

「ええ。とても綺麗な人だなぁって、思ったものですから。」

「あらぁ、綺麗な人だなんて。おほほ。」

 川原は上機嫌でテーブルの上の資料や書籍をのけると、お盆をそこへ載せた。

 渋面で座る腰水は、一挙手一投足を水菜と川原に見つめられ、さらに眉間にしわを深めながら言った。

「何を見てるんだ。」

 にや、と笑いながら水菜は、

「何、って、お弁当、気になってしまって。」

 そう言って腰水の手にしている佐奈の手作り弁当を、覗き見ようとする。

「見るほどのものじゃない。」

「またまた、そんなこと言って。妹さんの手作りじゃないですか。嬉しいんですよね。」

「別に、いつものことだ。」

 腰水はそう言うが、弁当の中身を水菜と川原に見られまいと、しきりに手で隠そうとするそれが、照れている何よりの証拠だった。

「垂木ちゃん、そんなじろじろ見ちゃあ、腰水君だって食べにくいでしょーよ。」

「ええ? 川原さん、大人・・・。」

「私はいつだって大人の女よ。」 

 ふふん、と胸を張って笑う川原だが、腰水が弁当の蓋を開けた瞬間、腰水の背後に回り込んで、その中身をのぞいた。

「おやぁ、かわいらしいお弁当じゃないの、腰水君。」

 前言撤回だ、と水菜は思った。興味がないふりをして油断させ、中を見る気だったのだ。

 腰水はもはや隠しきれないと悟ったのか、大きな口を開けて、かき込むようにご飯を食べ始めた。

「お兄ちゃん、ちゃんと噛まないとだめだよ。」

 佐奈の方をちら、と横目で見た腰水は、小さくうなずいた。

 これはもう、何から何まで、新鮮だとしか言いようがない。妹の前では普段の腰水ではなく、あくまでも「お兄ちゃん」なのだ。

 それから水菜達は、釣り立てなものだからその身がまだ半透明に近いイカを食べ、妹ネタで散々腰水をからかいながら昼食を取った。終始、渋い顔をしていた腰水だが、それでも、妹の前で、ときおり、ほんの一瞬見せる笑顔を目の当たりにできたそのことを、水菜は嬉しく思った。

 結局、腰水は佐奈に何度断られようと頑として聞かず、家まで送るため、いったん帰ってしまった。


「かわいらしい妹さんでしたね。」

 水菜は波の打ち寄せる、研究所内の防波ブロックの上に立っていた。隣の川原が、水菜の言葉にうなずく。

「ほんとよ。腰水君と血がつながってるとは思えないわ。」

「・・・よかったですね、歩けるようになって。」

「そうね。よかった。」

 川原は髪をかきあげながら、水平線の先を見つめて目を細めた。

 戦争が終わって実家に帰ってみれば、隣近所の知り合いや、小学校からの友達が大勢死んでしまっていることに、水菜は少なからず、ショックを受けていた。まるで、自分を残してクラスメートの皆がどんどん引っ越ししてしまうかのような、寂しさが水菜の心の多くを占めた。

 そんなときに現れた佐奈の様子に、水菜は降り続く雨の中で、ぽっかりと雲に開いた晴れ間を見たような気がした。

 腰水の研究は、人殺しの研究じゃなかった。まして、鯨殺しの研究でもないのだ。佐奈の足に、水菜はそんな意味を見出せたような思いでいる。

 風はあったが、目の前の海は静かにうねり、遠くの雲が西に向かってゆったりと流れている。

「セイゲン、元気でやってるでしょうか。」

 海を眺めるたびに思うことを、水菜はふと口にした。

「やってるわよ。タフな鯨だもん。きっと、この先の海のどこかで、イカでも食べているんじゃないかしら。あるいは、ダイオウイカと格闘中だったりしてね。」

「ええ・・・。」

 水菜は、大きな口を開けながら、イカを食べ続けるセイゲンを思った。きっとそれは、彼らの祖先の、そのまた祖先もやってきたひとつの営みであって、あるがまま、という状態を指し自然と呼ぶならば、それはまさに自然そのものなのだろう。セイゲンが幸せであって欲しいと水菜は願い、否、きっと幸せなのだろうと水菜は思い返した。

 この海で、この広い彼らの海で、海羊達は今日も泳いでいるのだ。誰にも束縛されることなく、彼らの意思で、この海を。

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海羊の海 桜田駱砂(さくらだらくさ) @sakuracamel

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