Log17 "契約 ―コントラクト―"
鼻水が出た。
肩の上から心配そうにのぞき込まれ、
「キキ?」
「いやいや大丈夫、絶対大丈夫だから」
ガンモというよりかは、自分に言い聞かせるようにして瞬は呼吸を整える。もう一度、落ち着いて、ゆっくり外そうとしてみよう。うん、それでダメなら、もう誰かに石けん水持ってきてもらうしかない。
「どったの。シュン?」
「ご主人、どしたっす?」
うるさい。今から集中するから黙ってろ。という内心をひた隠し、瞬は完全にごまかすとき特有の「なんでもなくないけど、なんでもないったらないんですよ」という作り笑いを浮かべながら、
「ふっん!!」
だが、何をどうやったらここまで固く抜けなくなるのか。
「
激痛が走った。予期せぬ痛みに白黒する頭のまま、何が起こったのかと、
「えぇっ!?」
第二関節のやや下に位置する指環から手の平に向けて、真新しい血が流れ落ちていた。結構な出血だったが、それがまさか自分の血であると認めたくなくて、
「なんか血が出てるけど、シュン」
「大変っす。ざっくりいってるパターンっす!!」
「いや違うから、そう、これは違くて」
騒ぎ立てる一人と一匹から隠すべく後ろ手にしようとすれば、肩から二の腕を掴み絶賛流血中の左手をガンモが持ち上げようとする。
「あいたたたたたたたっ!?」
人体構造的に無理なことを行おうとすれば当然、瞬の口から悲鳴がほとばしり、
「キーッ、キーッ!!」
オメー、これエラいことになってんぞと言わんばかりにガンモが耳元で騒ぐ。そして、するするとツタのように腕を滑り、獣なりに手当てしようと考えたのかその傷ついた左手に触れた瞬間、
<
熱を感じた。
最初は指環から、次に手を通じ、腕、首、頭、脳味噌に至り、頭の中心に今まで味わった事のない熱さを感じる。決して触れはしない場所なのに、得体の知れない何かか流れ込んでくるという感覚だけがある。
<
唐突に歯医者で虫歯の治療を受けた時のことが思いだされる。悪いことが起こる前触れのように穏やかなBGMの流れる待合室で、気を抜いた瞬間に限って名前が呼ばれる。憂鬱な気持ちを抱え処置室へと入れば、中央に処刑台のように鎮座する台がある。流されるまま上に寝かせられ、出番を今かと待っていた麻酔をかけられる。向けられたライトのまぶしさに自分が何か悪いことをしてしまったのかという罪の意識が胃の底から這い出てくる。開口して待つ。気づけば、医者の手は動いているというのに、自分が今一体何をされているのか。窺い知ることが出来ない。何かされているのに、どうやっても
断片的な情報だけが与えられる。
ドリルで歯を削る不快音、昆虫じみた細長い金属の器具で患部をいじくり回される。口をすすぐ指示に従って、水を吐き出せば、真っ赤な血の塊がぺっとりと排水溝の近くに張り付く。そこで事の次第の重大さがようやくわかる。
実によく似ていると思った。
<
ドクンと心臓が跳ねる。異物を飲み込んだ時のように、生命の危機であると警報がガンガン鳴り響く。視界にノイズが走り、一瞬の間、
ブラックアウトする。
<
頭に響いてくる電子じみた声に左右を見回した。
テレビで見かける、催眠術師が指を鳴らすと同時にタレントの目が覚め,口を開けたままきょとんとする、あの光景。撮られている側は、きっとこんな気持ちだったに違いない。
——何か、あった?
思わず、いつの間にか地面にいたガンモと目が合う。同じく
遅まきながら、ようやく頭が事態を理解し始め、
「うわあああああああああああああああああああっ!!」
「キー———————————————————ッ!!」
一人と一匹がおそろいの反応を示した。
「あーっ!? わあああああっ!?」
何だこれ何だこれとパニック状態のまま、力任せに瞬は指環を引っこ抜こうとするがむしろ指の根元の関節がコキコキ音を立てるだけで、やはり全く外れない。同じくガンモも無我夢中に首輪を外そうとするが、苦しい思いをしているのか、黒板を爪で引っ掻いたような声が絞り出される。
「え、なになに、この感覚、気持ち悪っ!?」
頭を抱えて叫ぶ瞬に冷や水をぶっかけるような、
「もし、もしもーし」
うわ、汚物が立ってしゃべってる。しかも呼吸してる。とでも言わんばかりの目をしたメイだった。
瞬の肩に手を置くと、
「うん、言わんでもわかるね。——何がどうなったのか、詳細」
いつの間にか指から垂れ流される血は止まっていた。
× × × × × × × ×
かくして、時計の針はここに至る。
「ねーってば、ご主人~っ、無視しないでほしいっす」
余りにしつこく揺すってくるので、ついに我慢できなくなって、
「うるさい。今、必死で頭の中を整理してんの。マジで黙って」
顔を覆いながら、うめくように瞬は今の己の状態をかえりみる。はずれなくなった指環に、同じくしゃがみこんだ姿勢でうなだれるガンモ。どうしてこうなったのかと問いかけたくても、親身に聞いてくれそうな優しさを持った人間はこの空間にいない。
「さーて、でも、そろそろ話してもらえないかのーって感じなんだけど」
そうなるよねと瞬は面を上げる。自分でもうまく伝えられるかわからないが、誰かに説明しながら考えてみるしかない。
「えっと……まず、ですね。最初に確認しときたいんですけど。さっき……僕が声を上げるまでどんな感じになってました? 率直に教えてほしいです」
うん、と、
「きみ、急に何かにとりつかれたように白目むいたかと思えば、何度か
「あの、少し言葉を選んでもらっていいですか」
完全にアレな人だった。持ってたら警察のご厄介になるしかないお薬を常用してるのかと疑いたくなる有様だ。ひょっとして他人なんじゃないかという気もしなくもないが、どう
正直、致命傷レベルのショックを受けながら瞬は弁解をはかる。
「や、まぁ確かにメイさんにはそう見えたかも知れないですけど、あの時、僕には声が聞こえてたんです」
「シュン、お疲れ。今までありがとう」
「待って待って。ちゃんと話してますからねっ!? 真面目ですよ真面目、これ!!」
帽子を
「ほんと……ほんとなんですって……っ」
こんな勢いで募金を求められれば、どんなドケチであろうと協力してしまいそうな迫力だった。
やれやれ、と肩をすくめるとメイはもう一度向き直る。
「わかったわかった。それで、声が聞こえて?」
「その声なんですけど、色んな言語を重ねて話してるみたいな声で、ほとんど聞き取れなかったんですけど、まるで僕に何かしているみたいな感じがしたんです。で、気づいたら、」
足下のガンモを見やって、
「僕らは、一つになってました」
なんと表現すべきなのか。たとえば今、自分は手と足を特別意識することなく動かすことができる。だがそのことに疑問を抱く者はいないだろう。当たり前のようにそこにあって、当たり前のように
「きみたち、」
そう、どうなるのか——、
「……いつの間にそんな深いごカンケイに……」
「へ、あっ!? ちょっちょっと待ってください。僕の表現が間違ってた。謝りますからっ、謝りますからっ!!」
「愛は種族の垣根を越える、か……神秘」
「だーかーらっ、違うんです!! 神秘もクソもスピリチュアルもありゃしないですよっ。が、ガンモ、お前もなんか言ってよ!!」
「キーッ、キーッ!!」
「そうですよ。メイさん、今ガンモはこう言いました。瞬はタイプじゃない——って
思わず飛び退いた瞬にメイは苦笑しながら、
「よくわからないが、よくわかった。って感じか。見てる限り、なんか会話も通じるようになったみたいだね?」
「通じるっていうか。なんとなくって感じですけどガンモが思ってることがわかっちゃうんですよ。あっ、もちろんキーッキーッ鳴いてるのをそのまま理解してるわけじゃないですよ!?」
「ほっほーん。やっぱ面白いね。
は? と思った。ついでに口にも出た。
「オーパーツ?」
なんだそれは。
「そ。
せっかくのメイの解説も右から左に流れてしまう。いや気になるのはそこではない。
「え、ちょっと待ってください。じゃ、この指環がなんなのかってメイさん、見当ついてたんです……か?」
「うん。見当はついてたぜ? そこまで
——試してみてからの、お楽しみだろ?
ご丁寧にウィンクまで付けて、メイはよこしてきた。
絶対この人ろくな死に方しない。っていうか、いつか地獄に叩き落とすとドス黒い感情を瞬は心の岩に刻み込む。
「まっ、生きているからいいじゃない。
「それは僕が言って初めて許されるんですけど」
もう色々通り過ぎて、怒りさえ湧かなくなってきていた。疲れた。もうこのまま
「で、他に何かないの?」
「他にって、」
働かない頭のまま、瞬は力尽きる寸前のような音量で話す。
「モンキチくんとシュンが、感覚を共……そうだな、感覚共有体になったとして、ほんとにその指環の能力ってそれだけなのかなって」
「マだ何かあると!?」
そりゃ声も裏返る。これ以上何かあってたまるか。クワッと焦点の合ってない目つきで瞬は頭を抱え、本能的に身を守る。
「うん。だって、」
メイはサロモンが抱えていた例の小箱を指さす。そうだ、忘れていたが、
「まだ、あるんだっけ。いっぱい……」
はいっすとご丁寧にサロモンが箱を開いて見せてくるが、残り9つの指環がいぜんとして異彩を放っていた。
もういい閉じろ閉じろと手でジェスチャーをし、瞬はその小箱を抱える。もはや正体不明の革のことなど、気にしていられなかった。
致し方あるまい。本当は固く封印をしてこの場に埋めていきたい所だが、後で持ってくればよかったと悔やむことになったら目も当てられない。
「さすがに片手が塞がるのを見過ごせないな。いいよ、わたしが預かっとく」
「……どうも」
ぶっきらぼうに礼を放ると、メイは自分の鞄に小箱をしまい込む。そこで改めて、自分が手ぶらで来たことに衝撃を覚える。コンビニ行く時でも財布ぐらい持つというのに。枯れたため息をこぼせば、
「ぐぬぬ、貴様だけ、ずるいっす!! 吾輩もご主人と絆を築き上げたかったっす!! そもそも持って来たのは吾輩なのに!!」
ぷんすかと怒りの蒸気をあげるサロモンがいた。対するガンモは、
「ご苦労って思ってるよ」
「キーッ」
「ご、ご苦労だとっす!?」
何故、こっちが通訳しなければならないのだ。普通、逆じゃないか。モンスターはモンスター同士で通じ合えよと瞬は思う。むしろこっちに訳してくれるべきだろと。
「ななな、なんという上からっすか!! 許せぬっす。いざ、尋常に勝負っす!!」
「キーッ」
死にたいのか? と結構、野生のヒエラルキーに厳しい思考のガンモに瞬はうんざりしながら、ほっといてもう行きましょうよとメイにうながす。
「ぎゃー、痛いっっすー!? か、噛むのは反則っす。しっぽでムチ打つとかもなしっす。ヒィ、爪もなしっすー!!」
しかし、いくら進んでも背後から響く甲高い声が遠のいていくばかりで、いっこうに追ってくる気配がなかった。
一歩進み、振り返り、二歩進んで、振り返り、三歩進まないうちに、
「~~」
「そうイライラしなさんな〜」
いや、原因はお前にもあるんだよ、とはやっぱり口に出せず、代わりに、
「ほら、置いてくよ! とっとと来なよっ、ガンモ!! サロモン!!」
いきり立って叫んだその時だった。
突如として、ちょっとしたショックを与えたら通電したかのように、指環が顔を背けざるを得ないほどのまばゆい光を放つ。
<
何度か
足元でガンモが尻もちをついていた。
何が起きたのか理解できていないのが伝わってくる。残念ながら、それはこちらとて同じで、
「めめめ、メイさん、こりは何ですか」
動揺の余り、ろれつが回らなくなる。ベロすらも混乱の極みにある。
待て待て、ガンモたちとは随分と距離があったはずで、その距離が今の一瞬でここまで詰められる訳がない。いくらガンモが四足歩行かつ全力で風になったとしてもだ。どうしたって理が通らない。
パチンと、誰かが指を鳴らす。
「そゆことか。はっはーん」
メイだった。
勝手も勝手だ。一人で納得している場合じゃないと、
「シュン、きみ、
「召喚、て?」
「さよう。きみは、モンキチくんを今、この場へと呼び寄せたんだ。あるんだよ、そういう似たような、召喚魔術ってやつが」
あるんだよと言われても、こっちの常識じゃねーよとしか瞬とて思えない。召喚ってあれか。クラスメイトの何人かが、教室の片隅でカードを片手に何とかかんとか召喚!! って叫びながらゲームしてたあれか。
興味はあったものの結局、内輪で物凄い盛り上がっている所に入っていくことが出来なかった苦い思い出が蘇る。違う。今そんなことで落ち込んでいる場合ではない。
とにかく、メイはつまりこう言いたいのだ。お前は、ガンモを瞬間移動させたぞ、と。
「いやいやおかしいですって!? 第一、僕は魔術なんて使えませんよ!」
「ですわな。うん、魔術じゃない」
即座に否定され、
「うぇ、あれ、どうしてわかるんですか?」
「やらしーなー、シュンは、そんなに女の子の秘密が知りたいの?」
ああもう、面倒な人だ、この人は本当に。とわざわざしなまで作ってみせるメイに対し思う。
「ま、順当に考えてもそいつの仕業だね」
わざわざ目をやる必要もなかった。指環のことだ。
「これが、ガンモをその、召喚した、んですか?」
「うん。つまり不幸な出来事によってそいつを装着してしまった後で、きみとモンキチくんが、一つになったってのはあながち間違いじゃない」
手品師のような所作で、パンと両手を合わせると、
「
いちいち耳慣れぬ専門用語が飛び出てくる。初見の公式が三つくらい立て続けに出てきた時のように知恵熱でくらくらしそうだった。それが顔に出ていたのか、メイは出来の悪い生徒が理解できるまで付き合う教師気取りの口調で、
「いいかね。ダーシュン。
生まれてこの方、こんなについていけない授業は初めてだった。辛うじて飲み込めた範囲で、そんな大層な
帽子を外し、くるくると手でもてあそびながらメイは明後日の方向へ目を向けて、
「あ~でも使う使われるのご関係じゃなくて、感覚共有レベルの高次元の契約か、するってーと、うん、……」
まただ。また、この嫌な予感だった。
もう続きは聞きたくなんかなかった。だが、瞬が耳をふさぐよりなお早く、
「こりゃ対価は命かもな。ダーシュン、きみが死ねばモンキチくんも、モンキチくんが死ねば、きみも死ぬ。ほらやっぱり、」
――随分と、深いごカンケイだったねぇ。
ああ、
いい加減、気を失えたらどんなにいいことか。
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