冬のドア向こう

TARO

冬のドア向こう

 その日、目覚ましが鳴る前に目覚めてから、彼は何とも言えない後味の悪さを感じた。頭が重い。トラウマを抱えた人間は悪夢にうなされるが、特にトラウマのない人間も同じくうなされるのだ。戦場帰りの兵士がフラッシュバックに悩まされ、勤め人が信号の待ち時間で、上の空にさせられる。

 エアコンのタイマーをセットしたおかげで、すでに部屋は温まっている。あと20分ほどで目覚ましが鳴る。二度寝すると余計にしんどくなりそうなので、起きることにした。若い頃と異なり、こういう所を調節できるようになった。おかげで遅刻することも、体調不良を理由に休むこともほとんどなくなった。「老成したってことか」と彼は自嘲気味につぶやく。この後職場に向かい、午前中こなす作業、昼休みを挟んでから午後の作業。全てが想像できた。人間関係、掛かってくる電話、メールのやり取り、食堂のメニュー。不確定要素など一つもない。


 仕事帰り、朝から感じた頭重感が今もなお続いていることが気にかかった。最近残業続きで寝不足気味である。思考がぼんやりする。疲労感と、仕事を終えた安堵感がそうさせているのだろうと思った。

 帰り道は長い坂道に差し掛かり、いつものことながらあらためてうんざりした気分になった。途中コンビニに寄って買った弁当が重い。電動自転車が追い越して行った。

 途中で生産緑地の間の小道に入る。しばらく歩くと、神社の参道に合流する。境内を通って抜けると、彼の住むアパートがみえる。

 アパートに着くまで今日はやけに長く感じられた。部屋の鍵を鍵穴に差し込むのも煩わしく感じた。ドアを開け、暗い玄関に立ち、明かりをつけた。玄関の先に狭い台所、その向かいにユニットバスがある。居室は8畳ほどで、単身者には十分といったところ。

 シャワーを浴びた。さっぱりしたけれど、頭の中の充血感は抜けなかった。髪を乾かして、弁当を食うため茶を入れた。

「そういえばドアのかぎ閉めたっけ・・・」

 そうつぶやいて湯飲みに茶を注ぐのを一旦中止した。それから立ち上がってドアを確認しに行った。暖房を入れたので、居室は暖まっていたが、玄関は冬の寒さを残している。薄暗いまま、鍵とチェーンを確認した。結局閉め忘れはなかった。我ながら慎重な性格に苦笑してから、また居室に戻った。

 茶葉は十分に湯に浸って開いている。ゆっくりと湯呑に注ぎ、BGMがわりにテレビをつけた。眺めながら冷めた弁当を温めもしないでそのまま食べた。

 食べ終わり、茶を飲みおわってしまうと、やりきれない気分になって、テレビを消した。最近は集中して見るのが苦手になっている。要するにテレビなど見ないでも良いのだが、一応にぎやかにしておきたかったのだ。歯を磨いて寝ちまおう、そう思った。

 寝床で横になりながら、何度も読んでいるシャーリイ・ジャクスンの短編を読んだ。二編ほど読むと活字が頭に入らなくなって、そのまま眠りに落ちるのが常だった。ところが、今日はそうは行かなかった。五編途中まで読み進むと、時間を気にして、とりあえず本を閉じ、寝る事にした。

 目を閉じるといろいろ考えが浮かぶ。眠れるときはそのまま夢に突入してしまうのだが、この夜は頭がさえて、とりとめもない考えが浮かんでは消えてを繰り返していた。そのうち彼は暗闇の中、目を開けた。いつの間にか自分の現況について思いを巡らす。

 会社で淡々と仕事をこなし、たまには残業もして、あまり寄り道をせずに帰宅してしまう。酒は飲まない。会社の同僚とは仕事以上の付き合いはない。飲み会は極力断ることにしていた。

 今は不景気で、みな他人に必要以上の関心がない。自分のことで精一杯だから、付き合いの悪さも、仕事さえ誠実にこなしていれば、問題視されることもない。だから、今の世情は彼にとってありがたかった。

「これでいい、おれは」

 時々、社会常識と自分の振る舞いに溝のようなものを感じると、少し不安になり、しばしばこう呟いて、自身を納得させるのであった。

 しばらく時が過ぎたが、一向に眠れない。こういう時、焦ると余計眠れなくなるものだが、それを知っていても、明日寝不足で仕事をすることを考えると、無理にでも寝ようと努力してしまう。目を閉じて、いろいろ思いを巡らせたり、深呼吸してみたり、あれやこれや試してみては時計を眺める。もう深夜2時過ぎだった。

 もうあきらめてしまおう、と体の力を抜いた。そのままぼんやりと暗闇を眺めた。頭は依然冴えている。台所の冷蔵庫の動作音がやけに大きく聞こえた。このまま朝を迎えるのか・・・

 

「シューッガタン」

 わずかながら、耳慣れない音が聞こえた。工事現場の騒音の一部を切り取ったかのような音。しかし、深夜工事をするような場所ではないから、それはありえなかった。

「シューッガタン」

 また聞こえた。しかも音が大きくなっている気がした。続けざまにそれは繰り返された。近付いてきている? 最初地面を叩きつけるような音の後に、スチームを噴出すような音しか認識できなかったが、次第に大きくなると、その他にうなりを上げるモーター音、軋むバネの音、歯車が噛み合う音などが入り混じっていることが分かった。

 騒音はしばらくやり過ごせば済む程度では収まらなかった。耳をつんざくほどにまでそれは高まった。

 不安に耐え切れず寝床を出ると、すぐそばに放ったままにしてあるパーカーを羽織り、裸足の冷たさを我慢しながら、暗いまま、廊下を進みドアに近寄った。覗き窓から様子を伺おうとしたが、良く分からなかった。ともかく、何かがうるさい音を発しながらドアの向こうの道路をゆっくりと通過しようとしているのは確かだった。彼は意を決してドアをそっと開けた。

 さらなる騒音とともに白い気体が隙間から侵入してくる。むっと生暖かい。ともかく部屋を出て、後手にドアを閉めた。

 霧のようなものが立ち込めていて視界が悪く、耳を塞がなければならないほどの騒音が支配していたが、街灯に薄暗く照らし出された道路に見たものは、

「機械人間!」

 人の背丈の倍ほどの大きさのそれは古びた様々なスクラップの寄せ集めだった。それが連動して動いている。小刻みにピストン運動をするもの、意味なく回転し続ける無駄な部品、動くたびに機械と機械の隙間からスチームが漏れていた。

 いつの間にかドアを開け放って、彼はそれを見ていた。機械人間の目の部分であろう場所に歯車が回転していたが、こちらには気付いてなかった。その迫力に圧倒され、呆然としつつも彼は、機械人間の足取りが不規則であるのを気付いた。

 機械人間は傷ついた、あるいは病を患った人のごとく一歩一歩かろうじて前に進んでいるのだった。歩いた後にオイルらしき滲み痕が続いていた。足を上げて前に進む。いったん止まり、ややあってから後ろの足を引きずってまた止まる。これを繰り返している。見ていて苦痛を感じた。

 機械人間はそれでも前に進んでいった。彼はずっと見ていた。

「シューッガタン」

「シューッガタン」

「シューッガタン」

 冬の夜にそれはやがて見えなくなった。音も次第に小さくなり、消えた。

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冬のドア向こう TARO @taro2791

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