◆花園
クラナッハ邸は王都の郊外に広大な苑を構えている。
邸の人々が生きていた当時は、いくつもの美しい庭園を抱えていることで有名だった。
今では庭園は五年の季節のあいだに荒れ放題に朽ちて、一族の悲惨な滅びを物語る。
通い慣れた北側の木戸からエリザベトは敷地に足を踏み入れた。木戸はほとんど腐っていた。
子供のころ、エリザベトはアレクサンデルとソフィネとともに、この木戸を何度も出入りしてそばを流れる運河まで遊びにいった。
野放図に丈を伸ばした草を踏んで、邸の裏手に辿りつく。
クラナッハ家の人々が引きずり出され、治安局によって封鎖されるまでの短いあいだに、邸の窓はすべて暴徒によって割られていた。
ギャラリーへの侵入は上手くいった。美術管理人の書斎は暴徒に見逃されたらしき地下の使用人区画にあったため、所蔵リストは無事だった。子供のころ、ソフィネとアレクサンデルとともに、この邸のすみずみをエリザベトは探検したものだ。
あの頃の華やかな生気はもうどこにも息づいていない。
しんとした邸内をひとりさまよい、けれど黒猫のソフィネを抱いていたから心細くはなかった。
エリザベトは手に入れたリストを外套の中にしまい、表の玄関から出て〈春〉と名のついた主庭園へと向かう。
主庭園の南の一画には、石積みの壁で区切られた、子供たちのための花園があった。
『エリス、わたしに花冠を編んで』
エリザベトは薔薇のアーチの下で立ちすくんだ。
声が聞こえた。ような気がした。けれど、それはどうしようもなく幻で。
夏の薔薇も、冬の薔薇も、どこにももう、咲いていない。
『ソフィネはわたくしに編んでくれないの?』
『あなたに似合う紫のイーリスはまだ咲かないもの。春になったら、エリスが女王様になる番よ。エリスは春の女王さま』
『ソフィネは冬の女王さま。さあ、冬の女王さま。この白薔薇たちに女王さまの黒髪で輝く栄誉をおあたえくださいませ』
胸の中で苦しげにソフィネが鳴いた。
はっとしてエリザベトは我に返る。思い出に震えたエリザベトはソフィネの痩せた躰を強くしめつけすぎていた。鳴きながら、ソフィネはもがいてするりとエリザベトの腕をぬけだした。
「あっ」
ソフィネは飛び跳ねるように逃げた。深い草むらに消えてしまう。
「ソフィネ、だめよ、迷子になっちゃう!」
ソフィネが駆けていく先々で、草むらがガサ、ガササと鳴る。
急いで追いかけるけれど、音のほうが先へ先へと行ってしまう。
「ソフィネ」
気配さえ見失ってしまった。
茨の壁がエリザベトの前に立ちはだかった。
「……これ……迷路だわ。まだ残っているのね」
子供たちのための花園の奥には、茨の生垣でつくられた大きな迷路がある。
刈り込みの手入れがなされず、こんもり、ぐんにゃりと迷路の壁はかたちを崩していたが、かろうじて道の痕が残っている。
エリザベトは記憶を頼りにその入口に足を踏み入れた。
ほんの子供のころは抜け出せない迷宮だった。庭師は定期的に道順を変えたし。けれど背が伸びるにつれ、迷宮を子供騙しに感じるようになった。
「この角は……右へ曲がるのよ」
少女時代の足取りでエリザベトは道をえらんだ。
角を折れて前を向いたとき、エリザベトの歩みは凍りついた。
視線の先に、人がいたのだ。
「どうして、あなたが」
ゲオルク・ブルーメンタールが、そこに立っていた。
「どうしてここにいるの?!」
茨の壁に挟まれた道で、ゲオルクは茂る枝を見つめていた顔をあげ、エリザベトをふりかえった。
灰色の帽子に手をやり、機械的に会釈をしてくる。その眼つきはエリザベトと同じく訝しげに細められていた。
「答えなさい、ゲオルク・ブルーメンタール。どうしてあなたがここにいるの?!」
「入ったら、出られなくなった」
と、ゲオルクは言った。
クラナッハ邸の庭にゲオルクがいる。そのことだけで激昂し、声を高くしてしまったエリザベトは、簡潔な答えに勢いを失った。
「……何ですって?」
「迷って出られなくなった。かれこれ一時間くらいだ。さっきから無駄に同じところを歩いている。もっとも、ずいぶん大掛かりな迷路だと興味を惹かれて入ったのだから、元をとったとも言える」
「ゲオルク・ブルーメンタール、答えになっていないわ。どうしてあなたが、あなたが滅ぼしたクラナッハの庭にいたの。迷路で迷う前のことよ。何の目的があって?」
ゲオルクは端正で穏やかな顔つきを崩さずに、まっすぐエリザベトを見つめかえした。
「公爵令嬢は何の目的でここに?」
「訊いているのはわたくしなのよ。わたくしを怒らせたいの? ゲオルク・ブルーメンタール」
「これ以上怒れないくらいに怒っていると、昨夜あなたから聞かされたばかりだ。必要ないだろう」
エリザベトは思わず納得しかけた。
だが怯むわけにはいかない矜恃から、昂然と頭を持ちあげた。
「――いちいちそういう態度ね。あなた、わたくしのことを嫌いなの」
「自分を破滅させたいと宣言してきた相手に好意をもつのは、相当な変人だと思うが……」
「変人の遥か下にいるのが悪人よ。あなたのようなね」
茨の壁の落とす影の中で、ゲオルクがかすかに微笑ったような気がした。
エリザベトは瞳をけわしくし、相手を注意深く見つめる。
「わからないわ。悪人の考えることはわからないわ。わかりたくもないわ。自ら滅ぼした一族が遺した庭で、ひとりで悦に入っているなんて」
ゲオルクはエリザベトの呟きを無視して、もともとやっていたように道の四方を見回した。
「そこ、どいてくださるかしら。通りたいのよ」
「ああ、失礼」
壁際に退いたゲオルクの前をエリザベトは早足で通りぬけた。
そのまま、少女時代の勘を頼りに迷路をすすむ。そのエリザベトの後ろから、ゲオルクが着いてきた。
エリザベトは呆れてじろりとゲオルクをふりかえる。
「後ろを来ないでくださる? あなたなど、ずっと迷っていればいいのよ」
「さっき、獣の声がしていた。こうも荒廃した園には何が住み着いているかわからない。陛下の婚約者を一人でうろつかせるわけにはいかない」
「調子のいいことを言うものだわ」
ますます呆れ果ててエリザベトは歩みを早める。
「野犬の被害が王都に増えているのは、近くに繁殖地として格好のこんな荒地があるせいかもしれない」
「思ったとおりね。とうとう人間どころか野犬の私生活にまで強権を振るいはじめたわ……」
「私生活? 犬なら生態というべきだが」
「人も犬も生き物には変わりないのよ。言葉だけ変えたってしょうがないと思いませんこと」
「野犬の調査に来て、公爵令嬢を捕獲するとは」
「口に気をつけなさい、ブルーメンタール」
エリザベトは我慢できずに立ちどまった。
「あなたにバルヒェットを保護する権限はなくってよ!」
「失礼」
ゲオルクは特に弱った様子もみせずに、エリザベトの睥睨をうけながした。
かしずかれることを当たり前に生きてきたエリザベトには、ゲオルクの口の利き方は得体がしれなかった。
ゆいいつエリザベト・バルヒェットの上に立つバルヒェットたるアレクサンデルさえ、こんなふうに無関心な眼をエリザベトに向けたりはしない。
無関心。
エリザベトが復讐を宣言したから、こういう無礼な口を利くのかと思ったが、ちがう。そうであるなら、ゲオルクも警戒の眼つきをしているはずだ。
口調は無礼だが、相変わらず物腰は、穏やかで品のいい青年のそれである。
エリザベトはまるで、孔雀の羽根で片手間にもてあそばれる子猫にでもなったような気がした。
「あなたはアレクサンデルにもそんな口の利き方をするの」
「見咎める者のないところでは」
「それはとても興味深いことね」
「生まれながらの貴族たちのようには身に付いていないために、陛下に『もういい』と笑われた。陛下以外の人間には、へりくだる必要はないと判断している」
ゲオルクの背後にアレクサンデルがいるのだから、誰も表立ってブルーメンタールに逆らうことはできない。
「そういう人間は、逆に、必要があれば何だってするわね」
初めてゲオルクが、面白いことを聞いたように反応してエリザベトを見返す。
「面白い。たまに鋭いことを言うんだな」
「……っ。天使の養子みたいな顔をしながら、ほんとうに無礼な男ね」
「聞いたことのない例えだ」
「中身は地獄から間違って拾われてきた魔物なのだわ」
エリザベトはそこでふと、関係のないことを思い出した。――例え、といえば、昨日の夜、ゲオルクが漏らした謎の言葉があった。
「ゲオルク・ブルーメンタール。『欲しいのは〈
するとゲオルクは、目にみえて言い淀むように、まばたいた。
「それは――」
そのとき。
対峙する二人のすぐそばの壁がガサリと音をたてた。
「ソフィネ?」
エリザベトは振り向いて猫の名前を呼び、近づいた。壁の向こうでギャウと猫が鳴いた。次の瞬間に、茨の茂みを割って重たい影が飛びかかった。
エリザベトをめがけて、獣のするどい爪と牙が閃いた。
「っ……!」
ギャッと鳴き声をあげ、影は地面に転がる。とっさに間に入ってそれを叩き落としたゲオルクが、外套の内側から短い
「スティレット?! やめて、ソフィネは――」
わたくしの猫よ、と叫ぼうとしたエリザベトの前で、ゲオルクは影にめがけて逆手のスティレットを振り下ろす。息をつめたエリザベトは、左手の痛みにうずくまった。
跳ねるように影は刃をかわし、迷路を横切って反対の茂みへと飛びこんだ。
ゲオルクがエリザベトを振り向いている。
「怪我を?」
エリザベトは混乱してとっさに首を振った。しかし、近づいて屈みこんだゲオルクがエリザベトの左手を取りあげて手袋を外すと、手の甲から鮮血が筋をひいて流れていた。
「噛まれたのか」
「かすっただけよ。大したことは――」
「貸せ」
引っ込めようとするエリザベトの手首を強引に掴んで、膝をつき、牙か爪で裂かれたような傷口を確かめる。いつになく緊迫した表情を浮かべ、そしてそれからゲオルクは、――とんでもないことをした。
傷口にじかに口を付けたのである。
ゲオルクはその口にエリザベトの血を含み、顔をそむけて地面に吐き出した。
「な、な、何、何を……!」
エリザベトは体が固まるのを感じた。蒼白になった。傷口の痛みからくるものとは別の恐怖を覚える。
「何を……っ」
何度か同じ行為をくりかえし、
「ハンカチを出せ」
とゲオルクは言った。
「早く」
エリザベトの真っ白なハンカチを血に染めながら傷口に巻きつけ、きつく縛って止血する。すべて終えてから持ちあげられたゲオルクの顔は青ざめていた。
深刻そうにエリザベトを眺めるその表情にエリザベトは驚いて、動転を忘れた。
「ブルーメンタール……?」
「毒を吸い出したが完全ではないかもしれない。言っただろう。王都で野犬の死骸が増えている。〝奇病〟の流行が再燃している可能性がある。媒介しているのは――」
口元を手の甲でぬぐいながら、ゲオルクは茂みの向こうを振り返った。
夕暮れの風が獣の気配を運んでくる気がした。気のせいだ。
「ソフィネ、とは?」
「わたくしの黒猫よ。ここに一緒に連れて来て、でも逃げてしまったの。いいえ、さっき走って逃げた猫は黄色い薄汚れた猫だったわ。ソフィネじゃない」
「それはいよいよまずい。野良猫が持っている毒は〈魔女の呪病〉に限らない」
と、ゲオルクは顔をしかめた。
「すぐ家に帰って消毒しなさい。消毒の仕方はわかるだろうか?」
「え、ええ。父の元に医者がいますから」
よかった、とゲオルクが頷いた。
エリザベトは殊勝に答えてしまったことに気まずくなり、ゲオルクに助けられる前に自分で立ちあがった。
――すぐ家に帰って消毒しなさい
……しなさい、ですって?
この彼は何様なのだ、とエリザベトは思った。
どういう立場から、エリザベト・バルヒェットに命令をくだすのか?!
「あなたは、いったい……」
地面に落としていたスティレットを拾いあげ、仕舞いこむ。時代錯誤な銀細工の短剣を持ち歩いていること自体が、奇異だ。
先を歩きはじめたゲオルクが、その場を動かないエリザベトをふりかえって、言った。――無表情に。
「立ちくらみするほどの出血じゃないぞ。いいかげんにこの迷路から出してくれないか」
裏木戸から庭園を出た二人はエリザベトの馬車まで連れ立って歩いた。
屈辱と混乱で頭の中をまっしろにしたまま、エリザベトは馬車に乗りこんだ。外から扉を閉めたのはゲオルクだ。
ゆっくりと馬車が動きだし、背後に夕日を背負うクラナッハ邸をあとにした。
ぼんやりとクッションに背中を沈めたエリザベトの足元で、もぞりと蠢いた何かがドレスの裾をめくった。
「っ?」
驚いて床を覗いたエリザベトの瞳は、黒猫の金色の瞳にぶつかった。首をのばしてソフィネが「にゃ?」と鳴いた。
「先に戻ってたのね」
まちくたびれた顔で身づくろいをはじめるソフィネを、エリザベトはたまらず抱きあげて、やっと安堵の息をついた。
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