12(六)

 振り返ってみれば、その日、私は出勤するべきではなかった。

 仕事をしていても、昼ごはんを食べていても、頭の中は常にテツオのことで一杯だった。


 テツオは今何をしているだろうか。

 テツオが公園に三日間座り続けていたのは何故だろうか。

 部屋に帰ったときテツオはそこにいるのだろうか。


 気が付けばぼんやりと虚空を眺めている自分に何度も驚いた。

 こんなことは初めてだ。

 仕事は一向にはかどらない。


「体調悪いんじゃないの?無理しないで今日は帰ったら」


 心ここにあらずの私をいぶかしむように長谷川係長が耳打ちする。


 大丈夫です、と小さく答えパソコンの画面に浮かんでいる文章を必死に睨みつけた。

 しかし、それはまるで異国の文字のように私の頭の中で意味を成さない。


「松山さん、電話ですよ」


 向かいの青木が机越しに受話器を差し出してくる。

 その目にはどことなく私のことを案じるような憂いが浮かんでいて、悪い予感を抱かせる。「お母様からです」


 瞬間、私の顔は火を噴いたように熱くなった。

 みんなの視線がこちらに向いているのが分かる。

 通り過ぎていったはずの係長の足が止まったことも。

 私は青木に目を合わすこともできず、無言で受話器を受け取った。


「もしもし?」


 私は机の上に開いたノートパソコンに隠れるようにして小声で受話器に話しかけた。


「やっと捕まえたわよ」


 言外にしてやったりという得意そうな響きがある。

 パソコンの画面に勝ち誇った母の顔が浮かんだ。

 私は顔に出た熱が脳の方に移動するのを感じた。

 この愚かな独善家は親が子の職場に電話を掛けるということが、どれだけ子に影響を与えるかを分かっていない。


「何のこと?何か用?」


 私は突き放すように言った。

 職場に親が電話してくるなんて何事かと誰もが思うだろう。

 その一大事とはきっとあのことなのだ。

 頭の中がカッカと滾ってくる。


「呆れた娘ね。何か用、じゃないのよ。何度も携帯に電話してるでしょ。親を何だと思ってるの?」


 母は大きくため息をついた。

 しかし、ため息をつきたいのはこちらの方だ。

 親を、の台詞は何度聞かされたことか。「一向に出ないから今日は職場に掛けてあげたのよ。今度という今度はお見合いしてもらいますからね。いい?すっごく素晴らしいお相手なのよ。会うだけでもしないとばちが当たりますよ。何を考えてるかさっぱり分からないけど、後で後悔するのは……」


「放っといてっ!」


 私は母の言葉を遮り、絶縁の気持ちを込めて受話器を叩きつけた。


 辺りが静まり返っている。

 しかし、決して静かなわけではない。

 誰もが息を殺して、だけど心のなかでは両手両足をばたつかせて笑い転げているのだ。

 互いに目配せだけで非常識なこの親子を指弾しあう静かな喧騒が耳に響くようでうるさい。


 私は席を立ち更衣室に向かった。

 呆然と立ち尽くしている係長の横を、自分の足の爪先だけを見つめて通り過ぎた。

 早くアルコールを摂取しないと自分がどうにかなってしまう。

 お酒を飲んで、もういっそどうにかなってしまいたかった。


 当然ながら就業後、真っ直ぐ部屋に帰る気になれなかった。


 ロッカーのウィスキーと深呼吸の繰り返しで忘れていた我を取り戻したとはいえ、母に対する怒りと職場の同僚に対する羞恥心は心の中で燻り続けていた。


 あの後、席に戻ると周囲は普段どおりの様子を見せていたが、誰もが心の中で私のことを笑っているのが分かった。

 私はそれまではかどっていなかった仕事に没頭することで全てを忘れようとした。

 ウィスキーでとろりと適度な柔らかさをもった私の頭脳は次から次へと資料を作り上げていった。


 職場を後にしてしまうと私の心の中で大きな割合を占め出したのは、やはりテツオの存在だった。

 一秒でも早く駆けつけて看病してやらなければならないと逸る気持ちがある一方で、病から脱しつつあるほとんど素性を知らない男と狭い部屋の中でどう接して良いのか分からない自分がいる。


 テツオが熱に浮かされて苦しそうに唸り声を上げているときは何も考えずにただただテツオの熱を下げ体力をつけさせることに気持ちが集中していた。

 しかし、今朝のテツオは明らかに土日の高熱にうなされていた瀕死の患者ではなかった。

 彼は病に打ち克ち普段の自分を取り戻しつつあった。

 今頃はもうすっかり熱も下がり元気になって我が物顔をしてソファに座りテレビでも見てくつろいでいるかもしれない。

 そんな彼の待つ部屋に私はどういう顔をして入っていけば良いのか。

 何を話し、どんな風に同じ空間を分かち合えば良いのか。


 困った。

 こんなことになるのなら安易に人助けなんかするんじゃなかった。

 もともと私は見ず知らずの他人に手を差し伸べて良い資格を持たない人間なのだ。

 そういうことは、もっと社交的で正義感に溢れた明朗快活な人に任せておくべきだった。


「どうなさいました?」


 空になったグラスをしげしげと眺めていたらマスターが声を掛けてくれた。

 抑揚のない低い声。

 媚びも愛想もないこの声はいつも私に安心感を与えてくれる。

 マスターは街中のショットバーの若いバーテンのようにナンパ口調で無駄にあれこれ訊ねてきたりしない。

 この店は沈黙に心地よさを感じさせるような場所なのだ。

 このバーに通うようになって一年近くになる。

 それまでは色々探し歩いた。

 なかなか私のような人間が気に入るバーは見つからないものなのだ。


「もう一杯いただこうか、どうしようかと迷ってるんです」


 口から出た言葉にまだ舌のもつれはなかった。

 身体の芯は熱くなっているが頭はまだしっかりしていると自己判断できる。

 この辺りで終わっておく方が無難なような気がするし、もう一杯飲んで帰れば思考能力が低下して、何も考えずに部屋のドアを開けられるようにも思う。


「ズブロッカは飲みやすいですが、ウォッカですからね。強いですよ」

「そうですよねぇ」


 マスターは暗に今日はこの辺りが潮時だと諭してくれる。

 しかし、そう言われると余計にもう一杯飲みたいという気持ちが強くなる。


 今日は強いのが飲みたい。

 マスターにそう伝えるとすぐに取り出してくれたのがズブロッカだった。

 ボトルの中に草の茎が一本入っているのが面白かった。

 そのボトルラベルに描かれた赤い牛が一勝負どうだと挑戦的な目で訴えかけてくる。

 グラスを鼻に近づけると野性的なラベルの絵とは対照的な桜餅のような甘い香りに心をくすぐられた。

 最初は舐めるようにして少しずつ飲んでいたのだが、先ほどの一杯は二口で飲み干していた。


 私はどうすべきなのか。

 どこかに答えが書かれていないかとあちこちに視線を巡らす。

 と言っても狭い店内に私に決断を与えてくれるものは見当たらない。

 薄暗い店内にはマスターよりも年配そうな初老のサラリーマンがカウンターテーブルの一番奥でウィスキーのロックをちびりちびりと飲んでいるだけで他に客はいない。

 その彼は真っ直ぐ前を向いていて、不躾な目で見ているであろう私の方には一切顔を向けない。

 その横顔の幾筋かの皺は出口のない迷路のようで、それを目で追っているうちにますます私はつまらない自問自答の深みにはまっていく。

 私は諦めてマスターに視線を戻した。


「えーっと、どうしようかな」


 テツオは今頃私の部屋で何をしているだろうか。

 熱は下がっただろうか。

 それともぶり返しているだろうか。

 何かご飯は食べただろうか。

 そもそもまだ私の部屋にいるのだろうか。

 考えがまた堂々巡りし始める。


 階段から誰かが上がってくる音がした。

 靴音の軽さから女性だということは分かる。

 以前マスターは階段を上がってくる足音でどのお客様が来られたのか分かる、と言っていた。

 客の調子や機嫌もある程度分かるらしい。

 今日の私の足音は彼にどんな印象を与えたのだろう。

 今上がってくる女性は何を思ってこのバーを訪れたのだろうか。


 私は帰ろうと決めた。

 きっと私は去り際にさぞかし不安定な足音を残していくに違いない。



 恐る恐るドアを開くと泥にまみれたままのテツオの革靴が朝と同じ状態でそこにあった。

 部屋の奥から明かりが漏れている。

 それらを発見した私の心に広がったのは明らかに安堵だった。

 北方の山々から心の中に吹き降ろしていた寒風が嘘のようにおさまり、細波だっていた感情の水面がきれいに静寂を取り戻していく。


 私は軽い酔いも手伝って浮き足立った気持ちそのままにパンプスを脱ぎ捨て、T字カミソリと散々迷って選んだ二冊の週刊誌が入ったコンビニの袋を揺らしながら玄関を上がった。


「ただいまー」


 かつてこんなにトーンの高い「ただいま」を口にしたことがあっただろうか。

 だが、今は照れよりも嬉しさの方がはるかに強く、私の足取りは軽かった。

 待っていてくれる人のいる部屋に帰ることがとても新鮮で心に温かかった。


 しかし、部屋に入るといつもの場所にテツオはいなかった。

 ダイニングテーブルとソファに囲まれたその空間に存在すると疑わなかった布団がなくテツオもいない。

 私は思わず息を止めてその場に立ち竦んだ。

 全身から力が抜けて手からコンビニ袋が滑り落ち、逆に私のみぞおち辺りにできた小さな空洞が見る見る広がって胸をせりあがってくる。

 鼻の奥がツンとして瞬く間に目が潤みだした。


「おかえり」


 思いがけず上から声が聞こえてくる。

 私はその方向に顔を向けた。

 その拍子に目尻から頬を伝って涙が落ちていった。


 テツオはロフトの上で小さく手を上げた。

 どうやら自分であそこに布団を運んだらしい。


「何だ。いたんだ」


 私は次から次へと溢れて頬を伝う涙を手の甲で懸命に拭いながら、自分でも良く分からない今さらながらの虚勢を張っていた。「体調、どうなの?」


「……昨日よりはいい」

「ふーん。でもちょっとよくなったからって勝手なことしちゃダメよ。テツオの体力は自分が思っているよりも衰えてるんだから。それで?そこが新しいねぐらなの?」

「……部屋の真ん中は落ち着かない」


 テツオは今朝まで自分が寝ていたあたりに目を落とした。


 私も同じ場所を眺める。


 確かにそこはこの部屋の中央に位置している。

 ダイニングテーブルの真横かつソファの足元の言わば生活の中心となるようなその場所は言われてみれば布団を敷くのに適したスペースではない。

 居候の身ならなおさらそう思うだろう。


「でも、そこ汚かったでしょ」


 ロフトは物置として使っていた。

 梯子を上がって掃除機をかけるのは至難の技で、埃がたまっていても見て見ぬふりをしてきたのだ。


 私は床に落ちている週刊誌を拾い上げてロフトに歩み寄った。

 梯子を二段上がりテツオの居住スペースに顔を出す。


 埃はきれいになくなっていた。

 適当に積み上げておいた荷物は隅に押しやられ、ぎりぎり布団一枚分のスペースが出来上がっている。

 枕もとに私が学生の時に使っていた電気スタンドが懐かしい明かりをつけて立っていた。

 私が週刊誌を手渡すとテツオは礼も言わずに布団にうつ伏せになりそれをめくりだした。


 私はそのままロフトによじ登り横になっているテツオを見下ろした。

 私の胸の中で堪えていたものが堰を切ったようにあふれ出した。

 怒りなのか、屈辱なのか、安心感なのか。

 一度湧きあがった熱い感情の奔流は今日一日で何日分もの疲れを感じている私の身体では抑えがきかなかった。


 私はテツオに跨ると思い切りその頭に平手を喰らわせた。


「イテッ。な、何?」

「何様のつもりなのよっ!」


 平然と人の施しを受け続けるこの男は一体何様なのか。

 子を思う親の気持ちを大義名分として職場にまで見合い話を持ち込んでくる母親とは一体何様なのか。

 色々なことが思うようにならないと目の前の男に全ての責任を押し付ける私は一体何様なのか。


 私は両手をテツオの頭に向けて振り回し続けた。

 必死に防戦するテツオの身体からボディソープの匂いが立ち上ってくる。

 今朝テツオにまとわりついていた体臭が感じられなかった。

 そのことが何故か無性に残念で私はさらにテツオに暴力を浴びせ続けた。


 息が上がってくる。

 体内に残っていたアルコールが私をふわふわと浮かび上がらせる。

 何も考えられなくなって私はテツオに自分の身体をぶつけ、その唇を奪った。


 私、何がしたいんだろう。


 一瞬冷静になってそう考えたが、唇から伝わる柔らかいその感触が一気に私を獰猛にする。

 テツオの口腔に舌を差し込みながら私は自分の着ているものを剥ぎ取り、スウェットの下のテツオの裸体に指を這わせた。

 無理やりにテツオの下半身を露わにすると、安っぽい電気スタンドの明かりに意外に健全と勃起した男性器を見つけ、私はやっとどこか息をつけるような気持ちになってテツオの身体にしなだれた。

 彼の性器が見せる男性としての素直な反応に彼の回復ぶりと私の女性という部分に対する自信が確認できて私は単純に嬉しかった。

 従順なテツオの性器から彼のにおいが微かに漂っている。

 私は蜜の香りに誘われる蜂のようにペニスに顔を近づけていった。

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