11(五)

 テツオの看病で週末は瞬く間に過ぎ去っていった。

 平日の疲労を癒し睡眠不足を解消する予定だった休日が、この二日間は平日よりも不規則で重労働に勤しむ生活を送るはめになってしまった。


 テツオは私がリビングに用意した布団に包まって眠り続けた。

 起きるときは決まって大量の寝汗をかいていて、着ているものがびしょびしょになっている。

 私はテツオが寝ている間にスーパーに行って下着やジャージの上下を購入してきた。

 テツオが起きれば着ているものを脱がせ、タオルで身体を拭き、新しい衣類に着替えさせて洗濯をするというパターンを繰り返した。

 目が覚めたといっても意識は朦朧としていて身体が重くて仕方ないらしく、パンツの履き換えだけは自分でやらせたが、身体を拭くのも着替えるのもほとんど私がやらなければならなかった。


 何も食べたくないとテツオはそれこそ蚊の鳴くような声で言うのだが、私は少しでも何か摂らせなければと彼を抱きかかえ、お粥や擦りおろしたリンゴを口の中に流し込んだ。


 解熱剤を飲ませ、スポーツドリンクで水分を補給させ、氷枕や額に貼る冷却シートを使ったが、日曜の夜になってもテツオの熱は下がらず三十九度前後を彷徨っていた。


 月曜の朝、私は寝ぼけまなこをこすり、取りあえず出勤の支度をしながらテツオが目を覚ますのを待った。

 深夜二時ごろ一旦起きたときに着替えさせて以降テツオは眠り続けていた。

 周期的にそろそろ目を覚ます頃だろうと先ほどから私は時計を何度も確認している。

 テツオが起きたら体温を計り、その結果次第で出勤するかどうかを決めようと思っていた。


 もしまだ三十八度を切らないようなら今日は休暇を取って看病の続きをしよう。


 そばにいてやらねばならない義理もないのだが、こうして一旦部屋に上げてしまった以上高熱で唸っている人間をほっぽりだして出勤するのは後ろ髪引かれる思いがするだろうし、私の体力的にも本当は今日は休みたいところだ。


 逆に三十七度台になっていたら、お粥を食べさせ薬を飲ませて出勤する。


 体調が悪いので休みます、という嘘の内容の電話を職場に入れることは対人恐怖症の私にとってはかなりのストレスで、そういう意味では出勤した方が気が楽なのだ。

 苗字も教えてくれない男を残して仕事に行くのは無用心かとも思ったが、取られて困るものなどこの部屋にはない。

 日々の酒代で貯金通帳にはスズメの涙程度の金額しか印字されていないし、日頃からブランド物に興味のない私の身の回りのものは質屋に持っていっても値段などつかないだろう。

 下着を見られたらさすがに恥かしいが、今のテツオの様子では性欲に突き動かされてクローゼットを物色するなどありえないように思える。

 そこに関心がいくのならそれだけ体力が回復したということだから、それはそれで喜ばしいのではないか。

 強がりでも開き直ったわけでもなく私はそう考えていた。


 そろそろ家を出ないと仕事に間に合わない。

 私は寝ているテツオの横にしゃがみ込んで様子を窺った。

 うう。

 うぁあ。


 何かに怯えるように眉根を顰めテツオが小さく唸り声を上げている。

 額や首筋は汗が噴出し、周囲の髪がべっとりと濡れている。

 布団の中に隠れている部分もきっと寝汗でずぶ濡れだろう。

 間もなく彼は目を覚ます。

 私はキッチンに向かいタオルを二枚持ってきた。

 着替えは既に用意してある。


 私はテツオの枕元に膝をついて彼の胸の辺りの布団に手を置いてみた。


 冷たく湿っている感じがする。

 きっと下の毛布は汗を吸い込んで重くなっていることだろう。


 私はカーテンの隙間から外を見やった。

 今日は天気が良さそうだった。

 テツオが起きたらこの毛布は洗濯して布団と一緒に干してやらないと。

 シーツも取り替えないといけない。

 シーツと毛布は余裕があるが掛け布団は他に私が今使っているものしかない。

 自分の体臭が染み込んでいる布団を、カバーは換えるとは言えそのままテツオに使わせるのは抵抗があるが、こんな湿った布団よりはテツオも気持ち良いだろう。


 タオルでテツオの額の汗を拭う。

 キッチンに行って戻ってきただけの間にさらに汗の量が増えていた。

 枕にも汗染みが広がっている。

 小さな唸り声は断続的に続いている。

 かわいそうに。

 一体どんな悪夢にうなされているのだろうか。


 首筋を拭っているとテツオがうっすらと目を開いた。


「おはよう。気分はどう?」


 できるだけ優しい声で囁きかけた。

 テツオはまだ眠りから覚めきっていない様子で部屋の天井を焦点の合わない目でぼんやり見つめている。

 が、次の瞬間彼はタオルで汗を拭っていた私の手首を掴み予想外の強い力で自分の方へ引き寄せた。


 キャッ。


 私は小さく悲鳴を上げたが、不意のことに抗うこともできず彼の首筋に顔を埋める格好になった。

 その私の背中にテツオは腕を回し、こんな力がどこにあったのかと思うほどの強さで私を抱き締めてくる。


 テツオの首筋から汗の匂いが漂っている。

 それは不快な類のものではなかった。

 むしろ落ち着く感じがして、突然のことで驚いたが彼の腕の強さに身を預け私はむしろ自分から彼の肌に顔を寄せていた。


 この二日間シャワーを浴びていないテツオの体臭が私は嫌いではなかった。

 ほんの少し脳の奥が痺れてくるような感覚がある。

 私の身体にじわぁっと温かいものが広がっていくようだった。


 テツオの身体は震えていた。

 私を抱く手の力はさらに強められ、彼の腕が巻きつくあたりが締め付けられて痛かったが、じっと耐えた。

 痛みにも温かいものを感じたのは、ただ単にテツオの熱のせいだろうか。


「あ、ごめん」


 テツオはハッと我に返ったような声で謝り腕の力を抜いた。


「いいの」


 私はゆっくりと顔を起こし、微笑でテツオの顔を見下ろした。

 この後ろ髪引かれるような思いは何だろうか。

 もう一度彼の胸元に顔を埋めたくなるのを私は必死に堪えた。「気分はどう?」


 恥かしいな、と小さく答えた彼の顔は幾分生気が戻ってきたようだった。

 着替えをさせようと彼のスウェットに手を掛けると、自分でできるから、と言ってテツオはゆっくりと身体を起こした。


 私は頷いて冷たくて重く湿った毛布を抜き取り浴室に向かった。

 洗濯機に毛布を押し込む。

 強く押し込む。

 さらに押し込む。

 どうして嬉しいような寂しいような気持ちが胸に迫ってくるのだろう。


 冷蔵庫から切っておいたリンゴを取り出しリビングに戻ると、新しいスウェットに着替えたテツオが敷布団の上に胡坐をかいてぼんやりとカーテンの隙間の方を向いて座っていた。


 初めて彼を見たときから比べると、その横顔は鬚が伸び頬の肉が大分削げ落ちた。


「熱は?」


 私はテツオの前に「食べて」とリンゴの皿を置いた。


 テツオは脇の膨らみを見下ろして、「計ってる」とぼそっと答えた。

 目を覚まして着替えるたびに体温を計るように言っていたのだが、今回は私が言わなくてもテツオは体温計を使っていた。


 私はロフトに上り新しい毛布とシーツを取り出した。

 毛布からは微かに普段使っていないがための篭ったにおいがするが仕方ない。

 テツオの傍らに戻り毛布とシーツを置くと今度は布団を抱えてベランダに出た。


 ベランダには秋の爽やかな日差しが降り注いでいた。

 今日も天気は上々のようだ。

 十月に入ったが昨日はまるで夏のような暑さだった。

 このべっとり湿った布団も干しておけば昼過ぎにはふかふかになって健康的な太陽のにおいを内に蓄えていることだろう。


 部屋に戻るとテツオが敷布団のシーツを取り替えていた。


「ちょっと、ちょっと。無理しないで。私がやるわよ」


 慌てて近寄ったが、「少し動けるようになったから」と言って、テツオは取替えを私に代わろうとしない。


「何度だったの?」


 テツオはズボンのポケットから体温計を取り出し私に差し出した。

 37度9分。

 ぎりぎりだが38度を切っている。


「少し下がったじゃない。よかった」


 私は喜んで見せたが、出勤しなければならないのかと内心少しがっかりしていた。

 今日一日テツオのそばにいて回復していく彼の様子を見ていたい気がする。

 あるいは単に仕事を休みたいだけなのか。


「いただきます」


 自分でシーツの取替えを終えたテツオは再びその上に胡坐をかいてリンゴを食べ始めた。

 自分から食べ物を口にしようとしたのは私の部屋に来て初めてのことだ。


 すっかりやつれてしまったがテツオの顔には少し赤みが戻ってきたように見える。

 あと一日二日大人しく寝ていれば通常の生活ができるようになるのではないだろうか。

 とにかく良かった、と私は安堵の気持ちに胸を熱くした。

 また涙が出て来そうになる。

 ここ数日私は何故かちょっとしたことに心が揺り動かされてしまう。

 私は鞄を手にして自分に少し気合を入れると、黙々とリンゴを頬張るテツオに声を掛けた。


「私、仕事行くわね。スープ作って冷蔵庫に入れてあるから昼に自分で温めて食べて。まだ寒気がするのなら、今日のところは嫌かもしれないけど私が使ってる掛布団使って。他に何かしておいてほしいことある?」


 テツオはリンゴを食べる手を休め考える素振りを見せた。


「……読んでもいい?」


 テツオはダイニングテーブルの上に置いてある新聞を指差した。


「ええ、どうぞ。あそこの本棚にあるものも好きに読んでくれていいわ。帰りに何か雑誌買ってくるわね」


 そう言って私は何かを振り切るようにテツオに背を向けて玄関に向かった。

 パンプスを履いてドアを開き、そして閉める。

 カチャリと鍵を掛けたときの音が何となく空しかった。


 この鍵は中からは容易に開けることができる。

 今日帰ってきたときにテツオがまだ部屋にいるという保障はない。

 ひょっとしたらこのままもう二度と会えないのではないだろうか。

 誰もいない部屋に戻ってきたときの自分を思うとまた泣けてくるようで、私は走るように部屋を後にした。

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