- Episode 6 -「母親」

「嘘だっ!」

 龍之助の声が、病院の待合室に響く。龍之助は堅く握り締めた拳を開き、目の前の男に掴みかかった。龍之助は生まれて初めて、他人の襟首を掴み挙げたのである。

「最善を尽しましたが……」

 龍之助の手を払うでもなく、白衣姿の医師は搾り出すように答えた。身長は龍之助よりわずかに高く、丸みを帯びた恰幅の良い体は、龍之助の力では揺らぐことはなかった。

「嘘だ……」

 龍之助は擦れた声で呟き、医師の襟元から手を離した。激しく震える膝が崩れ落ち、両手を床に突く。龍之助は泣かなかった。悲しみもなかった。ただ、信じられなかった。信じることができなかった。医師は沈痛な面持ちで、うずくまる龍之助の背中を見下ろしている。

 紫苑は即死だった。救急車が現場に駆けつけた時、すでに瞳孔は開き、心肺も停止していた。延髄へと加えられた衝撃が、紫苑の生命維持に致命的な影響を及ぼしたのである。

 龍之助は紫苑に付き添って救急車に乗り込み、紫苑が手術室に運ばれるまで、その名を呼び続けた。龍之助には、紫苑が眠っているようにしか見えなかった。色艶の良かった肌色は青白く変貌し、その唇はプール上がりの紫色であるからといって、紫苑が紫苑であることに違いはない。青かろうが、冷たかろうが、呼吸をしてなかろうが、心臓が止まっていようが、龍之助には些細なことでしかなかった。紫苑は紫苑なのだから。紫苑が死ぬはずないのだから。

「よっ、エノちゃん! 探しちゃったよぉ」

 場違いなほど明るい声が響き、場違いなほど陽気な女性が現れた。場違いな笑顔で、場違いなほど元気に手を振っている。黒いサングラスに黒いジャケット、そして黒いボディスーツといった全身黒ずくめの出で立ちも、病院の中にあって場違いな異彩を放っていた。エノちゃんと呼ばれた榎津えのきづ医師は顔を上げ、口元にぎこちない微苦笑を浮かべて応じる。

 女性は榎津医師に駆け寄ると、人差指でサングラスを持ち上げ、足元に視線を向けた。眉をひそめてサングラスを戻し、女性は子供の悪戯をとがめるような口調で、榎津医師に迫る。

「あらら、言っちゃたのぉ? 駄目だよぉ、可哀想なことしちゃぁ?」

「すいません。ですが、彼には知る権利があると思いまして」

「知らぬが仏……って言葉もあるけどねぇ」

 女性の皮肉めいた言葉に、榎津医師は黙り込んだ。女性は軽く笑って先を続ける。

「まぁ、今回は私がど~にかするさ。でも、今後は他言無用で頼むよぉ?」

「分かりました。正直、気は進みませんが」

「あれぇ? エノちゃんの願いってさ、こういうことじゃなかったのぉ?」

「そう……そうですね。それでも、一度は、諦めた願いですから……」

 女性は両手を広げて肩を竦めると、ジャケットの内側から小型記録装置を摘み出した。

「紫苑ちゃんの受領書とか、これにもろもろ入ってるから、後で適当にやっといてねぇ」

「分かりました。くれぐれも、丁重にお願いします」

「……紫苑を、どうするつもりです?」

 地の底から湧きあがるような声に、女性は視線を落とした。龍之助が顔を上げ、鋭い眼差しで問い詰めている。女性は腕を組むと、呆れたように小さく首を振った。

「君ねぇ、悲しみに暮れてるのかと思ったら、盗み聞きする元気はあるのねぇ?」

 龍之助は弾かれたように立ち上がった。息は荒く、今にも飛び掛からんばかりである。苛立ちの矛先を向けられても、女性は何ら堪えた様子もなく、涼しい顔で平然と答えた。

「君こそ、どうするつもりなのかなぁ? 私のここも掴みたい? んっ?」

 女性はジャケットの胸元を開いて挑発する。龍之助の表情は強張ったままであったが、その手が動くことはなかった。女性はジャケットから手を離すと、龍之助の肩に手を置く。

「感心感心、ポイント1よん。君、第一印象は最悪だけど、まだ見込みがありそうねぇ」

 そう言うと、女性は踵を返して歩き出した。右手を軽く上げ、手招きをする。

「んじゃ、ついてきて」

 龍之助は戸惑いを唇ごと堅く引き縛り、女性の後を追って歩き出した。榎津医師はその場で立ち尽くし、二人の背中が見えなくなるまで、静かに見送っていた。

 言葉もなく、じりじりと歩き続けること数分。龍之助は堪り兼ねたように口を開いた。

「あの……」

由比ゆいよん」

「由比……さん、どこに、行くんですか?」

「紫苑ちゃんの行くところってだけじゃ、納得できない?」

 龍之助は納得した。龍之助が行きたい場所は、まさにそこなのだから。それ以後、龍之助が黙ってついてくるので、由比は満足そうに「ポイント2」と呟くのだった。

 病院の裏口は、物々しい雰囲気である。黒塗りのワンボックス車が二台。その周囲を、黒服の男達が取り囲んでいた。黒いサングラスにジャケット。由比とお揃いの衣装である。ジャケットの下は体のラインを強調するボディスーツではなく、動きやすそうなつなぎであった。

 龍之助は周囲に立ち込める臭いに、思わず口元を手で塞いだ。由比が笑みを浮かべる。

「ガソリン車なんて、初めてだよねぇ?」

 そう言いながら、由比は後部座席を開け放つ。龍之助は立ちすくんだ。不審な点が多過ぎることに、今更ながら思い至ったのである。由比の仲間と思われる黒ずくめの男達。一部の資産家や政治家しか乗らないというガソリン車。だが、龍之助の疑念を吹き飛ばす光景が、もう一つの車両で展開されていた。屈強な男達が大きな箱を抱え、貨物室に詰め込んでいる。そう、人が入るぐらいの大きさの……駆け出そうとする龍之助の肩を、強い力が引き戻した。

「ご明察ぅ。でも、君が座るのはこっち。それが嫌なら、置いてっちゃうよん?」

 由比は龍之助から離れると、後部座席に乗り込んだ。龍之助は唇を噛んで前方の車を見詰めていたが、やがてそれを振り切るように体を反転させると、由比の後に続いた。機械的にシートベルトを絞める龍之助の前に、由比が水筒のコップを差出す。

「ほら、これ飲んで」

 龍之助はコップに不審の眼差しを向けた。妙に甘ったるい匂いがする、半透明の液体。

「大丈夫よん、毒じゃないから」

 由比に茶化され、龍之助はコップを受け取り一気に煽った。実際のところ、喉は渇ききっていたのである。甘い液体を飲み干し、龍之助は溜め息をついた。

「ただの睡眠薬だから」

 龍之助はぎょっとして由比の顔を見詰める。由比はくすくすと笑いながらサングラスを外す。余りにも無邪気な笑顔に、龍之助は一瞬毒気を抜かれたが、コップを強く握り直した。

「ごっめっんねぇ~! 一応、規則だからさぁ~」

「……人を騙して、からかうことがですか?」

「それは私の矜持。部外者を連れて行くとなると、お偉方がうるさくてねぇ」

「あ、あなたは……あなた……たちは、一体、何なんですか?」

 龍之助は手の平で顔を覆い、白濁していく意識の中で訊ねた。空のコップが。龍之助の手を離れる。龍之助は体を大きく揺らし、睡魔に負けまいと、両手で頬を張った。

「そんなこと気にせず、寝ちゃいなさいな。安心して、ちゃんと明日は来るから」

 当たり前なことを言うと、由比は龍之助の鼻先を突付いた。龍之助はそれすら耐えられず、やんわりとバックシートに沈み込む。もう眼を開くことは適わず、喘ぐように呟く。

「し……おん」

 龍之助が寝息を立て始めると、由比は運転席に向かって合図を送り、車を発車させた。


 限りなく夜に近い夕暮れ。群青色にオレンジの帯が走る……そんな空色の下に、小さな公園があった。砂場もジャングルジムもなく、遊具といえるものはブランコしかない。風が吹き、木々が揺れる。葉が擦れ合うざわめきが、公園を満たしていた。

 二つ並んだブランコの一方に、幼い少女が腰掛けている。幼稚園と小学校の境目……そんな、年齢の少女だ。ブランコを揺らすわけでもなく、俯いたまま、ただ鎖に指を絡めている。

 そんな少女の姿を、公園の入り口から見詰めている少年がいた。年齢は少女と同じぐらい。手に下げた黄色い袋には、大きく「としょかん」と印刷されていた。

 やがて、少年が歩き出す。ブランコに向かって。少女の隣、空いているブランコに腰掛ける。だが、少年の行動はここまでだった。何をするでもなく、ブランコに座り続ける少年。ただ、その視線には落ち着きがなく、ちらちらと隣の少女へと向けられていた。

 ……どれぐらいの時が経ったであろう。公園に新たな音楽が加わった。それは、少年の泣き声だった。初めて、少女が反応を示した。顔を上げ、振り向く。少年はしゃくりあげながら、少女と視線を合わす。口が言葉を形作ろうとしたが上手くいかず、少年はただ泣き続けた。

 少女はそんな少年の様子を、不思議そうに眺めていた。黒く大きな瞳が、何度も瞬きする。髪を揺らして少女は立ち上がり、少年の前に立った。そして、右手を少年の頭に手伸ばす。

「ほら、なかないの。おとこのこでしょ?」

 少女に髪を撫でられ、少年は顔を上げる。少女は歯を見せて笑い、少年も笑顔を返した。


 吸い込まれるような高さを持つ天井。龍之助の前に広がっていたのは、そんな光景だった。薄暗い空間に、耳鳴りのような音が反響している。龍之助は肌寒さに身を捩った。毛布に伸びた指先が止まり、瞬きを何度も繰り返す。やがて龍之助は、ゆっくりと上体を起こした。

 身体にかけられていた薄い毛布が、床の上にずり落ちる。服装は制服、靴も履いたままだ。目覚めは悪くなく、頭がすっきりとしている。軽快な音の連鎖が、龍之助の耳朶に触れた。

 龍之助が横になっていたのは、とってつけたような組み立て式の寝台だった。龍之助は立ち上がろうとして毛布の裾を踏みつけ、バランスを崩して倒れる。痛む膝を擦りながら、龍之助は周りの様子を窺った。初めて見る場所。初めて見る光景。大小様々な電子機器が立ち並び、淡いエメラルド色を放っている。実験室、というイメージが、龍之助の脳裏を過ぎった。

「よく眠れたか?」

 凛とした女性の声に、龍之助の視線は引き寄せられた。十メートル程先、龍之助に背を向けて椅子に座り、壁一面に表示された多重スクリーンを臨む人影があった。

「少年が口にした睡眠薬は、質の高い眠りを誘導するものだ。熟睡できただろう?」

 確かに、龍之助の気分は上々だった。ぼやけていた記憶も、鮮やかさを取り戻しつつある。由比と名乗る謎の女性に騙され、睡眠薬を飲まされたことも思い出した龍之助。その一方で、龍之助は不安も感じていた。喉に刺さった小骨のような、痛みを伴う違和感。

「現場に居合わせたのが由比で良かった。……これも、縁というのだろうな。おかげで、迅速な処置を施すことができた。成功は間違いないだろう」

 淡々と語られる言葉を、龍之助は理解することができなかった。何もかもが、唐突である。龍之助は額に手を当てて記憶を探りながら、女性に向かって問いかける。

「ちょ、ちょっと待ってください! ここは……貴方は誰なんです? 僕には何が何だか……」

 そこまで口にしたとき、龍之助の頭は真っ白になった。それは、丹念に記憶を手繰り寄せた結果、恐るべき真実に行き着いたからである。それは、龍之助には冗談としか思えなかった。性質の悪い夢だと、そう思いたかった。なぜなら、夢の中で紫苑は……。

「紫苑は死んだ」

 シオンハシンダ。その言葉が、容赦なく龍之助の胸を抉った。聞きたくなかった言葉。事実とは信じられない言葉。龍之助の湧きあがる憤りは、自らに向けられていた。こんな状況の中で眠ってしまったことが、何よりもまず許せなかったのである。龍之助の瞳に涙が滲んだ。

「だが、終わりではない」

 何気なく続いた言葉は、龍之助が耳を疑うものであった。

「……どういうことです? まさか、まだ助けられる方法がっ!」

 龍之助の声が希望で弾む。だが、もたらされた答えは、龍之助を失望させるに充分だった。

「紫苑は死んだ、と言っただろう? 死者を生き返らせることなどできはしない」

「それじゃ、終わりじゃないかっ!」

 龍之助は悲痛な声で叫んだ。僅かな期待が一瞬で断ち切られ、龍之助は落胆を隠せない。

「これ以上、何を続けようって言うんだよっ!」

 女性の指先がキーボードの上で静止すると、軽快な音も鳴り止んだ。椅子が回り、龍之助は女性の姿を初めて正面から捉えることになった。長く伸びた黒髪と、挑むような眼差し。深紅のセーター、黒色のタイトスカート、そして丈の長い白衣。胸元には十字架が光り、無造作に組まれた両脚は濃紺のストッキングで覆われ、真っ赤なハイヒールへと伸びている。

 初めて見るはずの姿に懐かしさを感じ、龍之助は驚きを覚えた。年齢を推し量ることが難しい容貌。少女であり、老女でもある……そんな女性の瞳が、まっすぐと龍之助を見据えた。

「紫苑だよ」

 呼応するように、スクリーンの一つが映像を映し出した。龍之助は息を呑む。龍之助の身長の倍はある大型のスクリーンに映し出されていたのは、人間の脳であった。幾重にも皺が刻まれた、白っぽい塊。円柱に満たされた溶液の中、脳は数十本からなるコードを接続されており、細かい水泡を立てていた。龍之助の唇や口中が、急速に干上がっていく。

「紫苑の脳だ」

 見てはいけないものを見せられた……激情に駆られた龍之助は、必死に視線を逸らそうとしたが、見開かれた瞳は釘付けとなって動かず、そこから逃れることはできなかった。

「脳と肉体の連絡は断たれたが、脳自体の損傷は僅かだ。これなら、十分なデータが取れる」

「な、何を……」

 龍之助は喘ぐように問いかける。制服のネクタイを緩めても、息苦しさは同じだった。

「紫苑の記憶、魂、心、意識、呼び方は何でも構わんが、紫苑という存在の中核をコピーし、新しい身体に移す。そうすれば、紫苑に終わりはない」

「新しい……からだ?」

 思いも寄らぬ言葉に、龍之助の混乱は深まる一方であった。だが、容赦なく現実は続く。

「これだ」

 紫苑の脳の隣に、新たな画像が表示される。金属製の骨格模型……それが、龍之助が感じた印象であった。だが、それには骨格だけではなく、機械の内蔵とでも言うべき中身が、ぎっしりと詰め込まれている。無数のコードが形成する繭の中で両膝を抱え込む姿は、人間の胎児を思わせた。半ば膝に埋もれた頭部から覗く眼窩は暗く落ち窪み、瞳の輝きはない。体のラインはどこまでも優しく、柔らかな曲線を描き、見た目の無骨さを和らげていた。

「久遠。私のアンドロイドだ。元々女性型だからな、紫苑の体格に合わせることは可能だ」

「そんな……そんなこと、できるわけが……許されるわけがないっ!」

 龍之助の言葉は、常識と倫理に沿ったものであったが、女性は全く動じることがなかった。

「なぜだ?」

 問い返され、龍之助は絶句した。まさか反論されるとは、思ってもいなかったのである。

「……な、なぜって、アンドロイドなんかが、紫苑になれるわけないじゃないかっ!」

「どうしてだ?」

 白衣姿の女性はさらに問い返す。龍之助は、それ以上言葉を続けることが出来なかった。

「紫苑の記憶を持ち、意識を持ち、感情を持つ……紫苑そのものが作られるのだ。それがなぜ紫苑ではない? 紫苑の体が血と肉と骨でなければならない必要性は、一体どこにある?」

 龍之助は返す言葉に詰まった。理性は議論にすら値しないと訴えている。それでも、女性の有無を言わせぬ迫力に、龍之助は圧倒されていた。何の解決にもならない、世迷い事。だが、龍之助の心は僅かに揺らいでいた。……もし本当に可能だとしたら? 紫苑の心を持った存在、それは、紫苑ではないのか? ……それでも、龍之助は理性と常識の旗を振りかざす。

「そんな、そんなこと、何の権利があって……」

「母親だからだ」

 その一言に、龍之助は落雷を受けたような衝撃を受けた。理性、倫理、常識、葛藤……頭の中に渦巻いていたありとあらゆる思考が、一瞬で無に帰する……痛烈な衝撃であった。

「あなたは、紫苑の、お母さん、なんですか……?」

「そうだ。神崎久留美。それが、私の名だ」

 龍之助は、紫苑の母親のことをよく知らない。紫苑が多くを語らなかったからである。紫苑は母親と一緒に生活していた期間が極端に短く、思い出に乏しかったのだ。紫苑は七歳で父親を喪って以来、養護施設での生活を余儀なくされていた。守屋家で引き取るという話もあったのだが、紫苑本人の意思を尊重して実現はしなかった。「あたしにはおかあさんがいるから、だいじょーぶよ!」龍之助の両親の前で、紫苑はそう宣言したという。

 紫苑の母親……久留美は椅子を回してスクリーンに向かうと、滑らかな指使いでキーボードを叩き始めた。その一つ一つが、紫苑を終わらせないための処置である。龍之助は苦しそうに眼を細め、久留美の後ろ姿を見詰めていた。やがて、久留美はふと呟きを洩らした。

「……英雄も死んだ。これ以上、紫苑まで失ってたまるか」

 久留美の声色に、初めて感情がこもる。だが、龍之助にはかける言葉が見つからなかった。


「少年は、紫苑の何だ?」

 指先を休めることなく、出し抜けに久留美が訊ねた。

「その……幼馴染です」

 龍之助が答えると、久留美の手がぴたりと止まった。

「そうか、あの時の少年か」

 久留美は椅子を回して振り向き、立ち上がった。背筋をぴんと伸ばし、モデルのような立ち姿である。踵を高く鳴らしながら、颯爽と龍之助に歩み寄る。龍之助は緊張した面持ちで待ち受けていたが、あと数歩という距離まできても歩速を緩めない久留美に、思わず足を引いた。

 久留美は龍之助の目の前で立ち止まると、腰を曲げて龍之助の顔を覗き込む。龍之助は背中を反らした。吐息が触れる距離まで、久留美の顔が迫る。久留美は自らの顎先に指を添え、瞬きもせずに龍之介の表情を眺めていた。前髪が龍之助の眼鏡に触れる。

 願っても無く久留美の顔を間近で見ることになった龍之助は、恥かしさより驚きを感じた。目鼻立ちが紫苑にそっくりだったのである。十七歳の娘がいるとは思えないほど若々しいが、目元の小皺が実年齢を偲ばせる。……紫苑が大人になったら、こんな顔になるのかな……ふとそんなことを考えた龍之助は、その姿を見ることが適わない現実に、表情を強張らせた。

 やがて久留美の顔が離れると、龍之助はほっと溜め息をついた。だが、依然として二人の距離は近いままである。久留美は両腕を組むと、龍之助を見下ろした。高いヒールも手伝って、久留美は龍之助より頭一つ分背が高い。久留美の鋭い眼差しが、わずかに和らいだ。

「もう十年だ。大きくもなるはずだな」

「あの、以前にお会いしたことが……?」

「覚えていないのか?」

 反問され、龍之助は居た堪れない気持ちになった。だが、久留美は淡々と言葉を続ける。

「無理もない。一度会っただけだ」

「そう、ですか……」

「だが、そうか、あの時から、少年は紫苑と共にいたのだな」

 久留美は何か得心がいったように頷き、組んでいた腕を解いた。そして、おもむろに白衣の内側に左手を入れる。すると、再び現れた久留美の手の平には、白銀の拳銃が握られていた。少なくとも、龍之助の目にはそう映った。拳銃、それは人を殺すための武器である。

「これを少年に託そう」

 久留美は拳銃を差出した。龍之助の視線は拳銃に釘付けになる。……モデルガンは見たことがあるが、目の前にあるものもそうなのだろうか? ……龍之助の唇が震えた。

「こ、これって……」

「無論、本物だ。由比が言うには、小振りだが殺傷力は充分……だそうだ」

 確かにそれは小型の拳銃であり、これなら女性でも扱いやすそうだと、龍之助は思った。

「少年、これで私を撃て」

 龍之助は唖然として久留美を見直したが、久留美の顔には何の表情も浮かんでいなかった。

「私がなそうとしていることが、どれだけ常軌を逸しているかは、自覚しているつもりだ。それは、科学者としても、母親としても、人としても、許されざることかもしれない。それは、愚かしいことなのかもしれない。そんなことは無駄だと、意味のないことだと、死者を冒涜する行為だと、そう思うものがいて当然だろうし、きっとそれが正しいのだろう」

 久留美は瞳を閉じて言葉を切った。何かを悼むような沈黙。そして、久留美は眼を開いた。

「それでも私は諦めることができない。諦めてたまるものか」

 それは、決意に満ちた言葉だった。そして、龍之助はその決意に答えるだけの言葉を持たず、逃げるように視線を逸らしてうな垂れる。だが、久留美は容赦しなかった。

「私を止めたければ、引き金を引け。私より紫苑の傍にいた少年こそ、その役目に相応しい」

 龍之助は、自らに課せられた重圧に圧倒されていた。確かに、久留美がやろうとしていることには同意できない。何をしようとも、紫苑以外に紫苑になれるものはいない。それは、当たり前のことだ。だが、目の前にいる人物、紫苑の母親、神崎久留美は、それを否定している。何が当たり前だと。そんなことで、命は諦めきれるものではないと、そう言っているのだ。

「どうした、何をためらっている?」

 そう言うと、久留美は龍之助の手を掴み、半ば強引に拳銃を握らせた。冷たい感触……不吉な肌触りに、龍之助は悪寒を感じた。久留美の手が離れ、龍之助の手に拳銃が残る。

「それでいい。今、紫苑を守ることができるのは、少年だけだ」

 久留美は龍之助の手首を掴み、そのまま体を反転させ、スクリーン前まで引きずっていく。そして久留美は自席に戻ると、キーボードの上で猛然と指を走らせ始めた。

「頭を狙え。この距離なら、外さないだろう?」

 龍之助は右手で拳銃のグリップを握り、人差指を引き金にかける。そして、右手を包み込むように、左手を添えた。銃口が久留美に向けられる。久留美は龍之助には目もくれず、前方のスクリーンに眼を走らせていた。龍之助の息遣いが荒くなり、額には汗が噴出す。

 止めなければならない。なんとしても、止めなければならない。龍之助の理性は、そう訴え続けていた。それが何よりも紫苑のためになさねばならぬことだと、龍之助は確信していた。

 紫苑が生まれ変わったとして、その元となった紫苑は、本物の紫苑はどうなるというのだろう? 命を奪われただけでなく、その存在すらも別の自分に奪われてしまうのだ。その悲しさ、無念さを思うと、断固阻止しなくてはならない。相手がたとえ、紫苑の母親だとしても。

 だが、龍之助には別の思いもあった。それは後悔であり、無念であった。結局、紫苑に何も伝えることができなかった。死者に想いを伝えることはできない。死んだら終わりなのだ。

 他に方法はないのか? そう考える間にも時は流れ、久留美はゴールへと近づいていく。龍之助は荒い呼吸を繰り返す。震える銃口。引き金にかかった指先が、小刻みに痙攣している。

「撃たないのか?」

 その一言に、龍之助は大きな叫び声を上げた。

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