第5話マボロシ酒場

 それから半年あまり、増刊誌での不規則連載という形で「小麦の風景」はつづいてる。アンケート順位は低いが、奇特な読者層からは一定の評価も受けてる。そこで、一度本誌でも掲載を、という運びとなった今週なわけである。だから、この原稿はぜったいに落とせないのだ。

「そんなことよりさー」

 携帯の向こうで、小麦はろれつが回ってない。

「きてよー、『マボロシ酒場』にひとりでいるからさー」

「あのな、この原稿落としたらオレは終わり、って知ってんだろ?」

「ちっ・・・しらねーよ」

「小麦サン。それ、女の子の言葉じゃないよ。気をつけて」

「いいからこいよー、ねー。ねーってー」

 完ヨッパの一歩手前だ。この時点がいちばんめんどくさいのだ、この女は。第一段階・明るくはしゃぎまわり、第二段階・エロくなり、第三段階・クダをまきはじめ、最終段階・眠る、というのが小麦の沈降パターンなのだ。

(仕方ない・・・沈めたほうが手っ取り早いか・・・)

 ハラをくくって出かけるしかない。描きかけの原稿に後ろ髪を引かれつつ、くたびれたコンバースを素足に突っかけた。

 街が銀世界と化し、夕闇もほの明るい。路上のガキどもは、雪をスコップで盛り上げて小山をつくるのに夢中だった。それがオレの姿を見つけると、小躍りしながら雪玉をぶつけてくる。

「や~い、ビンボーマンガ家~」

「うるせー、しねっ!ガキッ!」

 こっちも雪を手に取ったが、素手がかじかんでうまく玉がつくれない。

「ばか、ば~か」

「ふんっ。ガキども、つき合ってられっか!」

 雪玉の掃射と罵声を背中にあびつつ、戦線を離脱した。

 寒冷前線にからみ取られた東京都は、うす汚れた地表をまっ白な化粧で覆われて、なかなか壮観だ。しかし。

(コンバースは失敗だった・・・)

 雪の解けたわだちに足を踏み入れると、突き刺すような氷水がつま先に染み入ってくる。ヨレヨレのセーターも、12月の硬い冷気には心細い。手っ取り早く事を終わらせて引き返そう、という心の焦りがこの軽装を選ばせたわけだが、冬山で遭難するおっちょこちょいどももそういう心持ちなのだろう。なんとか足指が凍る前に、酒場にたどり着かなければ。

 重い曇天から落ちてくる雪は、やむ気配がない。セーターの下に着込んだパーカーのフードをかぶり、崩したかき氷のようにぐちょぐちょの環七を渡った。渡りきったところで、足跡もまばらな小さな路地に入る。裏さびれて空気のよどんだ横丁だが、そのぶん新雪がそのままに残ってる。そのいちばん奥まった場所に、パンク居酒屋「マボロシ酒場」がある。

「よおーこそ~!!!」

 立て付けの悪いドアを開けた途端、スキンヘッドの店員の大声と、パンクロックの絶叫に迎えられる。そして、求め焦がれた暖気。親しみ深い灯油ストーブに飛びつき、股火鉢状態にかかえ込んだ。冷えきったスネがほどけてく。

「おそい~、のろま~」

 7、8人座ればいっぱいのカウンターと、上がり座敷にみっつのテーブルという小さな酒場。客の入りは半分ほど。その座敷のいちばん奥から、小麦の悪態。

「もっと早くこい~」

「・・・ったく・・・急に呼び出しといてこれかよ・・・」

「原稿は?上がったの~?」

「っせーな。上がらないよ。遅いの、オレの仕事は。遅筆なの、丁寧だから。だからこんなことしてる場合じゃないの」

「ビール~。ビールちょうだい~。おーいハゲ店員、ビ~ル!」

 聞いてない・・・

「キンキンに冷えたヤツね~」

 こっちは十分に冷えきってるんだが・・・

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