第7話 恵梨華

少女が図書室で本を読んでいる。いや、読んでいる体裁はとっているが、実際は上の空で考え事をしていた。

夏休みに入ったばかりの図書室は、ほぼ貸し切り状態で、何か用事でもあるのか、図書委員さえも今は誰もいなかった。クマゼミの鳴く声がジャージャーと煩いくらいに響いている。全ての事が、これから来る少年の事を誰にも悟られないようにする仕掛けであるこのように感じている。

セーラー服の袖から見える細っそりした腕。少女はその腕の先に伸びた指を本から離し、二、三分に一度の割合で辺りを見回している。約束の時間にはまだ早いと言うのに、なぜか少女は落ち着かなかった。


彼女は可愛かった。

それは年相応に生意気で、年相応に残虐だとも言える。コロコロと微笑みかけながら、スマホでその人の悪口を撒き散らす。もし注意されれば泣いて反省し、直後にペロッと舌を出して文句を言う。それくらい今どきの女子中学生だった。

彼女は高慢だった。

彼女の祖父は松添弁護士事務所の所長であり、両親は同じ事務所の弁護士である。姉の花蓮は地元では有名な鶴北高校に通っている自慢の姉だ。

中学生でスマホを持ち、ピアノとバレーを習い、市内でも有名な塾に特待生として迎えられている。成績も上々。その可愛らしさかからだからだろうか、彼女に告白した男子の数は両手の指以上になり、スマホには彼女の私設ファンクラブまでもが作られていた。

だからだろうか、彼女の行動の端々に他人を見下したような所が見て取れる。

しかし、それも中学二年生にはままある事で、高校生になる頃には、その強い自尊心も徐々に消えていくはずのものだった。


彼女が図書室内を見回すという行為を繰り返すこと数回、いよいよ約束の時間がきた。彼女はスマホで時刻を確認すると、立ち上がって歩き出そうとした。彼女を待たせるなんて論外だと思った。

その時、誰かが図書室のドアを開けた。彼女は反射的に音のした方を振り返った。だが、それは図書委員らしき中三の男子が、本を数冊重ねて持ってきた所だった。

彼女は「もうっ」と一声不平を呟き、自分の机に向き直した。

そこには目の大きな少年が座っていた。

彼女はびっくりした。それを悟られたくはなかったのか、ビクッと身体を震わせただけで、声は抑えた。

「松添恵梨華さんだよね」

少年は少女の思惑など一切感知しない様子で、両手を口の前で組みながら、少女をじっと見ている。その目が少し笑っているように見えたのは、少女自身の心象が影響したのだろうか。

「そうよ。あなたは澤口くん?」

「うん。そうだよ。座れば?」

少年は手で椅子を指すこともせず、言葉だけで彼女に勧めた。なぜかその言葉に逆らえず、それでもなんとか矜恃を保ち、「ええ、そうね。それじゃ、失礼するわ」と言って、椅子を引いた。

恵梨華は澤口陸という少年を直接は知らない。余り目立つ少年ではないが、実際会ってみると圧倒的な雰囲気を持っていた。そして、美形だった。

座っているから身長はどれくらいかわからない。しかし、静かに組んでいる手は大きく、黒髪と両手の間に、強い光を放つ大きく黒い瞳が見える。見ていると引き込まれそうな瞳だ。現に数秒、恵梨華はその双眸に見惚れてしまっていた。

「ぼくのことは誰から?」

唐突にそんな質問をされ、恵梨華は戸惑った。

「誰にって、みんな知ってるわよ」

「みんなって、誰?」

「みんなはみんなよ」

そう聞いた澤口陸は、両手を下ろした。鼻筋は細く鼻翼はくっきり小さい。唇は薄く、両端が少し上がっている。机に下ろした両手はそのまま組んだまま、ゆっくりと、しかしはっきりとさた口調で言った。

「みんなって誰だい。ひとりひとり思い出してくれないかな。これは重大な事だと思うんだ。ぼくの事が噂になっているなら、それはちょっと考えものだからね」

話しながら、瞳がどんどん小さくなっていく。図書室の空気が濃くなったような気がした。クーラーが効いてるはずなのに、どこか息苦しかった。

恵梨華は慌てて言い繕った。

「ち、違うの。みんなって言うのは、そうじゃなくて、みんながよく使う、みんなじゃないけどみんなって言っちゃう、あれなのよ」

黙って見つめる少年。圧力が増してくる。これは相当ヤバい事になったと言う確信が恵梨華にはあった。

「ごめんなさい。あなたが有名って言った方が喜ぶと思って、つい話を盛っちゃったわ。本当は、三組の江島さんに聞いたの」

それは本当の事だった。


江島莉子は同じクラスの女子だ。小学校も同じで、昔は結構仲が良かった。中学になると、いろいろあって交友はなくなったが、家が近いこともあって、登下校の時に見かけ、挨拶をするぐらいの仲だった。

その莉子から珍しく学校で話しかけられたのは、一週間ほど前、修行式の放課後だった。

その日、恵梨華は朝から不機嫌だった。前日の夜、友だたとインスタライブを行ったのだが、その時、自分以外の子がフューチャーされた事が気に入らなかった。もちろん誰にも言わなかったが、モヤモヤは朝になっても収まらなかった。

学校に出てきて、友だちと挨拶を交わしても、なぜかモヤモヤは解消されない。体育館で修行式の始まる頃には、その不機嫌さは顔に出るようになった。

教室に戻って、担任の教師から通知表が配られたのだが、それが決定的となった。社会科の成績が悪すぎたのだ。悪いと言っても五段階で四か五の違いでしかなかった。しかし、恵梨華にとって、その結果は大きかった。他は全部五なのに、社会科だけが四だったのだから。

体育や技術・家庭ならば納得できる。いや、納得はできないが、しょうがないと諦める事ができる。しかし、社会科は話が違った。主要教科だし、何より、一年生の頃からずっと五を維持してきた教科だからだ。

恵梨華はどうしても諒解できず、クラスのみんなが帰る準備をしている時になっても、席に居座って通知表を見つめていた。

その時、教室の隅の方で騒ぐ男子の声が耳に入った。

「おー、こいつオール五じゃん、すげー」

その声のする方に顔を向けると、そこには四人ほどの男の子たちが集まって今にも帰ろうとしていた。その中に、やはり、岩本栄輝がいた。

岩本栄輝は恵梨華が密かにライバル視している男子だ。定期テストの点数も常にトップを争っていた。恵梨華はあらゆる手を使って栄輝の得点を調べた。一番効果的だったのは、栄輝の彼女である平野詩音を味方につけた事だろう。

上手い具合に話を持っていき、点数を聞き出していたが、社会科の点数は中間テストは勝っていた。期末テストも負けはしたが九十点は超えていた。負ける要素はなかったはずだ。

睨みつける視線に気づかずに、栄輝は友だちとじゃれ合いながら教室を出ていった。

消えないフラストレーションを胸に、恵梨華はひとりで校門に向かった。相当機嫌が悪いと思ったのか、誰一人として恵梨華を待ってくれていなかった。もちろん、待っていても、待っていなくても、恵梨華は不機嫌を隠さなかったろう。

ふと前を見ると、そこに江島莉子が立っていた。中二になって話すのは初めてだ。

莉子が「やぁ」と言って手を挙げる。恵梨華は顔を傾けながら、それでも「ああ、うん。久しぶり」と挨拶をした。ちょっとだけ頬の温度が上がった。

「あのね・・・・・・恵梨華に話があって・・・・・・」

恵梨華は思い出していた。いつからか莉子が話す時の勿体つけた言い方が気に触るようになった。

「なによ。早く言ってよ。イライラさせないで」

我慢できず、通り抜けようとしたその進路に一歩踏みだして、莉子が遮った。

「ごめんね。でも、恵梨華には役に立つと思うの」

「だーかーら、何が役に立つの?」

「もしかしたら、ライバルを消せるかも知れないの」

恵梨華のライバルは栄輝だと言う事は、全員が知る暗黙の了解だった。今日、恵梨華が不貞腐れているのも、栄輝のせいだとみんな薄々感ずいてはいるだろう。

「何? どういうこと?」

恵梨華はほんの少しだけ興味を持った。

「あのね。わたしんちのお父さん、ひどい男だってのは、知ってるわよね。そして、あの男がどうなったかも」

恵梨華は頷いた。莉子のお父さんはDV男だった。小学校の時、莉子はよくお父さんの愚痴を言っていた。それが中学生になった頃から、その不満を外には漏らさないようになっていった。内に籠るようになったのも同じ頃だ。

そして、そのお父さんは、つい先日、病院に入院したと聞いた。噂でしかないが、急性認知症になったとか、記憶喪失になったと言う。

「あのね、それが違うの。あれはわたしがある人に頼んで、記憶喪失にしてもらったのよ」

「頼んで? どういうこと? 危ない話・・・・・・」

「違う違う。危ない話じゃないの。同じ学校のある人に頼んだら、勝手にあんな風になっちゃったのよ。確実にそういう風にできるのよ」

恵梨華は半信半疑だった。ただ、莉子が嘘を言うような子ではないと言う事は信じていた。

「なぜ、そんな話をわたしに?」

恵梨華が問いかけると、莉子は目を逸らしながら言った。

「わたしね、岩本が好きだったの。でね、先週告白したのよ。そしたら、あいつ今はダメだって言うの。高校生になったらね、って。どう思う?」

そんなの知らなかった。振られた女の僻みだとも思った。何も言わないでいると、

「でね、その人に岩本の記憶を消してくれって頼もうとしたんだけど、ひとり一回なんだって、願い事きいてくれるの。で、むしゃくしゃしてたら、今日、恵梨華がイラついてるって聞いてね」

興味はあった。しかし、自分がイラついてることを他のクラスの莉子までもが知っているという事が、恵梨華をまた不機嫌にさせた。

「いつ、わたしがイラついてたのよ。それに、岩本だか、宮本だか知らないけど、わたしはそいつをライバルなんて一度も思った事ないわ」

すると、江島莉子はフッと不敵な笑みを浮かべて言った。

「変わらないね、恵梨華は。なら、そういうことにしとくわ。でも、その気になったらわたしに連絡してね」

それから一週間経って、昨日、恵梨華は莉子に電話を入れて今日に至る。

そんな訳だったが、もちろん詳しく話す必要はない。


陸は、

「なるほど、江島さんか。それなら合点がいく」

こんな話のどこに合点がいくのかを詮索したくなったが、それは後回しにした。今度は恵梨華の番だ。

単刀直入に聞く。

「澤口くんって、気に入らない事があったら解決してくれるってホント?」

澤口陸は一瞬呆気に取られたような表情をし、その後、花が開くような満面の笑みを浮かべた。

「気に入らないっていうのはどうかと思うけど、ある種の悩みなんかは解決できるかもね」

あくまでも思わせぶりな言動をする陸だが、こういうかまの掛け合いが、恵梨華は苦手だった。

「あ、そう。ならもういい。何のドッキリかわからないけど、放送するなら訴えるから」

恵梨華は音を立てて席をたった。訳のわからない駆け引きはまっぴらゴメンだったし、訳のわからない相手に、そこまで内情を教える気にはならなかった。

澤口陸は、またびっくりした様子だったが、まだ落ち着いてはいた。

「そか、わかった。また障壁ができたら声掛けてみてね。江島さんの友だちなら、ぼくにとっても友だちみたいなものだから」

「莉子のこと、そんなに信用してるんだ。そんなに仲いいの?」

「仲がいいかと問われたら、答えは『否』だね。そこまで仲良くもないし、信用もしてはいないよ。だけど、彼女は友だちだし、彼女の父親を排除したのは、ぼくなんだ」

恵梨華は「排除」と言う言葉に反応した。バッグに手をかけたまま、ほくそ笑む澤口陸を見下ろした。

「あんた、何をしたの? どうやって莉子のお父さんを『排除』したの?」

「それは企業秘密。だけど、『排除』したのは本当だよ」

この自信満々の態度は何なのか。

恵梨華は目の前の美少年をまじまじと見つめた。不敵な微笑みを浮かべながら、少年もこちらを見ている。眉は濃く一直線に伸び、睫毛は長い。そこだけ見れば女の子でも通る。

恵梨華は決心した。

再び正面に座り、キッパリと前を向いて澤口陸と正対した。やってもらおうと決意した。

「わかったわ。それじゃ、莉子のお父さんの時みたいに岩本栄輝をや・・・・・・」

「ちょっと待って。岩本くんは良くないな。だって友だちだもの」

そう言われて恵梨華は鼻白んだ。この少年はわたしを馬鹿にしているのか。それとも、できないものをできると言い張っているのだろうか。

「ぼくが嘘をついてると思ってるね。でも、岩本くんは同級生でしょ。ぼくは同級生には手を出さない。これは絶対だ。ただ、同級生以外で、気に入らない人がいれば、やってあげるよ。これも絶対だ」

その時、咄嗟にある考えを思いついた。今閃いた事だが、上手くいけば気持ちがスっとする。上手くいかなかった時も、それはそれで、面白い笑い話になるだろう。だいたい素人の癖にバドミントン部の部長って、何?

「じゃあ、社会科の時津先生をやってよ。あいつあなたのクラスの担任でしょ? 岩本が成績いいのは、あいつの依怙贔屓に決まってるんだから」

その少年の瞳が怪しく光った。

「うん。それいいね。やろう。是非やろう」

少年は相好を崩した。笑うと眉毛が垂れるんだ。ちょっと可愛い。意外と良いやつかもしれないと、恵梨華は思い直した。

クマゼミがジャージャー鳴いているの、その時やっと気づいた。

「それじゃぁ、契約を進めよう。大丈夫、簡単なものだから」

「何よ。お金? それともあなたの気に入らない人をわたしがやる、とか?」

「違うよ」

そう言うと、机越しに右手を差し出した。

「これが契約さ。ぼくと友だちになってほしい」

今度は恵梨華が呆気に取られる番だった。そして、破顔して握手した。

「ええ。喜んで」

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