第6話 佑樹 (二)

一学期期末が終わると共に、梅雨の雲間が晴れて真夏の太陽が顔を出す。気温と湿度はジワジワと上がり、渋谷駅から神南二丁目まで、歩くだけで汗びっしょりになる。

午前九時に教室に出ると、高柳先生が掃除をしていた。

「おはようございまーす」と、だるそうな挨拶をする。

すると「おはようございます」と、高柳深月の折り目正しい声が帰ってくる。

碧山学院大学では毎年二回の大学進学学力検査試験、通称『学テ』が行われる。要するに内部進学生のための簡単な推薦入試なのだが、外部からの受験と違い、高校の定期テストの内容を理解できていれば合格するという、甘々なテストがある。九月と十一月に開催されるこの試験のため、碧山伝習舎に通う生徒も、高三の夏休みだけは講習会という形で、普段より長い時間勉強する。

この期間は土雲も午前中から授業を受け持つ。基本的には土雲が数学を、高柳が英語、国語、社会を担当する。

「おや、今年は数学Aからですか。数学Iはやらなくてもいいのかな?」

講師準備室で土雲が、資料を見ながら高柳に質問する。プリントや講師用の資料などは全部高柳に揃えてもらうのだ。

「ええ、今年の高三は一学期に数学Iを復習してしまったので、数学Aからで大丈夫です。七月いっぱいで数学Cを終わらせて、八月から数学IIに入ります」

キッパリと言い切る態度が心地よい。自然とこちらも背筋が伸びる。

「今年の高三は手がかからなくて助かるねぇ」

「数学はそうでしょうけど、英語は全然ですよ。分詞構文や仮定法などはチンプンカンプンなんですから」

簡潔で厳しい所見を聞かされたところで、ドアをノックする音がした。

「おはようございまーす。キャー、高柳せんせー、おひさー」

甲高い挨拶とともに入ってきたのは、グレーの背広を着た若い女性だった。

「あらー! あずさちゃんじゃなーい。お久しぶりー」と高柳深月が応じ、二人で抱き合って喜びを表している。

「ああ、お前か。そういえば来るってメールがきてたなぁ」

「もう、ちゃんと高柳先生に伝えておいてくれなきゃ」

「そうですよー。あずさちゃんが長崎からわざわざ出てきてくれるのに。奈史にも会わせたかったわー」

「ああ、奈史ちゃん! 大きくなったでしょうねー」

高柳の娘は今、実家のご両親が秋田へ連れて帰っていて、両人とも会わせられない事を残念がった。

彼女は時津あずさ。土雲の親友である時津駿太郎の妹である。五才離れた彼女は、東京の大学に入学し、四年間この碧山伝習舎で講師としてバイトをしていた。高柳とも二年ほど一緒に仕事をしたし、卒業してからも度々上京しては教室に寄っていくのだ。

「ホント、いい加減スマホ買えば? 今どきガラケーなんて、持ってるだけで迷惑かけてるってわかってる?」

「なんでわざわざ高いお金を出してまで、他人におれの情報を渡さなきゃならないんだ」

「また高校生みたいな事言ってる。いつまでも成長しませんな」

快活なあずさは、誰とでも仲良くなれるし、どんな事があってもへこたれたりしない。初めて会った時は心の病で部屋に閉じこもっていたなんて、人に言っても信じてもらえないだろう。

「今日はどうして東京へ?」と、一通り再会を喜びあった後に、高柳が尋ねた。

「研修があるんですよ。汐留の方でね。今日は泊まるつもりですから、夜は空けといてくださいねー」

あずさは地元長崎で中学校の教師をしている。

「もちろん。幸か不幸か奈史がいないから、うちに泊まっていってもいいわ。ベッドも空いてるし」

「わーい。そうさせてもらおうっと。毎度佑ちゃんちの狭い部屋に寝かしてもらうのも気が引けるし」

狭い部屋で悪かったなと減らず口を叩いていたら、高三の生徒がひとりやってきた。

「それじゃ、今日は十五時までだから、佑ちゃんちに寄って、掃除してからまた教室に来るね」

そう言い残して、あずさは炎天下の中へと戻って行った。一気に春風が通り抜けて行ったようで、清々しくさえあった。

初めて会ったのは土雲が高二の頃だった。あずさはまだ小学六年生だったが、駿太郎の家に遊びに行くと、いつもくっついて離れようとしなかった。お兄ちゃん子だった事もあるが、土雲には事の他懐いて、まるで本当の姉妹のように感じていた。

五年ほど会わない期間があり、あずさが大学生になった時、久々に会ったが、すっかり大人の女性にになっていて驚いた。それでもふたりの関係性は継続したままだった。

性格も中学生みたいにおおらかで、何も考えず突き進む所があるかと思えば、大人の判断力を発揮する事もある。きっと生徒にも保護者にも好かれる先生になることだろう。

「さて、では始めますか」

高柳にそう言って、土雲は生徒の待つ教室へと向かった。

真夏の酷暑も、クーラーの効いた部屋までは侵入してこない。しかし、締め切られたサッシをかいくぐって、蝉の鳴き声だけは鳴り響いて気に障る。

座ったまんまの生徒は「寒いのでクーラーを弱めてくれ」とか「風が当たって目が乾くから向きを変えてくれ」などと不平を言うが、立ちっぱなし、大きな声を出しっぱなしのこちらは、どんなに冷やしていてもじわっと汗をかく。

「ここはド・モルガンの法則を使うと、この集合Aと集合Bの和集合の空集合に・・・・・・」

汗をかきつつも、蝉に負けないように声を張る。声の大きさがそのまま生徒のやる気に繋がると信じているかのような授業だが、なぜか生徒の耳には聞こえやすい。嫌味もないので、生徒には至って評判が良い。

もっとも高校中退の土雲にとって、大学卒業などの学歴的背景が何もないため、生徒にとって不快で退屈な授業をしない事こそが、講師としての生命線のようなものなのだ。塾の講師になるために教員免許は必要ないとは言え、高校中退、大学にも行っていない、などと言う学歴は相当不利なのだ。

それを許す元塾長もそうだが、この塾に通う生徒の保護者や、生徒自身も、教育に関しておおらかなのだろう。

それにしても、碧山学院の生徒は案外賢い。

私立の雄である碧山学院大学の附属中等部高等部に通う生徒が「案外賢い」などと言うと語弊があるだろう。碧山学院大学を受験生する生徒の偏差値が高いのは周知の事だが、それは外部受験する場合である。中学入学時と高校入学時に碧山学院に入学する生徒、所謂外進生も相当偏差値が高い。

しかし、保育園から初等部、中等部、高等部とエスカレーター式に進学する所謂内進生は、徹底的に甘やかされているため、成績は驚くほど良くない。従って、外進生との間に「内外格差」が生じる。

しかし、保育園時に碧山学院に入園できると言う事は、なんのかんので生徒の頭の質は良い。だから、勉強しなくても、試験前の一夜漬けだけで高三まで進学する事ができた、とも言える。それが「案外賢い」理由なのだ。

そういう内進生が、高三の夏休みだけは本気になる。難易度としては普通の定期テストレベルで、決して難しい問題は出ないのだが、それでも彼らにとっては最高難度の試験なのだ。

この時のちょっと変わる顔つきや雰囲気が、土雲は好きだった。今まではもうひとつ勉強に気が乗らず、適当な点数でお茶を濁し、上がっても下がってもほとんど変わらないテンションだった彼らが、この夏休みだけはちょっと違っている。必死さが伝わってくるのだ。

彼らにとって、例えそれが彼らなりであったとしても、点数を取るために懸命に努力をするこの時期は、彼らが生きていく上で大きな宝になることだろう。悩み、苦しみ、もがきながら、それでも諦めずに何かに精魂を傾ける。その経験は必ずその人を強くする。

そう考えて、土雲はこの時期、生徒には過分にアドバイスを与えない。その代わり宿題を山のように与える。苦しんで苦しんで、そこに何かを掴んで欲しいと願いながら。

「そして、順列は『並べる』で組合せは『選ぶ』と習っただろうけど、これは順序の区別をするかどうか・・・・・・」


午後三時。アスファルトが十分に熱され、湿度も気温も最高潮を迎えた頃、全身汗まみれであずさが土雲の部屋に到着した。

「ふぅー、暑いねぇ。長崎より暑いよ。もう、湿気が半端ない。千歳烏山から歩いただけでこれよ」

着くなりソファの前に足を投げ出して座るあずさに、土雲はグラス一杯の麦茶を渡す。受け取って、一気に飲み干す。

「相変わらず女っ気がないな」

苦笑しながら空のグラスをもらい、再びキッチンへと戻る。

「もう授業は終わったの」

一息ついたあずさが聞く。土雲は新しく入れ直したグラスを持ってソファに座った。

「ああ。高柳先生はまだやってるけどな。ホント、良く働く人だよ」

「そうよねー。大事にしなさいよ、佑ちゃんにとっては貴重な人なんだから」

どこかにちょっと含む物言いに気づき、生徒に注意する時のように一言返しておく。

「おいおい、言っとくけど、そういうんじゃないからな。あくまでも講師としての評価だからな」

「はいはい。わかってますよ。佑ちゃんは本当に真面目っつうか堅物っつうか。わたしが東京にいる時も、ひとっつも手出さなかったもんね」

「馬鹿か。お前は妹同然だろうが。お前が鼻水垂れてた頃から知ってるんだぞ」

「またー、鼻水はひどいい。そんな訳ないじゃん」

毎度毎度の土雲の返答に、大して腹を立ててないようにあずさが笑う。

「だけど、本当はわたし、ちょっとの間だけ、好きだった事もあるんだよ。知ってた?」

「知らないね。知ってても、どうもしねえし。何かしでかしたら駿太郎が黙ってないだろ」

「そうなんだよね。うちの兄ちゃんも堅いからなあぁ。二人とも嫁のなり手がいなくなるよ」

「それこそ大きなお世話だよ」

土雲はあずさの頭をコツンと小突いた。あずさは肩を丸めながらも避ける事はせず、笑いながら頭をさする。

そんなあずさを見ながら、土雲佑樹は中学に入ったばかりの頃の、あの死にゆく動物のような状態のあずさを思い出していた。


突然、時津駿太郎から、この数日あずさが食事を摂らないと相談されたのは、ゴールデンウィーク直前の事だった。

既に駿太郎には『こころみ』や『巣食い』と言う能力の事は話していた。あの冬の夜から、彼らは長い時間をかけていろんな角度から、この能力について議論を重ねてきた。

佑樹は駿太郎に「恐ろしくはないか」とは聞かなかったし、駿太郎も「恐ろしい」とは言わなかった。それが悪いとも善いとも、やってきた事が善とも悪とも言わなかった。

ただ、

「『巣食い』の力を使う時は、おれに『使う』と言ってからにしてくれないか」と頼むように言った。

佑樹も「わかったよ」と言い、実際それから『巣食い』の能力は一度も使っていない。

そんな駿太郎から、病院に連れて行く前に、あずさの心の中を覗く『こころみ』をやってみて欲しいと頼まれたのだ。

佑樹はとりあえず行ってみようと言い、駿太郎とともに放課後、成瀬町の時津家へと向かった。

時津家は豪邸の建ち並ぶ高級住宅地に建っている。しかも、他の家四つ分の敷地を使う超豪邸だった。

駿太郎の父親は県内随一の建設会社「時津建設」をはじめ、七つの会社の社長または役員であり、県議会議員でもある時津健太郎という立志伝中の人だ。駿太郎がいつも言っている傲慢さも、程度によるが持っていておかしくないと佑樹は思っていた。

二人はあずさの部屋へ直行した。相変わらず、呼びかけてもあずさは返事をしない。駿太郎が一声断ってから中に入ると、彼女はベッドに横になって眠っていた。しかし、よく見ると目は開いている。じっと天井を見つめ続けている。佑樹には眠っているというよりも、覚悟して死ぬ努力でもしているかのように見えた。

「ご両親は何って言ってるんだ?」

佑樹は聞いてみた。

「あいつらは、気にも留めていないさ」と、駿太郎はにべもない。

佑樹は微かに頷いた。

彼の父親は、彼ら兄妹の面倒を見ない、自己中心的な男だと聞いていた。彼の母親は、その父親に逆らえず、全て父親の言いなりで、遊び歩いていると言う。

「頼むよ」と、駿太郎が促す。

佑樹は頷き、掌をあずさの頬に押しつけた。少し掌が熱を持ったような気がした。

佑樹は駿太郎に目で合図を送り、ふたりは静かにその部屋を出た。

「おれは医者じゃないし、心を操ると言ったって、大した事ができるかはわからない。一応見てはみるけれど、終わったらすぐに連絡を入れるから、早めに医者に見せてくれ」

そう言い置いて、佑樹は駿太郎の家を出た。

本格的に『こころみ』に入るには、身体を清め、暗く静かな場所に座る必要がある。いつ誰が来るかわからない状態では集中できないため、佑樹は家で『こころみ』てみる事にしたのだ。

時津家を辞したのは、午後四時ぐらいだった。外はだ明るく、四月の空には刷毛で掃いたような巻雲がたなびいていた。今朝のニュースでは、黄砂の飛来を伝えていたが、黄ばんで見えるのはそのためか。佑樹は目を細めて、通りに設えた花壇の躑躅の花を見ていた。

佑樹は家に帰ると、いつも通り境内の掃除をして、早めに風呂を済ませた。夕飯は食べず、水の入ったペットボトルを持ち、愛染堂へと向かった。

まだ日の暮れていないこのお堂は、正面に年を経た木彫りの愛染明王が佇立している。西に向かっているため、夕日を取り込み愛染明王の後背である紅蓮の赤を燃やしている。

佑樹は中央の座布団に結跏趺坐で座る。合掌し、般若心経を三回唱える。手は法界定印を結び、二、三度深呼吸をする。

眉間に集中した『意識』を、一旦全身を巡らせた後、丹田に集める。イメージで丹田の『意識』を大きく膨らませ、自分自身を包み込むほど広げる。次に愛染堂を、香焚町を、長崎、九州、日本、世界と、次々に広げていく。そして地球を丸ごと飲み込むほど拡大した『意識』を再び丹田に集める。

すると周りから音がなくなり、全くの無が、漆黒の闇が訪れる。

重力に身を任せ、『意識』の奥へと沈み込む。

奥へ、奥へ。

その間、佑樹は手に愛染明王根本印を結び、口に愛染明王の真言を何回も唱える。

「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラサトバ・ジャク・ウン・バン・コク」

いつの間にか『意識』は赤い怒りの形相をした三目の明王に変わっている。蓮華座に座り、獅子冠をかぶり、手には蓮華の花、五鈷杵、弓と矢などを持つ、真っ赤な日輪を背負った愛染明王だ。

赤い愛染明王は急激に回転を始める。地球ゴマのように回転を増していく。佑樹は右手に触れたあずさの温もりを認識する。その手が熱を帯び始めた時、ジャイロ回転する赤い明王は、何かに引かれるように移動を始める。一本の糸を辿るロープウェイのように、一直線に飛んでいく。その先に輝く窓のような切れ目が見える。その切れ目に愛染明王は飛び込む。

すると、そこには一面の青空に緑の草原が広がる、爽やかな世界が広がっていた。あずさの『個人的無意識』に来たようだ。

そこには記憶の断層が幾重にも重なり、所々は明るく輝いていた。佑樹はそれらには見向きもせず、一番奥にある、つまり一番新しい、暗く燻っている過去イメージに触れた。

その映像を見た時、佑樹は目を疑った。

あずさは実の父親に犯されていた。それも暴力的に、屈辱的にだ。ぼんやりと影になっていて顔は確認できなかったが、あずさの『意識』が彼を父親だと認めていた。

あずさの、そして駿太郎の父は、中学一年になったあずさを、娼婦に対するように、非人間的に蹂躙していた。それは有無を言わせぬ、暴力の嵐だった。

実の父親が、と佑樹は訝しんだが、あずさの『意識』が「お父さん、お父さん、やめて!」と連呼していた。そして、あずさの『意識』は、自分自身を守るために、下界の情報をシャットアウトしたのだった。それは、信じるべき人に裏切られた弱者のとれる、唯一で最悪の非常手段だった。

イメージから離れた佑樹は、しばらく動けなかった。そして知らず知らずのうちに涙していた。

なぜこんな理不尽が通るのか。なぜこんな小さな子が屠るように侵害されなければならないのか。

『意識』の上だが、涙を流す佑樹は、再びその忌まわしいイメージに触れ、孔雀の背に乗る明王、孔雀明王を念じた。手には孔雀明王印を結び、真言「オン・マユラキランテイ・ソワカ」と、何度も唱える。身密、口密、意密の三位一体だ。

やがてイメージの孔雀明王が現象化していく。明王の中で唯一柔和な菩薩顔をし、四つの手にはそれぞれ倶縁華、吉祥果、蓮華、孔雀の羽を持っている慈悲の仏。その功徳は蛇を殺す孔雀のように魔を食らうと言う。あずさがその気になれば、一度だけ獣のような父親を退ける事ができるはずだ。

孔雀明王の御真影がはっきりとあずさの『意識』の中で輝くのを確認して、佑樹は瞑想を終える儀式へと移った。

暗い深淵から浮き上がってきた佑樹は、深く深く深呼吸をした。全身に汗をかいている。持ってきていたペットボトルの水を一気に飲み干す。ガチガチに固まっている結跏趺坐を解く。そのまま大の字で寝転び、しばし虚空を見つめる。

そして駿太郎に電話を入れた。詳しいことは明日会ってから話す事にして、とりあえず目を覚ますだろうから、何か食べさせてやってくれと進言した。

駿太郎は「わかった。ありがとう」とだけ言って、電話を切った。

あの惨劇をどう話そうかと、佑樹は宙を見つめて思案したが、やがて誠実に話そうと心を決めた。

翌日、休日ではあったが、佑樹は駿太郎の家まで行った。

昨日の陽気とは一転、厚い雲が全天を覆い、風も少し肌寒かった。ふたりは近くの公園へと行くことにした。佑樹がやった事をあずさには知られたくなかったからだ。

人気のない寂れた公園のベンチに座り、自動販売機で買った冷たいコーヒーをすすった。

駿太郎によると、あれから一時間ほどして、あずさがリビングに降りてきたらしい。そして駿太郎を認めると、縋りついて号泣したと言う。なぜ泣くのかとは聞かず、泣きたいだけ泣かせてあげた。数十分ほど泣き続けたあと、あずさは、もう大丈夫だからと微笑んだらしい。

駿太郎は佑樹に何度もありがとうと謝意を述べた。いくら礼を言っても言い足りないほどだと。佑樹は駿太郎の言葉に何も言わなかった。次に言わなければならない言葉に対する反応が予想できて憂鬱だった。

「いいか、よく聞いてくれ」と、佑樹は硬い表情で話を切り出した。駿太郎は嬉しさの余り、顔の筋肉を緩ませたまま聞いていた。

「あずさちゃんには、おれが孔雀明王の御真影を心に植え付けたから当面は大丈夫のはずだ」

「孔雀明王?」

「そうだ。孔雀は毒蛇であるコブラを食べる事から、孔雀明王は人の持つ悪の心を食らい尽くすと言われているんだ」

そう言うと、きつい目で駿太郎を見つめる。駿太郎は緩んだ筋肉を引き締め直し、ようやく佑樹を正視した。

「ってことは、あずさに何か大変な事があったんだな?」

雲はなお厚く垂れ込め、その鈍色はいよいよ濃くなってきた。

「あずさちゃんが、ああいう状態になったのは・・・・・・」

佑樹が言い募る。駿太郎の喉が鳴る。

「それは、おそらく、お前の親父さんに犯されたかからだ」

佑樹の言葉を真剣に聞こうと心していた駿太郎は、一瞬、そんな馬鹿なと笑おうとした。しかし、父親の人格と佑樹の能力を瞬時に秤にかけ、その重大さに愕然とした。

絶句する駿太郎に、

「おれが言うのも何だが、まだはっきりとお前の親父さんだと決まったわけじゃない。あくまでもあずさちゃんのイメージだから、誰か父親代わりの人とか、親父さんにそっくりな人だとか、まだ可能性はある」

「だけど・・・・・・あずさは親父だとイメージしてるんだよな?」

駿太郎の形相が変わっていく。みるみる気色ばんでいく。

「それでも、今は問い詰めようなんて考えるな。あずさちゃんの容態の方が大事だ」

真剣に諭す佑樹を、まるで佑樹こそが仇とばかり睨みつける駿太郎だったが、顔を背けて悔しげに首を縦に振った。

空が壊れ、雨が落ちてきた。佑樹も駿太郎も柔らかく身体を濡らす雨の中、身動ぎもせず立ち尽くしていた。


「じゃ、塾に戻るねー。」

あずさがそう言って、玄関へと向かおうとする。佑樹は慌てて、浸っていた思い出と想念を切り離す。

「ホント、佑ちゃんもお兄ちゃんも、持ってる物が少ないよねぇ」

立ったついでに、玄関に向かう途中にある、壁に立てかけた、本棚代わりの三段ボックスを眺めながらボヤくあずさ。

「あ、そう言えば、うちのクラスに佑ちゃんにそっくりな生徒がいるんだよ」

佑樹に似た生徒とは、年にひとりくらいは必ずいて、その度に電話やメール、そして今回のように直接会いに来て言っていた。だから、その事を言葉に出して伝えると、

「違うんだって。今回のは本物なの。顔立ちも何となく似てるんだけど、性格とか立ち居振る舞いとかがそっくりなのよ。最初はお兄ちゃんに似てるなぁって思ってたんだけど、それより佑ちゃんの方が断然似てるのよ。うまく言えないけれど、中学生時代の佑ちゃんは、きっとあんなだったんだろうなぁって。そう感じるの。そう言えば、佑ちゃんとお兄ちゃんも、かなり似てるよね」

大して本気で聞いていなかった佑樹は、あずさの最後の言葉に少なからず反応した。

(佑ちゃんとお兄ちゃんも似てるね)

その言葉の真意を、あずさに確かめたい衝動にかられたが、そこは自制した。

あずさが知っているはずはない。駿太郎も決して話してはいないはずだ。

「おれの中学時代の事、お前しらないだろ。いい加減な事言うな」

「そうだけどぉ。きっとこうだったんじゃないかなぁって思うのよ。澤口陸くんって言って、超クールなのよ」

なおも食い下がるあずさを、はいはい、わかったわかったといなしながら、佑樹は一応先生らしくなってきたあずさを、ある種の感慨を持って見つめる。

よくあんなことに負けずに戻ってきてくれた。

きっと、まだ孔雀明王の御真影はあずさの心を守っているだろう。このまま、力を使うことがなければいいと、佑樹は心の中で孔雀明王の真言を唱えて謝意を示した。





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